腐敗のテーゼ
「ああ、くそっ、うっとおしい」
達彦が、蚊柱に顔からつっこんで、うめいていた。
「この不愉快さ、腐女子どもといい勝負だな」
俺と達彦は、いい絵になるらしい。
一部であった視線は、日を追うごとに数を増している。
その侵蝕率の高さには、少なからぬ脅威をおぼえていた。
「ところでよ、雪ちゃん、どうよ。将来の、おれの嫁」
庭の菜園を侵食するアブラムシの群れに、霧吹きで牛乳を噴射する、俺の妹。そのサディスティックな笑みに興奮していた友人には、季節はずれのインフルエンザと伝えていた。
俺が二日前まで学校を休んでいたのは、妹の看病のためであると。
「お前の嫁な……最近、腐りはじめてる」
達彦は、俺には理解できないくらい、腐女子を嫌っている。
「……マジかよ……おれ、人生、終わったわ」
「……ああ、俺もそろそろ、限界だとおもってる」
落ちこむ友人を励ましたいところだが、俺に、そんな余裕はなかった。
俺は達彦と別れ、自宅に帰りついた。
両親は海外赴任中のため、俺と妹は二人で暮らしていた。
二階に上がり、妹の、雪の部屋のまえで立ち止まる。
「……そろそろ、限界だ」
吐き気をもよおす。
この腐臭には、耐えられそうにない。
○
「まただ……」
わたしの大切な菜園に、アブラムシが蔓延しつつあった。
牛乳を吹きかけると、呼吸ができなくなって死んでしまうらしい。
だから、しっかりと、吹きかける。
ちゃんと、みんな、死んでしまうように。
「害虫なんて、みんな、死滅すればいいの」
わたしの想いに応えるように、夢のなかに、緑色の、小さな鬼があらわれた。深夜、鏡のまえで呪文を唱え、贄を捧げれば、どんな願いでも叶えるという。
夢にしては、記憶に残りすぎていた。
教えられた呪文の一句一句を、はっきりと思いだせた。
翌日の深夜、鏡のまえで呪文をとなえた。
夢の中にいた緑色の小鬼が、鏡の中でわたしをみていた。
「わたしの周りに、害虫があらわれないようにして」
捧げたのは、兄さんに対する愛情。
大切なものではあるけれど、だいじょうぶ。
わたしはもう、子どもじゃない。
もう二度と、わたしをブラコンだなんて呼ばせない。
○
おれの雪ちゃんが腐りはじめた。
「……あの女と、同じになったなんて」
幼なじみの、あの女と。
ガキの頃は、散々からかってきたくせに。
「達彦と夏くんは観賞用だから」
妄想全開で、おれを裏切りやがって。
だから、周りによってきた女に、付き合ったことがあると匂わせた。
効果はあった。
あいつは間違いなく、孤立していたはずだ。
それなのに、なんでだ。
いつの間にか、あいつが女どもの中心にいて、腐敗が広がっている。
雪ちゃんまで、腐りはじめている。
「くそっ……雪ちゃんさえいればよかったのに……」
腐女子なんて、全員、くたばっちまえ。
○
「……お兄さん、帰ってきたよ」
「そうみたいね」
ずいぶんと素っ気ない対応だ。
いつもの雪ちゃんなら、友人をほったらかして出迎えにいくのに。
不機嫌さすら、感じられない。
「雪ちゃん、ほんとにブラコンを卒業したんだねー」
えらいえらいと頭をなでてあげる。
ぶすっとした顔も可愛らしい子だった。
でも、やっぱり、おかしい。
雪ちゃんのような重度のブラコン患者が、かんたんに変われるだろうか。
それに……。
「……なにか、あった?」
最近、雪ちゃんから明るさが消えた。
なんにもないと雪ちゃんはいった。
ほんとうになにもなかったみたいに、信じられない話をはじめた。
お兄さんへの愛情を、悪魔に捧げる話。
愛情を完全に失ったっていう、そういう話。
「じゃあさー、あたしがお兄さんもらっちゃうけど、いい?」
「べつにー、どうでもいいよ、そんなの」
ほんとうに、興味が感じられない。
なんでなのか、わからないけど……。
お兄さんと喧嘩して、元気がないのかとおもっていたのに。
だったらいいのに、と。
そう思って、ここまで来ていたから。
だから、あたしは雪ちゃんに伝えた。
お兄さんのところへいってくる。
雪ちゃんのかわりに。
○
変な夢をみた、と達彦がいった。
「緑色のゴブリンみたいなのが出てきてよ。真夜中に、鏡のまえで呪文を唱えて、捧げものをしたら、どんな願いでも叶えてくれるって」
くだらない、夢の話。
そうやって否定しながら、熱っぽく語る、達彦がいた。
俺も、何気ない風をよそおいながら、真剣に耳を傾けていた。
○
最近、雪の様子がおかしい。
無気力というか、溌剌とした明るさが消えた。
熱心に世話をしていた菜園にも、手をつけていない。
「ほっといていいのか」
「……もう、虫とかつかないから」
怒らせるようなことをしたのか、俺に対する態度もおかしい。
無視されることが多くなった。
たまに向けられる眼差しは、まるで、なんでもない虫を見るようなものだった。
雪の友だちの、彩香という子が遊びに来ていた。
あの子なら、雪のことを、なにか知っているかもしれない。そんなことを考えていたら、向こうから挨拶にきてくれた。
「お邪魔しまーす」
せっかくなので部屋に入ってもらった。
こちらの話を聞いてもらうと、シスコンですねと笑われた。
「心配しなくていいですよ。雪ちゃんは、ブラコンを卒業しただけですから」
「安心してください」
「あたしのことは、彩香、ってよんでほしいかなー」
「雪ちゃんが元気になるまで、しばらく通わせてくださいね」
元気なころの雪みたいに、溌剌とした子だった。
話をきいてもらって、ほっとした、というのが正直なところだ。
きっと時間が解決してくれる。
つまり、いまはまだ、なにひとつ解決していない。
それは、雪の目をみればわかる。
○
どうやらわたしは、生きる気力を失っているらしい。
なにをしたいとも思わない。
どうにでもなれ、とも思っている。
兄さんに対する愛情が、それほど大きかったのだろう。
自分でもあきれてしまう。
こうなったのは、誰のせいだろう。
もちろん、わたしの責任だ。
でも、兄さんに責任はないのだろうか。
罪には、罰が必要だ。
最近、死ぬことばかり考えている。
どうせ死ぬのなら、兄さんを、道連れにして。
暗い企みが頭をめぐる。
「兄さんへの愛情を取り戻そう。そして、兄さんの手で殺されよう」
それがわたしの罰になる。
兄さんへの、復讐になる。
深夜、わたしは鏡のまえに立った。
贄はわたしの魂。
魂を悪魔にささげて、兄さんを、わたしのものにする。
○
雪ちゃんが学校に来なくなった。
体調不良であると、お兄さんから連絡があったらしい。
でも、あたしから雪ちゃんに、連絡がとれない。
家に行ってみた。
顔色のよくないお兄さんが出てきた。
雪ちゃんはインフルエンザらしい。
お見舞いも、お兄さんの手伝いも、断られた。
「興味がなくなっても、看病されるんだよね」
だって、妹だから。
あたしは雪ちゃんのことが大好きだけど。
だけど、雪ちゃんと代われるのなら、雪ちゃんへの友情、捨てられる、かな。
一週間以上たつのに、雪ちゃんは学校にこない。
連絡もとれない。
何かあったのだろうか。
もしかして、あの話は、ほんとにあったことなんだろうか。
悪魔に、願いを叶えてもらう話は。
○
どうして俺は、雪を殺してしまったのだろう。
どうして雪は、俺に首を絞められながら、笑みを浮かべていたのだろう。
○
男が、願った。
「雪ちゃんを、腐るまえの、きれいな女の子にもどしてほしい。
ほかがどう腐ろうともかまわないからよ」
べつの男が、願った。
「雪を生き返らせてほしい。
それが叶うなら、俺は腐り果てようとかまわない」
女が、願った。
「……あたしを、雪ちゃんの、代わりに……」
まず、雪という、女の、肉体を、腐る、まえに、もどす。
手元にある、雪、の魂、を戻して、生き返らせる。
代償、として。
達彦を、腐らせる。
夏を、腐らせる。
最後の、彩香、という女、願いが、ないのでは……。
まあ、いい。
願いを、叶える、には、贄が、足りてい、ない。
とにかく、みんな、腐らせれば、いいのだ、ろう。
あの女、と、同じよう、に……。
○
わたしは、生きている。
生きている?
なんでそんなことを不思議に感じるのだろう。
どこか、おかしい。
記憶がぼやけている?
贄?
代償の、不足分?
なんのことだろう。
わたしは、悪い夢でもみていたのだろうか。
でも、たしかに、なにかが足りないような気がする。
庭の菜園が、少し荒れている。
しばらく手入れをしていなかった?
兄さんに、おいしい野菜を食べてもらいたいのに……。
でも、よかった。
悪い虫はついていないみたい。
○
夏は、はっきりいってシスコンだ。
雪ちゃんがインフルエンザで寝こんだくらいで、死んだような、この世の終わりみたいな顔をする。
「夏、なんか機嫌いいな」
「ああ」
「いいことでもあったか」
「ああ、まあな」
「雪ちゃんのことだろ?」
「ああ……すっかり元どおりだよ」
「そうか……それって元気になったってことだよな?」
「ああ、そうだけど?」
「なあ、達彦。おまえの知り合いに、腐界の女王がいるだろ?
あれって、男いる?」
「いるわけねぇだろ。いや、知らねぇけど」
「……紹介してくれないか」
「……マジか?」
「マジだ」
「あれと、付き合うってか?」
「いや、付き合うというか、ちょっと話したいことがあってな」
「そうか」
「ああ、そうだ」
「ならまあ、いいんだけどよ……。
それって、雪ちゃんと関係してるのか?」
「雪? なんで?」
「いや、この前、腐りはじめたとか、いってたからよ」
「ああ、そんなこといったか……だいじょうぶ。それ、もう治った」
「マジか!?」
「ああ、マジだ」
叶った、ってことか。
これで雪ちゃんは、きれいになった。あいつとは違って……?
なんでだろうな。
あいつに対して、怒りもなんにもない。いや、むしろ……。
「……女王な……今日にでも話つけるわ」
「ああ、よろしくな」
○
父さんと母さんのことを、はっきりと思い出せない。
でも、だいじょうぶ。
わたしには兄さんがいるから。
兄さんさえいれば……。
最近、兄さんは、少し変わった気がする。
兄さんだけじゃない。
彩香も変わった。
なんというか……あんなものに興味なんてなかったはずなのに……。
そんなことより、兄さんと仲良さそうにしているのが、ムカつく。
○
みんな死んじゃえばいいのに。
そんな私の願いに応えるかのように、夢のなかに、角を生やした緑色の小猿があらわれた。ぎゃーぎゃーと笑う不気味な小猿は、とある儀式の方法を伝えてきた。
所詮は夢のなかの出来事。
そうは思いつつも、私は深夜、鏡のまえに立って、教えられた呪文を唱えた。
「……ニエ、を、ささげろ」
声が、鏡のなかから聞こえた気がした。
「贄を、ささげろ」
角を生やした緑色の小猿が、鏡のなかにいた。
夢のなかで、不気味な猿はいっていた。
捧げ物はなんでもいい。
大切なものであるほど、願いは叶いやすくなる。
だから私は、宝物を捧げた。
自分の運命を変えたといってもいい、珠玉の名作を。
閲覧用。
保存用。
腐教用。
そのすべてを、悪魔に捧げた。
「みんな、私と同じになっちゃえばいい」
その日から、私の周りは腐りはじめた。