行方不明
先週は百貨店。その前は、九月にメーカー二つくらい受けたっけ。
マットな黒いスーツを着て、忙しなく動くことにも慣れてしまった。周囲から見てそいつが似合っているかどうかは別の話。あるとき駅のトイレで手を洗いながらため息をつくと、おじさんが「大丈夫、がんばって」と肩を叩いてくれたことがあった。スーツを着た人はたくさんいても、社会人の中に自分の風体はまだ溶け込めていないらしい。
ゲートの向こう側は左側に工場、右側にオフィス棟がいくつか建っていて、ところどころに植えてある草木が街の景観とナチュラルに馴染んでいることをささやかにアピールしている。それでも自動車学校のような道を走るフォークリフトや社用車を見ていると、やはりこちら側とは異質なものを感じた。
仕事モードのオンとオフ。日常生活と市場システム。大学の講義で経済がなんやかんやという話をよく聞くのだが、学ぶべきことであっても実感を伴って理解できないことが多かった。知ったことに対して心から「それな」と言えなかった。言えるかどうかの差が、このゲートで分断されている。
門番の人に目を細め口角を上げて挨拶し、案内された一番手前のビルへ乗り込んだ。
白いブリックタイルの壁の前に俺と年も近そうな受付嬢が二人立っていて、俺が入るとすぐに一人が電話をし、もう一人は俺をバカでかいソファーまで案内してくれた。どんな間取りを想定したらこんなの作る気になるんだか。
もう何社落ちたかもわからない。メールを使うことも少なくなったせいで、受信ボックスは各社のお祈りメールコレクションと化している。もう少しいいテンプレート作ればいいのに。どうしても祈りたいのなら、就職先紹介と祈祷くらいしてみせてほしい。
この企業は自分にとって何番目の候補という位置づけなのだろう。就活を恋愛にたとえて企業を恋人に置き換えた話を聞いたことがある。本命がダメ、二番目もダメ。そこらへんにいる人からなんとなくタイプに合致していて、好きなところを探し出す。運命論者ではないけど、ビビビっとくるものが恋愛にはあるんじゃないだろうか。
就職しても二、三年で辞める学生が多いらしい。たぶんみんな就職する前は続けようと思って入る。俺も例外なく続けるつもりでいるし、むしろ働く場をいただけることには他の人より貪欲なつもりだ。自己分析、志望動機、どんなに詰めても完全にはっきりしているのは働かねば食っていけないことだった。
しばらくすると柔和な顔つきの男がやってきて、三階の会議室へ案内された。
待合室というが、俺の他には誰もいない。後にも先にも誰もいない。就活なんて時期でもないのだから驚きはしない。みんなすでに走り出しているというわけだ。
どうしたら俺はこの部屋から出られるんだ。
なあ、どうしたらスタートラインに立てるんだ。
部屋にカバンを置いて出て、三つ隣の部屋のドアをノックした。
「失礼します」
面接官は三人。名前と大学名を紹介し、許しを得てから着席した。
「それでは早速、いくつか質問をします。この面接は寺井さんのいいところを探したり、弊社ですね、3P印刷株式会社とのマッチするかどうかを見るために行いますので。どうか肩の力を抜いて、気を楽にして答えてください」
就活始めたての頃は、こういう言葉を聞いて幾分か緊張がほぐれた。だがこれで気を緩めると失敗することはもうわかっている。
小太りの方が前置きを済ませると、「ではまず私から」とオレンジ色のネクタイの方が姿勢を起こしながら言った。
「寺井さん、弊社を志望した理由は何か、それと学生時代何に力を注いできたか。以上二つを教えてください」
「はい。高校生の頃から音楽をやっていた経験から、曲や絵、写真などものづくりは楽しそうに見えて非常に大変なのだということを痛感しました。一方で誰かを感動させたい、誰かを喜ばせたい、そういった熱意の塊でもあります。御社の名前の由来にもなっている社訓のプロフェッショナル(専門性)、パースペクティヴ(多角性)、ピース(平和)に沿えば、作り手の作品を世に広めることを通して人の生活を豊かにできると思っています。素晴らしいものをよりよい方法で印刷し、人に影響を与えられることに惹かれたので御社を志望しています」
俺の中で狙っていたキーワードを発したときだけ、三人とも紙に何かメモをとっていた。大講義室で教授が難しい理論や学説を語っているのとはわけが違うのに。
俺は今、俺のことを話している。学ぶようなことではない。
一方でアピールできている証拠でもあって、フィギュアスケートの技術点のように言動一つずつが加点されている気がした。相づちを打って聞いてくれているので、そのまま二つ目にも答えた。
「続いて学生時代に力を注いできたことについてですが、大学生になってアルバイトに力を注いできました。現在飲食店で三年間続けているのですが、最初は失敗の連続でした。お客様にご不便をかけることもありましたが、そのときに先輩の方々がサポートしてくださいました。そのときの経験から、仕事にかかる責任の重さとチームワークの大切さを痛感しました。今では仕事にも慣れてお客様が笑顔になる瞬間を引き出せたときをやりがいとして働いており、夏期限定メニューをみんなで売り切ったことは結束力が実を結んだ瞬間で大きな達成感がありました。また私も後輩にとって頼れる先輩でありたいと思い、できる限り支えていけたらと思っています」
失敗の経験から何かを学びとり、成果へつなげる。この筋道で話すといい評価をしてくれるのだろう。
時折俺の顔をじっと見ては、手元の紙に視線を落としていた。話には起伏がある。説明があって最後でオチをつけるような波があるわけだが、彼らはそこで目玉を動かさない。俺を見ているようで見ていない。ドラゴンボールに出てくるスカウターでもつけているようで、様々な能力をチャートにしていてそれを評価しているのだろう。〈姿勢の良さ〉六点、〈連携〉九点、〈失敗の克服〉八点みたいなかんじで。
自分の人生を物語にして、経験や技能をわかりやすいワードとして織り交ぜて話すといいのだという。実際に過去の面接を踏まえてもその通りだろう。
たった二〇年ちょっとの人生の物語。たった一〇分ちょっとで語る俺の物語。
そいつを聞いて「寺井さんは非常に責任感が強くて協調性のある方ですね。先ほどの話で……」と掘り下げた質問をしてくる。
なあ、あんたたちに俺のパーソナルな部分がなんでわかるんだ。
俺はたしかに御社を志望している。どんなことも経験は財産になるし、なにより働きたい。働かせてほしい。だからいろいろと調べて準備もしてきた。でも俺はあんたたち社員のことまではわからない。どんな仕事をして結果を残してきたかではない。どんな人間か何一つわからない。
その後も他の二人からいくつか質問されて、俺は頭の中に用意していた答案を繋いだり削ったりして答えた。
こんな面接ならテストと大して変わらない気がする。いかにプラス要素を積み重ねられるか、今までの人生でいかにマイナス要素を積み重ねないようにするか。面接を受けているといつも一方通行で、これから他となんら変わりのない労働力として社会へ出荷されていく気分がした。
「ではこれで面接は終了です。最後に何か質問はありますか」
真ん中のヤクザ風の方が尋ねてくれた。
片道一万円以上かけて来て、二〇分くらいで終わり。まあ、人生を左右するかもしれないのだから安いもんだ、たぶん。それにしてもネットで予約したときは、たしか一時間程度かかることになっていたはずなのに。「もうあなたのことはわかりましたよ」ってことかと思うと、自分が簡単な人間なんだと感じた。
「では質問させていただきます。私も御社で働く社員の方々自身のことが知りたいです。私が答えたのと同じ質問をさせてください。みなさんはなぜ御社に就職されたのですか? 」
用意していた質問ではない。自分でもなんでこんなこと聞いたんだか。小太りの方が得意げに笑みを浮かべながら答えてくれた。
「僕は当社のことが好きだからですね。事業内容もそうだし、なにより大きかったのが名前の由来でもある3Pと考えが合致したことです」
「えっと、そういうことではないです」
「ん? どういうことですか? 」
「好きというのは就職した後の考えですよね。そうではなく、なぜたくさんある企業の中から御社を選び、就職するという決断に至ったのかを知りたいんです」
「一目惚れ、というのでよろしいでしょうか」
そう言って小太りの方は笑った。
魅力に感じているのは当然だろう。野球の試合会場でサポーターに「なぜ見に来たのか」と質問したら、「おもしろそうだから」とか「好きだから」と返ってくる。それくらいに普通で想像できることだ。面接で俺がその答えをしたらどうなるのだろう。「そんなことは知っている」と言えば、もっと根本的な理由を述べてくれたのだろうか。防御線を張られたような気がしたので、これ以上の追及はしないでおいた。
残りの二人にも尋ねようとしたところで、オレンジネクタイの方が割って入った。
「すみません、そろそろ時間のほうが……」
俺の質問に答えている時間はない。相手は会社員。きっとこの面接が終われば別の仕事があって、それを片付けなければならないのだ。
「あと三〇分ほどとっているのではないのですか? 」
「それは念のためであって、こちらはもう必要なことは終えましたので。大丈夫ですよ」
そう言って安心させようとしてきた。笑ってごまかす。魂胆が筒抜けだった。
「みなさんは私のことを少しでもわかってくださったのかもしれません。でも私はみなさんのことが何もわかりません。なぜ御社に勤めているのか、学生時代どう過ごしていたのか。私のことを責任感があって協調性のとれる人だと評価していただいたのは大変うれしいです。ではみなさんはどのような方なんですか? どうして面接という場に派手なネクタイを選んだのですか? 怖そうに見える格好をしているのはなぜですか? 一目惚れとはどこに惚れたのですか?」
なんでこんなこと言ってしまっているのだろう。どこまでが自分の本心か区別もできず、丸めた新聞紙を読めとそのまま投げつけたようなものだ。腕組みをして天井を見上げる面接官たちからは怒りすら垣間見えていたが、俺の発声器官は止まらなかった。
「私はこの面接を通して評価される側であり、みなさんがする側です。そのことは揺るぎません。でも御社で働きたいという想いがあって、私は御社を選んでここまで来ました。お互いに選び合うわけですから、私にもみなさんのことを教えてください。ネットの企業ページに書いてあるデータや情報には目を通しました。ですがそれ以外のことは何もわかりません。特集されている社員の方の能力や業績はわかっても、人となりはさっぱりです。せっかくこうして会って話す機会があって、これから一緒に働くことになるかもしれないのですから、私だってみなさんのことを知りたいと思うのはおかしなことでしょうか? 」
「お帰りください」
ヤクザ風の方に、一言だけ告げられた。
俺にはヒステリックになるスイッチがあって、面接というのはどうもそいつをオンにしてしまう。
わかっている、俺は愚か者だ。目の前の人からしたら稚拙に映っているんだろうなあ。あんたたちもロクなやつじゃないと思ってうんざりしているだろう。でもそれ以上に俺は自分にうんざりしているよ。これでは働けない。就職なんてできるわけない。
「大変申し訳ございませんでした」
今さら我に返っても遅い。
「採用のご検討よろしくお願いいたします」
震えた声を絞り出し、部屋を出た。
電車待ちの列に少し並んだ後、帰りの新幹線に乗って適当な席へ崩れ落ちた。
まわりはスーツを着た大人ばかり。年が近そうな人もいるが、俺とは全然違う。電話で「今東京なんで、戻ったらメールに添付してPDF送っときます」なんてやり取りをしている。
働いているかどうか――それはある意味社会に溶け込めていて、どこかの組織に属して戦っている証拠だ。
ワゴンサービスが来たのでビールを買って飲んでみたが、ひどく不味くて進まない。後ろにいる人みたいに爽快な声を続けることはできない。ほぼ全席誰かが座っているのに、俺は一人でいる。勝手に気分悪くなったから、外を眺めていた。
未だぽちぽちと明かりがついているビル。商品の宣伝をする大きな看板。工場で働く人たち。自分の同期はあの中にすでに選ばれているのだ。納得していようがいまいが、働く道がすでに決まっている。もうどこにも俺の居場所はない。自分の心の行方もわからない。
どうして今日はあんな質問をした挙げ句の果てに喚き出してしまったのだろうな。結局尋ねてわかったことは、何もわからないということ。相手のことも、自分のことも。
喉のあたりに力が入ってうめき声のようなものが小さく漏れた。目の前の景色がにじんでビルの明かりが暗闇に浮かぶ人魂のように見えた。
※ 登場する企業は実在するものではありません。実在する企業とも一切関係ありません。