第30話 『 勇者候補の敗残兵 』
「何をやっているのかね!」
城塞都市への帰還後、僕達を待っていたのはお説教の嵐だった。
近くの衛兵の詰め所に連れて行かれると、大勢の人達が待ち構えていた。
城門の守備隊、出向いた神族と魔族の騎士達、更に神官の方々。
「すみません、私達の目が行き届かず…」
隣で一緒に謝ってくれているのはアヤ姉だった。
城門前の騒ぎを聞かされ、急いでここまで駆けつけてくれたらしい。
「君達は今の状況が分かってないのか!」
3日前の"黒い月"出現で全ての国に厳戒態勢が敷かれた。
これから起こるであろう未曾有の危機に対し、誰もが神経を尖らせていた。
まだ民衆には知れ渡ってないが、平原同盟各都市では兵の増員が進んでいる。
勇者達への武具の下賜のみならず、あらゆる対策が講じられていた。
特に神聖法国と魔導王朝は、この事態を重く受け止めていた。
両本国とも軍事同盟の締結と防衛体制の構築が全力で進められている。
神族も魔族も来るべき"黒い月"との決戦を確信していた。
知らされた騎士達も、魔獣が"黒い月"の先兵かと警戒していたのだから。
「申し訳ありません、僕達が無神経でした…」
僕には頭を下げて謝るしか無かった。
こんな大変な時期に浮かれて遊んでしまって、多くの人達の神経を逆撫でして…。
余りにも思慮が足らなかった。
「どこであんな魔獣を拾って飼い慣らしたかは知らんが…」
ダニーは速攻で逃していた。
衛兵や騎士に抑えられようとしたため、シロが全力で離脱させたのだ。
怪我人は無かったが"黒い月"出現で状況が緊迫し、日頃の鬱憤も溜まっていたのだろう。
僕達は延々と怒られ続けるしか無かった。
「――いい加減にしろよな、お前ら」
その時、初めて口を開いたシロは、その言葉に怒気を含ませていた。
「大人しくしようと黙っていたら調子に乗りやがって…!
俺がその気だったら、お前ら全員皆殺しだったのが分かんねえのか!」
「な…何だと!?」
「元はと言えば、お前らが武器の一つや二つ、ケチったのが原因だろうが!
他の勇者にはくれてやって、なんでアキヒトには何も無ぇんだ!
そんなお前らがケチくせえから、俺が代わりを用意してやったんだ!」
鬱憤が溜まっていたのはシロも同じだった。
「どいつもこいつも俺のダチ公を馬鹿にしやがって…!
お前らにアキヒトの何が分かるって言うんだ!」
「落ち着いてよ、シロ…僕は良いから…」
「良くねぇだろ!ダチ公が馬鹿にされて黙ってられっか!
月が一つ増えたからって慌てふためいて、八つ当たりしやがって…!」
「ほ、本当に良いから!」
「良くないから言ってんだよ!」
慌ててシロを抑えて黙らせようとするが、なかなか収まらない。
「やれやれ、これではレスリー卿も浮かばれまい…。
君達が原因で屋敷まで手放して…あの方には同情するよ。」
神官の人の口から出たのは思わぬ言葉だった。
「そ、それ…何の話です…?」
「何がだい?」
「ですから…レスリーさんが屋敷を…」
「知らなかったのかね…。
レスリー卿は銀鉱山を手放した後、経済的に苦しくてね…。
屋敷を売り払って使用人達にも暇を出したそうだよ」
レスリーさんは以前と同じように接してくれている。
経済的に苦しいとか、そんな様子は微塵も感じなかったのに…。
「…アヤ姉は知ってたの?」
「あ…えっと、それは…」
「どうなの…知っていたの…?
それとも知らなかったの…?」
「それは…いつか話そうとは思っていたのよ。
レスリーさんからも…暫くは黙っていて欲しいと言われて…」
いや、こんなことは少し考えれば僕にだって分かったはずだ。
前に後見人の件で、レスリーさんの屋敷を訪ねた。
大きな屋敷で使用人がたくさんいて御馳走までされて…。
銀鉱山を失った分、経済的に苦しくなるなんて当然なのに…。
「今日の件についても、レスリー卿は今も謝罪に回っているそうだよ。
役所や商会や…君は此処の謝罪だけで済んでいるがね。
誰が原因でこんな…」
鋭い口調の言葉が僕の心に突き刺さった。
「…先日、イスター・アンデルの団長候補除外が正式に決まったよ」
神聖法国の騎士の人が不愉快な感情を露わにしていた。
「本人にそのつもりは無かったかもしれないがな、回りからは期待されていたんだ。
特に叔父上の枢機卿は、幼少の頃から目をかけられていた。
いずれ神聖法国の重鎮になろうと…それを口癖にされておられたよ。
だが、今回の勇者召喚の儀で完全に騎士団長への道が断たれた。
他の有望な勇者を選んでいれば、まだ可能性は十分に残されていたのに…」
「我等、教導騎士団のガーベラ・イーバーも同様だ」
魔導王朝の騎士の人も同じく苛立ちを隠さないでいた。
「彼女は王朝内の若手でも、特に将来性の高い騎士として期待されている。
以前の南方戦線でも戦功を上げ、王朝内外でも知れ渡った人材だ。
しかし今回の勇者召喚の任務が彼女の最初の失態として記録される。
来月、騎士団長が本国へ帰還し、その折に大公殿下へ詳細を報告されるだろう。
彼女の経歴の中で唯一の汚点になるやもな…」
「…ま、待ってください!
それは余りにも言い過ぎじゃないですか!
何もかもアキヒトが全ての元凶みたいに言うなんて…!」
隣のアヤ姉が神官、法国騎士、王朝騎士の人達から僕を精一杯擁護してくれた。
だが、当人の僕はショックで何も言葉が出なかった。
レスリーさんもドナ先生も…
とても良い人達なのに迷惑ばかりかけて…
大切な物を失う羽目になって…
それでも僕にはそんな素振りを一つも見せずに…
その時、しばらく黙っていたシロが重々しく口を開いた。
「まぁ…待てよ、アヤ…その辺にしとけよ…」
「アンタこそ何を言ってんのよ!
アキヒトをここまで悪く言われて黙ってるなんて…!」
「良いんだよ…こいつ等の国、ブッ潰すことに決めたから…」
僕以外、全ての人達の視線が右肩のシロに向けられた。
「大陸平原同盟、パラス神聖法国、ヴリタラ魔導王朝…!
お前らを敵対勢力として認識した!
何もかも踏み潰してやるから覚悟しておくんだな!」
「ちょっ、シロ!」
今度は逆にアヤ姉が止めようとしていた。
「俺がこうして生きてられるのはな、アキヒトのお蔭だ!
他の神獣に乗り換えなかったアキヒトの優しさが有ればこそだ!
それを否定するのは、誰であろうと俺が許さねえ…!
アキヒトを否定するなら、こんな世界…!
ダチ公の俺が全て焼き尽くしてやる!!」
大声で騒ぎ立てるシロを横に、僕は無言で立ち上がった。
「お騒がせしてすみませんでした…。
本当に申し訳ありません……失礼します…」
頭を深く下げて、そのまま僕は部屋を静かに出て行った。
「お、おい!」
「待ちなさいよ…!」
その後をシロとアヤ姉がついてきた。
詰所から出て、僕は朦朧としながら帰途についていた。
「アキヒト…黙っていて悪かったわね…」
「うぅん、良いんだ。僕こそ気付かなくて…はは…」
「あの人達、"黒い月"が出て最近はピリピリしてたから…
今日はタイミングが悪かったのよ」
「それもだけど…そうじゃなくてさ…」
城塞都市の街の通りを、僕は言葉少なにして歩いていた。
その途中、街角でアヤ姉と別れようとした。
「あまり気を落とさないようにね…?」
「うん…」
「…そうだ、アキヒトの装備なんだけどね。
あともう少しで完成するから待っていなさい?」
そういえば…そんな約束もしていた。
わざわざアヤ姉は、僕を元気付けようとしてくれている。
「じゃあね、また明日顔を見に行くから!」
日が傾いた大陸の夕方。
アヤ姉は自身の邸宅へと帰って行き、僕はその背中を見送った。
僕も自宅に向かって歩き続け…その途中の角を横に曲がった。
「どこに行くんだ?」
「少し…寄り道…」
しばらく歩くと噴水の広場が見えた。
僕は広場中央の噴水に近寄り…縁に腰を下ろした。
日も傾き広場も人影は疎らだった。
「ねぇ、シロ…シロは僕のダチ公だよね?」
「なんだよ、いきなり…」
「ダチ公だよね…?」
「返事するまでも無いだろ、俺はお前のダチ公だ」
「じゃあさ、僕と一緒についてきてくれるかな…」
赤い夕陽が差す中、僕は右肩のシロにお願いした。
「このままさ…どこか知らない所に行きたいんだ。
どこか遠くへ…誰も僕なんか知らない…そんな場所に…」
「アキヒト…」
「僕ね…今回ばかりはもう駄目だよ…。
今までも挫けそうになって…それでも頑張ろうとしたけど…。
結局、回りの人を不幸にするばかりで…。
とても良い人達なのに、誰も幸せにしてあげられなくて…。
みんなの優しさに付け込んで…。
迷惑ばかりかけて…ははは…」
自然に涙が溢れていた。
「は…はは………うっ……は、はは…ぐっ……」
情けない自分を笑って、そんな自分が情けなくて泣いて。
この日、僕は何かに負けた。
それまで何が有っても諦めないで頑張ってきたけど。
遂に僕は降参して負けを認めた。
何だろうか…僕の心の中にあった最後の柱が折れてしまった。
今まで必死になって僕を支えてきた何かが砕け散った。
現実に立ち向かう気力も歯向かう気概も失っていた。
辛抱強く続けていた剣の鍛錬も勉学も、もう続けられない。
勇者になれなかった情けない落伍者。
今の僕は負け犬だった。
「…良いぜ、俺はついていく」
「ありがとう…」
「ダチ公だから、それくらい当然だ」
「本当はね、レスリーさんに何かお返ししたかったけど…。
銀鉱山の代わりにならないけど…少しでも何か…」
「それじゃ、鉱山探しの旅でもするか?
俺、心当たりがあるんだ」
「え…」
「レスリーは悪い奴じゃないからな、俺も何か返してやりたい。
銀鉱山とは言わず、金鉱山を見つけてやろうぜ」
「…それ、本当なの?」
「当たり前だ、嘘なんかつかねえよ!」
威勢よく答え、シロの輝きが強くなった。
「じゃあ、このまま外に…城門を出ようか」
「一度家に帰らないのか?」
「もう、誰にも会いたくないんだ。
誰にも知られず旅に出てさ…これからは1人で生きていこうかなって…」
「1人じゃねぇ!俺がいるだろ!」
「はは…そうだね、2人で生きていこうか…」
挨拶どころか置手紙も伝言すらもせず、僕達は消えることにした。
お世話になったレスリーさん達には本当に申し訳ないけど…。
旅なんて格好良く言ったけど、単なる家出なのは分かっていた。
噴水脇でシロと話をしていたら、いつの間にか陽が沈んでいた。
辺りは暗くなり、街の灯がつき始めていた。
「…そうだ、早くしないと城門が閉まっちゃうよ」
「安心しろ、上から出て行けば問題無い。
今の俺達なら空を浮かんでいけるからな」
今になってシロが頼りになる存在なのを思い知らされた。
僕は立ち上がり、悠々と通りを歩いて城門の方へと向かった。
今まで過ごした約半年。
短い間だったけど、とても色々なことを経験した。
一度旅に出れば、この街にもしばらく戻ることは無いだろう。
最後に街並みを目に焼き付けながら、僕達は城壁の方へと歩いて行った。
「こういうの、なんて言うんだっけ…」
「何がだ?」
「今の僕にぴったりの言葉が…。
そうそう、今の僕は『敗残兵』って言うんだ」
「『敗残兵』…?」
「そう、今の僕は『敗残兵』…勇者になれなかった…競争に負けたから…。
頑張って戦ったけど、結局負けて逃げ去るから『敗残兵』だよ…。
本当の意味とは少し違う気がするけど…余り変わらないよね…」
僕は力無くシロに笑いかけた。
「ゴメンね、シロ…ダチ公が『敗残兵』で…」
そんな僕の弱々しい吐露に、シロは何も返事をしてくれない。
流石に呆れて失望したのかな…と思った。
「『敗残兵』…そうか…アキヒトも『敗残兵』なのか…」
シロの微かな呟きが聞こえた。
そしてあと一区画抜ければ、目の前が城壁…そこまで歩いた時だった。
「…アキヒト?」
自宅から遠く離れた通りで、突然呼び止められた。
「やっぱりアキヒトじゃない!どうしたのよ、こんな所で?」
「え…アヤ姉こそ、どうして…」
通り沿いの雑貨店から、アヤ姉が買い物袋を抱えて丁度出てきたところだった。
「さっき別れた後ね、帰り道でティア先輩に会ったのよ。
今夜はアキヒトの夕飯の支度ができないから、代わりにお願いって…。
それから香辛料の買い物も頼まれてね、ここへ買いにきたの」
「こんな所に?近くにお店があるのに…」
「ティア先輩、このお店の香辛料がお気に入りらしいから。」
「アヤ姉は凄い貴族のお嬢様じゃないの?
なのに、こんな所で買い物なんて…」
「子供の頃から街で買い食いしてたから全然慣れっこよ。
それよりアキヒトこそ、こんな所で何をしてるのよ?」
身を乗り出して質問されると、動揺して言葉が詰まってしまった。
だが、すかさずシロが答えてくれた。
「気晴らしに散歩して回っていたんだよ。
今日は嫌なことが有ったからな…軽い気分転換だ。」
「ふぅん…こんな暗い時間まで?」
「本当さ、それ以外に何があるって言うんだよ」
アヤ姉は僕とシロを疑わしげな目で見ていたが、それ以上は追求しなかった。
「じゃあ、気分転換はこれで終わり。一緒に帰るわよ」
「あ…あぁ…そうだな」
結局、僕達は来た道を引き返して自宅の方へ向かった。
「ねぇ…もう暗くなったし、アヤ姉も家に帰りなよ。
買い物袋は僕が持って帰るからさ。」
「夕飯の支度はどうするのよ。
ティア先輩から頼まれたんだから、今日は最後まで面倒見るわよ」
途中で別れように別れられなかった。
自宅に着くとティアさん作りおきの夕飯が用意してあり、温めるだけで良かった。
食後の片付けまで終わっても、アヤ姉に帰る様子は無かった。
「ねぇ…そろそろ遅いし、家の人が心配するよ?」
「良いのよ、今日は泊まっていくから」
「え…?」
「確か2階の部屋が空いてたわね?それなら問題無いでしょ」
「な…なんで泊まっていくの!」
「さて…どうしてかしらね…」
アヤ姉はこう見えて勘が鋭かった。
僕達が家出する気配を何となく感じ取っていたようだ。
1階の居間で本を読みながら、アヤ姉は僕達の挙動を見張っていた。
これだけ厳重に警戒されては何もできない。
だから観念したように見せかけた。
「じゃあ、先に寝るよ。アヤ姉、お休み…」
先にシャワーを浴びた後、眠たそうな顔をして2階の寝室へ昇っていった。
大人しく明かりを消して布団の中へ入る。
…カチャ
30分くらい経つと寝室の扉が僅かに開き、アヤ姉が中を確かめに来た。
僕もシロも疲れて眠ったフリをして無言のままだった。
…カチャ
扉が閉まり、一階へ降りていく足音が聞こえた。
(おい、アヤが浴室に入ったぞ)
(分かった、行こう!)
こっそり起き上がると、静かに僕は寝巻きから普段の学生服に着替え直した。
そしてゆっくりと扉を開けて、足音を立てずに1階へ…。
シロの言う通り、浴室の方から気配がする。
間違いなくシャワーの水音がするし、アヤ姉の鼻歌まで聞こえる。
もしかしたらシャワーに見せかけて僕達を待ち構えているかもと警戒してた。
しかし、見るからにそんな様子は無さそうだ。
まだ入ったばかりで、しばらくは外に出てこれないだろう。
僕達は気付かれないよう、息を殺して扉の方へ歩いていって…。
ドアノブをゆっくり回して、扉を開けて――
ガタッ…!!
突然、背後で何かが崩れ落ちる大きな音。
「しまった!」
目立たない細い糸が扉の上の方に結ばれていた。
その糸の先はテーブルの方…積み木のように重ねられた本が崩れ去っていた。
その時、浴室の扉が勢いよく開いた。
「こら!アンタ達!」
当然だが物音で気付かれてしまい、アヤ姉の声が湯煙の中から響いた。
「行くぞ!」
「うん!」
構わず僕達は外へ飛び出した。
何しろ、つい今までアヤ姉はシャワーを浴びていた。
いくら何でも着替えるのに時間が必要だろう。
一度外に出てしまえば逃げ切るだけの余裕は十分にある。
…という考えは甘かった。
「ま、待ちなさい!」
まだ50メートルと離れてないのに、背後からアヤ姉の声。
驚いて振り返ると…身体にバスタオルを巻いただけのアヤ姉が外に出ていた。
「振り向くな!行くんだよ!」
「う、うん!」
構わず走り去ろうとしたが、背後でアヤ姉が叫んだ。
「だ、だから待ちなさい!
待たないと…待ってくれないと、裸で探しに行くわよ!」
「…え…えぇ!?」
まさかそこまで…と思ったが、相手がアヤ姉なので立ち止まらずを得なかった。
「さぁ!早く戻ってくるのよ!
でないと…でないと、本当に裸になって探しに行くから!」
それ以上、僕の足は動かなかった。
流石にアヤ姉もそこまでは――と思ったが、現実は予想の遙か上を行った。
「3つ数えるから…!
数え終わったら、裸で捕まえにいくわよ!」
「え…」
「ひとーつ、ふたーつ…」
背後を振り向くと、アヤ姉はバスタオルの結び目に指をかけていた。
「みぃー…」
「わぁ…!戻るよ!戻るから!!」
僕は慌てて家の方へと舞い戻っていた。
「さ、さぁ…!さっさと着替えなよ!」
「ほ、本当に行かない?」
「行かないよ、行かないから!早く!」
水に濡れた赤い長髪と白い肌。
湿ったバスタオルが身体にぴったりと張り付いていた。
大きめの胸の形や腰のラインまで浮き出ていて…目のやり場に困った。
「み、見ないでよ!」
「見てないよ!」
威勢の良かったアヤ姉も冷静になり、自分の格好に気付いて顔を真赤にしていた。
自分の身体を抱きしめるように隠すと、慌てて家の中へと戻っていった。
「あっちで着替えてきなよ…。
大丈夫だよ、もう逃げないから」
「ダメよ!
すぐに終わるから、そこから離れるんじゃないわよ!?」
僕は居間の椅子に座って背中を向けていた。
また逃げ出すのを警戒して、アヤ姉は同じ居間で着替えるつもりだ。
「良いこと!?振り向いたら全力で引っ叩くわよ!?」
「大丈夫だよ、見ないから…」
流石にアヤ姉には呆れて溜息が出てきた。
当然振り返るつもりは無く、背中を向けたまま視線を前に…。
――窓ガラスが反射して、アヤ姉のバスタオル姿が見えていた。
バサッ…
バスタオルの落ちる音が…ガラス窓越しに、その後ろ姿が見えた。
「…!」
慌てて僕は目線を下に。
「えーっと…どこに置いて…」
アヤ姉は服を探しているらしい。
何となく…興味を惹かれて目線を再び上に――
「…あ、ここね」
窓ガラス越し、露わになったアヤ姉の胸元の膨らみ…。
着替えながら身を捩り…揺れる様子までしっかり見えてしまった。
「もう振り向いて良いわよ」
「う…うん…」
「…どうしたの?」
気恥ずかしくて僕は振り返ることができず…アヤ姉の顔を正面から見れなかった。
不思議に思ったアヤ姉が近づき、僕の顔を覗き込んだ。
「な、何でも無いってば!」
「まさか…見てたんじゃないでしょうね…?」
我ながら挙動不審すぎた。
「そ、そんなこと無いよ!
ほら、さっきから一度も後ろに振り返ってないし!」
「そうね…そんな様子は無かったし…」
と、アヤ姉が目線を前に――ガラスに反射された室内の様子が映し出されていた。
「…見たわね?」
絶体絶命だった。
ドナ先生の「女の子らしさ」を捻り出した時以上の危機。
今の僕には弁解も何も、その場凌ぎの嘘も思いつけず…。
右肩のシロは無言で何のフォローも無く…。
まさに風前の灯だった。
「約束よ、もう黙って出ていかないって…」
「…約束?」
「もう黙って出ていかないと約束するなら、今のは許してあげるわよ!」
強い口調ながらも、アヤ姉は顔を赤くしていた。
「それでも黙って姿を消したら、覗き見したこと言いふらしてやるから!」
「だ、大丈夫だよ…もう行かないから…」
「今度こそ、本当に裸で探しに行くわよ!?」
「絶対に!
何が有っても絶対に行かないよ!」
そんな僕の声高の宣言に安心したのか、アヤ姉は椅子に腰を下ろした。
そして息を整えた後、静かに話を切り始めた。
「…やっぱり思いつめてたのね。
今日の…あんなことがあったから無理も無いけど…」
「うん…」
「レスリーさんね、屋敷を手放したのは暇を出した使用人達のためよ。
これからの生活には必要だからって…次の生活が決まるまでの保障ね」
「そうなんだ…」
「今は小さなお屋敷を借りてるけど、不便は無さそうよ。
女中は一人になったけど、元々贅沢をするような人じゃないから…」
「けど、僕が居なければ今まで通りの生活ができたよ。
僕さえ居なければ…」
「やめなさい!
本当にアキヒト一人の責任だと思っているの!?」
弱々しい僕の態度を、アヤ姉は叱りつけた。
「最終的に銀鉱山を手放すと決めたのはレスリーさんの意志よ?」
「そうだけど…僕が居なければ…」
「じゃあ聞くけどね、アキヒトが居ない場合はどうなってた?
確かにレスリーさんは銀鉱山を失わずに済んだかもしれないわ。
今まで通り、大きなお屋敷に住んで良い生活が送れたでしょうね。
けどね、その代わり大切な物を失ったかもしれないわよ…」
僕は何度も聞いていた。
レスリーさんは他の何を犠牲にしても娘が…ドナ先生さえ幸せなら構わないと。
「それも分かってるよ…。
分かってるけど…現実にレスリーさんや…イスターさんやガーベラさんは…。
そんな人達に…合わせる顔が無いっていうか…」
「だから逃げ出したの?」
ゆっくりと僕は縦に頷いて答えた。
「…なぁ、アキヒトの気持ちも察してやれよ」
今まで黙っていたシロが話し始めた。
「一緒にいたから分かるがな、今日のアレでかなり落ち込んでたよ。
だから逃げ出すって言い出した時も、俺は止める気になれなかった。
こんな街にいたって、アキヒトは苦しむだけだ。
あんな連中の八つ当たりの的にされて…」
「分かるけど…ダメよ、それでも逃げちゃ…人間、誰だってつらい時が…」
「そうだが、アキヒトには厳しすぎると思うぜ…?」
今日のことを思い出し、アヤ姉も何も言えなくなってしまった。
だが、しばらく俯いて考えた後で再び口を開いた。
「…分かったわ。それじゃ、さっきの約束は変更。
逃げたいのなら逃げても構わないわ」
「え…」
あっさり認められ、意外に思えた…が。
「その代わり、逃げる時は私も一緒に連れていきなさい。
それが条件よ」
「ダ、ダメだよ!そんなことをしたら家の人に迷惑が!」
「うるさいわね!約束と言ったら約束よ!?
アキヒトに拒否する権利は無いわ!
それでも、もし黙って私を置いて出ていったら…分かってるわね?」
最後に思い切り念を押された。
結局、僕は最後にもう一度だけやり直すことに決めた。
心の中の何かは負けてしまったけれど…もう一度戦うことにした。
「…分かったよ」
「今も逃げ出したい?」
「う…うん…」
「本当に?」
「うん…」
「じゃあ、添い寝してあげようか?」
「う……えぇ!?」
「アキヒトが一人寂しく泣いてないようにね」
「な、泣いてなんかないよ!
それにね、僕もあと少しで14歳なんだよ!?
いつまでも子供扱いしないでよ!」
「子供でも大人でもつらい時はつらいわよ…」
そう言うとアヤ姉は立ち上がり…近づくと腕を回し僕を優しく抱きしめてくれた。
「あ…アヤ姉……」
「…明日からまた頑張れる?」
「それは…」
「明日の力が出るまで…頑張ると言うまで離さないわよ…?」
アヤ姉はとても暖かくて…お風呂上がりか良い匂いがして…。
しばらくの間、僕は抱きしめられ…身体を預けていた。
今まで多くの人達に助けられ、迷惑をかけ、それゆえに多くの人達に中傷され…。
それでも僕は、もう一度だけ立ち上がった。
これが最後。
最後にもう一度だけ『敗残兵』の僕は頑張ることに決めた。
次回 第31話 『 アヤ姉の婿試験 』




