第20話 『 少年には初めて世界が見えた 』
大陸にも夏の季節が訪れる。
照り付ける太陽の下での鍛錬、図書館での勉強の日々が続いていた。
7月の中旬。
図書館閲覧室へ険しい顔をしたアヤ姉がやってきた。
「何か有ったの?」
「面会の申し込み…いや、招待ね。
アキヒトのお仲間達から何か話が有るみたいよ?」
今更だけど、アヤ姉は僕の案内人として窓口になってくれている。
だから平原同盟、神族、魔族からの連絡は全てアヤ姉を介して知らされる。
尤も手違いで呼ばれた僕に連絡なんて滅多にやってこないけど。
今回の相手は先輩達…つまり僕と一緒にやってきた勇者候補達だった。
「久しぶりに会いたいらしいわね…」
「アヤ姉は何か気になることが?」
「私ね、貴族っていう人種が好きじゃないのよ」
それは何となく分かる気がする。
「あの人達は貴族以上に貴族してるからちょっとね。
アキヒトの仲間のこと、決して悪く言うつもりは無いけど…」
良くない評判は色んな人の口から聞いている。
神獣の加護を得て、全ての人達に快く受け入れられてる訳では無い。
「用件は何だろ…」
「さぁ、それは会ってみなければ分からないわね。
どうする?断っておこうか…」
「いや、流石にそんな訳にはいかないよ。。
日時は向こうに合わせるからって、返事しといてくれる?」
僕としては断る理由も無いので会おうと思うのだが…。
「えぇ、分かったけど…一緒に付いて行かなくて良い?」
「大丈夫だよ。
子供じゃあるまいし、僕一人で行けるから…」
ふと見れば、アヤ姉がとても不安な面持ちで僕を見ていた。
「何か心配なの?」
「アキヒトもあの人達みたいにならないかなって…」
「はは、それなら大丈夫だよ。
僕みたいな普通の人間、どうやっても先輩達みたいには…」
軽く笑い飛ばそうとしたが、アヤ姉の表情は変わらなかった。
「勇者召喚の時、私がアキヒトを選んだのは今のアキヒトだからよ?
回りが何と言おうと、私は今のアキヒトが良いの。
頭が良くなければ勉強すればいいわ。
身体が弱いのなら鍛えればいいのよ。
私ね、人間の強さって一歩一歩前に進むことだと信じている。
一歩がどれだけ小さくても、前に進めばいいのよ。
近道が見えても進む道を曲げない…。
ひたすら自分の信じた道を進む…。
そんなアキヒトが、とても人間らしいと思うわ…」
この時の僕にはアヤ姉の言いたいことが分からなかった。
ただ、何かとても大きな不安を抱えていると。
心の底から僕を心配しているのは理解できた。
「…アキヒト、これをご覧なさい」
同じく閲覧室にいたドナ先生が、持っていた本を開いて僕に見せてきた。
中には聞いたことも無い専門用語と、未知の記号の複雑な数式で埋まっていた。
当然だけど今の僕には全く理解できない。
「これが…どうかしたんですか?」
「何が書いてあるか分からないでしょ」
「はい、それはまぁ…」
「そう、これは今のアキヒトが見ても分かる訳が無いわ。
しかし、その基礎となる知識はとても単純よ。
それこそ子供の頃から習う言葉だったり…。
足し算、引き算、掛け算、割り算だったりね。
そんな膨大な基礎の積み重ねが有るからこそ、この書籍が…。
うぅん、学問その物が成立しているのよ」
本を閉じ、ドナ先生も真剣な表情で僕に語り掛けてきた。
「学力も体力も同じ、基礎の積み重ねの結果に過ぎないわ。
どんなに立派に見える人物だって同じよ」
「は、はい…」
「そんな基礎も無い人間が…。
突然大きな力を持ったらどうなると思う?」
何時になく張り詰めた表情のドナ先生に僕は息を呑んだ。
「こんなこと自然界では滅多に起きないんだけどね。
ある日突然、稀にだけど強大な力を手に入れる機会もあるわ。
誰だって欲しいと思う。
地位、名誉、富…何かを手に入れるには力が必要だもの。
仮に、そんな力が突然、自分の目の前にぶら下がってたら?
手を伸ばす位置に用意されていたら?
誘惑に抗うのは難しいでしょうね…。
その過ぎた力を手にして、その人は冷静に居られるかしら。
そうね、少しばかりじゃない…。
人としての域を越えた力かもしれない。
その場合…その人は変わらずにいられると思う?」
「それは…」
「私がアキヒトを選んだのもアキヒトだから。
お父様を後見人として紹介したのもアキヒトだから…。
そうね、アヤと理由は同じよ」
「2人とも…何か聞いているんですか?」
アヤ姉もドナ先生も無言で何も答えてくれない。
だが、それだけで何かが有ったのだけは僕にも分かった。
「アヤ姉、心配してくれて有難うね。
けど、僕なら大丈夫だよ。何が有っても僕は僕のままだから」
「そう…そうね…」
「…アヤ姉!」
突然大きな声で呼ぶと、不安で俯いていたアヤ姉は驚いて顔を上げた。
「夜までには帰るからさ、夕飯に何か一品作ってよ!」
「え…夕飯?」
「大丈夫だよ、どんなにマズくても責任もって処理するから」
唖然として言葉の出ないアヤ姉に、僕は早口でまくしたてた。
「まぁ…ティアさんが監督だから、最低限のモノはできると思うけどね。
もう、前みたいな産業廃棄物は嫌だよ?
いくら物が豊かでもさ、資源は大切にすべきと思うんだ。
もう少しさ、アヤ姉も自然や胃袋に優しい料理を…っ!!」
話の途中、アヤ姉から本を投げつけられて顔面に直撃した。
「好き放題言ってくれるわね…!
良いわ、最高の手料理を作っておいてあげる!
さっさと行ってきなさい!」
「う”…くぅ…」
投げつけた本の威力に容赦の欠片も感じられなかった。
一瞬だけど元気の無い方が良いかもと思えた。
「ふふ、わざわざ釘を刺す必要も無かったわね。
アキヒトは馬鹿だけど愚かじゃないから」
床に落ちた本を拾い上げながら、ドナ先生は笑っていた。
結局、2人が何を心配しているのかハッキリと分からなかった。
指定された場所は豪邸だった。
レスリーさんの邸宅を見た時も立派だと思ったけど、明らかに違う。
門構えも、敷地の広さも、庭園も…そして屋敷自体も。
「アキヒト様ですね?
ご主人と友人の方々がお待ちになっておられます…」
門で待ち構えていた執事の人に案内されて屋敷の中へ。
屋敷が広い分、女中や召使いの数も多かった。
「やぁ、よく来てくれた。城原秋人君…だったね?」
応接室で待ち構えていたのは5人の先輩達。
大泉さんや立本さんといった、神獣の中でも最高峰とされる龍と契約した人達。
この人達は100人の中でもリーダー格と目されている。
この部屋もそうだが、素人目にも高そうな感じだった。
絨毯、カーテン、調度品、書棚、そして椅子とテーブル。
レスリーさんも子爵なのに違うな…と思いつつ、勧められて椅子に腰掛けた。
「まずは、今まで放置して済まなかった。
本来は年長者である我々が、君の面倒を見なければいけなかったのだが…。
生憎、此方も忙しくてね」
「い、いえ、それでしたら問題は無かったです。
住む所や食べ物には困ってませんし、皆さんお優しいですから」
「練兵場での鍛錬は見かけるけど、普段は他に何を?」
「王立図書館で勉強しています。
小等部の…僕達の世界で言う小学校から、最近は中学校の勉強に」
「そうか、時間を無駄にしてないようで何よりだ」
「…僕からも質問して良いですか?」
「ん、何だい?」
「先輩達は爵位と領地を頂いたと聞いたのですが…本当なのですか?」
「…あぁ、そうだ。
まだ内定なのだが、ここにいる我々5人には伯爵位が与えられる。
他の者達は子爵だがね」
こうしてテーブル越しに向かい合っているだけで分かる。
自信に満ちた先輩達5人の圧倒的な迫力と存在感。
これが神獣の加護を得た人達なのか、と改めて知らされる。
「それでだ…今日は大切な用件が有って、ここに城原君を呼んだ」
「はい、何でしょう?」
「我々の同士になり給え」
「そ…それはどんな意味で…」
「言葉通りだよ、城原君も我々の同士になるんだ。
そして共に、この世界を変えていこう」
召喚された勇者候補達は100名。
今では約8割が平原同盟、残り各1割が神族と魔族に心を寄せている。
そして主要5名を中心とする約80名は、新たな人間社会構築を目指していた。
外戚となる多くの貴族達と連携し、政治共同体成立を画策していた。
「そう…我々が中心となり、我々の王国を作るんだ」
「それじゃ、先輩達は元の世界に帰るつもりは無いんですか?」
「当たり前だ、5年後に帰ってどうなる?
長期間のブランクがどれだけあの社会では致命的か、君だって分かるだろ」
否定しようが無かった。
元の世界で5年間のブランクは、ハンデとして余りにも大きすぎる。
仮に社会復帰できたとしても周回遅れを取り戻すのは絶望的だ。
「だから君も、我々と一緒に働いてくれ。
行く行くは政治中枢に…議員か閣僚に加わって貰うつもりだ」
「ぼ、僕が議員ですか!?」
「当然だろう、我々の同士なのだから」
いずれは国の将来を背負うと期待されていた100人の先輩達。
政治家や企業重役の子息であり、幼少から英才教育を受けてきた選ばれた人種。
そんな別世界の人達と今、僕は同列になろうとしている。
だが舞い上がった僕に、指導者の大泉さんは強く言い放った。
「…但し、一つだけ条件が有る。
城原君も我々と同じように神獣と契約したまえ。
君も大いなる加護を得て、大いなる知と力を手に入れるんだ」
今も僕の右肩にはシロが無言で光り輝いていた。
「今は、その精霊と契約しているんだね?
その契約を破棄し、別の神獣と改めて契約するんだ」
「し、しかし…それでは…」
「君の将来を、その精霊一つと交換するつもりか?」
「そ、それに神獣召喚の儀式は終わっています!
今さら呼び出すなんて…!」
「それなら問題無い、我々の方で話はつけてある。
要請さえすれば、再び儀式を執り行う手筈となっている」
シロが逆行催眠を初めて3ヶ月が経とうとしている。
いくら何でも時間がかかりすぎだし、意識の回復は絶望的だろう。
「城原君、我々の巻き添えになって不運だと考えていないか?」
テーブル越しに大泉さんが訴えかけてきた。
「言っておくがそれは違う、むしろ君は最高に幸運だと考え直すべきだ。
考えてみたまえ、神獣の加護を得る機会など滅多に無い。
普通の人間には一生に一度と無いだろう。
しかし今の君にはソレがある」
「…なぜ、僕なんですか?
なぜ、そんな貴重な機会を僕なんかの為に…?
他にもっと相応しい人がいるんじゃ…」
「これは我々から城原君に対する償いと思ってくれ」
「償いって…」
「巻き添えにして、この世界へ連れてきてしまった償いだよ。
本来なら我々100名だけの筈だったのに…」
次に立本さんが口を開いた。
「その100人も、決して一枚岩で無くてね…。
さっきも話した通り、神族や魔族に迎合する者達も出てきた。
彼等は彼等の意志が有る、強制はできない。
しかし志は違ってもね、他の連中も城原君のことを心配している。
俺達と違って、冷遇されてるんじゃないかとね…。
同じ世界からの出身の後輩だ、多くの者達が君を気にしている。
もし君も神族や魔族を選ぶなら、やはり神獣の加護を受けるべきだ。
そうすれば彼等も快く君を迎えてくれる」
再び大泉さんが話を続ける。
「どの道を歩むにしても知と力は必要だ。
この世界では無力な余所者など、排斥と侮蔑の対象でしかない。
だから君も神獣召喚の儀にもう一度臨むべきだ。
人間の限界を越えた知と力を手に入れることができる。
その時、我々は君を仲間として迎えよう…」
手が…僕の手が震えていた。
僕は凡人で…学校の成績でも頑張って中の上程度なのに…。
雲の上にも等しい先輩達が、この僕を仲間と言ってくれた。
父さんからも母さんからも、姉さんからも半ば見捨てられていたこの僕を。
神獣の加護を受ければ、僕も変わる。
今まで弱いと諦めていた自分から抜け出せることが…。
『お前が待つのに疲れたら、契約を切ってくれて構わない。』
あの時、逆行催眠に入る前にシロは言った。
『その時は俺のことなんか忘れてくれ。
そして改めて、新しく別の神獣と契約を結べばいい。
俺は足手まといでしか無かったが、神獣ならきっと力になってくれる。』
今のシロは生ける屍だろう。
なら、ここで契約を切ったとしてもシロなら分かってくれる。
『そうすればお前だって…。』
そう、僕にも神獣の加護さえ有れば――
拳を握りしめ、歯を食いしばった。
立ち上がるとお腹の底から声を絞り出し、先輩達にハッキリと告げた。
「…ごめんなさい!」
予想外の返事に、先輩達は驚いて言葉を失っていた。
「せっかく先輩達が誘ってくれたのに…!
こんな機会、もう二度と無いのに…!
本当に、本当にごめんなさい!」
涙が溢れて止まらなかった。
何度も何度も謝って…頭を下げて謝るしか僕には無かった。
ここでシロを見捨てることができれば…。
僕もこの人達と並べたのに…。
「本当に、本当に先輩達に憧れてました!
あの祭典の日、召喚された日にボランティアで参加して…!
ずっと近くで見て、カッコいいなって…!
僕は平凡な人間ですが、こんな風になれたらなって…!
こんな人達と一緒に並べたら良いなって……!」
多くの人達は何かを手に入れるため、何かを捨てるのだろう。
手に入れる物が大きいほど、切り離す物も大きくなるかもしれない。
「けれど、友達を見捨てることだけはダメです!
それだけは、絶対に…!
先輩達にとっては、ちっぽけな精霊かもしれませんが…!
僕にとっては、大切な友達なんです!
僕は頭も良くないし、運動神経だって良くないです!
ですが、友達だけは…!
友達だけは裏切らない人間だと、胸を張りたいんです!
…ごめんなさい!」
深く頭を下げた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい…!」
涙が頬を伝って、絨毯に雫が落ちる。
無言の先輩達を前に、僕は泣きながら何度も何度も頭を下げ続けた。
「…いや、我々の方こそ済まなかった」
すると大泉さんは立ち上がり、僕の傍に来た。
懐に手を伸ばすとハンカチを取り出し、前に差し出してきた。
「さぁ、これで拭きたまえ」
「は…はい…」
「城原君には、城原君の大切な物があるのだろう。
それを優先するのは仕方ないことだ」
「ご、ごめんなさい…!」
拭っても拭っても、涙は簡単には止まらない。
その時、テーブルの一人が口を開いた。
「城原君は優しいんだな。
おそらく家族や友人を大切にしているのだろう…。
だがね、我々は必要と有れば親兄弟でさえ切り捨てる覚悟が有る。
いざとなれば肉親の情を捨てねばならない。
君には合わないだろうな…。
我々とは住む世界が違い過ぎる」
まさしくその通りだった。
僕には先輩達と並ぶ資格が無かった。
「しかし個人的には、君みたいな人間は嫌いじゃない。
道は違うかもしれないが、君の人生の大成を願っているよ」
その先輩も立ち上がると僕の傍に来て、肩を叩いて励ましてくれた。
続いて一人、また一人と立ち上がって僕の近くへ。
「出身校は違うかもしれないが、同じ世界の出だ!
何か困ったことが有れば遠慮なく頼って来い!」
「良かったな、後輩!
頼りになる先輩が100人もいるんだぞ!?」
「やっぱりお前は幸運だよ!
お前に先輩は100人いるが、俺達に後輩はお前1人なんだからな!」
次々と肩を叩き、僕を励ましてくれる。
「…そうだ、城原君は5年後に帰還するつもりなのか?」
「それなんですが、迷っています…。
僕の場合、5年後に帰還して直後にセンター試験になるかと。
だから大学受験なんて絶望的で…」
「もし5年後に帰還するなら、私の親族に手紙を渡してくれないか?
その時、君のことも頼んでおこう」
涙は殆ど止まり、そんな僕に先輩達の話が続く。
「我々に否応なく巻き込まれた君の事情も説明しておく。
それで君の大学進学に融通を付けてくれるよう、書いておくつもりだ。
私の親は教育機関に顔が利いてね。
必ず、君の学歴のプラスになってくれるだろう」
「働き口なら俺の親に頼んでやるよ。
ウチの会社はデカいんだ、城原一人くらい入れさせてくれるさ」
「俺の父親は海外に強いがどうだ?
5年のブランク程度、直ぐに取り戻せるキャリアを付けてくれるぞ」
次々と肩を叩きながらの激励を受けた。
先輩達と別れて屋敷を出た後、街の広場の噴水に立ち寄った。
涙でグシャグシャになった顔を何度も洗い流した。
顔を手を乾かせ、十分に気が落ち着いたのを見計らって帰宅した。
「ただいま……あれ?」
普段、食事の用意をしてくれるティアさんだけでは無かった。
レスリーさんが、ドナ先生が、アヤ姉も居揃っていた。
「今日はどうされたんですか?」
「アヤちゃんが手料理を作ってくれると聞いてね。
是非御馳走になろうと、お邪魔させて貰っているよ」
台所の方を見ると、ティアさんとエプロン姿のアヤ姉が見えた。
「今から持っていくわ!待ってなさい!」
運ばれてきたのは焼き色の付いたじゃがいものグラタンだった。
「熱いから気を付けなさいね」
オーブンから出されたばかりで、離れていても熱気が伝わる。
「ほぉ…美味しそうじゃないか」
「ふぅん、アヤにしては上等じゃないの」
レスリーさんとドナ先生はスプーンを持って、早速口に運んでいた。
合わせて僕もスプーンを取って、口の中へ…。
「味はどう…?今回は自信作よ」
「…ごめん」
「なに?」
「アヤ姉、ごめん…味が良く分かんないや……」
十分に泣いたつもりなのに。
不意に流れ出した涙は止まらず、堰を切ったように溢れ出ていた。
レスリーさん達は、今日の先輩達の話を知っていたのだろう。
神獣召喚の事を知っていて、それを心配して集まってくれていた。
「僕、とてもあの人達を尊敬しているんです…。
元の世界では、英雄みたいに言われていたから…。
そんな人達に僕もなれるかもって…。
凡人の僕が…僕にも…。
けど、どうしても…シロだけは…。
シロだけは……見捨てられなくて…」
スプーンを置いて、顔を手で覆いながら嗚咽していた。
折角、みんなが集まってくれたのに。
アヤ姉が手料理を振る舞ってくれたというのに。
申し訳無いと思いつつも、涙が止まらない。
「アキヒト…」
泣きじゃくる僕を、アヤ姉が優しく抱きしめてくれた。
今はアヤ姉の腕がとても暖かかった。
泣いて、泣いて、一晩中泣いた次の日の朝。
心の中に溜まっていた感情が全て押し流されたためだろうか。
普段の朝よりも爽やかに目覚めることができた。
「…アキヒトさん、少しだけ男らしくなりましたね」
練兵場へ出かける直前、ティアさんに呼び止められた。
「朝からお世辞なんて止めてくださいよ」
「いいえ、昨日よりも姿勢が良くなっていますから」
「姿勢?」
「今は背筋を伸ばして真直ぐに…しっかり前を向いています」
「そ…そうですか?」
「はい、今までは俯いて下を向かれてばかりでしたから…。
これからは違った風景が見られるかもしれませんね」
「はは、簡単に変わりませんよ!
それじゃ、行ってきますね!」
ティアさんに挨拶して、僕は扉を開けて外へ歩き出した。
普段通りの道を抜けて練兵場へ…と思ったが、自然に足が止まった。
「あ……」
知らなかった。
僕の頭上には紺碧の空が広がっている。
どこまでも…どこまでも続く青い空が。
何度も見た街並みが…道路が…広く…隅々まで見えた。
視界の中に城門が入った。
なぜか僕の足は無意識のうちに、そちらの方へと歩み始めた。
「わぁ…」
巨大な城門の外には、緑の草原が果てしなく広がっていた。
草原の端が霞んで見えない。
更に見上げ、周囲を見回した。
遥か西の空の向こうにはヴリタラ魔導王朝。
遥か東の空の向こうにはパラス神聖法国。
そこにはどんな人達が住み、どんな光景が広がっているのだろうか。
世界は果てしなく遠く続いていた。
一陣の風が吹き抜け、黒髪がなびく。
「シロ…いつか見に行こうか」
何となく右肩の友達に微笑みかけていた。
僕は草原に背を向け、城門へ足早に。
練兵場へ日課の鍛錬に向かった。
*********************************
――ここからは仮定の未来だが
勇者候補達の勧めに応じたなら、アキヒトは平穏な人生を送れたであろう。
神獣の加護を得て、彼は101人目の勇者として名を連ねる。
以降は政治経済について学び、後見であるレスリー氏の推薦で大学の専攻へと進む。
彼自身は不勉強だが、先輩である他の勇者達は助力を惜しまない。
数年後、勇者達は大陸平原同盟に新たな政権を樹立する。
議会制が導入され、アキヒトは議員の一人として姿を見せる。
彼はイスターとガーベラ等の実力者との人脈を活かし、政権への貢献を果たしていく。
現時点では未登場だが、アヤの実父であるトリス公爵も認めざるを得ない。
アヤかドナ、どちらかと親交が続いていれば結ばれたかもしれない。
社会的には成功して幸せな家庭を築き、この世界で子孫を残せたであろう。
3年後のティア失踪以外、彼は平穏な人生を全うできたであろう。
しかしアキヒトは勇者候補達の勧めを断った。
これにより『勇者アキヒト』の可能性は完全に閉ざされたのである。
――ここから先はもう一つの未来
待ち受けるのは、遥かに過酷な戦いの日々
『獣』 『機』 『艇』
星々をも容易く砕く力を持つに至る少年
『兵団長アキヒト』の物語である