第15話 『 中央平原経済史 』
その日の座学時間はドナ先生から自習と言われた。
「悪いわね、今日は大学の研究室で大切なゼミがあるのよ」
別れ際に手渡されたのは書籍のリストだった。
「これは経済関連のテキスト。
といっても簡単な内容ばかりだから、アキヒトでも理解できると思うわ。
小等部高学年向けだしね、レベルとしては丁度良いの。
けどね、子供向けだけど経済の基礎だから、しっかり覚えておきなさい?
明日、色々と内容を質問して確認するから。
怠けちゃダメよ?」
ドナ先生、見た目の年齢は僕と変わらないけど、責任感は強いのが分かる。
何だかんだと勉強の面倒をしっかりと見てくれているから。
だから僕は王立図書館の中を一人で彷徨っていた。
経済関連の書籍区域、予想はしていたけど、とてつもなく大きかった。
視界の中だけで数百…いや、裕に数千冊はあるだろうか。
元の世界の図書館なら端末機器の検索で、すぐに見つかるんだけどね…。
当然そんな物は無いので、僕は地道に端から探すしかなかった。
「勉強かい?熱心だね」
棚の前で本を開いて確認していると、見知らぬ男の人から声をかけられた。
年齢は20歳くらい…イスターさんと同じくらいだろうか。
背はスラリと高く真っ白なウェーブがかった髪が印象的だった。
顔立ちは整っており、穏やかな言葉遣いと共に愛想の良い人物だった。
おそらく女性に人気が出るのは、こんな人なんだろうなと思えた。
身なりも良さそうに見えた。
街中で見かける庶民とは明らかに異なる生地の衣服、そして装飾。
以前、図書館の利用者について聞かされていた。
王侯貴族や大学関係者、もしくは富裕層や街の有力者に限られると。
だから、図書館を利用できる…そういった立場の人物なのが分かった。
「はい、経済の勉強をしているんです。
それで今、先生から教えて貰った参考書を探してるんですけど…。
これだけたくさんの本の中からでは、なかなか見つからなくて…」
「ふぅん…どんな本を探してるんだい?」
「こ、これですけど…」
ドナ先生から指示された本のリストを、男の人に手渡した。
「なるほどね…少し待っていてくれ」
一目見ただけで直ぐに僕にリストを返すと、別の本棚の方へと歩いて行った。
そして1冊…また別の棚へ行って1冊。
迷うことなく本を取り揃え、僕の所へ帰ってきた。
「これで良いかい?」
「あ…これです、探していたのは!
しかし凄いですね…僕なんか、なかなか見つからなかったのに…」
「はは、大したことじゃないよ」
しかしリストよりも本の冊数が多いのに気付いた。
「あれ?この本は…この本も……」
「ボクのお勧めも入れておいたよ。
きっと役に立つだろうから、読んでおくと良い」
「そうですか、ありがとうございます!
経済のことにお詳しいんですね」
「多少齧っているだけさ」
僕にも明らかな謙遜なのが分かった。
「そういえば、君の先生はどうしたんだい?
アグワイヤ家の令嬢…今日は見えないようだが」
「今日は大学の方でゼミがあるそうなんですよ。
だから僕は自習なんです」
「それで経済の勉強を一人で?」
「はい、これから…」
「ボクが教えてあげようか?」
突然の申し入れだった。
「あのアグワイヤ家の才女様と比べられても困るけどね…。
ボクも経済に関しては一通り理解しているつもりだよ」
「え、えぇっと…ご迷惑では?」
「構わないさ、今日は時間が有って此処に来ただけなんだ。
君さえ良ければ指導しても構わないが…?」
正直なところ、僕一人で勉強というのは心細く寂しかった。
それに参考書だけでは分からない事もたくさん有るだろうから。
「…すみません、それではお願いできますか?」
「いいさ、喜んで」
その後、僕達は閲覧室に場所を移した。
テーブルの上に持参したテキストを積み上げ、僕と男の人は向かい合った。
「そうだ、僕はアキヒトと言います」
「ボクは…そうだな、『先生』と呼んでくれないか?」
「え…先生、ですか?」
「そうさ、一度講師の真似事をやってみたくてね。
ボクを先生呼ばわりは抵抗有るかい?」
僕は名前を聞こうと思ったのだけど…この人も何か事情があるらしい。
「分かりました、先生…で良いんですね?」
「悪いね、今のボクは此処にいるとマズいから。
その代わり先生と呼ばれる以上、知る限りは何でも答えるよ」
何かの訳ありなのは間違い無いようだ。
ならば、それ以上の詮索は失礼と、勉強に入ることにした。
「そうですね…何を聞けば良いのか…」
余りにも唐突過ぎて、質問内容に困った。
手元の参考書は比較的簡単な部類で、僕でも読めば理解できる。
この世界の経済を何も知らない状況で聞きたい事なんて――
「…そうだ、ここの参考書とは別の質問ですが良いですか?」
「良いさ、何でも聞いてくれたまえ」
「経済発展が、なぜ人間を優位にできたのでしょうか?」
それまで愛想良かった表情が、僅かに強張った。
「500年前の戦争の時代、人間の地位はとても低かったと聞きます。
しかし今、僕の目には神族や魔族と対等に見えるのですが…」
「正確には対等では無いんだけどね。
この世界の歴史については、ある程度勉強したのかい?」
「はい…やっぱり僕のこと、勇者候補だって知ってたんですね」
「まぁね、興味が有って一度話をしてみたかったんだよ」
「けど、僕は手違いで召喚された勇者候補ですから…。
ご期待に添えないと思いますよ?」
「君と他の勇者候補…ふむ……丁度良い比較対象かもしれないね」
「え、何がですか?」
「君と他の勇者候補達の関係はね、
この世界の人間と神族、魔族の関係とある意味で似ている。
だからこそ、経済発展に繋がったとも言えるかな」
「え、えぇっと…もう少し分かりやすくお願いします」
「簡単なことさ。
君は他の勇者候補達に比べて神獣の加護も無く、圧倒的に力が弱い。
けれども、この世界の人間と同じ長所を持っている。
その長所はね、言い換えれば君にとって強力な武器かもしれない」
「長所…思い浮かばないんですけど」
「謙虚さだよ」
神族、魔族に比べて、この世界の人間は非常に脆弱である。
大陸平原同盟も騎士は存在するが、神族や魔族の騎士とは比較にならない。
超絶的な身体能力を有する両種族に対し、人間は余りにも弱すぎた。
その力の差は歴然であり、誰が見ても明らかであった。
だが、その圧倒的な力の差が、神族と魔族に驕りを産んだ。
「この世界の人間はね、自分達の得手不得手をよく理解している。
戦っても勝ち目は無い。
じゃあ、別の分野で勝負しようと…その一つが経済なんだよ」
「けど、おかしくないですか?
神族も魔族も決して頭は悪くないように見えますが、
なぜあちらでは経済が発展しなかったんです?」
「力を入れる必要が無いと判断した…つまり驕りさ」
「えぇっと…そもそも、そんなに経済は重要なんでしょうか?
実際、当時の神族や魔族も重視していませんでしたし…。
そこまで力関係を変える程とは思えませんが…」
「は…ははは!」
僕の言葉に、男の人は突然背中を反らして笑いだした。
「…はは、笑ってすまなかった。
そうだね、君はまだ経済のことを何も知らないようだし…」
「あの…すみません、無理に教えてくれなくても良いですよ?
何となくですけど経済関係にお詳しいみたいだし…。
そんな人が僕みたいな初歩も知らない人に教えるなんて…」
「いや、そんなこと無いよ。
それより私の方こそ笑ってすまないね、改めて謝るよ。
それでだ…経済の重要性についてだね」
「あ…はい」
「500年前の神魔戦争については勉強したんだね?
じゃあ、どうして停戦したかは知ってるかな?」
「確か…神聖法国側の…山脈に要塞があるって聞きました。
魔導王朝が攻めましたが突破できず、撤退したと」
「そうさ、アコン山脈の要塞…通称『法国の盾』
そこで半年間膠着状態が続き、魔導王朝軍は引き上げたんだ」
「はい、それは勉強しました」
「では問題だ、なぜ魔導王朝軍は撤退したんだい?」
「それは…要塞を突破できなかったからですよね」
「では、なぜ半年後に撤退を?
2年も3年も…なぜ落ちるまで要塞を攻撃し続けなかったんだろうね」
「――食糧不足ですか!?」
「それもあるけどね、何もかも不足していたからだよ。
戦争というのは、あらゆる資源が必要なんだ。
食糧、武具、人員、資材、そしてお金…ありとあらゆるモノがね」
長期に渡る神聖法国と魔導王朝の戦争は、両勢力を大いに疲弊させた。
大陸歴488年初頭の時点で魔導王朝軍の維持は限界に達していた。
50万を越える兵員には膨大な後方支援が必要だった。
だが、大軍の長期維持によって王朝本国も困窮していた。
兵員と糧食と物資の確保と、遠く離れた前線への輸送、その兵站の維持。
当時、王朝本国を任されていたイナト筆頭大公は前線のヴリタラに具申した。
年内に決着を、と。
488年内に神聖法国領内へ攻め込み、聖都パラパレスを陥落。
それが不可能ならば撤退もやむ無し。
それまで魔導王朝軍が維持できたのは、イナト筆頭大公の手腕に依る所が大きい。
周辺諸国から魔王と恐れられるヴリタラも、この具申を無視できなかった。
しかし結果として、要塞に半年以上も足止めされた挙げ句の撤退。
以降、荒れ果てた国土の復興が始まった。
神聖法国は王朝以上に疲弊していたと伝えられる。
488年7月、中央平原で発した魔導王朝との決戦は歴史的な大敗で終わった。
60万以上の戦力を動員して戦いに臨んだが、
アコン山脈の要害にまで辿り着いたのは20万に満たなかった。
それから半年、神聖法国は残された全国力を防衛に注ぎ込んだと伝えられる。
既に長期間の戦役で人民は疲弊していたが、更なる徴収が実行された。
平原での決戦では人員と同様に大量の糧食、物資を喪失した。
その補填での大規模な徴収、加えて要塞改修の労役にまで駆り出された。
法国領内で飢饉が発生し、働き手を奪われて餓死した村落は数え切れないという。
労役自体も過酷であり、生きて故郷に帰還できた者も多くはなかった。
かくして犠牲の上に更に犠牲を払った結果、魔導王朝軍を退けることに成功した。
だが、神聖法国内部は崩壊寸前であったと伝えられる。
打ち続く戦乱の疲弊と要塞強化の為の強制的な徴収。
法国領民は熱心なパラス教信者であるが、余りにも現実は残酷であった。
しかし一時は内乱の兆しさえ有ったものの、地理的に恵まれて沈静化した。
「地理的にって何ですか?」
「アコン山脈だよ。
神聖法国はね、高い山々に囲まれた大高原地帯なんだ。
唯一外界と往来可能な回廊は要塞化されて、関所になっている。
あの中でパラス教の力は絶対だからね。
外界へ逃げることも応援を呼ぶこともできないのさ」
神聖法国はアコン山脈という天然の要害に恵まれた。
だが、その要害が神聖法国の発展を妨げてきたという面も存在した。
魔導王朝軍撤退後も、要塞の改修は続いた。
それだけ魔王ヴリタラの再侵攻を恐れていたのである。
その為、魔導王朝も中央平原も復興が始まったが、神聖法国だけ遅れた。
10年程経過して国内の復興が始まるも、要塞の改修は並行して続けられた。
そして500年経つ現在も、補修が続いているという。
「――とまぁ、ここまでが大まかな停戦の推移なんだね。
そこでだ、当時の人間…ボク達のご先祖様は、神族と魔族の欠点に気付いた。
それが経済観念の欠如さ」
「経済観念…え?」
「戦争はね、経済基盤が有るからこそ成り立つのさ。
食糧を供給し、武具を産み出し、人員や物資を淀み無く前線に送り届ける。
要するに豊富な生産力、正確な配分管理、迅速な輸送が必要だ。
それってボク達の社会の仕組みと同じさ。
つまり戦争も経済活動の一部と見ることができる」
「戦争は経済と同じ…ということですか」
「何の生産性も無い点を除いてはね」
その経済活動を軽視していたのが、両種族に共通する欠点だった。
「戦争で勝つには、戦場で如何に敵を倒すか?
当時は神族も魔族も、そんな考えが大半を占めていたんだ。
まぁ、中には魔導王朝のイナト大公のような人達もいたらしいけどね。
戦場以外での重要性を理解しているのは極僅かだった」
「イナト大公…さんって、そんなに立派な人なんですか?」
「今も魔導王朝の筆頭大公を務めているよ。
宗主ヴリタラは政務に殆ど関わらないから、実質的な支配者かもね。
戦後、魔導王朝が復興できたのは、この人物の尽力に依るものさ。
しかし…残念ながらイナト大公は周囲の人材に恵まれなかったんだ」
500年前の戦いで魔導王朝は50万以上の戦力を動員したと記録される。
そして、この数字から人間の経済学者達は脆弱性を見抜いていた。
魔導王朝の全人口に対する比率動員数としては少なすぎた。
それは王朝の生産性、輸送性の低さを意味する。
昔ながらの非効率な生産体制と不整備な流通経路。
「大公ほどの御方なら、その程度理解されてない筈が無いんだけどね。
流石に一人でそこまで手が回らなかっただろうし…。
同じ見識を持つ配下が少なかったのが一番痛かったんじゃないかな。
本国に大公程の人物が5人要職に就いてたら、魔族は勝ってたと思うよ」
「そうですか…昔の神族と魔族が経済を軽視していたのは分かりました。
ですが、人間はどういった形で経済を発展させたんです?」
「簡単だよ、神族や魔族と逆を張ったのさ」
戦後、人々は荒れ果てた中央平原の開発に乗り出す。
しかし神聖法国と魔導王朝から撤退と共に徹底的な搾取が行われていた。
「ボクはね、そんな苦境でも挫けなかった人々を心から尊敬する。
食べ物も住む処も満足に無かっただろうに…。
今、ボク達がこうして居られるのは、偉大な先人のお蔭なんだね」
畑を耕して食を確保し、粗末な小屋を建てて雨露を凌いだ。
戦後は最も厳しい時代で、餓死者や凍死者が相次いだと伝えられる。
しかし10年も経つと食糧の供給は安定し、緩やかに人口も増加し始めた。
「――と、ここまでは神族や魔族と同じ。
けど、ここからが人間の…ご先祖の素晴らしい所だよ」
人々は組織立って食糧の増産に取り掛かっていた。
各作物に相応しい土壌、天候、地形。
生産性の高い農具、効率的な農地拡大、水路の整備。
一人一人が創意工夫して知恵を出し合い、社会の発展に繋がった。
「外見の派手さに目を奪われてはいけない。
神族と魔族の強さ…剣、魔法、体捌きは確かに凄いかもしれない。
戦場を駆け抜ける姿は誰しも憧れるだろうね。
しかし、ボクは農作物に知恵を費やした先人にも注目すべきだと思う。
例えば農具一つに、どれだけの工夫が凝らされてきたか?
持ち方とか、重さとか、形状とか…どうすれば更に耕しやすくなるのか?
地道な積み重ねをしてきた人間の強さは、決して神族や魔族に劣らないよ」
人々の生活が安定し、社会機構の改善と発展が進む。
農業、工業が発達して生産量が増加。
そして中央平原全域へ速やかに輸送するための流通経路が構築される。
各地の街道は整備され、多くの荷馬車が往来した。
荷馬車や経路にも更なる工夫が凝らされ、日々の進歩が見られた。
ここで物品、通貨の流通という観点から一つの概念が産まれた。
「厳密に説明すると難しいね…分かり易く説明すれば…。
多くの人々に豊富な利益を効率良く配分するにはどうしたら良いか?
これが経済の基本概念じゃないかって、ボクは思うよ」
「すみません、僕には当たり前のことにしか聞こえないんですが」
「はは、その当たり前が重要なんだよ」
それから200年以上、人間社会は目覚ましい発展を遂げた。
当然、その間も多くの事件が有ったけど、この人は割愛したみたいだ。
実は500年前の戦乱の後も平原の至る場所で2勢力の武力衝突は続いていた。
国力回復と共に神族と魔族は出兵し、その都度消耗を繰り返した。
その度に平原の人間社会に対し、徴収という名の強奪が続いた。
「酷い話ですね…自力で戦えないから、人間から奪ってたんですか」
「しかし人間だって、やられてばかりじゃないんだよ」
大陸歴765年
人間社会5国が結成し大陸平原同盟が発足、同時に状況が一変する。
大陸歴767年、強制徴収全面禁止要求を提示
神族及び魔族に送られた要求も、当初は両種族で一笑に付された。
だが、提示要求が認められない場合の内容を笑える者は一人もいなかった。
『強制徴収した勢力との敵対勢力に対し、大陸平原同盟は全面支援する』
同盟が成立する頃には状況が変わっていた。
人間社会は政治的にも経済的にも大きく発展し、無視できぬ存在となっていた。
特に産業の発展は目覚ましく、2勢力共に経済的依存は増していた。
神族及び魔族も復興は遂げていたが、経済的な余裕は多くなかった。
相次ぐ戦いで国内は疲弊していたのは、どちらも同じだった。
ここで敵対種族に人間社会の支援が加わった場合、国家存亡の危機となろう。
こうして同年、両種族軍に対し徴収禁止令が発せられる。
これ以降、両種族共に自力出兵する程の余裕は無く、武力衝突は激減した。
「そんなに人間社会は強くなっていたんですか?」
「そう、とても強くなっていた。
自国民は十分に賄える程の食糧は有ったから、国外へ輸出していた。
神族も魔族も輸入頼りな所も有ったからね。
仮に止められたら、それこそ国が餓えたと思うよ。
かといって軍を進めて強奪しようものなら、敵対勢力に全面支援」
「はは…それで今のような平和な時代になったんですか」
「いや、本当の変革は次からだよ」
大陸歴800年初頭。
貨幣制度の一新により人間社会の経済的優位は決定的となる。
人間社会では様々な分野で魔法力が導入され、人々の生活と産業が発達していた。
特に貨幣製造には並々ならぬ人員と資金、資材が注がれていた。
50年以上の歳月に渡って試行錯誤を繰り返し、遂に開発されたと伝えられる。
その結果、発行されたのがソラ通貨である。
現存する全てのソラ通貨は、トスカー共和国の大陸中央銀行から発行されている。
従来の貨幣との一番の差異は偽造防止。
特殊な魔法技術が編み込まれており、千年は偽造が不可能とされた。
同時に量産された真贋判定機が各地の金融機関へと配備される。
偽造不可能の通貨は交換媒体として高い信用を有していた。
だが、その利点のみでは両種族に対し大きく優位に立てなかっただろう。
決定打となったのは、大陸中央銀行主導による通貨発行量の適切な管理である。
大陸歴700年台半ばより、神聖法国と魔導王朝は経済発展に力を入れ始めた。
引き離された人間社会の経済力との差を埋めるべく、猛追を始めたのである。
結果、800年台に入ると法国と王朝は過剰とも言える生産を続けていた。
並行して経済規模の増大と共に自勢力の通貨発行量も激的に増大する。
無計画な通貨発行を危惧する声も有ったが、大勢にかき消された。
そして大陸歴814年、遂に通貨発行量のバランスが崩壊する。
魔導王朝領内での農作物の価格上昇が全ての始まりだった。
神聖法国においてもあらゆる製品の物価が高騰し、社会は混乱に陥った。
僅か1ヶ月で物価平均上昇率は200%に達し、更に悪化した。
原因として、両勢力共に極端な通貨発行量に挙げられる。
神族及び魔族には、自国内の経済状況を正確に理解する術も知識も無かった。
無為無策の通貨発行は、通貨自体の価値を大幅に低下させた。
更なる悪条件として、通貨の品位低下である。
急激な発行量増加は通貨の質を大幅に低下させた。
通貨でありながら摩耗、劣化も激しく、形状は一定と限らなかった。
そのために通貨の偽造も横行し、両勢力の経済状況は窮地に立たされた。
そこでソラ通貨を利用した人間達の反攻が始まる。
「これを見てくれるかい?」
臨時先生の男の人は、懐から1枚の銅貨を出してくれた。
「1ソラ通貨には1ソラの価値が有るんだよ」
「…そうですが、それが何か?」
「君には、この事実がどれだけ凄いか分からないかい?
100ソラ通貨には100ソラの、
1000ソラ通貨には1000ソラの価値が有るんだ」
「え…えぇ、そうですけど…」
「100ソラ通貨が有れば100ソラの品物と交換できる。
なぜなら100ソラ通貨に100ソラの価値が有るからだ。
その貨幣の価値は何で決まるんだい?」
何となく…なんとなくだけど、この人の言いたいことが分かってきた気がした。
「信用…ですか」
「そう、通貨の信用だ。
それは法定通貨と定めた国家の信用でもあるんだよ」
ソラ通貨の価値を大陸平原同盟が認めている。
つまり、同盟領域内での通貨価値は保障されているということである。
同様の信用を、両勢力の通貨は完全に失っていた。
通貨に対する信用失墜は、それを保障する国家の信用失墜に等しい。
一方、大陸平原同盟領内での通貨発行量は、経済規模に応じて調節されていた。
この時点で人間社会の経済力は絶大でありソラ通貨の信用も同様であった。
かくして、神聖法国及び魔導王朝の通貨はソラ通貨へと移行していく。
経済に疎い神族及び魔族達は、なぜ自分の手にソラ通貨があるのか理解できない。
価格上昇という社会混乱の原因を究明し、対策を打ち立てる知識も無かった。
この貨幣変革により、神族と魔族は人間社会に追従せざるを得なかった。
神聖法国領内及び魔導王朝領内で、急激にソラ通貨が浸透していく。
偽造が容易な既存通貨は急速に社会から姿を消していった。
特筆すべきは前述の通貨量の操作であろう。
その根幹となる知的体系こそ人間が培った経済学であった。
貨幣 財 人 市場
上記の4経済要素の観点から、適切な通貨量が算定されていく。
これら人間社会の経済政策に神族と魔族は為す術も無かった。
両族共に経済面に関しての知的蓄積はゼロに等しい。
モノとカネの交換という、原始的な形態から一歩も踏み出せていないのだから。
社会基盤である市場経済は、人間社会に追従する時代へと移り変わっていった。
「――と、大雑把だが、こうした経緯で人間は地位を高めてきたんだ。
勿論他にも色々な要因は有るよ。
だけどね、本質的には人間特有の地道な努力こそが一番の理由じゃないかな」
「地道な努力ですか…」
「そう、今の君みたいにね」
そう言うと男の人は僕を見ながら笑っていた。
話を振られて少し照れくさかったけど、途中で大事なことに気付いた。
「つまり、神族と魔族は傲慢だったから人間に追い付かれたんですよね?」
「うん、そういうことだね」
「それで僕と比較しましたけど…他の勇者候補の人達も傲慢ということに…?」
今までの笑みが止まってしまった。
「僕、最近会ってないんですが…。
あまり良い噂も聞かないんですが、それは本当なんですか?」
「…彼等が傲慢になったのは、彼等だけの責任じゃないからね」
決して全てがそうでは無いけど、と前置きして話してくれた。
黒い月の予言など誰も信じていない。
現実は3勢力の利権が絡んだ争奪戦と分かれば、彼等も躊躇わず貪欲になった。
「平原同盟に対しては、どの領地を貰えるか迫っているみたいだね。
それで有力な貴族達と手を組んだという話もある。
今では全員、豪邸を与えられているそうだよ?
最初の案内人だけじゃなく、大勢の召使まで侍らせて…。
実際、神獣の加護で実力はあるから誰も文句は言えないけどね」
「そう…ですか」
「君は君のままで良いんじゃないかな?」
積み上げられた本をポンッと叩いた。
「地道に勉強を…焦らず、じっくり積み上げて行けば良いさ」
「…はい、有難うございます!」
「仕事なら、腹立たしくても笑って握手が必要な場合もある。
どんなに嫌悪感を抱いても表には出さずにね。
しかし可能なら、君みたいな人間を仕事仲間にしたいよ。
本心からの握手ができそうだからね」
この人なりのお世辞だと思うけど、決して悪い気はしなかった。
暫くすると時間らしく、席を立って去って行った。
それから僕は図書館で本と向かい合っていた。
2時間程経った頃だろうか…ドナ先生が姿を見せた。
「あれ、どうしたんです?」
「少し時間が空いてね、気になったから様子を見に来たのよ。
遊んではいないようね?」
「ははは、信用されてないんですね。
この通り真面目に勉強していますよ」
「えぇ、しっかりやってるなら文句は……あれ?」
ドナ先生は積み上げられた本の中から一冊を取り出した。
「私、こんな本をリストした覚えは無いけど?」
「さっきですね、親切な人が教えてくれたんです」
見知らぬ男の人に声をかけられたことを。
見つからなかった本を探し、経済について教えてくれたことを簡単に説明した。
「その人が、その本も読むように薦めてくれたんですよ」
「ふぅん…変わった人もいるものね…」
何気なくドナ先生は、本を開き…パラパラとページをめくり始めた。
「…その人、名前は?」
「それが…聞こうとしたんですが教えてくれなかったんです」
「なぜ教えてくれなかったの?」
「何か事情があるみたいで…無理に聞けませんでした」
「そう…」
よく見ると、ドナ先生は真剣な表情に変わっていた。
「その本、何かおかしかったですか?」
「そうじゃなくて…本の選び方が良いなって感心していたのよ。
私、経済って専門外だから余り詳しくないの。
しかし、この本を知っていたら間違い無くリストに入れたでしょうね」
他にもリスト外の書籍を手に持ち、開くと中を確かめ始めた。
「これはお父様からの受け売りなんだけどね。
誰か人物を測るなら、その人物の選ぶ書籍を見れば分かるの。
知性、教養、人格まで…本の選び方次第で想像できるわ。
こっちの本も…えぇ、良い眼をしてるわね、その人…」
「とっても若い人でしたよ。
20歳くらいかな…そんな男の人です。
身なりも立派な人で…何処かのお金持ちかなって…」
「誰かしらね…図書館を利用できる人なら限られるけど…。
若くて、これだけ本を見る目があるなんて…」
分からないことがあると、追求せずにはいられない人だった。
ドナ先生はしばらく考えていたが、結局思い当たらない。
男の人は、それ以降図書館に姿を現すことは無かった。