第103話 『 黒衣のラノゥ(前編) 』
大陸歴997年に発生したパラス神聖法国と敗残兵団の武力衝突。
この一連の事件で大きな躍進を果たした人物と言えば、2名の人物が挙げられる。
一人は法皇直属騎士団長へと昇格したイスター・アンデル。
もう一人はラーセン商会番頭のケーダ・ラーセンである。
彼は早期から敗残兵団に多大な融資を続けており、商会にはソレを疑問視する者も多かった。
だが、その見返りとしてアコン山脈に巨大な回廊を開通させるに至った。
これにより神聖法国内で停滞していた経済は一気に動き出し、大陸全土へと影響を及ぼす。
結果として空前規模の好景気が訪れ、商会は莫大な利益を得ていくのである。
兵団長アキヒトの意向により、回廊の管理はケーダ・ラーセンに委ねられた。
彼は管理権を自らの優遇といった類では行使せず、全ての利用者を公平に取り扱った。
よってラーセン商会はあくまで回廊を利用する業者の一つにしか過ぎない。
だが管理者として、ケーダは一つの権限だけを行使した。
4月末、神聖法国と平原同盟を結ぶ交易路は"ラーセン回廊"と大々的に発表された。
この発表と各国への手続きにより、ラーセン回廊の名は人々の中に深く浸透していった。
商人とは名よりも実を優先する人種である。
しかしスティーン会長も古参の番頭達も、こればかりはケーダの図らいを大いに賞賛した。
自分達が半生をかけて育て上げた商会の名を冠した回廊である。
普段は硬い表情のスティーン会長も、こればかりは頬を緩めていた。
権益率は決して他の2商会に対して秀でていないが、商会の知名度は飛躍的に上がった。
斯くして現在のラーセン商会全体は多忙なのだが、ケーダの姿はそこに無かった。
多くの人員、時間、金銭を投じて、全く別の案件で動いていたのである。
ラーセン商会支店の応接室。
その日の午後、ケーダは妹シーベルと共に一人の業者と面会していた。
「……」
デスクに腰掛けたケーダは何十枚にも及ぶ書類を次々とめくって、内容を確認していた。
その彼に向かい合ってるのは、30代と思しき中年の男である。
入室して暫くは緊張した様子の面持ちで、ケーダの様子を伺っていた。
しかし背後のシーベルに気付くと、遠慮なく視線を彼女に向け始めていた。
胸元や太腿の肌を露わにし、護衛として動きやすい衣服…そして発育の良い身体の少女である。
しかも母親譲りの美貌で愛くるしい笑顔で絶やさず、男の視線を集めるには十分。
更に計算高くか、胸や腰を振って扇情的な仕草を時折混ぜていた。
そもそも仕事中なのにシーベルから視線を離せず…肝心の仕事内容にも見るべき処は無い。
ケーダ・ラーセンは心の底から失望していた。
ハズレだな
「素晴らしい調査内容ですね!
さすがは噂に名高いルト―ファミリーのお仕事です!私の予想以上でした!」
「へ……へへ、それくらいは当然でございますよ」
「こちらが報酬になります!」
満足した笑みを見せながらケーダが報酬を差し出すと、男は一礼して部屋を出ていった。
「…で、ホントは?」
「全然だね…ボーエン王国随一の情報網が聞いて呆れるよ。」
背後に控えていたシーベルが問いかけると、ケーダは先程の書類をゴミ箱に投げ捨てた。
そのゴミ箱の中には、既に大量の書類が投げ込まれているのが見える。
「これで11件目…どれもこれも似たりよったりだ」
「…兄さん、こんなのやめない?」
「なにがだ」
「これ以上は本当に危険だよ、今ならまだ…」
「仕事には口を挟まない約束だったろ」
「そ、そうだけど…私は兄さんの護衛役だよ?
こんな危ない真似、このまま黙って見てられないよ!」
不安げな表情で抗議を続け、シーベルは簡単に食い下がろうとはしなかった。
現在、ケーダ・ラーセンが専念しているのはティア・フロールの身上調査である。
本名『ティアート・ボーエン』
前王イアス・ボーエンと女中頭の間に産まれた子である。
ケーダはアキヒトに接触する前から、その周辺人物を徹底的に調査していた。
当然、ティアに関しても調査を済ませている。
だが先日の大陸連合発足の話を持ちかけた際、ケーダは生命の危険に晒された。
具体的にどんな危険だったのかは、未だに分からない。
ただ、同伴していたシーベルの反応が単なる勘違いでないのを物語っていた。
これはケーダ・ラーセンにとって失態に他ならない。
子飼いの諜報員達は選りすぐりであり、彼等の調査報告にも絶対の信頼を寄せていた。
しかし実際のティアは調査報告以上の存在だと…見誤っていたのを思い知らされる。
そのため現在は平原同盟中の私的業者、公的機関を問わず再調査させていた。
しかし、調査結果はどれも芳しくない。
良くて子飼いの諜報員と同等、多くはそれに及ばない報告内容ばかりである。
あの得体の知れない女の秘密の片鱗にさえ触れた気配も無かった。
「私達は運良く見逃されたんだよ!?
あの時、王朝騎士が入ってこなかったら…!」
「…分かっている。だが、この件は簡単に止められないんだよ」
大陸連合発足の件に関しては、既に多くが動き出している。
平原連合内のみならず、神聖法国や魔導王朝の中枢にも既に多くの根を張り巡らせていた。
しかし内心では、ケーダの自尊心を損なわれた復讐が多くを占めていた。
これまでのラーセン商会の番頭として道のりは、決して平坦なものでは無かった。
商会で勤務開始後の第一夫人からの圧力、経験不足からの失敗も少なくない。
それでも、その都度己の才覚で乗り越えてきた。
ミスは在ったが致命的なミスは犯さなかった。
ラーセン商会の最年少番頭の呼び名は伊達ではない。
実際、自身はそれだけの才覚を有していると自負していた。
その自分が虚仮にされた。
最大手カルーフ商会のグラン会長とさえ互角に渡り合えた自分が、女中一人如きに。
彼女は智謀で上回り、単純な暴力では更に上回っていた。
正確な力量の差は未だに分からないが、遥かに上の存在なのは容易に想像できる。
だが、それでもケーダはティアに一矢報いたかった。
このまま黙って引き下がるのは、彼のプライドが許さなかった。
「ケーダ様…」
扉が開くと、灰色の装束に身を纏った男が入ってきた。
「手筈通り、人員の配置は完了しています。
12名全員が手練れで、法国騎士や王朝騎士と比べても遜色有りません」
この眼光の鋭い人物の名は『サノア』。
今年42歳、現在はケーダ直属の諜報・工作員達の束ね役を任せられている。
「有難う、何か在れば直ぐに入ってきてくれ。
まぁ、今のボクにはシーベルがいるから大丈夫だと思うけど」
「…ご油断召されるな」
普段から束ね役として厳格で知られる男だが、この日は特に表情が険しかった。
「シーベル殿も無理をなされぬよう。
我々が駆けつけるまで約5秒…その間だけ、ケーダ様の守りに徹して頂きたい。
正面から拳を交わそうなどとは決してお考えなさるな…」
「う、うん…分かった」
「サノアは警戒しすぎなんじゃないか?
そもそも護衛にシーベルがいるのに12人も人数を割いて…しかもお前まで…。
相手は一人なんだよ?」
「"黒衣"の一族を甘く見てはなりません…!」
今回、ケーダはティアの身上調査を12の業者もしくは機関に依頼した。
12番目、本日最後の報告者が"黒衣"の一族
彼等が何者かは誰も知らない。
ケーダ自身も噂には聞いていたが、全身黒服だから誰ともなくそう呼ばれるようになったと。
その一族はボーエン王国内にて200年程前に突然現れた。
裏の仕事には傑出して長けており、数多くの重要人物の暗殺にも関わったとされる。
謎が多い前王イアス・ボーエンの急死も、彼等の仕業ではと噂される程である。
それだけに不吉であり、名を知る多くの者達からは忌避されている。
依頼完遂能力は他と比較にならない程高いが、反面、非常に危険な存在として知られている。
関われば、その身に災いが降りかかる…そう噂されていた。
「忠告は有り難く頂いておくけど、今回は何も問題は無いと思うよ。
だって、調査報告を受けるだけなんだからね」
「ですが、万一の用心だけは忘れないで頂きたいのです」
「分かったよ、頼りにしている」
そう言ってサノアを下がらせたが、ケーダ自身はそこまで警戒心を抱いてもいない。
今も傍で護衛するシーベルは腕利きであり、相手が抜剣していても戦える程の実力者である。
別室のサノアも諜報力のみならず、個人的な戦闘力はシーベル以上、他の12名も手練。
しかも相手は"黒衣"とはいえ僅か一人。
それに…そもそも用件は依頼した報告内容を受けるだけなのである。
これだけの人数を護衛に割くなんて非効率だと…必要無いとケーダ自身は思っていたが…。
「そろそろ時間だけど」
シーベルの声で壁時計を見ると、約束の時間1分前。
「時間を守れない人は遠慮したいんだけどね…」
通常、約束の5分前には受付嬢から取次の知らせが入ってくるというのに。
ケーダが軽く失望の溜息をついた時だった。
チャリン…
応接室の隅で…大理石の床に1ソラ硬貨の落ちる音が鳴った。
「……っ!」
一瞬…いや、半瞬にも満たない刹那だった。
シーベルが1ソラ硬貨に気を取られた死角に…全身黒装束を纏った何者かが立っていた。
フード、外套、ブーツ…そして仮面まで全てが漆黒の色彩で統一されていた。
音も無く、気配も無く、突然応接室の空間に出現した黒装束の存在。
2人が戦慄を覚えるには十分だった。
時計を見ると、秒針が約束の時刻を指した。
「…時間に正確な御方なのですね」
あえて確認するまでも無かった。
ケーダもシーベルも…この黒尽くめの存在が"黒衣"だと確信していた。
足音無く…衣擦れの音さえ立てることなく、無言でケーダのデスクの前に立つ。
外套の中から黒いグローブで掴まれた紙の束が姿を見せて…目の前に静かに置かれた。
「内容を確認しますので、暫くお待ち頂けますか?」
すると"黒衣"はやはり足音を立てず、数歩後ろに下がった。
シーベルは五感全てを駆使して警戒していたが、ケーダは高揚せざるを得なかった。
異様な雰囲気を纏った者…ただならぬ気配を漂わせた"黒衣"の報告…その期待に胸が膨らむ。
「………」
一枚ずつ細かに確認していくが、特に目新しい情報は記載されていなかった。
これまでの11の依頼と同様、同程度の内容。
ケーダ・ラーセンの期待には程遠かった。
ハズレだな
「おぉ…素晴らしい調査内容です!
噂の"黒衣"の名に恥じぬ調査内容ですね!まさか、これほどの物とは…!」
実の妹シーベルにさえ見破れはしない営業スマイルで、偽りの賞賛をした。
「――大したものね」
不意に"黒衣"から発せられたのは、意外にも幼さの残る少女の声だった。
「…今、何か仰られましたか?」
「大したものだって、褒めているのよ。
まだ若いのにラーセン商会の番頭を任せられるだけのことはあるわ」
「わ、私の…何をお褒めになっておられるのでしょうか…?」
「その報告書の内容、期待ハズレだったんでしょ?
凡人ならその程度で満足するけど、貴方はソレ以上を期待していた…違う?」
「期待ハズレと…顔に出ていました?」
「見れば分かるわよ」
商人とは商談の場で最も感情を隠すのに長けた人種でもある。
特にケーダ・ラーセンともなれば、どんな相手であろうと決して感情を掴ませない。
少なくとも、これまでは。
「…では、貴女様はなぜここへ?
本日のこの時間に、依頼内容をお届けになる約束の筈でしたが」
「今日はケーダ・ラーセンの人物を見定めに来たの。
さっき渡した報告内容に満足する程度なら、事前の報酬だけ頂いて帰る積もりだった。
しかし、その報告内容程度で満足しないようなら…商談をしようと思っていたの」
「商談ですと…?
既に調査の契約は済ませておりますが…」
「金額分の仕事はしたわよ、貴方に渡した報告内容がソレね。
それともなに…?
ケーダ・ラーセンは、あの程度の金額で、あの女の正体を暴けると思っていたの…?」
目の前の少女は何かを知っていた。
少なくとも、『ティア・フロール』が普通の人間で無いのを知っている。
これまでの調査業者とは明らかに異なっていた。
「……分かりました。
けれども商談ならば、相応の地位の御方とお話したいのですが…」
「私が頭首よ」
小柄な"黒衣"の少女だった。
「私は"黒衣"の一族、12代目頭首…『ラノゥ』よ」
「…随分、若くお見受けしますが」
「私の知るケーダ・ラーセンは、性別や年齢で仕事を差別しない人物よ。
違っていたかしら?」
「失礼致しました…。
ですが商談する前に…その商談するに足る御相手なのか証明して頂きたい」
「証明…何をすれば良いのよ」
「知れたことです…。
貴女様は何を掴んでおられるのですか?
何を以て、あの女の…『ティア・フロール』の異常性に勘付いておられるのか…!?」
興奮し、自然にケーダ・ラーセンが声を荒げていた。
12番目の…最後の依頼で、遂にティアの正体に近づきつつあったのだから。
「商談に入る前に…まずは知っていることを全て話して頂けますか…?」
「…分かったわ」
そして"黒衣"のラノゥは、静かに話を始めた。
ケーダ・ラーセンから依頼を受け、初めてティアの調査に踏み入った日からの一連の事件を。
アタリだな
ケーダは静かに耳を傾けた…。
第103話 『 黒衣のラノゥ(後編) 』