どうやら変わった人らしい。
「四宮さん、◯◯商会の松浦さんから二番にお電話です」
片手を上げて答える営業担当者を確認して、まゆは自分の書類に目を戻した。
藤堂 まゆ。今年で社会人五年目。初めての後輩指導も任された。順風満帆とはいかないけれど、毎日充実していると思って生活している。
「藤堂さん、コレどうしたら……」
恐る恐るという雰囲気で声をかけてきた育てている新人さんに、「さっき教えたでしょう。」とため息を尽きそうになり、慌てて笑みを浮かべる。内心では自分の仕事が片付かないと嘆いていた。そして新人一人を育てるのがこんなに大変だったのかと痛感し始めている。
「見せて。さっきも教えたつもりだったけど理解できなかった? もう一度話すね。メモを取って、分からないときには途中で遮っていいから聞いてね」
そう話すまゆの耳には、懐かしい先輩の声が甦っていた。
ー……あのね、まゆちゃん。君は社会人一年目なの。分からないのが当たり前。それは恥じることじゃない。
ただおばちゃんはね、ヒヨコだった頃から時間たちすぎて、もう「何が分からなかったのか分からない」のよ。
だから、怖がらずに説明止めて良いから。
聞いてくれれば詳しく説明するから。
貴女が分からないなら、それは理解できない説明をするおばちゃんが悪い。
オーケー? 理解できた? ならほれ、頑張るぞ。
少し口が悪くて、必要とあれば上司にもパートを率いるヌシにも噛み付く、社内きっての変わり者。良く響く声の持ち主で、電話での猫かぶり対応も大得意。"仕事は"出来ると評判の、それがまゆの恩人だった。
まゆが仕事を教えてもらう立場だった頃、色々あって指導役から放置された。その頃から、職場の"局"と影口を叩かれていた変な先輩が、なにくれとなく介入して来るようになった。
ある時、指示を聞き間違えたのか、そもそも理解できていなかったのだろう。何日もかけた仕事が最初からやり直し、しかも翌日までに形にしろと命令されたことがあった。
誰も助けてくれない。教えてくれない。空気のように見てみぬ振りか、気まずそうに遠巻きに眺めているだけ。鼻をすすり、涙が滲んできたけれど、負けを認めるのは悔しくて、書類と一人格闘していた。
夕方、終業時間まで後一時間になった頃、その変人が近づいてきた。
「ほれ、おやつの時間だよ。茶ぁ入れるから、手伝って」
新人の仕事としてまゆが頂き物のお菓子を配る事は時々あった。今日もそれかと思って、赤い目のまま席を立つ。
「あの、お菓子は?」
普段なら分かりやすい所に置かれている菓子箱を見つけることが出来ずに辺りを探すまゆは、遅れてやってきた変わり者のお局様に尋ねた。
「ほい、コレ」
「分かりました」
手から下げていた袋から大量の菓子を取り出して、まゆに渡す。
「あのこれ何方様からの頂き物ですか?」
「ん? わっち」
「は?」
「だから私から。今日お腹へったし、食べようよ。一箱一気に食べると太るし、片付けんの手伝ってもらおうかなってさ~」
丸い顔に小さな瞳を肉に埋もれさせるように、にへらっと笑った局は、大きなお盆を出してまゆに持たせていた菓子を盛っていく。
「まゆちゃんだっけ?」
「は、はい」
「あはは、そんなに警戒しないで。別におばちゃん取って食いやしないよ。一生懸命書類とにらめっこしてるけど、何とかなりそう? 立花さんに出すの、明日なんでしょ?」
唇を噛んで下を向くまゆに、局はやれやれと言わんばかりに首を降った。
「よし。ならいつもお菓子を配ってくれる可愛いコの為に、おばちゃん一肌脱いであげよう。ほれ、さっさと配って、書類見してみ?」
いえ、そんなと遠慮するまゆをしり目に、局は決定事項だとお盆を持って戻っていってしまった。慌ててお茶を持って追いかけるまゆの耳に、お局様に菓子を配られて狼狽する若い先輩達の声がした。
「うっし、こんなもんでしょ」
引ったくられる様に書類を奪われ、内容を確認される。その後の局と呼ばれた先輩の動きは、流石社内のほとんどの人間が"仕事は"出来ると認めるだけあって、手早く無駄がないものだった。
まゆが理解していなかった仕様や、相手の希望を確認し、完成形の状況を作っていく。勿論、まゆへは口は出しても、手は出来る限り出さない。
「これはまゆちゃんの仕事だからね。分からなくなったら聞くんだよ。」とそう言いながら、わざわざ帰宅して空いた隣の机に移動してきて、自分の仕事を片付けていた。
まゆの手が止まると、それはこうだよ、資料はあっちと甲斐甲斐しく世話を焼く。いつ自分の仕事をしているのかと思うほど、その目が行き届いていた。
最後に一度出来映えを確認し、先輩がにんまりと笑った時には、終業時間はとうに過ぎて、社内に残っているのもまゆ達と数人だけだった。
「あ、あの! ありがとうございました」
まゆは怖いイメージと口の悪さから、嫌煙していた先輩に頭を下げる。いつも定時でさっさと帰っていく局が残業をしている。それだけでも驚きだった。
「ん? なにが? 私は説明しただけ。頑張ったのは貴女。ほら、今日は疲れたでしょ。コレ食べたら帰ろう。あ、ついでに余りも配ってくるね~」
さっき配った菓子をどこからともなく取りだし、まゆに押し付けてきた。そのまま両手に菓子の袋を握りしめて、まだ残業している同僚達のテーブルに、強制的に置いて回っているようだ。
そのままさっさと手を振って帰っていく局の背中を、帰りにお礼をしなくてはと思っていたまゆは呆然と見送った。
「……ちゃんと出来てるな。お疲れさん」
翌朝書類を確認した立花はそれだけ言うと書類を片付け、自身の仕事を始めた。ぺこりと頭を下げたまゆの方を見もしない。また涙が滲みそうになりながらも、自分を見ている先輩を見つけた。
昨日見た、瞳が肉に埋もれるぶにっとした笑顔を浮かべながら、小さく腰の位置で親指を立てて祝福してくれていた。驚きに目を見開いたまゆが近づく前に、さっさと自分の机に戻って作業を始める。
その後もどうしようもなくなると、気配もなく近づいてきて、助言をくれた。ハブにされている時には、そっと近づいてきて菓子をくれる。
いつの間にか仕事が出来るようになる頃には、周りの評価も変わって仲間にも入れてもらえるようになった。でも、その頃には、先輩はまゆに近づいてこなくなっていた。
随分後に何故あのとき助けてくれたのかと、まゆは勇気を出して尋ねたことがあった。その時、周囲に誰もいない給湯室だったのは、偶然か必然か。
「仲間助けるのは当たり前でしょ。いつか私が困ったら助けてよね~。
あー……ねぇ、もしも、いつか何処かで、あんたと同じ目に合ってるコいたらさ、余裕ある範囲でいいから力になったげてよ。
私もヒヨコの頃には、先輩達に迷惑かけたり助けられたり、イヤな目に遭わされたりしたからさぁ。受けた分の恩くらいは、巡らせたいじゃん。まぁ、その前にお互いこの会社で生き残んなきゃなんないけどさぁ」
照れ笑いを浮かべてそう言うと、「自分と関わっても良いことないから近づくな。せっかく周りの評価を得たのに棒に振るぞ」と苦笑しながら去っていった。
「あの、藤堂さん?」
「あ、ごめんね。少し私がヒヨコだった頃の事を思い出していたの。さあ、説明するから頑張ろうね」
今年の新人さんは要領がいい方じゃない。でも素直な子ではあった。きっと時間はかかっても、覚えてしまえばものになる。いつか何処かで巡る恩とはこの事なのかなと思いながら、まゆは気合いを入れて説明を始めた。
昔は沢山いたよね、こんな人。
最近は絶滅危惧種だけど……。