第六十一話 子捨て親捨て①
ご無沙汰してます。
ほぼ出番がない雨守と、幽霊の縁ちゃんが出会う、奇怪な事件のオムニバス。
縁ちゃんの語りで進行します。
「雨守先生。
こんなにいただいてもいいんですか?」
三年生の溝端君は、雨守先生の顔と、今受け取ったばかりの絵の具を交互に見つめ、目を丸くしながら声を漏らした。
「ああ、いいよ。
そうだ、このスケッチブックも持っていけ。」
「こんなに……新品じゃないですか?!」
「試供品だ。
俺の授業では使わないからな。」
素っ気なく言ってるけど、試供品だなんて、それは先生の嘘。就職が決まった彼のために、先生は用意していたんだもの。
「絵、続けるんだろう?」
「……続けたいです。そんな時間、ないかも知れないけど。」
溝端君は言葉を一つ一つ噛みしめるように答えた。
「仕事に慣れるまではな。
でも、時間は作るものだ。」
「……はい!」
もう秋も深まって、三年生は進路に向けて本格的に頑張る頃。美術部を引退していた溝端君は、雨守先生に笑顔で答えると、放課後の美術室を出て行った。先生からもらったスケッチブックを、肘がすり切れそうな制服の脇に挟み、両手に余るほどの絵の具を大切そうに胸に抱きながら。
『絵、続けられるといいですね。溝端君。』
「そうだな。
小さい工場だが、良心的な経営者らしい。
来月から住み込みで、アルバイトから始めるそうだ。」
ほとんどの生徒が専門学校や大学に進学するという中、溝端君は「就職組」と呼ばれてる数少ない生徒のうちの一人だった。
穏やかで、真面目な溝端君を前任の久坂先生も支えていたみたい。
溝端君は児童養護施設から通っている。十八歳になったらそこを出なければ、一人で生きていかなければならないって。だから誕生日を前に就職が決まって、溝端君はホッとしていたのだけど……。
『あの、先生……溝端君に憑いていたアレ、なんなんですか?』
私はそれがずっと気になっていた。
前に溝端君に会った時には憑いていなかった女の霊が、今日は彼の首に、その腕を纏わりつかせるようにしていたから。
「生霊だ。」
『生霊って、生きた人の欲望の現れですよね?
私達のこと見えてたのかどうか……まるで関心ないみたいでしたけど。』
「それだけ溝端君だけに執着している。
彼の母親の生霊じゃないかな。」
『お、お母さんが?!』
***************************
さあ帰ろうという時、先生は軽トラを校門の前で止めた。ヘッドライトが照らしたそこに、一台止まっていたから。
その車の脇には、音楽の間先生が何やら頭を抱えながら立っていた。雨守先生は車から降りて間先生に声をかける。
「うわあっ!
びっくりした。
ああ、雨守先生でしたかぁ……。」
軽トラのライトやエンジンの音にも気づいてなかったのかな? 相当悩みこんでたみたいだけど。
「どうしたんですか?」
「いや、それが……。」
困惑しきっていたのか、間先生は眉間に皺を寄せてやや早口に、今起きたことを話してくれた。
「ぶつかったんじゃないんですよね?」
「ええ。
それは絶対間違いないんだけど。
驚かせて転ばせちゃったのかも知れないし。」
なんでも間先生が校門から車道に出る前、一時停止した車の前に突然自転車の女性が倒れこんできたらしい。
「ケガはしてなかったけど、
その人のズボン、右ひざのあたりが破れちゃって。
その服の弁償だけでいいからって。」
そう言いながら間先生は胸の前で指を二本立てて見せた。
「で、二万円も?」
え? 二千円の間違いじゃ……。
「うん。」
うんって、に、に、二万円~ッ!!
「警察呼びますって言ったんだけど、
それはいいから示談にしましょうって向こうが。」
「それ、まるで当たり屋じゃないですか?
警察呼ぼうとして拒否なんて、後ろ暗いことがあるからですよ。」
「でも無事に済んだのなら。」
「間先生のほうは学校の先生だって顔も割れてるんですからね。
後から首が痛いだの、腰が痛いだの言ってくるかも知れませんよ?」
「ええ~。どうしよう……。」
「校長には報告しておいたほうが、いいでしょう。」
「はあ……。
やだなあ。
もうお帰りだろうから、今夜のうちに電話しておくよ。」
うなだれながら間先生は、車道へとゆっくり車を走らせていった。
『やっぱり先生ってお仕事も、
校長先生になにか報告するのって億劫になるんですね。』
「上司に失敗を報告するのはどんな仕事だってイヤなものだろうな。」
苦笑いして私に応えると、雨守先生も軽トラを走らせた。
『先生、さっき言ってた「当たり屋」って?』
私の疑問に、先生は前を向いたまま答える。
「止まるだろうと予測した車の前にわざと飛び出して、
ケガしたから金よこせってたかってくる詐欺師のことだよ。」
『そんなことする人がいるんですか?!』
「金に困ればね。
車同士でもあるよ。
信号待ちで前の車がバックしてきたんで、うっかり後ろに下がるだろ?
すると後ろの車がいつの間にか前に進んできていて
『ぶつかった、弁償しろ』ってね。」
『え?
それってもしかして前と後ろの車、グルなんじゃないんですか?』
「ご名答。そんなふうに集団で行動する奴らもいる。」
『そんな手口に騙されちゃうもんなんですか?』
「間先生の動揺っぷり、今さっき見ただろう?」
『あ……。』
やっぱり慌てちゃうものなんだな。
「それに学校の真ん前だったしな。
世間の目を気にしなきゃならない仕事してるんだから無理もないが。」
それからしばらく走ったところで、先生はコンビニに立ち寄った。
『私、昨日言ったじゃないですかぁ!』
「だから今日は、忘れなかっただろ?」
なんだかたわいもない言い合いも楽しくて、つい笑っちゃう。歯磨き粉終わりそうだったもんね。
……その時は特に気にもとめなかったけど、駐車場の端に、一台の自転車が止まってた。店内にはレジで会計中のお客さんが一人いるだけだったから、その人のなんだろうなって。
でも。
『せ、先生!!』
その人がこちらに顔を向けた時、私は思わず声をあげてしまった。先生は無言のまま、頷いた。
タバコやビールをたくさん買い込んでいた女性……それは溝端君に纏わりついていたあの生霊と瓜二つ!!
『溝端君の、お母さん?』