台湾の掲示板で「なんでなろうは異世界転生ばっかなん?」と聞かれて「それがなろうです」と答えた。
実は台湾の掲示板で不定期に幾つかのなろう作品をピックアップして紹介しています。
好きな作品を紹介するのはそれだけで気持ちいいです、それを通じて同好の士との繋がりが出来たらもっと嬉しいです。
そんなある時、
「なんで異世界転生ばっかなん?」と聞かれて
「それがなろうです」と答えた。
その時は深く考えてません、脊髄反射で答えたようなものですが、あとで考えて見れば、なかなか興味深い事象でもあった。それについて考えたいと思います。
勿論この現象について既に多くのエッセイが出ており、沢山の論議が交わされました。それを知った上で、自分の言葉を通じて、整理してみようと思います。管見ながらも、その論議の一助けとなれば幸いです。
まず最初に言っておかなければならないことは、私は今のこの現象を肯定しています。
人が求めているものが増えるのは極めて自然なものです。
冬は鍋屋が大繁盛、夏は皆アイスを手に、それと同じのような考えております。
勿論ジャンルに寿命があり、ピークが過ぎればあとは減り一方となります。
それを含めて、需要に応じて作品を書くのを肯定します。
今まさに微妙に売れ線から外れている小説を書いてる私が言うのもなんですが。
ちなみに、台湾ではなろうのようなサイトはありませんが、中国にはあります。
聞いた話によると、今は修道物が流行ってるらしいです。
(ざっくり言えば中国神話をベースにしたファンタジーと武侠の合体です)
それはさておき。
今の話では、もしかして「売れ線」ではない作品への否定になるのでしょうか?
そしてそれなら、どうして私自身も、微妙に肌寒い季節にアイスを売っているような小説を書いてるのでしょうか?
この二つの疑問について、私は一つの概念を持って答えます。
即ち「ゲーム性」です。
ある言語を、ある程度に通じている者なら、自分が表現したいものだけを書くなら、難しいですができないことではありません。
そしてそれと同じように、ただ単に「大衆受け」なものを書くのも、やはり難しいではありますが、できないことではありません。
つまり、本当に難しいのは、「自分が書きたい」のと「大衆受けがいい」のを両立することです。
そんな都合のいいことできるのか?って思う人もいるかもしれませんが、それが先ほどの「ゲーム性」と繋がります。
テニスとって同じです、できるだけボールを相手から離れる方向へ打てば勝ちますが、やりすぎるとアウトになります。
「相手から離れる」と「線の内側に落ちる」のを両立しなければなりません、それがテニスのゲーム性です。
囲碁でも、できるだけ陣地を拡張するのがいいけど、そのせいで守りを忘れては負けます。
「攻め」と「守り」の両立しなければなりません、それが囲碁のゲーム性です。
そのゲーム性を味方できる人こそ、達人です、プロです。
囲碁のゲーム性を極める者こそ名人になります。
テニスのゲーム性を極める者こそテニプリになります。
小説のゲーム性を極める者こそ、小説家です。
では「売れ線」ではない物を書いて、大衆受けを語るのも烏滸がましいの私は一体何の為に書いてるのでしょうか?
趣味です。
それは自分なりに、下手ながらも碁を打つのと同じです。
大衆受けはしない、プロにも決してなれませんが、自分が書きたい、表現したいものを書くのは気持ちいいことです。それを通じて同好の士との繋がりが出来たらもっと嬉しいです。
評価されないのは、仕方ありません。
長たらしく語っていました。
あくまで個人的に、今のなろうで異世界転生ものが流行ってる現象と、自分の小説を書く原点を述べていたのかもしれませんが、初心に戻ったようにすっきりした感じです。
改めて言いますが、決して「売れ線」以外の作品を貶めるつもりはありません。
むしろ、読者諸賢の中に姉弟もの、ダーク系を嗜む方がいれば、是非友達になってください。
では、キリタニでした。