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短編集

【冬童話】 応えたくない理由 -冬の姫と塔の霊-

 

「それじゃあエベレッタ、ごきげんよう! また季節の変わり目が終わったら会いましょう!」


 沢山の動物に囲まれながらもみじ色の三つ編みを弾ませて、トーニャは振り返った。その笑顔が眩しくて、わたしはつい目を反らしてしまう。

「ええ……」

 ごきげんようと一礼して去っていく背中を、見ているまでもなかった。


 手を離した扉はゆっくりと閉まる。

 秋の乾いた空が、だんだんと隠されていく。景色は締め出され、細くなる。

 黒金(クロガネ)に縁取られた木製の扉が、蝶番を軋ませながら重々しく閉じられる。


 逆光のせいで目が眩んでいるのだろう。扉が閉じられると同時に、目の前が真っ暗になった。

 塔に響く扉の閉まる音が妙に寒々しく聞こえる。足の裏から熱を奪われるような冷たさが、今、ここにわたししか居ないのだと思い知らされてしまう。

 思い切って引いたカンヌキの音が、わたしを孤独へ追い立てる。吹き抜けになっているエントランスに、妙に響いた。



 ああ……今年もまた、この季節が来てしまったの。



 一年に一度。必ずやってくるわたしの季節。

 生き物たちは冬眠につき、国民たちはあたたかな部屋で家族と団欒して、あたたかな(リーマベラ)を待つ。


 リーマベラが塔を訪れると、空気の暖かさに誰もが安堵するのだ。それは植物たちにも言えることで、寒さから身を守る様に固く閉ざしていたつぼみの結び目をほころばせ、時には淡い色の花を咲かせる。


 さんさんと日差しが照り付ける(ヴィラ)の季節は、遊び盛りの子供たちにとっても植物にとっても欠かせない。うっそうと葉を広げて沢山光を浴びようとする緑の下は、はしゃぎまわる子供たちの格好の休憩場所だ。


 ヴィラが去ると、トーニャが国に実りの秋を連れてくる。

 動物たちが彼女の周りに集まってくるのは自然と言える。だって、彼女がここを離れたら、やってくるのはこのわたしだもの。


 わたしがここにくるといつも植物たちは葉を落とし、リーマベラの来るその時まで応えてくれる事はない。当然、生き物たちの食べ物もない。


 寒さにみんな、心を閉ざす。


「まるでこの塔はわたしそのものね」


 がらんどうで、寒くて、何もない。皮肉のつもりで口にしたら、思いのほか身に染みて切なくなってしまった。バカバカしすぎる。

 今年も一人、リーマベラがこの塔に来るまでの時間を、レース編みでもして時間を潰そう。


 幸い、トーニャが置いて行ってくれた薪も食べ物もたっぷりとあるから、何かに気にすることなくレース編みに集中できる。せっかくだもの、彼女たちにケープやボレロを贈ってもいい。

 飾りっ気の少ないヴィラでも、レースのリボンくらいなら身に付けてくれるかしら?

 どんなモチーフなら喜んでくれるかしら。糸の色は? これから作ろうとしているものの構成を考えたら、不思議と少しだけ、気持ちが軽くなった気がした。


 何をさておき、ひとまず上のあたたかな部屋に行こう。そう思っていても、あまりにも心が重くなってしまったわたしは、すぐに動こうとは出来なかった。



 だから、だろうか。


「この塔が君だって? いやね、お姫様。塔がお姫様そのものなんて、一体全体、どうしてそうなるんだろう。あり得ない、だろう?」


 冷え込むエントランスに立ち尽くしていたわたしに、にわかにその声は笑った。言葉を失ってしまうというのは、こういう事なのかもしれない。

 だって、この塔に誰かがいる筈がない。

「えっ……?」


 一体だれ?

 慌てて声の主を探して振り返ったわたしの目には、石を積み上げただけものさびしい壁と、唯一上階へと続く階段にひかれた分厚い絨毯くらいしか見えない。カンテラの火が、頼りなさそうに揺れて不安が募る。

「どなたなの? どこにいらっしゃるの?」

 虚空に問いかけた声は、自分でも驚いてしまうくらいに大きく感じた。言葉尻の余韻が妙に響いて、恐ろしい気持ちになる。


「あっはははは! ごめんごめん! そんなに怖がらないで」


 ころころと面白そうに笑うその声は、少年のもののように聞こえる。こっちこっちと導かれてどんどんと目線を上げていくと、階段の踊り場で手を振る姿があった。息をのんでしまったのは、無意識だ。

 ここに誰かが本当にいた事に驚いてしまったのか、あるいはその少年の身体が透けて向こう側が見えた気がした事に驚いてしまったのか。どちらにしても、『この場にそぐわない姿』はわたしの反応を楽しんでいるようだった。



 透けたように見えたのは、本当に一瞬の事だった。ふわふわと柔らかそうな干し草色の髪は、無造作に後ろで束ね、海の底のような紺碧の瞳は、この薄暗い塔の中でも好奇に輝いて見えた。


 ああ、きっと彼はこの世のものではないのだな。そんな考えが直感的に脳裏を過る。

 小麦色に日焼けしているせいかとても健康そうに見え、あどけなく笑う姿がこの世のものではないなんて信じ難い。


 確かいつぞやヴィラが言っていた。彼女の季節には悪戯好きがよく、彼女を怖がらせようとやってくるのだ、と。そんなときは塩を早急に巻いて追い払うのだと言っていた。

 長居させると、こちらにとっても向こうにとってもよくないから、早く行くべき場所に行けるように手を貸すのだ、と。


 でも困ったことに、今のわたしは塩を持っていない。厨房に取りに行くにしても、階段にいられては道を断たれたようなものだ。

 どうしたものかと戸惑って、視線が泳ぐ。

「ええと……貴方は一体……?」

 尋ねるわたしに、彼はにやっと笑って唱うように告げるのだ。

「さあ? 何だろう? 君には僕がどんな風に見えるのだろう? 古い建物に住み着く悪戯精霊(ボガート)? それともお姫様を拐って塔に閉じ込めちゃう、お伽噺の悪い(ドラゴン)? あっは! いっそのこと嫉妬深い魔法使いでも面白いよね、冬の姫様?」

 そして不意に、くすくす笑っていた口元を引き締める。

「心配しなくていいよ、冬姫様。僕がここにいるのはただの気まぐれ。貴女はそう、ちょっとした話し相手が出来たとでも思ってくれればいいんだよ。外はもう雪が降ってて寒いからね」

「あら…………わたしのせいで行くべきところに帰りそびれてしまった、って事かしら?」


 尋ねたら、茶目っ気たっぷりにウインクされた。

「そういう言い方もあるよね。でも僕は自分の意思でここにいるから、貴女のせいではないかな。さ、そんなことよりも玄関だって寒いだろう? もう談話室は暖まってるよ、お姫様。退屈している暇な浮遊霊に、何か面白い話をしてくれない? ひやりとするのは好きだけどね、今は外があまりにも寒くて、僕は何処にも行きたくないんだ」

 芝居染みた申し出だと解っていながらも、断る理由がわたしにはなかった。だって彼の申し出は願ったり叶ったりだもの。


「ええ、解ったわ。なら、冬の間だけ。外が暖かくなったら、貴方が行くべきところに行くって、約束してくれるなら何かお話致しましょう」

 「それでどうかしら?」 と続けて尋ねたら、彼はぱっと表情を輝かせた。

「やりぃ! 話が解るね冬姫様! ではでは僭越ながら、このエスピリがご案内致しましょう」

 胸を張り、気取た様子で階段を降りてきた姿は、わたしよりも頭ひとつ小さかった。手をどうぞ? と、背伸びしたような姿が可笑しくて、先程までの恐怖も寂しさもどこかに置き忘れてしまう。

 差し出された腕に手を置こうとして、思わず「あら?」 と声が出てしまった。


 やっぱり彼には実体がない。差し出された腕をすり抜けてしまって、こちらを見上げた彼はバツが悪そうだ。

「しまった、そういえば浮遊霊に身体がなかった! 烏滸(おこ)がましいけど冬姫様、ハンカチか何かをお持ちじゃないかい? 少し貸して欲しいのだけど」

「エベレッタでいいわ、エスピリ。ハンカチは生憎持ち合わせがないけれど、変わりにこれでもいいかしら?」

 おどけた調子の彼にはくすりと笑みがこぼれる。

 身に付けていたシルクの手袋から指を抜いて差し出したら、目が落ちるのではないかと思ってしまうほど彼は目を見開いた。

「冬姫の手袋をお借りするとは畏れ多いなあ。でも、有り難くお借りしよう」

 腕にかけてほしいんだ、と。こちらに腕を差し出した彼に困ってしまう。先程すり抜けたばかりだというのに、どうして腕にかければよいのだろう。


 困ったわたしに彼は笑った。

「大丈夫、僕に少し騙されて?」

 再び腕を差し出す彼と腕とに視線をニ、三移した後に、彼の腕に手袋を預けた。ふわりとかけた手袋は、わたしが触れた時と同じようにすり抜けると思っていたというのに、ものの見事にその予測は覆される。

 まるで先程実体がなかった事が嘘のように、彼の腕にはわたしの手袋がかけられた。

「あら!」

「ふふ。これならほら、貴女をエスコートすることが出来るだろう?」

 一体どうなっているのかなんて、考えたところで解るはずがない。再び差し出された腕に手を振れると、手袋越しにヒトの腕に触れた時にような感覚があった。

 驚いて目の前の顔をまじまじと見てしまっていたら、悪戯を成功させた子供のように笑う彼がいた。


「さあ、上に行こう」

 問いかけは許されず、慣れた様子で歩き出した彼についていく。



 足音は一つ分。確かにその姿は隣に存在しているかの様に見えるけれど、実際彼はここにいる訳ではないのだと痛感する。


「やっぱり貴方に実体はないのね。わたしの足音が響いて聞こえてしまうもの」


 気が付くと口にしていた言葉に、彼は可笑しいものを見たと言わんばかりに口元の笑みを深め、しまいには噴き出した。

「そりゃあね! 浮遊霊だもの。でも、こんなことだって出来るんだよ?」

 一つ、踵を鳴らす動作をすると、途端、わたしたちの後ろから足音が追いかけてきた。

「ほら、これなら足音は二つ。少しは気が紛れるだろう?」

 得意気に胸を張った彼にしてやられて、今度はわたしが笑う番のようだった。

「ふふ! ええ、ありがとう。でも後ろから足音がついてくるのは、貴方の仕業と解っていても驚いてしまうわね?」

「そこはほら、ラップ音の限界かな? 怖がらせるくらいならば止めようか?」

「そうね。でも貴方の気持ちが嬉しかったわ、エスピリ」

「いやいや、喜んでくれたなら嬉しいね」


 一体全体、どうして彼はこんなにもわたしに寄り添ってくれるのだろう。ヴィラが聞いたら卒倒してしまいそうだと解っていても、隣にいてくれる浮遊霊の彼の存在は、わたしの寂しさを埋めてくれたような気がした。

 嬉しいのは、わたしの方だ。


「さあどうぞ、お姫様」


 扉を()くと、暖かな部屋がわたしを向かえた。

 きっとトーニャが飾り付けたのだろう。真紅と藍の糸で紡いだタペストリーが目に留まる。唐草模様に雪の結晶を織り込んで、四季折々花が刺繍されていた。彼女の腕は、年々上達しているみたいでいつも驚かされてしまう。

 暖炉には火が入っていて、炙られた薪がぱちぱちと乾いた音を上げている。こんなにも暖かかったら、リーマベラが置いて行ったドライフラワーがますます枯れてしまいそうだ。


 寒さを通してしまわないように引かれた毛の長いじゅうたんを踏みしめて、塔の窓辺へと向かう。

 わたしが昨年の冬にかけたレースのカーテンからは、お日様の香りがした。きっと、ヴィラが洗濯したのだろう。……彼女たちは今、どうしているだろう。


 窓の外は妙なくらいに明るかった。それもそのはず、外は雪。熱を届けてくれない冬の太陽でも、雪に照り返された光のせいか、夜でも驚くほど明るいのだ。

 暖炉の前の重厚な木のテーブルには、トーニャの遊んだ名残が残ったままになっていた。帽子をかぶったシイやブナのどんぐりは、きっとリスたちのおすそわけだ。松ぼっくりは緑に塗られ、ビーズで飾りつけされている。小さな小さなツリーに、自然と笑みがこぼれてしまう。


 そして手つかずになっている籠には、かぎ針と細い糸の束が入れられていた。いつもリーマベラやヴィラが片手間に紡いでくれる生糸だ。今年はいつもより少なく見えるけれど、これがあるからわたしは長い冬を過ごしきることが出来る。

 籠を手にしたわたしに、エスピリは首を傾げた。


「冬姫様は、いつも冬をそうやって過ごしているの?」

「ええ、そうよ。レースを編んで、本を読んで。長い時間をのんびりと過ごして、リーマベラを待つの」

 不思議そうにするエスピリに、思わず苦笑してしまう。いつもそうやって過ごす他に方法はないのだと、どうして本当の事が言えるだろう。

 それ以上話す気持ちになれなくて、わたしはソファに腰を下ろした。そっと糸の束を解いて、輪を結ぶ。最初の一目を編み出すと、エスピリはソファのひじ掛けから興味深そうに眺めていた。


「もしかして、レース編みを見るのははじめて?」

「そうだね。少なくとも夏姫が細かい作業をしている所は見た事ないね。いつも忙しそうに塔の中を駆けずり回っているか、塔の中にこっそりと住み着いていた僕らみたいな命の無いものを他の姫の為に追い払うのに忙しそうだもの」


 くすくすと笑ったのは、きっと彼女との追いかけっこでも思い出したのだろう。「残念ながら、彼女は僕を追い出せた事は一度としてないけどね?」 と、いたずらっぽく笑われる。

「仕方のない浮遊霊さんね」

「いやいや、からかい甲斐のある夏姫がいけないのさ」

「あら、ヴィラが聞いたら怒ってしまいそうね」

「その時はほら、冬姫様が助けてくれるんでしょう?」

「さあ、どうかしらね?」


 軽口は弾み、編み始めた小さな花が一つ、二つと咲き始める。

 レース編みの花だけは、冬のわたしの側でも花を咲かせてくれる。たった一つの花だ。


 窓の外は次第に暗くなっていき、深々と雪は降る。

 時はそうやって緩やかに経つ。冬はこうして始まった。




   * * *




「たった一人だった四季姫の力は、勇者の剣を持つ王様の手によって四つに分けられ――――四季は四人の王女たちの手にゆだねられました。そして今も、四人の姫は四季姫に変わって季節を巡らせるために、順番に塔へ籠るのです」


 パタンと重々しく閉じる。誰もが知る、この国のお話。昔々から続くお伽噺。

 魔法使いに四季を押し付けられて泣いていた、一人ぼっちの少女と、その少女を救った勇敢な青年お話。

 その青年はのちにこの国の王となり、彼の四人の娘が四季をつかさどる姫になった。そのうちの一人が自分なのだと思うと、途端、気持ちは重くなり、こんなお話、無くなってしまえばいいと願ってしまう。


「いつ聞いても、不思議なお話だよね?」

 エスピリは感慨深そうに言った。

「王様に退けられた魔法使いはどうしているんだろうって、ついつい考えてしまうよ」

「……そうね」


 どれほどエスピリが熱心にこの本の感想を話してくれたとしても、わたしはこの本が嫌いだ。

「どうせならわたしは、この魔法使いに生きていて欲しいって思うわ」

「それまたどうして?」

「だって、そしたらこんなに無責任な事した相手をひっぱたいてやる事が出来るじゃない」

 あくまで笑顔で告げたら、エスピリは目を丸くしたあと、腹を抱えて笑い転げた。

「あっはははは! そいつはいいね! こんな魔法使い、冬姫様の手にかかれば()()()()だろうね!」

「うふふ、ホントね。お会いできないのが残念だわ」


 軽口は弾み、冬の頭に編み始めた小さな花は、沢山の花と一つになった。

 レース編みの花だったものは、いつしか寒さから柔らかく身を守ってくれるケープになった。


 窓の外は昼と夜を繰り返し、未だ深々と雪は降る。

 時はそう言っている間も緩やかに経つ。冬はこうして深まった。



 何かが弱々しく叩くような音がした。



   * * *




 雪は止まず、外から音が消えたのは、一体いつの事だったか。

 でも塔の中は暖かさは変わらず、そしてにぎやかな日々が続いていた。


 軽口は弾み、冬の間に咲くわたしの花は、いつしか咲かせる必要がなくなった。

 だって、小さな小さな花を咲かせるよりも、彼と話の花を咲かせた方が楽しい事を知ってしまったから。


 窓の外は数えきれないほど昼と夜を繰り返し、未だ深々と雪は降る。

 時はそう言っている間も緩やかに経つ。冬はもう去ろうとしている。



 遠くの方で、小さな音を聞いた気がした。

 それに気が付きたくなくて、「そうだ」 とわたしは提案した。


「ねえエスピリ。貴方は手が触れられなくとも、ものが動かせるんでしょう? せっかくだもの、レース編みでもしてみないかしら?」

「ええ?」


 無茶苦茶を言っている自覚はある。でも、困った様子で真剣に考えてくれている姿が嬉しくて、彼の返答をただ待った。答えを探しているのか、あたりにぐるりと巡らせていた視線がこちらに返ってくる。

 何かを期待したような目だ。

「それじゃあエヴァ? 僕がお花を一つ編めたら、僕に祝福を頂けるかい?」

 それならどうにかやってみるよと言われても、わたしだって二つ返事は出来ない。

「あら、わたしの祝福は安くなくってよ?」

「僕レース編みなんてしたことないけど、ほかでもない君のお願いに挑戦するんだよ? ご褒美はやっぱり欲しいよね」

 勿論それを言われてしまっては、わたしに断る術はない。

「じゃあいいわ。あなたが出来たら、ね」

 仕方がないからと装うわたしは可愛くない。それでも、立ち上がって張り切ってくれた姿にどうしようもなく胸が弾む。


「よおし、それでは一世一代の飛び込み芸をご覧あれっ」

 大袈裟なくらいわざとらしく腕まくりをすると、自信にあふれた表情がにっこりと笑った。

 そっと手を伸ばしたのは、わたしが編みかけたままテーブルの上にほったらかしにしてしまっている糸とかぎ針だ。集中した趣で糸と針を持ち上げて、わたしがいつもしていたように指に糸をかけたところまでは、わたしもなかなか驚かされた。だって、彼がこれほどわたしのしている事を見ていたとは思ってもみなかったのだから。


 でも、彼がわたしの真似事が出来たのはそこまでだった。

 まるで操り人形の糸が切れてしまったかのように、彼の手先をすり抜けて、糸もかぎ針も、みんな下に落ちてしまった。

「あらら、残念ね」

 解っていた事には違いないけど、ついついそんな事を口にしてしまうと、彼は唇を尖らせていた。

「ちぇっ。仕方ない、また次の時までに練習しておこうかな」


 あからさまにがっかりした様子で足を投げ出して不貞腐れるから、わたしもつい、いたずら心が沸いてしまう。

「え? う、わあ?!」

 触れられることの出来ない頬に唇を寄せると、不意を突かれたエスピリが飛び上がってソファの向こうに突っ込んでしまった。今まで如何に器用に座っていたのかと改めて知る。

 驚いた顔が何度も何度も瞬きをして、ソファから生えた首が声もなくこちらを見上げていた。焦った表情が可笑しくて、わたしは噴き出してしまった。


「もう、そんなに笑わなくたっていいじゃないか」

 あっけにとられていたのは一瞬だった。

「うふふっ、ええ。ごめんなさい、ふふ! 貴方がやってくれようとしたことが嬉しかったの。貴方がいてくれて良かったわ、エスピリ」

 ぱっと身体を起こしながら再び頬を膨らませた姿に微笑むと、彼も毒気が抜かれたみたいに笑ってくれた。

「喜んでくれたなら、僕も無謀をやった事も報われるかな?」

「ええ、お陰で」


 呪文のように、彼を引き留める呪いのように。

 こんな時間がずっと続けばいいのにって、願わずにはいられない。




 でも。





 ――――でも、解ってる。

 楽しい時間は続かない。


 遠くの方で、扉を叩くような音が気がした。


 時間だけが、矢のように過ぎていく。

 楽しい時間がこんなにも苦しい。


 知らない。


 わたしはもう少し、この暖かい時間を過ごしたいだけなの。

 気が付けば彼は、わたしにとってかけがえのない存在になってしまっていた。


 そんな事に、今になって気が付いてしまった。



 戸を叩く音は、聞こえなくなった。



   * * *




 ――――一体何度目の事だろうか。まるでわたしを追い詰めるように、また扉が叩かれる。


 責めるような声を聞いてしまったような気がして、わたしは心の耳を閉ざした。重たい瞼を開けると、窓辺にたたずむ彼の姿に目が留まる。


「エスピリ」


 窓の外をぼんやりと眺めていた姿を見ていたくなくて、その名を思わず呼んでいた。

「こっちに来て、この前のお話の続きでも読みましょう? 窓際は寒いでしょう?」

「いいのかい、エベレッタ。春姫が君を呼んでるよ」

「…………そうね」


 やっぱり彼も、春が恋しいのだろうか。

 わたしではダメなのか。


 でも、これ以上彼を引き留めてしまうのもいけないって、解っている。

 寂しくないと言えば嘘になる。今までの中で一番楽しかった時間が余計に苦しくなる。


 でも、わたしの我が儘で彼をこれ以上引き留めてはいけない。だって、彼には行かなくてはいけない場所がある。



 のろのろとした動作で塔を降りていくと、ひやりとした空気が横たわっていた。しっかりと敷かれた絨毯の上を歩いている筈なのに、氷の上でも歩いているかのように錯覚する。


 扉が叩かれる。

 向こうの方で、何か叫んでいる声がする。


 急激に冷えた指が(かじか)んで、扉に触れるのも嫌だった。


 カンヌキを開けると虚しくなるくらい大きな音が塔に響く。幸せな時間が終わりを告げる。

 閉ざしていた黒金の門が、彼を自由にしてしまう。重々しく軋む音が、わたしの心にのしかかる。


 寂しい。


 寂しい。


 こんな冬は知りたくなかった。

 わたしはもう、次の時をここで過ごす事にきっと、堪えられない。鼻の奥を突き刺すような痛みと、にわかに熱くなる目元に力を込めて、溢れてしまわないように扉の真白の世界を睨む。


 どうしてわたしは冬姫なの。

 どうしてわたしが一人でここにいなくてはいけないの。

 どうして彼がいてしまったの。

 どうして誰かがいる塔を知ってしまったの。



 でも。

「エベレッタ。君が行くべきところだってあるだろう? 君を迎えてくれる場所はあるはずだよ?」

「そうね……」

 彼にそう言われてしまっては、もう、閉じ籠っている訳に行かなくて開きかけた扉に手をかけた。


 途端。

 薄桃色のツインテールがひらりと宙を泳いで、わたしの胸に飛び込んできた。


「よかった、エベレッタ!」

「っ、リーマベラ?」

 すがるように抱きついてきたリーマベラの姿に戸惑う。

「出てきてくれないから、心配したんだよ?!」

「そんな事……」

 確かにわたしの我が儘で、彼女の呼び掛けには答えなかった。『でも心配してもらう事でもない』と思って出かかった言葉は、彼女の顔を見た途端にそれ以上は言えなかった。

 寒さに鼻を赤くして、翡翠色の目が潤んでいたら、誰だって怯む。

 抱きついていた手を握って離させたら、驚くほど冷たかった。きっと、ずっと塔の外にいたのだろう。

「ごめんなさい、リーマベラ。貴女の声にすぐに答えてあげられなくて」

 どうやら彼女を怒らせてしまったらしい。まだ幼さを残す可愛らしい顔で、ぷっくり頬を膨らませる。

「エベレッタのばか! あたしが必ずエベレッタを迎えに行くって、トーニャから聞いてなかったの?」

「ええと……」


 視線を巡らせてみたものの、聞いたような、覚えがないような曖昧な記憶しかない。だって、あの時のわたしは少なからず自分の『これから』を憂いて上の空だった。

 バツの悪そうなわたしに、リーマベラは表情を緩めてふわりと笑う。

「エベレッタに何かあった訳じゃなくて、ほんとによかった」

「心配かけて、ほんとにごめんなさい」

「いいの。リーマベラがいつも寂しがってるの、あたし知ってるよ! リーマベラが寂しいのはもうおしまい!」

 今度はあたしの番だからね!

 声を弾ませて笑う彼女が眩しくて、暖かい。わたしの背中を押してくれる彼女の存在が、こんなに愛しく思えた日は、今までで今日ほどなかっただろう。


 でも一つ。

 後ろ髪引かれる思いで振り返ったら、彼はまだ、そこにいた。

「ほら、ちゃんと君にも行くべき場所があっただろう?」

「……そうね。わたしが卑屈だったわ」

 もう、会うこともないかもしれない。苦笑混じりに、最後が切り出せないでいるわたしに、彼はくすりと笑みをこぼした。


「また会おうね」


 先に言われてしまった言葉に、思わず目を見開いてしまう。

 たったそれだけの言葉だというのに、こんなにも心が暖かくなる。それが嬉しくて、気がつけばどこかずっと強張っていたわたしの最後の心の(わだかま)りが溶かされた気がした。


「ええ、また。ありがとう、エスピリ」

 

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