未来へ
世界の中心が砂になるとき・・・ (下) 未来へ
令越羅伍
新しき世界
鶴ヶ島市は1991年に町から市に昇格した新しい市である。
その南部に帝都国際大学はある。
広大な敷地に
文学部・法学部・経済学部の各学部の棟があり
約2000名の学生が学んでいる。
大学の正門から講堂までは桜並木があり、
今日4月2日の入学式に合わせるように満開になっていた。
鉄男と翔子は帝都国際大学の11時からの入学式に出席していた。
鉄男は当時流行っていた、青系のダブルのスーツで、
翔子は同じく流行の肩パットの厚いグレーのスーツ姿だった。
式は滞り無く行われ、二人は晴れて大学生になった。
彼らはその後、文学部のオリエンテーション会場に行き一通りの説明を受け
その日は解散となった。
大学の正門付近では、サークルの案内チラシをもった多くの学生が新入生を囲んでいたが
鉄男と翔子はその合間を何とかうまく通り抜けて正門を出た。
鶴ヶ島の駅前まで歩くと、二人は喫茶店に入って、遅い昼食をとることにした。
店内に入り、窓際の二人がけの席に座りメニューを見て翔子がナポリタンを、鉄男がハヤシライスを注文し二人は会話をはじめた。
「なんか、慌ただしかったね。大学って言ってもあまりピンとこないよね」
「そうね、なんだか大学のシステムってイマイチわかりづらいよね」
「うん・・・。ところでさぁ、俺、まだこの大学に入った本当の理由を言ってなかったと思うんだけど・・・なんでここに入りたいと思ったかというと・・・」
と前置きをしてから、
小・中学校の時、砂地区で起きた例の事件と物質のこと、
その物質の謎を解明するために、斉木や三重たちと理系を目指していたこと、
本屋で偶然郷土史の本を見つけて、そちらからアプローチしてみたいと進路を変更したこと、
そしてその本の著者が帝都国際大学の枩田建造教授であったことを簡潔に語った。
しかしその内容があまりに長かったので
すでに二人の前には料理が運ばれてきていたので
翔子は自分が頼んだナポリタンを鉄男が話をしている最中に食べ始めていた。
もちろん鉄男に断ってだが。
鉄男は一気に話を終えると
「長いけどわかった?」と翔子に聞いた。
口の中のナポリタンを飲み込んで、グラスの水を一口含んでから、
「なんとなく・・・」と咳払いをしながら、笑って翔子が答えた。
「だよね・・・」と鉄男も笑って
目の前にあるハヤシライスに手を付けた。
「でも、私もなにか手伝えるといいな・・・。そういえば私まだ鉄男くんの家の方に行ったこともないから、その『なんとか池』っていうところも見てみたいよ」と、鉄男が美味しそうにハヤシライスを口に運ぶのを見つめながら翔子が言った。
「弁天池だよ。そうだね、近々遊びに来てもらおうかな。両親に紹介もしたいし・・・」鉄男はそう言いながらハヤシライスを完食して、ついでに翔子の残したナポリタンも平らげた。
それから少し会話を楽しんで二人は喫茶店を出た。
帝都国際大学の学生は、数日後に履修登録をすることになっているのだが、この大学では「基礎演習」というゼミ形式の講義も1年から履修できるため、鉄男は迷いなく枩田建造教授の「民間伝承の基礎演習」という講義を取ることにした。翔子も一緒だ。
履修登録後からさらに数日後、ようやく授業が始まった。
毎週火曜日の2限目が枩田建造教授の「民間伝承の基礎演習」の基礎演習の日だ。
鉄男の待ちわびた基礎演習が始まる。
鉄男と翔子は文学部のゼミ棟に移動し、教室に入った。
教室はこじんまりとしていて、長机がロの字に配置されていた。
机にはすでに男女1名ずつが並んで座っていて、イチャイチャしてるように見えた。
鉄男と翔子が入ってきたのに気づきチラッと目をやったが
再び二人で何やら会話をはじめ、やはイチャつきはじめた。
鉄男と翔子はすぐに、「この二人はカップルなんだ」と察した。
ゴホンと鉄男が咳払いをして挨拶しようとしたところ、
翔子のほうが先に「はじめまして」とそのカップルに挨拶をした
カップルは「あ、はじめまして、よろしく」と言ってきたので
とりあえず
「星野鉄男です、よろしくです」、「松田翔子ですよろしくお願いします」とそれぞれ名を名乗った。
カップルも
「岩渕浩二です」。「田中まりです」と言って自己紹介をしたが
岩渕、田中のカップルはまたすぐに二人の世界に入って、話し始めてしまった。
確かに鉄男と翔子もカップルではあるが
さすがにこういう場では普通に振舞っているので、多少呆れていた。
その後、男性2名が教室に入ってきた。
大柄でメガネをかけた真面目そうな男が
「鈴木勤と申します、よろしくお願いします」と挨拶したので
鉄男と翔子は挨拶を返した。例のカップルも面倒くさそうに挨拶をした。
続いて、肥満気味な一見オタクのような男が
「ああ・・・お・・・大川貴志です・・・よ、よろしくおねがいします」と
いかにも対人恐怖症的に挨拶をした。
すると例のカップルはそれを見てクスクスと笑って、
しかもどこかバカにしたような感じで
「岩渕と、こっちが田中です。よろしく」と笑いながら適当に挨拶をした。
翔子は、そういうのがとても耐えられないたちなの
「私は松田翔子といいます。1年間よろしくお願いします」と
大川に対して丁寧に挨拶した。
鉄男も同じ気分だったので
「私は星野鉄男です。一緒に勉強頑張りましょう」と言った。
それを見ていた鈴木も丁寧に挨拶をして
大川は少しホッとした表情で「よ・・よろしくお願いします」と
三人とカップルに挨拶をした。
しばらくすると教室のドアが空いて、
白髪で丸メガネをかけ、地味なウールのジャケットを着た50歳前後の痩せた男が入ってきた。
その男は教室前方のホワイトボードの前に立って学生を見渡してから
「こんにちは。私は枩田建造と言います。これから1年、よろしくおねがいします」
と言ったので、全員すぐに立ち上がって「よろしくお願いします」と一礼した。
鉄男は長年憧れていた枩田教授にやっと会えた喜びと、どんな人なのだろうと
多少ドキドキしていた。
教授は一人ひとりの顔を見回して、優しそうな眼差しで穏やかに
「みなさんは、大学生になりこれからいろいろなことを学ぶと思いますがこの基礎演習では、受け身にならず自発的に勉強して発言してください。ご覧のとおり少数のクラスなので緊張せずに気軽にやりましょう。また質問などがありましたら、遠慮無く聞いてください。あ・・・でも恋愛や人生相談は避けてくださいね、応えられませんから」と笑いながら言ったので、生徒もみんな笑って教室内の緊張が一気に溶けた感じだった。
枩田教授はさらに続けた。
「みなさんが、なぜこの演習を選んだのかはそれぞれ理由があるでしょうが、それはそれとして、この演習でいったい何を勉強するのかを、履修要覧では漠然としていたと思いますので、説明させていただきます」
教授は学生と話すのが嬉しいようで、ニコニコとしながらまた続ける。
「みなさんのお住まいの住所があると思いますが、住所にはその地域の特徴が示されていることが多いのです。全てとは言えませんが、たとえば、池や沢、波や江などといった漢字は水に関するものが特徴の地名と言われております。しかし、今その土地に行ってみても、水に関するものは見つからないことが多いのです。何故だかわかりますか?」と優しく語りかけるように学生に振った。
鉄男は早く教授と話がしてみたかったので、他の誰かに答えられる前に
「埋め立てたり整地をして建物などを建てたりしたからでしょうか?」と言うと
教授がニコッとして
「そういうことですね。昔の人はその地域の特徴を地名にしたんですね。川の端にある集落を川端と言ったり、富士山が見えるから富士見とかね。
だけど、年月が経つと、灌漑のために川が埋め立てらたり、暗渠になったり、また高い建物が立って富士山が見えなくなったり・・・といろいろと変化しますが地名だけはそのまま残るのですね。
ところでこの演習のタイトルは『民間伝承の基礎演習』であったわけですが民間伝承とは何だかわりますか?」
と教授が学生に尋ねると、今度は
「言い伝えとかでしょうか?」と、カップルの片割れの岩渕浩二が答えた。
「そうですね。そういったことです。昔の土地の特徴が地域の名前として残っているように、民間伝承の中にも、地域の特徴や歴史の教科書からはみ出てしまった何かがあるかもしれない・・・ということを調べ学んでみようというのが、この演習です。
ただし、あくまで基礎演習なので、研究とまではいきませんが、将来この分野に興味がありましたら、本格的なゼミをとってください」
鉄男はワクワクしていた。まさに、そういったアプローチから
例の問題を調べられるかもしれないと、確信を持った瞬間でもあった。
教授は基礎演習の説明と、今後の流れを一通り話して授業を終わりにした。
鉄男と翔子は教室を出て、昼食をとるために学食に向かった。
この大学には学食専用の建物があり
地下一階はコンビニ兼購買
一階は安い蕎麦から定食まで食べられる安価な食堂
二階は好きな惣菜を組み合わせて食べられるおしゃれな定食屋
三階はそこそこの値段のするレストランとなっていた。
各階には教授のためのスペースが用意されており学生とは壁で仕切られていた。
一階は安いだけあり、とても混んでいて、
しかも各サークルが席を占拠していたので鉄男と翔子は二階の食道に行ってみた。
そこは、レジ横のカウンターにいろいろな種類の惣菜が小分けにしてあり
食べたいものをトレーにのせて、最後に精算するというシステムだった。
二人は、惣菜を選び、精算してから空いている席で昼食を食べ始めた。
食べ始めてからしばらくすると、枩田教授がトレイを持って二人の席の横を通り、一番奥の教授用のスペースに入っていった。
二人の席をチラッと見たので鉄男は軽く会釈をしたが、翔子も教授には気づいていたはずなのに、無反応だった。
それを見て鉄男は
「いまの枩田教授だよね?」と一応翔子に確かめてみた。
「あれ・・・そうだった?気づかなかったよ」と翔子が平然と言ったので
鉄男は少し間を開けて
「あ・・・そうなんだ・・・俺一応挨拶してこようかな」と言った。
「でもお昼を邪魔したら悪いんじゃない?」と翔子が答え、
「そうか・・・じゃあ食べ終わった頃を見計らって・・・」と鉄男が言うと
「そうね・・・でも私はいいから一人で行ってきなよ」とつれなく答えた。
鉄男は別に付いてきてほしかったわけではないが
翔子なら『わたしもいく』と言うかと思ったので、少し拍子抜けした。
「うん・・・」鉄男も答えたが、行くのか行かないのかはっきりと言わなかった。
食事を終えると、翔子が笑顔で
「鉄男くん、教授に挨拶してきなよ。私は次の授業の前に購買に寄りたいから、もう行くね」
と言って、食器を返却口に戻しながら、そそくさと歩いて出て行ってしまった。
鉄男は「それじゃあ一人で行ってこようかな」とボソッと言って
教授のいるスペースを覗いてみると、そこには教授の姿はすでに無かった。
それから一週間後、基礎演習の時間がやってきた。
鉄男は、この演習を通して何とかして教授と顔見知りになり、例の件を聞いてみようかと思っていたが、なかなか言い出せなかった。
今日の演習は教授がいろいろな地域の伝承の話をし、それについて学生がどう思うか、
そして次までに何を調べてくるかなどを話し合って、無難に終わった。
「では、今日はこれでおしまいです」と松田教授が言い
学生たちが「ありがとうございました」と言って立ち上がって荷物をまとめ教室から出ようとしたその時、
「あ、君、ちょっと手伝ってくれないか?」と教授が言った。
鉄男は自分が言われたのだと思ったが、教授は翔子のほうを見て話していた。
翔子が
「はい、私でしょうか?えっと・・・何をすればよろしいのでしょうか?」と答えると
教授は
「資料を作りたいので、このあと僕の部屋まで一緒に来てくれないかな?」と翔子に言った。
それを聞いて鉄男が
「私も・・・」と教授に言おうとした瞬間
翔子がそれを遮って、
「はい、ではすぐに教授の部屋にお伺いします」と言って、鉄男の方を振り返り
「鉄男くん、私、教授のところに行ってくるから、お昼は一人で食べに行って」と告げた。
鉄男は
「俺も手伝うよ・・・」と言ったが、
翔子は
「私だけが呼ばれたのだから、たぶん私一人で大丈夫よ」と譲らなかったので、
鉄男は諦めたが、なにか引っかかるところがあった。
その後、文学部棟の中にある教授室に向かって教授と翔子は歩いていった。
鉄男はそれを見送りながら、それと反対の学食の方向に歩き始めたが
少し離れたところに、例のカップルがいて、鉄男の方をみながらヒソヒソと
笑い話しをしていた。
鉄男はそのカップルに気づき多少気分を害したが、とりあえず学食に急いで、
一人で昼食をとった。
その日は午後の授業が終わっても翔子は見当たらなかったので、鉄男は一人で家に帰った。
翌日、鉄男と翔子はいつもどおり待ち合わせて大学に向かった。
鶴ヶ島駅からキャンパスまで、歩きながら
鉄男は翔子に聞いてみた。
「昨日は遅くまで教授の手伝いをしてたの?」と。
「そうだね、ちょっと遅くなっちゃった」
「そっか・・・どんなことしてたの?」
「うん、次からの授業の資料とか、研究資料の整理とか・・・」
「そうなんだ?やっぱり俺も手伝えばよかったかな?」
「でも、昨日でやることは終わったから大丈夫よ」
鉄男は気が気じゃなかった。
もし教授がセクハラ教授だったら・・・などと考えてしまった。
しかし、あの温厚な教授がそんなはずない・・・とすぐにその考えを否定した。
その後も翔子は多くを語らなかったが、翔子の態度を見て何も無いだろうと鉄男は思った。
次の演習の時間がやってきた。
教室には先に教授が来ていて机の上に結構な量の資料が置いてあった。
それを見て翔子が
「先週はこれ結構たいへんだったんだよ」と鉄男に笑顔で言った。
教授は自分の著書を教科書として使いたかったが
生徒にその本を買わせるのも気が引けるという理由から
著書の抜粋をコピーして生徒に配っていたのだ。
その手伝いが欲しかったということだった。
そして、授業終了後、今度は教授が鉄男に話しかけた。
「星野くんだったね?今から私の部屋に来ないかい?いろいろ話をしてみたいんだが・・・」と何かを知っているような表情で鉄男を誘ったが
「君もきなさい」と翔子のほうを向いて彼女も誘った。
三人は一緒に教授の部屋のある文学部棟に入って行った・・・。
大理石調の床をコツコツと音を立てて歩きながら、エントランスの一番奥にあるエレベーターで五階に上がると、そこには教授の部屋が並んでいた。
生徒も自由に行き来してもいいフロアだが、さすがに敷居が高く、気軽には来れないところだ。
三人は枩田教授の部屋に入った。
「まあ、そこに座ってください」と教授が言ったので
二人はソファーに腰を掛けた。
鉄男が落ち着きなく部屋を見回していると
教授が「珈琲でも飲みますか?」と尋ねたので
二人は「はい」と答えた。
しばらくして教授は隣の部屋から
とても香ばしくて美味しそうな香りの珈琲を
使い捨てのプラスティックのカップに注いで二人の前に置き
「まあ、お飲みなさい」と言った。
二人は「いただきます」と言ってその美味しそうな珈琲の入った
カップを口に運んだ。
教授が向かいのソファに腰を掛けた時
鉄男があるものを発見した。
それは、窓際の教授の机の横にあったフォトフレームだった。
教授とその家族と思われる人たちの写真のようだった。
そこには教授と奥様らしき人と娘と息子2人に見える5人の姿があり、
鉄男はそれを凝視して一瞬固まった。
そこに写っている娘は明らかに翔子だった。
そして奥様に見えた人は、今年の初詣の時に川越氷川神社で会った
翔子のお母さんだった・・・。
鉄男は吹き出しそうになりながら、口を手で抑えて
慌てふためいた様子で翔子の方を見て言った。
「あっ・・・あれ、いやあの写真・・・・」
翔子は微笑みながらうなずいて
「そうなの、実は教授は私のお父さんなの」と白状した。
鉄男は口を開けたままポカンとしていた。
そして、なんという偶然だろう・・・と同時に思った。
本屋で、それこそ偶然見つけて手にとった本の著者である教授。
それまで、その名前も知らなかった教授・・・。
この教授なら一緒に謎を解けると勝手に思い込み、
早稲田を蹴ってまで入って教えを請いたいとずっと願っていた、その教授・・・
それがまさか自分の付き合っている彼女の父親だったとは・・・。
「今まで、何度も言おうと思ったの・・・でもなかなか言い出すチャンスがなくて・・・。
ごめんね、今まで黙っていて」
翔子にしてみれば、自分の父が大学の帝都国際大学の教授だとは、言いづらかったし、
先日の入学式後に聞いた、『教えを請いたいと思っていた人』が
付き合っている彼女の父親だったら、どんなに複雑な思いになるだろう。
そして、それが元で鉄男が自分のやりたいことを諦めてしまったら・・・などと
考えるとどうしても言い出せなかったのだ。
「星野鉄男くんだったね?翔子から君のことは聞いていたよ。娘の翔子とお付き合いしてくれてありがとう。でも気が強いから大変じゃないかい?」と教授は温厚な表情で尋ね、
「それと君は何か私の元で学びたいことがあるのだとか・・・」と鉄男に優しく言った。
丸いメガネからのぞかせたその眼差しはとてもあたたかく、それが鉄男を安心させた。
「はい。翔子さんが気が強いかは別として・・・そうなんです、教授の元で学びたいことがあります」とハッキリと言い切った。
鉄男は、川越市砂地区で起きた例の”事件”の詳細を話し、
友人がそれを研究するために東大理工学部入ったこと、
自分が郷土史の観点からその謎を解くヒントを得たいと思っていることなどを、教授に話した。
教授は真剣に鉄男の話に耳を傾けた。
「それは、すごい話だね・・・私にできることは、もしかしたらあまりないかもしれないけど、短い時間でも君と一緒に研究ができたらうれしいなぁ。そうだ、この部屋にある文献や資料は自由に使ってもらって構わないよ」と
教授室にある本棚やキャビネットを指差して言ってくれた
また鉄男の話に理解を示し、協力もしてくれるとも言ってくれた。
翔子も、自分の父親が自分の彼氏と打ち解けてくれたことに、とりあえずホッとした。
「これから一緒にがんばろう」と教授は鉄男に握手を求め、
鉄男も、恐れ多いとは思いながら手を差し出し「ありがとうございます。よろしくお願いします。ありがとうございます・・・ありがとうございます・・・」と何度も礼を言った。
教授は最後に
「翔子のこともよろしく頼むよ」と言って鉄男にウインクして、翔子の方に目をやり
「いい青年じゃないか。ぜひこの人を信じてついて行きなさい。逃げられないようにな。」
と笑いながら言ったので彼女は赤くなってうつむいた。
「さあ3限目が始まるようだよ」と教授が促したので
二人は教授室を退出して、腹ペコではあったが、急いで3限目の授業に出た。
授業中二人のお腹は、グーグー、ぎゅるぎゅる鳴りっぱなしで、周りからクスクス笑われた。
遅い昼食をとるために学食棟の二階で食事をした後、
二人はやっと、先ほどの教授室での話の続きを話しはじめた。
「まさか、君のお父さんが枩田教授だったとは・・・」と鉄男が言うと
翔子は辺りを見回して、シーッと言って
「実名を出さないでよ!それは学内ではなるべく秘密にしたいの」と小声で言った。
「あ、ごめん。でも驚いたよ・・・でも、君の松田と教授の枩田は同じマツダでも字が違うよね?」と二人はヒソヒソ話を続ける。
「うん、そうなのよ。実は教授の枩田はペンネームみたいなものね。本当は私と同じ松田よ。なんで枩田なのかは知らないわ」と鉄男に告げた。
「でも、それにしても一言ぐらい言ってくれても・・・」と鉄男が言うと
「だって、自分の彼女の父親がその教授だったら、気が引けるでしょ?」と翔子は
少し強めに言った。
「そうだけどさ・・・でもお父さんのことあまり話してくれなかったじゃないか」
「そうかしら?私は父が学校関係者か研究者かって言ったわ」
「そうだっけ???」
「そうよ・・・」
と長々とヒソヒソ話を続けたので
逆に周りから注目を浴びていたが、二人は気づかなかった。
それから鉄男と翔子は履修している授業が終わると毎日のように教授室に通い
文献や資料に目を通した。
砂地区にて
5月のある晴れた日曜日のこと。
朝10時頃、いつもの縁無しメガネをはずした長袖の柄物のワンピース姿の翔子が
東武東上線新河岸駅のホームに降り立った。
いつもはしないメイクを薄っすらとして、淡いピンクの口紅をつけていた。
その姿はもうすっかり大人の女性だった。
彼女の家の最寄り駅は隣の川越駅だが、はじめて新河岸駅に降りたった。
「ここが新河岸か・・・小さい駅ね・・・」と思いながら
改札を出た。するとそこには鉄男が待っていてくれた。
「おまたせ。待った?」と翔子が言うと鉄男が
「ううん、俺もいま来たところだよ」と言いながら翔子をまじまじと見て
「なんか大人っぽいね。ちょっとドキドキしちゃった」と言って笑った。
翔子は
「それじゃあ、いつもは子供っぽいってこと?」といたずらっぽく聞いたので
「いつもより更に大人っぽいってことだよ」と鉄男が答え二人は笑った。
鉄男は翔子の持っている、おそらく星野家への手土産であろう紙袋を持ってあげて
歩いて線路沿いの道を砂地区方面に歩いて行った。
住宅街のそれほど広くない、曲がりくねった道を10分程度歩くと星野家についた。
鉄男は玄関のドアを開け「ただいまー」と言った。
すると、鉄男の母のすみれが「はいはいおかえり」と言いながら
居間から玄関に出てきた。更にワンテンポ遅れて父の哲郎が居間から顔を出した。
鉄男が多少照れながら
「こちらが、いまお付き合いをしている松田翔子さん」と両親に紹介すると。
「はじめまして。松田翔子と申します」と言って翔子は頭を下げた。
「あらあら、綺麗なお姉さんね・・・はじめまして私が母のすみれです」と
とても嬉しそうに言った後すぐに
「鉄男の父の哲郎です」と父親もニコニコしながら玄関に出てきた。
それから居間に上がり、翔子が手土産を父の哲郎に渡しソファーに座った。
鉄男の家は長年、板の間にちゃぶ台だったが
一昨年リフォームをして、フローリングの上にソファーを置いている。
「いやぁ、正直こんなブサイクな哲郎と、翔子さんのような綺麗なお嬢さんが付き合ってくれているなんて、びっくりしたよ」と父の哲郎が笑いながら言うと
「そうよねぇ、鉄男なんかで後悔してないの?」と母のすみれも笑いながら言ったので
鉄男は「何言ってんだよ・・・ったく・・・」と言って苦笑した。
「そんなことないですよ。鉄男さんはとても私のことを大事に思ってくれていますし、頼もしいですよ」と言った翔子の言葉が、ある意味褒め殺しのようにも聞こえたので
「もういいよ・・・」と鉄男がつぶやくと、みんなが笑った。
ちなみに、鉄男には4歳年上の兄千一がいるが、
彼は大学を卒業し都内の一部上場企業である食品会社に就職して
名古屋支社に配属されたので、この家にはもう居なかった。
それから4人でいろいろなことを話して盛り上がり
お昼になったので、父哲郎の車で食事にでかけた。
新河岸には「たぬき亭」という老舗のうなぎ屋があり
そこで特上うなぎ定食を食べた。
たぬき亭は普通のうな重の他に、うなぎとごはんが別々の器に盛られているうなぎ定食があり、星野家は皆うなぎ定食を好んで食べていた。
今日は翔子を招いての食事会になったので、特上うなぎ定食を父がおごってくれた。
ちなみに川越はうなぎが有名で、市の中心街にもうなぎ屋がたくさんあることで知られている。
たぬき亭は川越のうなぎ屋の中でもかなり評判のいいうなぎ屋だった。
四人はそこで食事を終え、店の中が混雑してきたので早めに退席した。
星野家に帰ると、鉄男と翔子は二人で歩いて弁天池に向かった。
「食べ過ぎたからいい運動だね」と翔子が言うと
「そうだね、まあ大した運動ではないけどね」と鉄男が笑いながら言った。
途中、車がやっとすれ違えるほどの細い道を行き
この地域にまだ唯一残っている村井牧場の脇を通り、弁天池に出た。
弁天池の南側と東側はところどころ林や竹やぶがあり、その後ろがすぐに住宅だった。
逆に北側と西側は田んぼが広がっているがこの時期はまだ水も張られていない。
「ここが弁天池なんだ?ここで鉄男くんは昔から遊んでいたんだね」と翔子が言う。
鉄男は「うん、そうだよ。そしてここであの物質を拾ったんだ」と池の水面を見ながら
懐かしそうに言った。
弁天池は今日も風が吹き抜け水面を揺らし、いつもと変わらない情景を
鉄男たちの目の前に映し出していた。
二人は弁天池の横にある厳島神社にお参りをしてから
住宅街を抜け、弁天池を一周した。
ゆっくり歩いても、30分弱で一周できる小さな池だが、埋め立てられること無く
今でも存在しているのには何か意味があるのだろうか・・・
そんなことを話しながら、二人は元の場所に戻ってきた。
途中翔子が池の脇に道祖神のようなものを5箇所発見したが
鉄男はそれまでそこに道祖神などがあることすら気づいていなかった。
というより、今までの人生で道祖神など気にしたことすらなかった。
枩田建造著の「川越の歴史と民間伝承」(帝都国際大学出版)には
過去2回に渡って弁天池があふれたことがあったと記述されているが
とてもこの池があふれるとは思えなかった。
二人はその、のどかな風景を後にして、鉄男の家に帰っていった。
家に入ると翔子が鉄男の部屋に行きたがったので
二階の鉄男の部屋に上がった。
・・・これといって何もない部屋・・・ステレオと机と本棚があるだけ・・・
翔子は「ふーん」と言って床に座わり、本棚にあったアルバムを
勝手に手にとって開いた。
そこには赤ちゃんの頃からの鉄男の写真がずらっと並んでいた。
「え~っ!これが鉄男くん?かわいいー」とテンションが上った。
「そうかな・・・そんな可愛くないよ」と鉄男が照れながら言うと
「かわいいよ」と翔子は返した。
写真の中には小さい頃の弁天池も写っていたが
先ほど見た池とほとんど変わらなかった。
その時星野家の1階では鉄男の母すみれが
「あの子たち、二人で部屋に行ったけど、大丈夫かしら・・・」と父哲郎に不安げに言ったが
「あの子たちだって年頃だし、いまどきの若い子だから・・・そうなったらなったでしょうがないんじゃないか?」とすみれの不安を更に助長するように言ってしまったので
「もし翔子さんに手をつけたりしたら、ご両親に申し訳ないわ・・・」とすみれはどんどん不安になった。
「おまえ、今の時代そういう考えは古いんじゃないか?それにさあ、鉄男にそんな甲斐性があるとおもうのか?」と哲郎が笑いながら返したので
すみれも「それもそうね、あの子にそんな甲斐性があるわけないか」と言って
二人で笑っていた。
そんなことを言われているとは知らず、鉄男の部屋では、
二人は楽しそうにアルバムを見ていて
1階から両親の笑い声が聞こえてきたので
「お父さんとお母さん、仲がいいのね」と笑いながら翔子が鉄男に言うと
「うん・・仲がいいの悪いのか・・・たまには喧嘩もするけど、よく二人で買い物に出かけたりしてるよ」と答えた。
「将来、もし結婚でもしたらそういう夫婦になれるといいね」とさらに笑いながら翔子言うので、鉄男は照れながら
「そうだね・・・」とだけ答えた。
ところで、鉄男と翔子の関係だが、付き合い始めて1年弱だが
二人はキスこそ何度か交わしているがそれ以上の関係は無かった。
それは翔子がとても古風な考えというのであろうか、
「結婚が決まるまではセックスをしたくないの」と
鉄男に言ったからだ。
鉄男にしてみれば、翔子の口から「セックス」という言葉が出てきたことに
たいへん驚いたのだが、一応理由も聞いてみた。
すると
「そういう性格だから、それだけは許して・・・ごめんね」と涙を流して訴えたので、
鉄男も年頃の男なのでセックスには興味があったが、結婚が決まるまではソレはしないと心に誓っていたのだ。
鉄男は翔子のことを本当に大切にしたいと心から思っていた。
両親の心配をよそに、鉄男は鉄男で真剣に考えているのだった。
甲斐性が有る無いという問題ではなかった。
夕方5時に鉄男は翔子を送りに新河岸の駅まで歩いた。
「今日はありがとう」と鉄男が言うと
「ううん、こちらこそ。今度はうちにも遊びに来てね」と翔子が答えた。
「うん、近いうちに連れて行ってよ」
「わかった。なんか家族ぐるみで付き合えるといいね」と翔子はそう言って
改札の中に入っていった。
鉄男は翔子の後ろ姿を見送ると、家に向かって歩き始めた。
すると後ろから「鉄男」と呼ぶ声がしたので振り返ると
斉木が改札から出てき鉄男を呼び止めた。
「おお、斉木ひさしぶり」と鉄男は斉木がこっちにやってくるのを待った。
「出かけてて今帰ってきたんど、駅の階段でお前の彼女らしい人をみかけて、もしかしてと思って急いで出てきたんだよ」と斉木が息を切らせながら言った。
鉄男と斉木はお互いの大学のことなど立ち話をしていたが
駅前の喫茶店に入って、今後の話をすることにした。
喫茶店の席に座ると、斉木が東大の話をし始めた。
「うちの大学に、田辺研究室っていうのがあってさ、そこでは珍しい鉱物などを研究していて、新しい物質がないかフィールドワークをしてるらしいんだ」と珈琲を飲みながら続ける。
「その研究室のゼミに2年から入ろうと思っているのだけど、教授に頼み込んで夏休みの研究調査に同行できることになったのだが、例の物質の件を話したところ、
そんな珍しい物ならぜひ一度見たいと言ってくれて、夏に1日時間を取って見に来てくれる確約をとった」と斉木は斉木で、なんとか調査を前に進めたいと考えていた。
鉄男も、枩田教授のもとで研究資料をみせてもらっていることと
偶然にもその教授は自分の彼女の父だったと告白すると
斉木はたいへん驚いていたが
お互い違うアプローチから研究するということに合意した。
ちなみに、斉木は彼女の佐藤理恵とはまだ続いているそうだが
彼女は青学に入ると益々遊んでいるらしくなかなか会えないのだそうだ。
二人の共通の友人である三重は斉木に連絡を取り、東大受験の秘訣と斉木の使っていた参考書などを貰い受け、浪人を頑張っているそうだ。
最後に斉木が
「お前、教授が彼女の親父さんじゃあ、別れられないな」と笑いながら言ったので
鉄男は少しムッとしながら
「別れるつもりなんて毛頭ないよ」とムキになって言ったので
「冗談だよ。でもこれからは連絡を密に取り合おうよ」と言って
更に「これ知ってる?」といって斉木はポケットから
小さい機械を出して鉄男に見せた。
「なんだ? あ、もしかして・・・」鉄男が驚くと
「そうそうポケベルだよ」と斉木が得意そうに言った。
当時、ポケベルは若者に爆発的に広まっていた簡易通信手段だ。
「よろしく」を「4649」と表示させたりするアレである。
斉木は鉄男にポケベルの番号を知らせて
二人は喫茶店を出てそれぞれの家に帰っていった。
鉄男は「さすが東京の大学に行くだけ有るな。鶴ヶ島とはちがう」と心の中で笑った。
謎解きに向かって
その後、鉄男は相変わらず枩田教授の部屋へいりびたっていたが
川越市砂地区の目新しい資料はほとんど見つけられなかった。
もちろん市立図書館なども回ったが、同じだった。
ある日の基礎演習終了後に教室で
「川越市は大昔から今の市役所の有る旧市街地を中心に発展してきたから
それより外にある砂地区の資料は少ないみたいだね。資料も別のアプローチから攻めないとダメかな・・・」と教授が鉄男に言った。
それを聞いていた同じ演習を受けている鈴木勤が
「すみません、いまの話聞いちゃったんですが川越の・・・砂地区の歴史の資料を探しているのですか?」と訪ねてきた。
教授は「そうなんだよ、川越市でも砂地区限定の資料なんてそうはないからね」と
腕組をして困ったように鈴木に言うと、彼は
「実は私の父の実家が、江戸時代、新河岸の船問屋をやっていた鈴木家なんですよ。
鈴木家の蔵には大福帳とか江戸時代の本などがたくさん残っていますので
何かの役にたつのでしたら、閲覧とかできるように掛けあってみましょうか?
ご先祖様は、いろいろな書物とか集めて編纂事業もしていたようですし・・・」
と言い出した。
教授はびっくりして
「え?君はあの鈴木家の関係者なのかい?それはすごいぞ!」と飛び跳ねた。
鈴木家は砂地区の隣の新河岸地区で、明治の初めまで
船問屋を営んでいた豪商である。
新河岸地区は隣の地区とはいえ、この地域の豪商である。
砂地区に関する資料もきっと見つかるはずだ。
ちなみに鈴木家は江戸時代、
新河岸川に舟を出して江戸にサツマイモなどを届け
その帰りに江戸と江戸に集まる地域の特産物などの
さまざまな物資を川越にもたらしていたのだ。
彼はどうやらその末裔らしい。
鉄男も確かに小学校の頃に、地元の歴史を学ぶ授業で
船問屋の鈴木家については聞いたことがあったが
まさか、ここで繋がるとは夢にも思わなかった。
早速鈴木勤は鈴木家に掛けあってくれて
「大学の教授が研究調査のためと言うなら」と快く蔵を開けてくれることになった。
鈴木は喜び、その旨を次の基礎演習の際に報告してくれた。
教授は、できれば基礎演習のクラス全員でフィールドワークとして
行うのはどうかと学生に尋ねると
全員一致で了承したので、夏休みの早い時期に行うことにした。
これで今年の夏は斉木の田辺研究室の教授と、鉄男の大学の枩田教授が
まるっきり別の角度から砂地区で研究調査をすることになった。
鉄男は8時頃家に帰ると斉木にポケベルに「49106(至急TEL)」と入れて
連絡を待った。
2時間後の夜10時に斉木から電話がかかってきたので
夏休みに新河岸鈴木家で蔵調査を行うことになった旨を話し、
できればそこに斉木も立ち会ってほしいと聞いてみた。
すると即答で「OK」と言ってきて、さらに三重も誘ってみるとのことであった。
しかも斉木の田辺研究室の調査に、鉄男たちも立ち会わせるように言ってくれるとのことだったので、鉄男は大変喜んだ。
そして両大学による研究調査の日程が決まった。
7月30日木曜日 帝都国際大学による鈴木家蔵調査
8月1日土曜日 東京大学田辺研究室による物質調査(弁天池前砂自治会館にて)
いずれの日も鉄男と斉木、三重が出席することになった。
彼らは7月下旬に大学の前期試験を終え
いよいよ7月30日の鈴木家の蔵調査に臨む。
調査開始
1992年7月30日
その日は朝から暑かった。
蝉がジージーと鳴く中
鈴木家に午前9時に全員集まった。
枩田教授は早速鈴木家現当主鈴木健太郎氏(72歳)に挨拶をして
蔵を開けてもらうことになった。
斎藤家の門から蔵までの50mは石畳が敷かれており
その両脇には納屋が並んでいた。
その納屋には、江戸時代に使われていたと思われる農耕器具や
実際に舟運で使われていた舟が置いてあり
まるで博物館のようであった。
蔵の前にはゴザやブルーシートが広げられいて
蔵の中の書類をそこに広げることになっていた。
もちろんそれらの虫干しも兼ねているのだ。
蔵の中には
広さの関係もあるので御当主と枩田教授、鉄男、斉木、三重が入り、
書籍や記録や資料などを運び出し
他の者は外でそれらを並べた。
ところが、江戸時代の達筆な文字を解読できる者がいなかったので、
御当主と教授がその殆どを調べた。
「砂地区に関する物」、「この地域の伝承に関する物」、
「歴史的に重要な物」、「めずらしい物」を選び出し並べたが
かなり時間がかかり、夕方5時まで行われた。
その中から、これはと思うものを4冊ほど見つけ、
残りは蔵の中に返された。
そして、それら選ばれた4冊は研究目的で枩田教授が大学に持ち帰ることになった。
枩田教授はそれらを分析して、現代語に訳し資料として大学に提出することになるが
その前に鉄男たちに資料として提供することになっている。
教授は鉄男たちに
「興味深い伝承らしきものがありました。江戸時代の直前くらいだと思うけど
弁天池で光る石のようなものを拾った人が何人かいたらしく
そのうちの一つが大爆発を起こしたらしいということが載っていた書物があったんだ」
さらに教授は続ける。
「それと、砂村(現砂地区)では弁天池を村の守り神が宿る池として崇めていて
ここを埋めたり掘ったりすることは厳しく戒められていたらしいよ。今後資料を詳しく読み込めばまだまだ伝承がありそうだよ」とのことだった。
鉄男たちは喜んで、この方向から引き続き調査をすることを確認し
その日は解散した。
次の日、鉄男と斉木は例の物質を隠した高砂中学校のプレハブ用具室に行った。
プレハブ下の通風口の中には当時のままの
テープでぐるぐる巻きにされた白い恋人の缶が残っていた。誰かに見つかったり、いたずらをされたりした跡は無かったようだった。
もっとも、鉄男はこの物質を隠してから、何度も存在を確認しに来て
そのたびに誰にも見つからないような仕掛けを施してきた。。
鉄男と斉木は、それを持って砂自治会館に向かったから当然ではあった。
自治会館は8月1日の前日午後から借りていたので
次の日の調査まで、そこに保管することに決めた。
8月1日午前10時より
東京大学の田辺研究室の実地調査が、弁天池前にある砂自治会館で始まった。
その日は、東京大学からは田辺教授と研究室の学生二人、斉木が訪れ
また帝都国際大学からは枩田教授と鉄男、翔子と鈴木勤、
そして大学とは関係ないが、三重も当事者として参加した。
田辺教授と枩田教授は互いに挨拶をして、簡単に自分の研究内容を説明し合った。
二人はほぼ同世代で、しかも二人とも同時代に東京大学の学生だったので
自然と意気投合したようだ。
鉄男は恥ずかしながら、枩田教授が東大卒とは知らなかったので大変おどろいて翔子に確認した。
「教授は東大卒なの?}
「そうよ。言ってなかったっけ??」と翔子はもちろん自分の父親のことなので平然としていた。
「言ってないよ・・・そういえば著書にも、どこの大学出たとか記載がなかったよな・・・」と鉄男は以前見た著書の作者紹介欄をなんとなく思い出していた。
さて、砂自治会館では白い布のかぶさった長テーブルが用意された。
その上に、仰々しく白い恋人の缶があり、その中では例の物質が
蛍光灯に照らされて光り輝いていた。
物質は以前鉄男たちが割ってしまったので
2つの欠片からなっている。
一つは尖った5センチくらいの長さの物質だった
もう一つは4センチほどの四角い物質で、こちらのほうが
美しく輝いている。
缶の中にはさらに、運搬中に砕けたと思われる1ミリほどの欠片が
2個ほど存在していた。
田辺教授は放射線測定器を使って調べたがとくに反応はなかった。
顕微鏡でも見てみたが、普通の石か鉱物のようだった。
田辺教授は「これだけではわからなよねぇ。機材を持ち込んで成分を分析しないとね・・・
だけど本当にこんなものが、熱を発して爆発するのかい?」と笑いながら
斉木に聞いた。それを聞いていた鉄男と三重は
「本当に本当なんです!」と同時に言ったので
「ごめんごめん、疑い深いのが私の性格でね・・・」と教授は謝った。
鉄男は
「この小さい1ミリくらいの欠片でも大爆発を起こしたんですよ」と言ったので
教授が
「そうか・・ではこれをさらに砕いてみようか?落としても爆発はしなかったのだろう?」と斉木に聞いたので
斉木は「はい、これは落として3分割したうちの2つですから」と答えた。
教授は小さいハンマーで1ミリの粒を叩いてみた。
その瞬間、鉄男と三重は目を背け一歩退いた・・・彼らは爆発現場にいた当事者だから
つい反応してしまったのだ。
ハンマーで叩かれた物質は2~3の更に小さい破片に別れ
そのうちの1個をさらにハンマーで潰すように叩かれ
その物質はみごとに粉状になった。
粉状になった物質の一部を耳かきのような器具でほんの少しだけすくい
ガラスのペトリ皿に入れて蓋をした。
それからいろいろと顕微鏡や試薬で調査をしたが、とくに何も
特別のものは見つからなかった。
田辺教授は鉄男や三重に
「これだけではわからいのだけどね、とくにそこら辺の石ころと同じようにみえるんだ・・・。
いったい何なんだろうね?」と言った。
そこで鉄男が
「では、その粉をすこしだけ持って、実際に爆発を起こしたあたりに行ってみますか?」と提案したので
「ああ、それはいいね。どうなるか見てみたいし」と今度は疑う風もなく教授が言った。
それからすぐに砂自治会館を施錠して
みんなで新河岸川方面に向かった。
8月1日の晴れた午後1時頃だった。
その日も暑く、蝉が大合唱しているように鳴いていた。
研究室の学生が、粉になった例の物資の入ったペトリ皿を、機材の入っていた
ジュラルミンのようなケースに入れて、箱の蓋はせずに中身が見える状態で慎重に持ち歩いた。
まもなく、むかし鉄男の持っていた物質の欠片が熱を持った場所に近づいたので
「ここらへんから、熱を持ちました」と教授に告げた。
教授が「どれどれ、何か変化がありましたか?」と尋ねると
学生が「いまのところは・・・」と言った。
「なにも起きないようだね・・・」と田辺教授は言ったので
鉄男が「すみません、もう少し先かもしれません」と言って
もう少し先の川の近くに進むように促した。
一行はゆっくり先に進み、新河岸川の土手の手前に来た時だった。
「あっ!」と学生が叫び声を上げた。
ペレット皿の中で粉状になった例の物質が
突然真っ赤になりはじめ、今にもガラス状のペレットを溶かすような勢いになったので
鉄男は「あ、それ危ない!爆発するから早く川向うに投げて!!」と叫んだ。
川沿いには幸いにも誰もいなかったので
学生は教授がうなずいたのを確認してから
土手に駆け上がって、思いっきりその機材ケースを向こう岸めがけて
おもいっきり放った。
そのケースは向こう岸に届く直前に川の中に落ち
水面に浮いたが、その瞬間に、ドカーンと水しぶきを上げて爆発した。
そこにいた一行はみんな唖然として
「大丈夫か?」と言い合った。
全員の耳はキーンとなっていた。
しばらくすると、周辺の住宅から犬の鳴き声が一斉に聞こえ
地域の住民たちが何事かと飛び出てきて
あたりが人だかりになった。
鉄男は今度は以前みたいに逃げられないと思い
「すみません、大学の実験調査中に爆発して・・・」と言ったので
「おいおい、こんなとこで危険なことするんじゃないよ」と
中年のおじさんが声を荒げてきた。
「何の調査なのよ?どこの大学?」とおばさんが怪訝そうに迫ってきたので
田辺教授が「東京大学の調査です。突然のことでご迷惑をおかけしました」と
教授の証明書を見せてお詫びを何度もした。
田辺教授は「まさか、本当に爆発するとは・・・」と心底思ったようだ。
それから、警察と消防が来て
田辺教授は砂自治会館で事情聴取をされてしまった。
「研究調査をされるなら、事前に申請してください。しかも爆発物を扱うなんて・・・」もちろん一行も同じように事情を聞かれた。
新河岸川の対岸の一部が欠けてしまっていたので国土省の河川事務所からも
抗議が来た。
ただ、教授は例の物質のことは極力隠してくれ、
それらが没収されることは無かった。
「自然科学分野で、新河岸地区の地質調査を行っている最中に機材が爆発した」と
濁してくれたのだ。
その日は夕方まで聴取や各方面への連絡で慌ただしく過ぎたので
研究調査どころではなくなってしまった。
田辺教授は
「その物質は大学に持ち帰り研究したいが、君らの言うことが確かならば
この地域から持ち出すのは危ないので、また調査にくるよ。
でも調査も長引くなら、ここらへんに研究室を作らなければならない。
大学に追加予算を申請してみるから、それまでは待っていてください。」と
鉄男たちに約束した。
その間、例の物質は鉄男の家で一応預かることにした。
「怖いけど、仕方ないよ・・・」と鉄男は翔子に笑って言った。
そしてこの日は解散した。
それから何日後かに斉木から鉄男に電話があった。
「実はさあ、教授の根回しで、例の物質の保管場所を確保したよ」
と斉木は結論から言った。
「本当に?どこに?」と聞くと
「弁天池横の田んぼの中にある防災備蓄倉庫の一角を借りられたそうだよ」
と答えた。
防災備蓄倉庫は有事の際、砂地区の防災の拠点になる場所だが
周りには田んぼと弁天池しかないので、地区の中では
ここが一番安全と思われる。しかも市の持ち物なので
東大経由でその一部をなんとか使わせてもらう交渉がうまくいったようだ。
さすがに「東大による川越市の地質調査研究のため」という看板は
市に二つ返事をさせたようだった。
「とりあえず備蓄倉庫の中の一角に研究室用の物置を用意してもらうので、明日立会いのうえ、そこに例の物質を入れよう」と斉木が鉄男に言って電話を切った。
その次の日のお昼すぎに、鉄男と斉木、三重が市の職員と備蓄倉庫で待ち合わせをした。
斉木は職員に東大の学生証を見せ、教授からの委任状、大学の依頼書を手渡した。
備蓄倉庫を開けると、そこには非常食などの沢山のダンボールが積まれていた。
倉庫のなかは薄暗く天井が高い。そして真夏の昼間だがこの中はとても涼しかった。
その端のほうに、物置とは言っても、本当に小さいキャビネットが置いてあり
それを使ってくださいと言われただけだ。
鉄男たちは、ポカンと一瞬固まったが
そこに例の物質の入った缶を更にジュラルミン機材ケースに入れた状態で置き、
申し訳程度の鍵をかけた。
その後市の職員が、キャビネにA4のコピー用にマジックで「東京大学田辺研究室」と書いたものを貼った。
なんともみすぼらしいが、ここが一番安全といえばそうかもしれない。
倉庫を出ると扉が市の職員によって施錠された。
田んぼの中にあるその敷地はさらに周囲がフェンスで囲まれており、
そのフェンスの簡易扉も施錠された。
斉木によると、この敷地内にプレハブを立てて研究所にしたいと
田辺教授は考えているようだった。
しかしそれにはもう少し時間がかかりそうだった。
8月下旬
鉄男と翔子は帝都国際大学の枩田教授の部屋で教授の話を聞いていたい。
外はまだまだ暑く、アスファルトからは照り返しが強く、
田畑周辺は熱風が吹いているような感じだった。
幸い大学の中は冷房が効いており勉学に身が入る環境だった。
枩田教授は
「いろいろと、言い伝えを調べて解読してみたのだけどね・・・」と言って
二人に手書きの資料のコピーを渡してくれた。
そこには、教授の著書「川越の歴史と民間伝承」からの抜粋と
今回の調査で発見した資料の抜粋がそれぞれ記載されていた。
「まだ途中なのだけどね・・・」と前置きしてから
◎弁天池では鎌倉時代から江戸時代中期までの間に
記録や言伝では5人ほどが、光る何かを池の中で見ているようだった。
◎何らかの爆発事故が起きたのは2回で、その場所に犠牲者を鎮魂する
碑が建てられた。
◎1395年前後に弁天池が自噴するように溢れ、それを鎮めるための神社が建立され、
また1695年前後にまた池が溢れたので、高台を作りそこに神社が再建された。
と説明してくれた。
それを聞いて
「池の中の光る物体っていうのが気になりますね?5人も目撃者がいるんですね・・・」と鉄男が言うと、翔子がハッとして
「そういえば、池の周りにあった道祖神みたいなのって5箇所あったよね?もしかしたら
その5人が見たところに道祖神みたいな碑が置いてあったのかな?」と言った。
鉄男も「それ、ありうるかも!!今度地図を持って道祖神の場所詳しく見てくるよ」と。
それから鉄男は
「爆発を起こして犠牲者が出たのでたのか・・・その鎮魂の石碑の場所も調べないと」と教授と翔子に言った。
すると教授が「それでは、その場所の調査は二人で行ってみてください。私はもう少し資料を解読してみますから」と言って二人に現地調査を頼んだ。
「では早速行ってみようと思います」と鉄男が言ったので、教授が
「あ、二人ともこれを持って行きなさい」と言って
首から下げるストラップ付きのネームホルダーを手渡した。
そこには
『帝都国際大学 枩田研究室』と書いてあり、それぞれの名前も記載されていた。
枩田教授は
「この前、東大の田辺教授と調査委した時に、今後は身元きちんと証明すると
役所の人や警察の方と約束したのでね・・・」と言って
「一応、役所と自治会の代表の方にもこちらから連絡しておきますから。今回は爆発とかさせないでくださいね」と笑って言った。
鉄男も笑いながら
「はい、例の物質は厳重にキャビネに保管されておりますので、大丈夫です」と答えた。
その後、鉄男と翔子は二人でネームホルダーを首からぶら下げ地図と筆記用具を持って
砂地区に電車で移動した。
3時30分頃、二人は弁天池に着いた。
その時間もまだまだ暑く、熱風が吹いていた。
二人は途中にあった横光商店で
アイスを買って食べながら歩いてきた。
「とりあえず、地図に弁天池の道祖神をマークしておこう」と言って
弁天池一周のルートを歩き出した。
途中5箇所、道祖神らしき像のある場所をマークし
翔子がたまたまバックに持っていた使い捨てカメラでその場所の写真を撮った。
30分ほどで一周してきた二人は、爆発事故の犠牲者の鎮魂の碑も探すことにした。
「斉木とずっと前に話したんだけど、爆発するのはもしかしたら、この砂地区と隣の地区の境界あたりかも知れないから、砂地区を一周してみようか?」と鉄男が翔子に言った。
翔子も「そうね、歩いたらどのくらいかな?1時間30分くらい?」と
鉄男に聞き
「そうだね、1時間30分あれば回れるかな・・・」と鉄男も答えた。
4時くらいになると西日がきついが、風が少しだけ涼しく感じられた。
二人は先日田辺教授と一緒に例の物質を爆発させてしまった新河岸川沿いから
地図を辿って砂地区を回ることにした。
そこから歩いて15分くらいの住宅街の狭い三叉路に
高さ1メートルくらいの碑が立っていた。
そこは砂地区の隣の扇河岸地区との境界辺りだった。
文字は削れてしまってあまり読めないが
「鎮」という字はかろうじて読めた。
二人がその碑の写真を何枚か撮り地図にマークをしていると
後ろの住宅の方から「何やってんだお前ら?」と日焼けをした肌に真っ白な髪の毛のおじいさんが近寄ってきた。どうやらその住宅街の前にある農家のおじいさんらしい。
あわてて翔子が
「こんにちは」と可愛らしく返事をして、すぐに鉄男が
「僕達、帝都国際大学の学生ですが、砂地区の歴史調査をしてるんです」と言って
教授のくれたネームホルダーをおじいさんに見せた。
おじいさんはそれをちょっと見ただけだったが
「ああ、大学生さんかい。いやあ、そんな碑を写真にとってる珍しいやつがいるもんだなって思って声かけたんだ」と笑いながら言った。
「おじいさんは、ここの方ですか?この碑は住宅街にありますが
何かこの場所に言い伝えとかが有るんですか?」と鉄男がおじいさんに聞いた。
すると
「うーん、俺も曽祖父に聞いた話なんだけどな、なんでも大昔にここで
何人もが無くなる事故だか何だかがあったんだってよ。まあ大昔って言っても徳川さんの時代よりもっと前かもしれねえけどな」と説明をしてくれた。
翔子は
「どんな事故だったのでしょうか?」とおじいさんに聞くと
「そんなもん俺はわからんよ。曽祖父だってくわしくは知らなかったみたいだけど、
うちの家は、代々この碑を守るようにって言われてきたんだよ。だから今でもこの碑を綺麗に掃除してるんだ」と言って続ける
「その碑の周辺だけ坂になって窪んでるだろ?ここだけ雨が降ると水が貯まるんだよな。だから雨が降ったらホウキとか持ってきて水をそっちの側溝に落としてやるんだ。まあ厄介な碑だけどしょうがないなぁ。いまじゃ俺の孫に掃除させてるんだけどな・・・。そんな碑を調べたって何も出てこないだろうけどな」と笑って家に帰ってしまった。
確かにこの碑のある場所だけ、土地が下がっているように見えた。
「水が貯まるんだ・・・ここだけ土地がくぼんでるんだね・・・」と鉄男はつぶやき
爆発で空いた穴を埋め立てたけど平らにならなかったのか、穴があまりに深すぎて
埋めても雨が降ると土地が凹んでしまうのか・・・?と翔子と話し合いながら
その場所を後にした。
そこから曲がりくねった住宅街を抜け、三重が最初に物質を爆発させた現場に着いた。
そこは新河岸駅の改札とは反対側の土地で、未だに畑の真ん中の一本道だったが
爆発の跡は綺麗に直されいた。
ただ、爆発のあった場所のアスファルトだけが周りから比べると若干新しくなっていた。
鉄男は翔子にここが最初の爆発の場所だと伝え、その場から移動した。
それから道が無かったため一度新河岸地区に入ってから
別の道で砂地区に入った。しばらく歩くと、空が急に真っ暗になり
雷の音が鳴り始めた。
「これはひと雨来るかもしれない」と鉄男が言って
「雨宿りできる場所に急ぎましょう」と翔子が辺りを見回しながら
砂氷川神社を見つけてその境内に急いだ。
二人が境内に着くと、スコールのような雨が降りだした。
乾いた土が雨を含んでいく時の独特な匂いがあたりを覆って
それから一瞬にして低い方に雨水が流れだした。
二人は神社の軒下で雨宿りをしたが
完璧には雨を塞げなかったのでところどころ濡れてしまっていた。
鉄男は翔子を自分と壁の間に入れて抱きしめるような形で
風雨から彼女をかばった。
「なんか、こういうの久し振りだね・・・」と翔子が囁くように言うと
「そうだね・・・しばらく調査とかばかりだったからね」と鉄男が答えた。
翔子は手提げバックを抱えるようにして持ちながら鉄男の胸にもたれ掛かった。
鉄男は翔子をギュッと抱きしめて、しばらく沈黙が続いた。
少し濡れた翔子の髪の毛から、ほのかにシャンプーの匂いがした。
雷が音を立てて何度か鳴ると、翔子はビクッとしてそれが鉄男に伝わるたびに
鉄男は翔子の頭をなでた。
少しすると雨が徐々に弱まってきて、雷も少し遠くに聞こえるくらいになってきた。
鉄男が翔子から手を話そうとすると
「もう少しだけ・・・」と珍しく翔子が甘えたので
鉄男は再び翔子をだきしめた。
「鉄男くんごめんね、私、気が強いからいつも生意気なことばっかりだし・・・
それに付き合って一年過ぎたから、いろいろしたいだろうけど・・・」と翔子は意味ありげなことを言ったが鉄男はそれを察して
「大丈夫だよ。これからもずっと一緒だし翔子ちゃんがいいって言うまで我慢もするから」
と言った。
それを聞いた翔子は鉄男の顔を見上げながら、舌を出して「ベーっ」としたので
鉄男も軽く翔子の頭を叩いて、見つめ合った二人はそのまま長い口吻をした。
それから雨が完全に止んだので、神社を出た。
すると目の前の道のT字路のところに1.5メートルくらいの大きな石碑をみつけた。
文字はやはり読み取りづらかったが、鎮という文字は読めた。
鉄男は地図にマークをして、翔子も写真を何枚か撮った。
鉄男は
「いままでこんな石碑があることに気づかなかったな」とボソッといったので
翔子が地図を見ながら
「丁度ここも砂地区と新河岸地区の境のようだね」と言った。
ここの地形は先程の扇河岸地区との境のよりも
誰が見てもわかりやすようなすり鉢状の地形になっていた。
鉄男は
「この石碑を中心にすり鉢状になっているみたいだね」と言うと
翔子も
「そうね・・・石碑の脇には側溝と排水用のマンホールがあるね。ここに水が溜まるから
排水設備を作ったのね」と答えた。
周りには人影もなかったので後日鉄男がこの碑について調べることにして
そこを後にした。
辺りはもう真っ暗になり雨で気温もだいぶ下がっていた。
二人は久しぶりに手をつないで、砂地区の境界線沿いを調査しながら
6時30分頃弁天池に着いた。
「今日はここまでだね。明日またちょっと調査してみるよ」鉄男は翔子にそう言って
新河岸駅まで送っていった。
翔子は別れ際に
「きょうは楽しかったね。なんか久しぶりにデートした気分だったよ」と言って
帰宅の人々で混んでいる駅前で、堂々と鉄男にキスをした。
翔子は「じゃあね」と言いながら、あっけにとられた鉄を残して、改札の中に消えていった。
「まったく・・・」と鉄男は思いながらもまんざらでもなかった。
帰宅後鉄男は
今日印をつけた地図を眺めていた。
「弁天池の5箇所の道祖神って・・・」と言いながら
定規と鉛筆でそれぞれの場所をつなぐ線をひいてみた。
すると、完璧ではないが結構綺麗な五芒星が浮かび上がった。
「へ~、結構きれいに星ができるんだな」と独りごちながら
その五芒星の中心に小さくバツをつけてみた。
「ここに何かがあったりして・・・そんなわけ無いか・・・
いや、5人が見た光る石が1個だったとしたら、ここにあってもおかしくないか・・・」と
相変わらず独り言を言っていた。
それから砂地区全体の地図を見て
石碑の場所と、三重が最初に例の物質を爆発させた場所と
自分が爆破させた場所を改めて確認すると
「間違いなく砂地区の境界線付近で爆発したんだな・・・やはり
昔斉木が言った通り、砂地区と例の物質の関係は間違っていないんだろうな」と思った。
大学の夏休みは長い。
9月に入ってもまだ夏休みだった。
そんな9月上旬のある日
鉄男に斉木から電話がかかってきた。
「鉄男?斉木だけど」
「あ斉木、どうした?」
「実はさあ、例の研究室設置の件だけど、教授によると大学と市から許可が出て
予算も若干着いたから実行に移すってさ」
「まじかよ・・・やったな。こっちも枩田教授に鈴木家の資料からいろいろ読み取ってもらい調べてたよ。やっぱり過去に爆発事故らしきものがあって、石碑が建立されてたよ」
と二人で今までの経過を話し合った。
そんなことを話し合った10日ほど後に
弁天池の横の防災備蓄倉庫の一角に
「東京大学田辺研究室」のプレハブ事務所の工事が始まった。
プレハブなので、1周間もあれば完成の予定だ。
それから大学の後期授業が9月下旬からはじまり
10月の最初の日曜日、プレハブ事務所の開所式が執り行われた。
そこには
「東京大学田辺研究室」の看板の横に
「帝都国際大学枩田研究室」の看板もあった。
実は田辺教授と枩田教授はその後意気投合して
どうせなら、両大学を巻き込んで2つの研究室の名前で
開設しようということになっていたのだ。
そのほうが箔がつくし、文系理系のいろいろな研究活動をやっても
怪しまれないだろうという二人の考えがあった。
開所式には砂地区、新河岸地区、扇河岸地区の
自治会の代表の方々と市役所の職員と警察が出席した。
この研究室の表向きの研究内容は
『「砂地区の地質調査」と「砂地区周辺の民間伝承調査」を
多角的な視点から調査研究する2大学による研究』ということになった。
室長はこの研究室に場所が近いこともあり枩田教授が就任した。
両大学の学生や教授は、必ずネームプレートを首から下げ、
砂地区内外を調査研究することにしており不審者では無いことを強調することになった。
尚、この日の開所式や、調査員が地区内を調査に回ることも
回覧板などで地区の住民には告知されていた。
プレハブは2階建てで
1階には6畳の部屋が2間とトイレがあり田辺研究室として研究機材が設置された。
2階は外階段で上がり6畳の部屋が1部屋で、枩田研究室として文献が運び込まれた。
2階からは弁天池が一望できる窓が付いていた。
そしていずれの部屋にもエアコンが設置されている。
田辺教授は多忙で、またこの現場まで遠いため月一度程度に来る予定で
あとは学生と助教授たちが教授の許可を得て研究することになっている。
枩田教授は毎週末にこちら来られそうである。
それから次の土曜日に
早速鉄男と翔子、斉木が研究室2階の枩田研究室に集まった。
この日は珍しく斉木の彼女の佐藤理恵も来ていた。
佐藤はこの研究室のことはよく分かっていないが
斉木について来たのだ。
「もうー、大学入ってから一度もあそびにいってないじゃない」と佐藤が斉木に言った。
佐藤は青学、斉木は東大同じ都内ではあるが
なかなか合う機会がないので、週末に何度か会う程度であった。
「しょうがないじゃないか。大学の友だちとでも遊びに行ってくれば?」と斉木は冷たく返した。
それを見ていた翔子が
「佐藤さん、よかったら買い物いかない?私あまりココらへんの地理詳しくないから」と
気を利かせて言った。
実はこの研究室に冷蔵庫はあるものの
中身が何もなかったので、どっちにしろ買い物に行きたかったのだ。
佐藤は少し機嫌を直して翔子と新河岸駅前のスーパーまで出かけていった。
斉木は鉄男に
「翔子ちゃん、気が効くいい女性だね・・・それに比べて理恵は・・・」と苦笑した。
鉄男は
「まあまあ、そう言うなよ。美人を彼女にした税金と思って・・・」を笑って言った。
「ところで、」と言って鉄男は地図を広げ、
弁天池に書いた五芒星の図を斉木に見せた。
「これどう思う?星の中心に何かあったりして」と鉄男は真剣に話してみた。
すると斉木は
「うーん、どうなんだろうね。一度池自体を調査しないと・・・とは思うけど・・・」
そう言って窓の外を見た。
池はいつもどおりの池だった。それは彼らが小さい頃から何ら変わっていなかった。
「ところで、斉木は下でどんな研究をするの?」と鉄男が聞くので
「うん、助教授が午後から来るから、礼の物質を実験装置で分析はじめるんだ」と答えた。
「どんな結果が出るか楽しみだな。でも爆発しないといいな」と鉄男が言って笑った。
「まあな。でも危険はつきものだからな、研究には・・・」と斉木も笑った。
鉄男と斉木は研究室を出て、弁天池脇まで行き、フェンス越しに池を眺めた。
「でもこの池に何がるんだろうな・・・?」鉄男が言うと
「さあな・・・。あ、そういえば例の物質な、教授が仮称を付けようって言ってたぞ。それを鉄男と俺と三重で決めてくれって」と斉木が言いった。
「仮称かよ・・・○○ストーンみたいな感じなのかな?」
「なんでもいいよ、仮称だから」
「なら、砂、弁天、ストーンで、SBストーンは?」と鉄男が言うと
「なんか調味料みたいな石だな、まあ仮称だからいいいか」と斉木が適当に答えたので
SBストーンに決まったが、ストーンをSにしてSBSにしようと二人は言った。
安易だがこれから例の物質は仮称SBSに決まった。
鉄男は地図上の弁天池の五芒星の中心であろう場所を見つめていたが
もちろん、なにも見えなかった。そこに有るかもしれない何かに思いをはせていた。
すると後ろから「鉄男くん」と翔子が呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると翔子と佐藤理恵が両手に買い物袋を持って歩いてきた。
「そんなに買い物したんだ」と笑いながら鉄男が二人のところに行き
研究室に入っていった。そしてあとから斉木も続いた。
まもなく、東大助教授がやってきて
SBSの調査が始まった。
沢山の試薬と、高性能の電子顕微鏡など、運び込まれた機材で
調査を行う。部屋の1角は黒い壁で覆われていて
放射線を当てる試験もできるようになっている。
助教授と斉木の邪魔をしてはいけないので
鉄男たちは2階の枩田研究室に移動した。
調査結果は2週間程度はかかりそうだという。
佐藤理恵はすっかり翔子と意気投合して、おしゃべりが止まらなくなっていたが
2時くらいになるとそれも飽きて、帰って行った。
それから枩田教授がやってきたので
例の五芒星の話をして、来週ゴムボートを浮かべて中心地を調査してみたいと
願い出て了承されたので、その準備に入った。
鉄男は、大量のタコ糸と赤い墨汁を買い行き
バケツに入れた赤い墨汁の中にタコ糸を巻のまま入れて、色を付けるため
次の週まで放置した。
翌週、ネームプレートを首から下げて、
ゴムボートを池に浮かべた。ゴムボートには大きく「東京大学・帝都国際大学」と
連名で記載してあった。
墨汁につけたタコ糸を道祖神のある場所のフェンスに結びつけ、対岸の道祖神のフェンスまで糸を張るのである。赤くしたのは見やすくするためだ。
タコ糸1巻では対岸まで届かないので、途中で新しいタコ糸を継ぎ足して
2時間近くかかって五芒星が出来上がった。
そしてその星のほぼ中心の辺りに、倒れたり流されたりしないように
長さ1メートルの杭を5本打った。
水深はそれほどなかったが、ボートの上からの作業は不安定なので
杭打ち作業は池に入って行われた。
ついでにその杭を打った周辺の泥や石をバケツに入れて持ち帰り、斉木に分析を依頼した。
次の週に斉木と助教授による研究結果が出た。
どうやら、このSBSは地球上のどこにも存在しない物質のようだ・・・。
それまで発見されたどんな物質とも違っているようだったので
田辺教授はたいへん驚いて、もっと詳しく調査をすることを指示した。
それから鉄男は、斉木たちの指導のもと、何度か爆発現場の調査にでかけた。
そこで赤外線調査や地質調査が繰り返されることになる。
同時に先週鉄男が引き上げた弁天池の石と泥も調査されている。
そして、月日は流れ
1993年3月
三重は無事東大に合格した。
三重は斉木の後輩として田辺研究室で勉強することになる。
また、それまでの調査の途中経過がまとめられ
田辺研究室に相当な予算もついた。
(ちなみに枩田研究室の予算は前年度とさほど変わらなかった)
核心に迫る
調査の経過がまとめらているが
成分を検査したところSBSが新種の物質(鉱物)であること。
SBS同士は磁石のようにくっ付くが、鉄や磁石、その他の金属にはくっつかない。
また以下は仮説であるが
砂地区内100箇所と隣接地区100箇所の定点調査を行った結果
砂地区の地下深くには、SBSの塊か、もしくは何か別の物体が広く分布してると思われる。
赤外線調査では砂地区内の観測地点の地下には周りの地区とは明らかに違う何かがあるようだった。
しかも砂地区の観測地点では周りの地域との地中温度差があり、
砂地区だけ平均0.25℃低いのだ。
これも何かの影響と思われる。
そして、弁天池の五芒星の中心の泥や体積物の中に
若干のSBSと同じ成分が検出された。
しかし中池の心から離れた幾つかの場所の体積物には何も検出されなかった。
ここまでが現段階の田辺研究室の途中経過である。
そして枩田研究室の調査では
砂氷川神社の前に有る石碑には
1695年前後の弁天池が溢れた後に
池で光る物体を拾った新河岸地区(新河岸村)の人が
家に持ち帰る際に、石碑の場所で
物体(おそらくSBS)が轟音轟かせて爆発したようである。
それは当時の川越の中心である川越城まで爆発音が轟いて
戦が始まったのかと思うほどだったらしい。
その爆発で神社前はすり鉢状の穴が空き
犠牲者は100人以上にのぼったようだった。
1395年前後の池の溢れたあとに
扇河岸と砂地区の間で起こった事件も
どうやら爆発のようで、同じく深い穴が空いて
犠牲者が20人近かったようだ。
いずれも、池が溢れた後に起こった事故であったようだ。
最初の事故の直後に弁天池の脇に厳島神社が建立され
次の事故の後に今の場所に改築された。
以上が途中経過であった。
途中経過の書類を見ながら斉木は鉄男に言った。
「SBSが世界のどこにもない物質だとして、これは太古の昔に隕石か何かが衝突したのだろうか?」と。
それに対して鉄男は
「そうか・・・でもここは平地だし、隕石がぶつかったら、すごく大きなクレーターみたいになるんじゃないのか?」と珍しくまともな答えを言った。
「だよな・・・」と斉木も考えこんだ。
鉄男は
「実はさあ、気になっていることがあるんだよ」と斉木に言い出して、続ける。
「砂地区って、なんで名前が 砂 なんだろうな?」と。
「それは、この地域が新河岸川と不老川がぶつかる地域で、大昔から川が溢れて
砂でうめつくされただろ?源流の秩父地方の地質もあるだろうし」と斉木が答えた。
「うん、それはそうだろうけど、他にも似てる地域があると思うけど、砂っていう
地名がつく地域って極めて少ないと思うんだよな・・・だいたい川が溢れてたら泥とか石とかじゃないのかな?砂が膨大な量堆積するってなんか不思議だよな・・・」と鉄男が言う。
「じゃあ、何か他に考えられるのか?」斉木が鉄男に聞いたが鉄男は
「それがわからないんだよな・・・」と結局ただの疑問で終わった。
その年の5月に
研究室の有る防災備蓄倉庫の土地と、砂地区の境界付近の土地で
ボーリング調査が始まった。
この調査で弁天池周辺や境界付近での土壌調査を行うのだ。
それから1ヶ月後に調査結果が出た。
まず、砂地区内では深い地層にはSBSの成分がかなり含まれていた。
それは弁天池に近くなればなるほど多量に含まれる事がわかった。
しかも弁天池の調査では「砂」より少し大きいSBSが2個ほど採取出来たのだ。
しかし砂地区の境界線より外の地層にSBSはまったく含まれなかった。
そして、地区の境界線の内外とでは、5m以上深いところの地質がかなり異なっていたのだ。
斉木はそれについて鉄男にこのように説明した。
「あくまでも仮説だけど、この砂地区は太古の昔、ポッカリと空いた穴だったのではないだろうか?」
「穴って・・・?」鉄男はその話がイメージできなかった。
それから二人の会話が続く。
「鉄男はメキシコのゴンドリナス洞窟のような縦穴洞窟みたいなの知らないか?」
「ああ、百科事典で見たことあるな・・・でも地形が違いすぎやしないか?」
「こう言うと科学的じゃないんだけど、隕石とか爆発とかで穴が空いたとか・・・そこに長い年月かけて泥や砂が堆積していったとか・・・」
「うーん、でも川越のここらへんだって大昔は海だったっていうじゃないか」
「たとえば海の時代に隕石か何かが落っこちてきて削ったとか・・・その削られた土砂は海に流されてしまい、ポッカリ穴が空いたとか・・・」と
斉木の説明はほとんど妄想であった。
しかし、砂地区内外の地質が違いすぎて、そう考えるしか無かったのかもしれない。
それから二人はしばらく黙りこんで
今度は鉄男が斉木に話しかけ、会話が続く。
「こっちの研究では、扇河岸と新河岸の石碑の場所で江戸時代とその前に爆発事故があったらしいけど、その前に弁天池が溢れたらしいんだよね・・・弁天池の地下には
SBSが堆積していて、水と一緒に出てきたのかな?」
「いや、弁天池は川や周囲の雨水が溜まった池だろ?地下からSBSが一緒に出てくるような自噴は無いんじゃないかな?溢れたのは大雨の時じゃないのかな?」
「でも伝承の文献からは、どうやら自噴したような記述もあったんだよね・・・」
と、二人は結論の出ない会話を繰り返した。
しかし、その結論が出る出来事がまもなく起こる・・・。
6月初旬のある晴れた土曜日の出来事。
鉄男はいつものように翔子と待ち合わせ、研究室の有る防災備蓄倉庫に向かった。
弁天池の周辺に来ると近隣の住民が数人集まって弁天池をみながら騒いでいた。
鉄男と翔子はそこに近づき「どうしたんですか?」と尋ねると
その中の初老の男性が「池の水位が上がってるんだよ、雨も降っていないのに・・・」と言ったので池を覗き込むと確かにいつもより10センチ以上水位が上がっていた。
ここのところまとまった雨も降っていないし、水位が上がるのは不思議な事であった。
鉄男は翔子に「行こう」と言って研究室に急いだ。
2階の研究室に入ると窓から弁天池を見渡した。
すると以前杭を打った場所あたりだけ
泡のような物がほんの少し出ているのが分かった。
鉄男は急いでゴムボートを膨らませて池に浮かべ、杭のほうに近づいて行った。
すると、泡のように見えたところは地下からの水の噴出だった。
周辺の泥水とは違い、噴出している部分の水は透明で、しかも、周囲の泥も流され
砂が見えていた。
弁天池は普段は泥で覆われていて濁っているのにそこだけは違っていた。
あきらかに自噴しているのだった。
自噴の勢いは時間を追うごとに益々増していき
次の日には池は満水状態になっていた。
このままでは池から水が溢れでてしまうということで
池の3箇所にポンプが設置され水が下水や側溝に流された。
しかし、その努力もむなしく、池はその日の午後に溢れてしまった。
だが、池の東側の住宅街は盛土されいる土地だったので住宅の被害は無かった。
南と北、西側は道路と田植え前の田んぼだったため、こちらもほとんど被害が無かった。
防災備蓄倉庫の敷地も、コンクリートで多少高くなっていたので無事であった。
弁天池の水はかなりの広範囲の田んぼに流れ出て、それから自噴は止まった。
池の周りには消防や警察も出ていて周辺道路は規制線が張られていた。
鉄男は池にゴムボートを浮かべ、自噴していた地点を見に行った。
すると、そこには拳大のSBSらしき塊が2個転がっていたので、急いで回収した。
SBS同士は磁石のように引っ付く性質があるので2つのSBSは拾い上げると
ボートの上で引っ付いた。
その後研究室1階のケースの中にSBSを入れて、斉木のポケベルに連絡を取った。
しばらくすると、斉木から研究室に連絡が入り
SBSを2個入手した旨を伝えた。
それを聞いた斉木は昨日から泊まり込んでいた東京大学から
急いで駆け付けたが、すでに夜遅かった。
翔子はすでに家に帰したので、研究室には鉄男だけが残っていた。
「おー、わりーわりー」と言いながら斉木が入ってきて
「どれがSBSの塊だ?」と言いながらケースを覗いた。
すると拳大のSBSが2個、青光りしていた。
「これはすごいね・・・池も自噴したんだ??」と鉄男に尋ねた。
「そうなんだよ。しかも池が溢れてSBSが現れた。なんか伝承通りみたいだ」と言ってさらに続けた
「昔の人は池が溢れて、水が引いた後にSBSを発見したんだろうな・・・。それを家に持ち帰ろうとして、砂地区の境界線あたりで爆発してしまったのかもしれないな・・・」と
感慨深そうに言った。
それを聞いていた斉木は
「持ち出し不能の物質SBSか・・・。万一持ちだしてしまうと爆発するという謎の高エネルギーの物質・・・。これが世の中の役に立つ物になったらいいのにな・・・」と言った。
鉄男は
「この地区の地下にはSBSが沢山眠っているのかな・・・どうなっちゃってんだろう、この地区は・・・」と言って笑いながら斉木を見た。
斉木は少し考えて
「でもさ、こんなある意味危険な物質がこの地区の地下にあるんだから
いつか公にして、この地区は封鎖しないといけないんじゃないかな?
不発弾が自分の家の下にあるようなものだからな・・・」と言い、鉄男も
それにうなずいた。
本 性
次の日曜日、田辺研究室の田辺教授がSBSを見に来た。
「いやあ、これはすごい!!」と目を丸くして言った。
鉄男は、伝承通りになったことも話すと
「そういうこともあるんだよな・・・」と田辺教授が頷いたので驚いた。
実は鉄男は田辺教授に一笑に付されると思っていたからだ。
この日は三重も来ていて、これからは三重も研究室を手伝いたいと教授に申し出て
快く了承された。
「これでやっと3人揃って研究調査ができるな」と斉木が言ったので
鉄男と三重は笑って頷き
「幼なじみ3人衆の研究かぁ」と翔子が言ったので、更にみんなで笑った。
しばらくして田辺教授が
「この新種のSBSは学会で発表しようと思う。そうすると世界中から研究者がやってくるとおもうけど、大丈夫かい?」と言うので
鉄男は
「でもSBSはこの地区から外に出せないので、地域の住民に迷惑がかかりますよね。
しかもこんな小さな研究室に大挙来られたら、大変なことになりますよ」と答えた。
田辺教授もうんうんと頷いていたが、それ以上は何も言わなかったので
斉木が
「この一帯の田んぼを国が買い取って、研究施設ができればいいのだけどね。どうせ研究者御一行様たちは都内からバスで来るはずだから、研究施設に直接入ってしまえば住民も何も言わないんじゃないかな」と言った。すると田辺教授が
「そうか・・・この周辺の土地を秘密裏に買収するように大学に働きかけてみようか・・・ゆくゆくは、ある意味この危険なSBSの存在も住民に知らせないといけないだろうと思うし・・・混乱を招くかもしれないが・・・」
それから半年後、周辺の田畑は東大研究所用地として合法的に収用されることに決まった。
その田畑の地主3名にはSBSの存在を話し、
そのことは決して口外しないと念書を書いてもらい
地価の3倍の額で買収した。当時はバブルが崩壊して不景気になってきたため
喜んで売ってくれたのだった。収用した土地の広さは田舎の小学校の校庭くらいの土地で
さほど広くは無かったが、砂地区では結構な広さだ。
実はその土地の北端には新河岸川があり対岸の古谷地区の土地も収容して整地され実験棟ができることになった。
新河岸川の下には地下トンネルが掘られ、弁天池側の建物から実験棟まで地下トンネルで行き来ができるようになっていた。
地下トンネルはシェルター構造でできており
実験棟の地下には5階相当の実験室があり
3重のシェルター構造で、万一爆発しても近隣に影響が出ないように作ってある。
それらの工事は、すべて急ピッチで行われたのだ。この国がこんな急ピッチで
物事を行うのは極めて珍しいことであった。
教授は大学と国に、新たなエネルギーになるかもしれない物質の研究のためと言って
強引に追加予算を取り、早急に動いたのだが、尋常じゃない速さで研究施設ができた。
1993年4月からこの研究室は使用ができるようになった。
ちなみに、この研究室にも
東京大学田辺研究室と
帝都国際大学枩田研究室の
2つの看板が掲げられた。
鉄男と翔子は帝都国際大学3年生
斉木は東京大学3年生、三重は同2年生になっていた。
4月の新研究室開所式で
田辺教授は思い切った手を打った。
それは、砂地区の代表を前にしたスピーチで
「この砂地区にはSBSはという新種の鉱物のような物質が眠っています。
この物質は将来新しいエネルギーとして期待できますが
実はそのままだと大変危険な物質なのです。その危険な物質の上に
この地区の住民の方々を住まわせておくことは、それこそ危険なことであります。
そこで、住民の方々には極力この地から移動してしていただきたいと思うのです。
我々はずっと国と折衝を重ねまして、砂地区の方々の土地は今から1年以内でしたら
バブル崩壊前の最高価格にて土地を買い上げる特別措置が決まりました。」
驚きの発言だった。
この時期の地価とバブル絶頂期の地価は2倍以上違うのだ。
「さらに土地の権利書はそのまま持っていていただき、新エネルギーができた将来
ここから取り出したSBSによって上がった収益から、お持ちの土地の大きさに応じて
配当をさせていただきます」という特約も付くのだ。もちろん収益が上がった場合の話ではあるが・・・。
まだ新エネルギーになるかどうかもわからず、土地の収用の予算がそんなに出るのかも疑問だったが、教授は本気で語った。
鉄男は
「斉木、なんかすごいことになったな・・・。本当に大丈夫なのかな?」と斉木に言うと
「うん・・・まあ田辺教授は悪人じゃないからな・・・たぶん」と鉄男に答えた。
それを聞いていた三重も
「教授は野心家じゃないから、大丈夫だとは思うが、驚きだな・・・」と言った。
それから砂地区は特別な法律で
土地の売買が禁止され、賃貸の転入も禁止されたので
住民はパニックに陥ったが、
それから1年の間に砂地区約3000世帯の99%ほどが近隣の土地や
新天地に引っ越していった。
地区はまさにゴーストタウンと化した。
ちなみに斉木は新河岸地区だったので引っ越す必要はないが
鉄男の家の星野家は川越市の中心部の三光町に
三重の家は川越市の隣の上福岡市に越していった。
残った1%の家は古くからの地主や農家だったので
交渉が続けらることになる。
田辺教授は一部の住人に抗議を受けながらも
「仕方がないのです、みなさんの家の下に爆弾が地中深く埋まっていると思ってください。これしか方法がなかったのです」と言って、最前線に出て謝り続けたのだ。
週刊誌からは独裁者とか危険人物とか散々な書かれ方をしたが
SBSの将来性を理解してもらうために、各地で講演を行った。
そこには私心はなく、使命のために動いている・・・そんな雰囲気であった。
しかし、田辺教授の本心はわからない・・・。
砂地区は出て行った人たちの家も塀もすべてが壊され、木々も切り取られ
更地にされた。残った家の人達もその光景を見て徐々に土地を手放して出て行った。
それはまさに広大な更地だった。
ただし神社だけは歴史上の建物なので、そのまま残された。
境界線には一部を除き鉄条網のフェンスが敷かれ
地区内への道は3箇所だけ残され、その3箇所も検問所が設けられ、
外部からの侵入が厳しく制限された。
ちなみに周辺の地区の住民も、その光景を目の当たりにして
恐怖を感じてその土地を出て行ってしまうものが相次いだ。
ある時、鉄男は枩田教授に田辺教授の現状を話し、意見を求めると
「田辺教授は強引なやり方だけど、それしか無いんじゃないかなと思いますよ。
SBSの存在を隠しておいても、だれかが拾って地域外に持ちだしたら被害者が出るし、
結局告知しないといけないとなると、大混乱を招くからね・・・まあ、もう混乱はもたらしたけどね」と笑った。
鉄男はあまり納得できなかったが、一緒に笑った。
1994年4月の話だった。
この間も研究室ではSBSの調査が行われていた。
話が1年戻るが、新研究室が稼働してすぐの1993年5月、
SBSは粉末にすると、アルコールに溶けることが分かった。
アルコール100に対してSBSの粉末1の割合で溶かすと
相当な高出力の燃料になりそうだということもわかってきた。
ちなみに、この時点でもSBSを砂地区より外に持ちだすと
爆発してしまう件は解決ができていない。
7月の前期試験が終わった後のことだった。
鉄男は翔子と一緒に新しい研究室にいた枩田教授に呼びだされた。
「鉄男くん、面白いものを発見したよ」と松田教授は開口一番鉄男に告げた。
「なんですか?教授、面白いものって」鉄男が聞き返した。
「実は例の鈴木家から持ち帰った伝承の資料で見落としたものがあったんだ。
砂地区のことに注目しすぎて、その周辺の地区の話は後回しにしていたんだが・・・」と言って教授はその古い資料を開いた。
「下新河岸地区の飛鳥神社に石のご神体のようなものが祀られているようなのだが・・・それがSBSなんじゃないかとピンときてね・・・」と教授が続けていった。
「そうなんですか?でもSBSだとしたら砂地区から出したら爆発しちゃうんじゃないですかね?」と鉄男が答えたので教授が
「必ず爆発するって決めつけたら調査できないよ。それよりこのご神体を調査しにいこうじゃないか!」と鉄男を誘った。
枩田教授と鉄男と翔子は
下新河岸地区にある飛鳥神社に向かった。
小さな神社だったが
そこを代々管理している長尾さんに立ち会っていただき
ご神体を特別に拝見させていただくことになった。
神社の扉を開けると、そこには拳大の大きさの
汚れた石が置いてあった。
それは汚れてはいたが、どこから見てもSBSだった・・・。
鉄男は
「教授、やっぱりSBSですね。なんでこれが地域外に・・・」そこで翔子が
管理者の長尾さんに尋ねた。
「長尾さん、このご神体について何か言い伝えとかあるのですか?」と。
すると長尾さんは
「あるのですが、実はあまり言いたくないんですよね・・・」と言い出した。
枩田教授がそれに対して
「ぜひ、地域の歴史の研究調査なのでご協力をお願いします」と頭を下げたので
「そうですか・・・ではお話しますが・・・」と長尾さんは言って
ご神体に二礼二拍手一礼をしてから
「実はこの御神体は、江戸時代に砂地区の厳島神社から頂いたものなのだそうですが、
頂くときに厳島神社に集まった村人たちの前で祈祷したそうなのですが・・・そこまでは普通の話なのですが・・・」とそれ以上を言うのを迷ってから
「厳島神社から頂き、この神社に持ち帰る際にそのご神体は
途中で突然爆発かなにかをしたようでして・・・」と言い出したので、鉄男はハッとして
「もしかして砂氷川神社の前でですか?」と口を挟んだ。
「はい・・・よくご存知で」と長尾さんが話を続けた。
「実はその時に、もうひとつ同じような石があったそうで、
実はその石が・・・」と一呼吸おいてから
「その石は、弁天池の脇に水牛の小屋があったそうで、その小屋の牛糞の中に落としてしまったものらしいのです」と言いづらそうに長尾さんが言った。
鉄男と翔子と教授は同時に
「はぁ・・・」といって笑いそうになった。
「牛糞の中に落とした石は、洗って一度厳島神社で祈祷されたらしいのですが
最初に頂いたものが爆発してしまったようですので、後年、そのいわくつきの石が
ここにやってきたのだそうです・・・もちろんそれは村人には伏せられてきましたが・・・」と一気に長尾さんが言って、最後に
「まあ言い伝えですけどね・・・」と話を結んだ。
三人は長尾さんに丁重にお礼を言って
新しい研究室に戻った。
鉄男は
「牛糞って・・・すごいな・・・」と言ったので
翔子も
「なんかくさい話しね・・・」と続けて言って笑った。
鉄男が
「そういえば、弁天池のちょっと行ったところに牧場があるんだけど、
そこの牛糞かもしれませんね・・・」と教授に言うと
「まあここらへんでいま牛糞があるとしたらそこの牧場だけだね。こんど牛糞もらいにいってみようか?」と教授が言ったので
「はい、気合を入れて行ってみましょう」と鉄男は返した。
、
ちなみに、この時点ではまだ、
弁天池近くの牧場も移転すること無く砂地区で牛を飼っていたし
住民のほとんどは残っていた。
鉄男は斉木と三重に飛鳥神社のご神体の件を話してみた。
斉木は
「おいおい、牛糞に落としただけで物質が変化するのか?言い伝えに過ぎないよ」と
一笑に付したが、
三重は「でも、池が溢れたりSBSが出てきたり、伝承にもなにかあるんじゃないか?」と言ってくれた。
鉄男が
「一度少量でいいから研究してみないか?」と言ったので
「まあ、少量の実験ならやってみるか・・・」と斉木も渋々了承した。
実は斉木は教授からいろいろな課題を与えられていて
それで手がいっぱいだったのだ。
それから鉄男は近くの牧場に牛糞をもらいに行った。
その牛糞にSBSを砕いた粉末を少量混ぜて
電子顕微鏡でその結晶を確認すると
結晶は全然違うものに変化していた。
「おいおい、全然違う物質になってしまったぜ」と斉木が三重に言ったので
三重も確認をしてみたら確かに結晶が変化していた。
三重は「実験棟に移動して、爆発を確認してみるか?」と言ったので
鉄男と斉木は「そうしよう」と言った。
ただ斉木は「教授に許可を取ってないが、教授は学会で今日は連絡が取れないので
別の日にしないか?」と提案した。
鉄男は
「事後承諾でやってみればいいじゃないか。多分爆発しないよ」と自信ありげに言い、何とか教授のいない今実験をしたいと思ったのだ。
鉄男は田辺教授を4月の開所式よりあまり信用していなかった。
できたら教授には秘密裏に動きたいと思ったのだ。
とりあえず三人は地下通路を通り、その変化したSBSを持って実験棟に移動した。
この実験棟は3重のシェルター構造になっていて
多少の爆発ではびくともしない。
この時点で、すでに何度か少量のSBSを爆発させる実験を行っていた。
三人は被検体を専用の容器に入れ、実験棟のシェルター室に続くスロープに置いた。
このスロープを滑らせ、シェルター内に送ることになっている。
スロープにも3重の扉がついており、被検体がそこを通ると自動的に閉まるようになっている。
シェルター内は複数のカメラで撮影されておりモニターで監視が可能のうえ、自動的に録画もされる。
斉木は
「被検体を投入した」と言ってモニターで監視をしたが
確かにそのSBSの変化した物質は無反応だった。
「これはまた大発見だねぇ」と三重が唸ったが
鉄男は
「な、言った通りだろ?」と言って更に続けた。
「あのさ、この実験の件はしばらく田辺教授には秘密にしておいてくれないか?
もう少し考えたいことがあるので・・・」と二人に言った。
斉木と三重は「それはまずいんじゃないか?勝手に実験棟を使っただけでもまずいのに、報告しないのはもっとまずい・・教授は怒ると怖いからなぁ・・・」と鉄男に言うので
「いや、この実験は三人しか知らないことだから。爆発させたらバレていたかもしれないけど、爆発はしていないんだから、大丈夫。俺たち三人の秘密だ!」とどうしても譲らいないぞと言う感じで二人に告げた。
あまりにも鉄男が強く言ったので二人も折れて
「今回だけだからな・・・」と斉木が言い、三重も同意した。
「ありがとう。まあ機会があったら教授に言おうよ」と鉄男も二人に感謝して言った。
斉木は自動で録画された実験映像を完全に消去した。
その後、砂地区の住民が地区外に越していくのを見ながら
鉄男は少しずつ牛糞を集めていた。そして集めた牛糞を
防災備蓄倉庫の裏に穴を掘り、容器に入れて隠した。
1994年4月
更地になった砂地区では、大規模なボーリング調査が行われ
弁天池もその対象になった。
その調査を行うのが、田辺教授が集めた企業連合だった。
筆頭はエネルギー関連商社最大手の新山木商事だ。
新山木商事はバブル前に土地を買いあさり、バブル絶頂期にすべてを売り
資産を10倍近くにした商社だった。その資産は当時の日本の国家予算ほどだった。
その他にも大手ケミカル関係やゼネコン、鉄鋼業、非鉄金属、機械製造業など
様々な業種が入っていた。
「教授はどうやって企業連合を集めたのだろう?どうするつもりなんだろう?」と
鉄男は斉木と三重に言ったが
「教授のやることはわからないけど、すごいことになったな」と三重が言った。
斉木は
「俺達は研究するだけだよ。じゃないと卒業できないし・・」と苦笑した。
翔子は「鉄男くん、お父さん・・・いや枩田教授はしばらく
大学で仕事をするそうだから、こっちには来ないみたいだよ。田辺教授にもよろしくって言ってた」と鉄男に告げた。
鉄男は不安になったが、それは表面には出さなかった。
1994年の夏には、ボーリング調査の結果が出た。
それによると砂地区内の地中深くにはSBSが多量に眠っているということだった。
ただ、弁天池だけは調査が難航していた。
弁天池の水をすべてポンプで抜こうとしたのだが、
半分ほど水を抜いたところで、池がまた自噴をはじめたのだ。
それから普段の水位に戻ったので、また水抜きをすると自噴・・・
その繰り返しだった。
自噴スポットは以前鉄男が確認して杭を打ったところだったが
今回はSBSの噴出は無かった。
仕方なくその自噴する場所を区切って、周りの水を抜いて調査をしようとしたところ
自噴スポットが急に増え、どうしても水抜きが出来ない状態が続いたので
池の周辺を掘ることにした。
池の周囲20mくらいを掘ると、そこからも大量の水が出るという繰り返しで
一向に作業が進まなかった。
田辺教授は、池の調査は後回しでもかまわないとして
国と企業連合の代表をこの地区に招き、研究室の建物にある会議室で
「この地区には信じられないくらい、高エネルギーの物質SBSの塊が大量に眠っているので、これを研究調査し、将来国のエネルギーとして活用しましょう」と講演を行った。
その姿は、野心家とは到底かけ離れた腰の低い教授だったので、
斉木も三重も安心した。
ただ鉄男だけがまだ疑いを持っていた。
「なんか・・・何か有るような気がする」と翔子にボソッと言ったが
翔子も「ね・・・」と同意をした。
それからしばらくすると、砂地区内の東側で採掘事業が始まったが
なかなか思うように沢山のSBSは採掘できなかった。
砂地区内には採取したSBSを砕いて精製する工場が建てられ
企業が実験するための施設も建てられた。
そんなある日、枩田研究室で鉄男と翔子が話をしていると
少し離れた会議室から大声が聞こえてきた。
何かもめているようだった。
鉄男と翔子は音を立てないように会議室まえの廊下に行き
ドアの隙間から覗いてみた。
そこには田辺教授と大手商社新山木商事の井川部長だった。
「先生、これ以上は出せませんよ・・・研究調査費だってかなり捻出したのですから。それに先日別に50億用意したじゃないですか・・・」と
井川は教授に泣きついた。
「何を言ってるんだ、これが成功したらお前のところが一番儲かるんだぞ!
あと50億くらいなんとか捻出しろ!」
と普段見たことのない形相で田辺教授が井川に怒鳴った。
「そんなこと言ってもですね・・・ではSBSのエネルギー化が成功したらその報酬として・・・というわけにはいかないでしょうか?」と更に泣きついたが
「そんなに言うならこの研究から手を引いてもらって結構だ!
SBSの威力は実験でみただろ?
まあお前ごときにはわからんだろうがな!!それなら俺は他の業者に任せることにするぞ」と
声を荒げ、まるでヤクザのように言い捨てた。
「待ってくださいよ・・・明日また本社に帰って検討しますから・・・」と井川部長がさらに泣きつくと
「いや、今日すぐに報告しなかったら別の会社に任せるからな」と井川部長を睨みつけて田辺教授は言った。
井川部長が困った様子で会議室のドアの方に向かってきたので、鉄男と翔子はあわてて
枩田研究室に戻って、何事も無かったのかのように雑談をはじめた。
研究室の前の廊下を井川部長が独り言をブツブツ言いながら
急ぎ足で通りすぎて行くと、少しして田辺教授が真っ赤な顔をして
ブツブツ言いながら歩いてきた。
鉄男と翔子はわざとらしく笑い話をして、いかにも何も聞いてないように演技をしたが
その声に気づいた田辺教授が枩田研究室のドアを開けて入ってきた。
田辺教授は一瞬二人を睨みつけたように見えたが、
すぐにいつもの温和な教授に戻り
「やあ、お二人さん来てたんだ?いま新山木商事の部長が私に研究内容を聞きたいといって来たので、会議室でいろいろ説明してるうちについ熱くなって声が大きくなってしまったよ・・・。何か聞こえたかな?邪魔しちゃった?」と二人に何かを探るように聞いてきたので
鉄男が
「え?教授いらっしゃったの気づきませんでした・・・。こちらこそ大声で笑い話とかしていてすみませんでした」と頭を下げ
翔子も「申し訳ありませんでした」と同調して頭を下げた。
すると田辺教授は
「いやいや、大丈夫大丈夫。しかし二人は仲がいいんだね。まあこれかもよろしく。わはははは」と
上機嫌になって部屋から出て行った。
鉄男と翔子は「ふーっ」と二人で顔を見合わせた。
それから教授が遠くに行ったのを確認してから
ヒソヒソ話をした。
「50億だってさ・・・賄賂かな・・」
「別に50億を先日払ったって言ってたわね、合計100億ってことかしらね?」
「やっぱり、なんかおかしいと思ったよ」
「そうね、あんな人とは思わなかった。なんかヤクザみたいね、」
と言って、今後どうしようかと二人は話し合った。
田辺研究室では斉木と三重が話していた。
「アルコール100に対してSBSを1混ぜると、ガソリンの100倍以上の高出力エネルギーができるが、その配合率をもっと下げて、ガソリン並みのエネルギーにするならアルコール10000に対してSBSが1でも十分だと思う。そうするとかなりのエネルギーを賄えるな。
ただしSBSの原石を解析したところ、不純物がかなり含まれているのでそれを純化しないといけないが、これがなかなかうまくできない。SBSの塊に含まれる純粋なSBS含有率は100に対して1だからなぁ・・・」と続けて説明した。
それを聞いて三重が
「教授はSBSが向こう100年間の日本のエネルギーを賄えるくらいこの砂地区に埋まっていると言っていたが、そんなにあるのかなぁ?」と斉木に聞いた。
「そんなこと、知らないよ・・・ただ教授が専門家と一緒に調べた結果なんだから
そんなもんなんじゃないのかなあ・・・」と斉木は言った。
「それに、この地区から外に出したら爆発しちゃうんだからね、たとえアルコールに溶かしたって同じだし。まずはそれを解決しないと・・・」と三重も言った。
「そうだよな。あの牛糞を混ぜたSBSは爆発しなくなるけど、結晶も変わってしまってエネルギーとしては使い物にならなくなっちゃうからなあ・・・」
と二人がはなしているところに、田辺教授が入ってきた。
「やあ、君たち」といつもと変わらない顔色で教授が挨拶した。
二人はその後、教授の指示で研究を開始した。
鉄男と翔子は帝都国際大学の枩田教授の部屋にいた。
「教授、お話があるのですが・・・」と鉄男が枩田教授に話しかけた。
教授はいつものような温和な笑顔で「どうしました?」と答えた。
「実は、田辺教授のことなのですが・・・」と鉄男が言ったところで
枩田教授の顔色が少し変わった
「業者を呼びつけて怒鳴っていたのをたまたま見かけまして・・・
どうやら業者にお金を請求していたように見えたのですが・・・」と鉄男が続けたところ枩田教授は丸メガネを机に置いて、鉄男のほうを見て言った。
「そうですか・・・やはりねぇ・・・」と。
そして続けて
「田辺教授は最初はいい人だなって思って付き合ってたんですけどね、
話しているうちにだんだん教授の、我っていうか、野心っていうか、そいうのを感じましてね・・・。で、私も東京大学の卒業生なのでいろいろなつてを使って田辺教授のことを探ってみたんですよね・・・こっそりと」と言って目頭を何度か押さえて
「そしたら、あまり良い噂を聞かないんですよ。気が短くて、気に食わないと暴力こそ振るわないけれどすぐ怒鳴り散らしたり。威圧的なんだそうです。
また研究資材とかを扱う出入り業者を虫けらのように扱うとか。
でもお気に入りの業者にはとても良くしてやったりするから、一部では賄賂をもらっているのではないかとの噂もあってね・・・。
そうですか、やはりそいうことがあるんですね・・・」と残念そうに言った。
「このまま、田辺教授と一緒に研究をしていていいのでしょうか?」と鉄男が枩田教授に聞くと、教授は
「その件は、こちらもいろいろな方面から何とかしてみます。とりあえず君たちは田辺教授の機嫌を損なわないように、そうだねぇ、持ち上げておいてください。
彼は教授教授ってすり寄ってくる者には危害は加えないようなのでね。
そうすれば当分は大丈夫だと思いますから・・・」と言った。
どうやら砂弁天の研究室に行かなくなったのは、表向きは自分の大学の仕事が手一杯になっているということにしていたが、本当はそういう理由もあったようだった。
ところで1994年後半にはPHSがポケベルに代わって普及し始めていた。
各業者が無料で端末を配っていたため、学生たちの間で一気にPHSの所有が広まった。
月額使用料も携帯電話よりかなり低く設定してあり、学生には使いやすかったというのも普及の理由だろう。
鉄男や翔子、斉木や三重たちも、このPHSを使い始めていた。
ある日鉄男は斉木のPHSに連絡を入れた。
「もしもし、斉木?星野だけど・・・」というと
「あら?鉄男くん?私よわたし、わかる?」と馴れ馴れしい女の声が聞こえた。
鉄男は考えるまもなく、電話の向こうが斉木の彼女の佐藤理恵だと分かったので
早く代わってもらいたく、ぶっきらぼうに
「分かるよ。佐藤だろ?斉木は?」と言った。
「なによ、つめたいのねー。いまねぇ、一成とイイところに来てるのー。
わかる?イイトコよイイトコ!
ところで翔子ちゃんとはうまくヤッてるのー?」と相変わらずの調子で言ったので鉄男はため息をついたが、PHSの向こうでは斉木が
「おい、勝手に人の電話にでるなよな・・・誰だよ?」とキレ気味に佐藤に言っているのが聞こえた。
佐藤は
「鉄男くんよ。もう鉄男くんも冷たいし、つまんなーい」と言っていたが
鉄男はそれを聞いて更にため息が出た。
それから斉木が電話に出て
「鉄男?わりぃわりぃ、どうした?」と言ったので鉄男は
「お前まだ佐藤と付き合ってるのか?ところで今どこに居るの?」と聞いた。
さほど関心もないが、つい口から出てしまったのだ。
斉木は
「あ・・・都内のイイトコだよ・・・」とどもりながら言ったので
「あ、ごめんごめん、お取り込み中だったんだ?大した用事じゃないから後で暇になったらかけて」と鉄男は返した。
「あ、うん・・・2時間くらいしたらかけ直すわ」と電話を切られてしまった。
鉄男は
「何がイイトコだよ」と思って笑ったが、自分にそういうチャンスが来ないので
多少妬いていた。
それから2時間くらいして鉄男のPHSが鳴った。斉木からだった。
「あ、もしもし斉木だけど、わりぃわりぃ」
「お勤めご苦労様。ずいぶんツヤツヤした声だね」と鉄男は斉木をからかった。
「うるさいよ。お前らだってしてるだろ?ところでどうした?」と斉木はちょっと不機嫌そうに言った。
鉄男は「大きなお世話だ」と思いつつも
「いや、最近研究はどうかと思って・・・」と当り障りのないことをまず言った。
「なんだよ鉄男、そんなことなら研究室で聞いてくれればいいじゃないか」
「それが、ちょっと研究室では話しづらい事があってさ・・研究とはあまり関係ないんだけど・・・田辺教授のことなんだけど・・・・」
「教授がどうかしたか?」
「いや、この前業者を呼び出して怒鳴っていた場面を見ちゃってさ・・・教授ってああいう人なんだ?って思ってね・・・」と鉄男はお金の件には触れずに斉木に聞いてみた。
「ああ、そんなことか。そういう人だよ、教授は。だから俺たち学生の間では、田辺はとりあえずおだてておけってなってるからな。余計なこと言うとすぐにキレるから」と斉木は言う。
「そうか・・・最初はそんな人に見えなかったけどな・・・」と鉄男が言うと
「外にはいい顔するからね。あの人は虚栄心がすごくて、いつも自分が世界の中心じゃないと嫌な人なんだよ。細かいこともすべて報告しないとキレるし。気に入らないことがあるとガンガン怒鳴るし、一度目をつけられると、とことん攻撃されるらしいし。
まあ適当におだてておけば何とかなるって先輩たちも言ってるよ」斉木は淡々と語った。
「そうか・・・なんか今後が不安になってきたよ」と鉄男が弱気な感じで言うので
「まあ、他の大学の学生にはむやみに怒鳴らないと思うし、鉄男たちも『教授教授』ってゴマすっておだてておいてよ」と笑いながら言って、二人はしばらく世間話などをしてからPHSを切った。
1994年の秋になると田辺教授は毎日のように
砂地区の研究室に入り浸っていた。
それに合わせ、斉木と三重も極力この研究室に現れた。
今やっている主な研究は
SBSをアルコールに混ぜた液体をガソリンなどの代替エネルギーにすることと
その液体を砂地区の外に持ち出すことだった。
今の段階では砂地区外に持ち出すと爆発してしまうのだ。
田辺教授と助教授や学生たちがこの問題に取り組んでおり、
大手自動車会社などもガソリンの代替エネルギーとして活用できないかを研究していた。
この時点で、ガソリンの代替エネルギーとしての活用は比較的容易に出来そうだということがわかっている。
ある時、研究室の廊下で鉄男は新山木商事の井川部長とすれ違った。
部長は眉間にしわを寄せブツブツ独り言を言いながら歩いていたが
鉄男が「こんにちは」と挨拶をすると
部長は立ち止まって、ちょっと考えてから「こんにちは・・・。えーと、君は・・・?」と鉄男の顔を見て言った。
「私は帝都国際大学の星野鉄男と申します」と鉄男が言うと
「ああ、枩田教授のところの学生さんか。枩田教授は最近見かけないけどお元気かな?」と井川部長が尋ねるので、
「はい、教授は大学の方の仕事が忙しくて、ここのところ砂の研究室には来られませんが、いつもと同じように大学で仕事をされています」と、鉄男は笑顔で答えた。
「そうか、それは何より・・・。あ、そうだ、そうだ、枩田教授に連絡を取りたいのだけど連絡先を教えてもらえないかな?」
「はい、ちょっと待って下さいね」と鉄男は答えながら、教授の連絡先をメモした紙を部長に渡した。
「ありがとう。これで何とかなるかもしれない、ありがとう」と何度も鉄男に礼を言って帰って行った。
その後、鉄男は勝手に教授の連絡先を教えてしまったことをまずいと思い、
とりいそぎ教授に電話をした。
「星野ですが、教授、すみません。実は新山木商事の井川部長に頼まれて
教授の連絡先を教えてしまいました。もしかしたら電話がかかってきてしまうかもしれないのですが・・・」
「ああ、井川部長なら何度か研究室で話したことがあるから大丈夫だよ。心配しなくていいよ」と教授はあたたかく言ってくれた。
鉄男はホッとしたが、人の電話番号などは、勝手に教えないようにしようと心に誓った。
それから数日後の出来事だった。
砂の研究室に警察の捜査が入った。
どうやら、新山木商事と田辺教授との贈収賄が表面化したようだった。
鉄男たち学生も研究室から追い出されて、建物の外で待つように言われた。
この日は枩田教授もめずらしく来ていたので一緒に外に出た。
田辺教授は警察に任意同行で連れて行かれそうになっていたが
急に駈け出した。しかも手にはかなり大きなSBSの塊を持っていた。
鉄男が
「あれ、持って逃げるつもりだ。もしかしたら自爆しようとか考えてるんじゃ・・・」
と言うと斉木が
「あの大きな塊が爆発したら、隣の地区に出た途端に大爆発するぞ。
そうしたらこの辺り一帯が消滅してしまう・・・俺達も木っ端微塵だ」と青ざめた。
鉄男と斉木と三重は教授の後を追った。
翔子も後を追おうとしたが
枩田教授が「待つんだ」と引き止めた。
「でも、みんなが」
「いや、彼らに任せよう」
「でも鉄男くんが・・・」と泣きそうになりながら言ったが
枩田教授は翔子の腕を掴んで離さなかった。
「彼らは大丈夫だよ」と言って。
田辺教授は砂地区の南方面に走っていった。隣は下新河岸地区だった。
ここは砂氷川神社のある方面で、大昔に爆発のあった場所でもある。
田辺教授は警察や学生たちが追ってくるのをうまくかわしながら
鉄条網のフェンスまでたどり着き、フェンスを背に、追いかけてくる者たちの方に向いて
立ち止まった。その手にはSBSが握られている。
「来るな!来たらSBSをフェンスの向こうに投げるぞ!そしたらお前らも一緒に死ぬことになる!」と喚き散らした。
教授と取り巻きの警察たちの間は約20mだった。
教授はフェンスにもたれるようにして座り込んだ。
斉木が「教授、何があったか知りませんが、一緒に研究室に戻りましょう」となだめたが
「うるさい、お前ごときになにがわかるのか!俺は日本のために、日本のエネルギーのために頑張っているんだぞ!」と教授は大声で喚いた。
三重は
「教授、一体なにがあったんですか?僕たちは教授の見方ですよ」と言ったが
田辺教授は「うるさい、来るな。来たらこれを向こうに投げるぞ」と言ってSBSを抱きかかえていた。
警察はSBSがまさか爆発物とは知らないので、教授に向かって歩き出そうとしたので
鉄男がそれを止めに入った。
「みなさん、あの石みたいなのは爆発物なんです。教授を刺激しないでください」と。
フェンスの向こう側では子どもたちが遊んでいたので、警察が慌ててそこから100mある検問所から外に出て子どもたちを避難させた。
斉木と三重は何が起きているのかわからず
「教授、とにかく研究室に戻りましょう」と繰り返し行ったが
「あっちに行ってろ!」と教授は相変わらずわめいていた。
鉄男は何かに気づき、いそいで研究室の方へ走って行こうとしたので
三重が「おい、鉄男どうした?」と大声で言うと
「いや、すぐ戻るから!」と言いながら走って行ってしまった
斉木も「何なんだよ、何がなんだか・・・・」
鉄男は研究室の脇にある旧防災備蓄倉庫の建物の脇に隠しておいたポリバケツに入った牛糞をそのまま持ち出し、教授が籠城している場所に戻っていった。
斉木たちのちかくに戻ると
「おまえこんな時になにやってるんだよ。おえ~っ、臭え」と三重が鉄男に言った。
すると斉木が
「そうか、それでSBSを無効化するのか・・・でもどうやって・・・」と言う。
鉄男は少し考えてから
「それは俺にもわからないけど、隙ができたらなんとかこれで・・・」と
二人の顔の前にポリバケツを差し出したので
二人は「おえーっ」と吐きそうになった。
教授はSBSを抱きかかえながら
「新山木商事の井川を呼べ!あいつを呼ばないとこれを爆発させるぞ!」と
相変わらずの調子で叫んでいる。
鉄男は斉木と三重に「これを投げてSBSに当てよう」と言い出したが
「投げたところで、少し当たるだけだろ?意味ないんじゃないか?」と斉木は言った。
三重は「そうだよ、しかもどうやって投げるんだよ?当たらなかったらどうする?そしたら教授は逆上してSBSを爆発させちゃうぜ」と続けたが
すぐに鉄男はバケツに手を突っ込み、牛糞を素手で取り出し、団子状に丸めはじめた。
「おまえ、正気かよ?」と斉木が
「いくらなんでも・・・」と三重も言ったので
鉄男は「なんか生死がかかってると、人間何でもできるんだな?」とニヤけながら二人に言った。
鉄男は直径10センチくらいの牛糞団子を6個作って、三人の前に並べて言った。
「一人二個だ!数撃ちゃあたるよ」と。
斉木と三重は顔を見合わせてため息をついたが
「もうやけクソだ!」と斉木がダジャレ風に言ったので
三重も笑いながら「クソーっ、しょうがねえなあ」と続けた。
一瞬の間を置いて三人は笑った。
教授はまだ何かをわめいているが鉄男は
「隙はぜったにある。チャンスは来る」と二人に言って
かゆい鼻をかこうとしたが、手には牛糞がべったり付いているので我慢した。
それから1時間経過したころ、教授の携帯電話が鳴った。
教授は片手でSBSを持ち、もう片手でポケットから携帯を取り出し
電話に出た。しかし視線は警察や学生たちを見ていた。
田辺教授が誰と話しているのかはわからないが
「お前が俺を売ったのか!ふざけんなこの野郎!
俺がいなくなったら日本の代替エネルギーは誰が作ると思っているんだ!」と
言って携帯電話を地面に叩きつけ、何度も踏み潰した。
その時だった、教授はよろけてSBSを落としてしまった。
とっさに鉄男が
「斉木SBSを狙え」と言ったので
斉木がSBSに牛糞を2個連続で投げた。
斉木は高校時代野球部だったので制球能力はピカイチだった。
みごとに2個ともSBSに当って、牛糞はSBSを包み込んだ。
間髪入れず、鉄男は教授をめがけて牛糞を投げた。
それをみて三重もすぐ続いた「教授すみません」と言いながら。
鉄男と三重の投げた牛糞もみごとに教授にあたり
とくに三重の投げたのが教授の顔面にジャストミートして、教授は倒れた。
すぐに警官が取り押さえようと教授のところに走りだしたが、
牛糞まみれの教授は倒れながら、牛糞まみれのSBSをフェンスの向こう側に
放り投げた。
斉木が「やばい!」と叫んで
「伏せろー!」と三重も叫んだ。
牛糞まみれのSBSは下新河岸地区の地面に落ち、粉々に砕けた。
教授は
「な・・・なんで爆発しないんだー」と喚いて
そのまま警察に取り押さえられた。
そこへ、枩田教授と翔子たちがやってきて、
「鉄男くーん」と言って泣きながら翔子が鉄男に抱きついた。
鉄男はあまりの勢いだったので翔子の背中に手を回してしまった。
「ごめん、翔子ちゃん、洋服に牛糞つけちゃったよ・・・」と笑ったが
翔子は「無事でよかった・・・無事でよかった・・・」と泣きじゃくった。
枩田教授は辺りを見回して「あらら、みんなクソまみれになっちゃったね」と
笑って、三人をねぎらった。
田辺教授は糞まみれのまま「枩田!お前ごときに何ができるんだ!俺は絶対にお前を許さん」と喚きながらパトカーに乗せられて、連れていかれてしまった。
鉄男たちは枩田教授に
「何があったんですか?」と聞くと
「いやあ、さっき田辺教授が携帯出たろ?あれ私がかけたんだ。教授に諦めて投降しなさいってね」と学生たちみながら言って
「くわしくはまた後で話すから、まずはその臭いの洗い流してくださいよ」と言ったので
みんなで笑った。
翔子は鉄男が爆発に巻き込まれずにすんだので心底ホッとしていたが
涙が溢れて仕方なかった。
「翔子ちゃん、臭いだろ?とりあえず研究室行って洗おうよ」と鉄男が言うと
「うん・・・そうね。ホントに臭いね・・・」と翔子も涙をながしながら笑った。
その後、鉄男たちと翔子は枩田教授と一緒に研究室に戻った。
研究室には宿泊用にシャワールームが設けてあったので
彼らは順番に汚れを落とした。
鉄男たちの着替えは、下新河岸地区にある斉木の家から拝借した。
また、翔子の着替えは斉木の彼女の佐藤理恵が自分のものを持ってきて、
「翔子ちゃん、なんかひどい目にあったのね?・・・大丈夫?」
「佐藤さんありがとう。大丈夫よ。近くに来るとくさいから後でまたね」
と翔子は適当に話を切り上げてシャワールームに入った。
そして一息ついた後、会議室に皆が集まり、そこで枩田教授による説明がされた。
それによると新山木商事の井川部長が、田辺教授から50億という
法外なリベートを要求され、一度は会社の帳簿を改ざんして
田辺教授に50億を渡したが、さらに50億を要求されたので、
井川部長は悩んだ挙句、枩田教授に相談したのだった。
枩田教授は井川部長に、過去の50億と再度要求されている件を正直に
警察に届け出たらどうかと提案し、熟考熟慮した結果、警察に届け出て
田辺教授の任意同行が行われ、今回の事件に発展したのだそうだ。
また、今回のことは井川部長がすべて会社に断りもなく独断でやったことなので
今後の開発事業も新山木商事が引き続き行われることになった。
井川部長は、枩田教授に「日本の将来がかかっています。私はどうなってもいいので、研究の道筋をつけてあげてください」と言って、会社に辞表を出して警察に自首したそうだ。
それから枩田教授は、近いうちにこの研究室に新たな教授がやってくるということも
付け足した。
その教授は枩田教授と東京大学で学生時代に同じサークルだった伊東と言う方で
以来ずっと親交のある方だそうだ。
田辺教授が自慢癖があったので、伊東教授は田辺教授からいろいろと自慢話を聞かされており、研究に関するある程度のことは知っているのだそうだ。
ちなみに田辺教授はその後、井川部長とともに贈収賄容疑で逮捕され裁判で有罪になった。
後日、伊東教授が研究室にやってきた。
背が高く、頭頂部が少し剥げていたが優しそうな眼差しの人だった。
「こんにちは、私は伊東と申します。みなさん、大変な目にあったそうですが
これからは、私も皆さんと一緒に研究をしますのでよろしくお願いします。」と
腰を低くして自己紹介をした。
同席していた枩田教授も
「伊東教授は裏表のない真面目な人だから、みなさん信頼して大丈夫ですよ」と
笑いながら伊東教授を紹介した。
斉木と三重は伊東教授に過去から現在にいたるまでのSBSの研究をざっと説明をした。
斉木は伊東教授に
「今研究しているのは、SBSの粉末をアルコールに溶かしてやると
高エネルギーの液体になるのですが、この地区から外に出すと
爆発してしまうというSBSの性質はそのままなので
代替エネルギーとしてはまだ使えません。それを解決したいのです」と告げた。
「そうですか、それなら発想を転換して、この地区で他のエネルギーに変換する
というのはどうですか?
たとえば・・・その液体を使った発電所を作って電気として流すとか・・・」
そう伊東教授が言うと三重は
「なるほど!そういう手がありますね」と喜び答えた。
しかし教授は
「だからといって、そのエネルギーが世界で普遍的に使えるようにならないと
研究したことにはなりませんので、それは続けましょう」と
二人に淡々と言って聞かせた。
後日、鉄男と翔子は枩田教授と一緒に、伊東教授に
地域伝承とSBSの関係を説明し、また鉄男は
自分たちが小学校の頃から経験したこともすべて話しをした。
伊東教授は疑う様子もなくすべてを受け入れたようだった。
伊東教授は地質学の専門の秋山教授を研究室に招き
砂地区の地価に眠るSBSについての調査を行うことにした。
実は、以前田辺教授の指示で調査を行ったが
田辺教授が民間業者に丸投げしたため、研究目的の資料は
得られなかったのだ。
秋山教授は業者の協力を得て、詳細な調査をやり直し、データを取った。
その結果、砂地区の地下50mから1,000mくらいの深田さに大量のSBSはが眠っていることが改めて分かった。
SBSは砂地区外には一切存在しないことも証明された。
弁天池については相変わらず出水が多く、調査が進んでいない。
1995年になると
砂地区は整地されていて、
地区の北側、新河岸川方面にSBS採掘場が出来た。
南側には各企業の合同実験施設が完成し
東側に精製プラントが出来上がった。
西側は隣の扇河岸地区に住宅が多いことから
植樹がされ、緑が広がっている。
一部牧草地帯も設けられ、牛が飼育されてる。
飼育時に出る匂いなどは化学的に処理され、ほとんど分からない。
そして地区中央(厳密には地区の中央南東付近だが)の弁天池周辺には研究室が
何棟も建てられたが池はそのままだった。
池には手を付けないことが了承されいる。
また、この年砂地区は国の特区に選ばれ
国からの補助金が出るとともに、研究開発を行っている企業連合が
新たな法人を作り、この土地を事実上買い取った。
新たな法人は『株式会社SBS開発』となった。
この会社には国が50%残りの50%を民間企業が出資することに決まり
これにより砂地区は一大研究地区になった。(都市ではない)
1995年4月、鉄男たちは大学4年になっていた。
(三重だけは3年生だが)
鉄男と翔子は大学で話しをしていた。
「鉄男くんは卒業したら就職とかはどうするの?」
「俺はこのまま研究を続けたいと思っているんだけどね、親にこれ以上迷惑かけられないからこのまま大学に残るわけにはいかないので、いろいろ迷っているよ。翔子ちゃんは?」
「私はお父さんの・・・いや枩田教授の研究室に残ろうかと思っているの」
「そうなんだ?まだ地域の歴史を研究するんだね?」
「そうなの。結構地域の歴史は興味が湧いてきてね、もっといろいろ知りたいし」
「そうか。ところで斉木も大学院に行って伊東研究室に残るらしいよ。あいつはきっと研究室を離れられないだろうな・・・。伊東教授からの信頼も厚いからね」
大学4年という、皆がれぞれの道を歩き始めようとする時期、
SBSを中心とした人生の選択肢を彼らは選んでゆくことになる・・・。
鉄男は砂弁天の研究室の廊下で
SBS開発の潮崎社長とすれ違った。
鉄男が立ち止まって会釈をすると
社長も立ち止まって話しかけてきた。
「星野くん、君は大学卒業したらどうするのかな?もう4年生だと聞いていたが」
「あ、ご存知でしたか。はい4年生なので就職活動をしようかとも考えています」
「それなら、うちに来なさいよ。君たちがSBSの発見者でもあり、研究者であることは
殆どの者が知っているのだから。まあ大手のようなネームバリューは無いけどね」
「しかし、私は理系の研究者でもないですし、御社に入ってもお役に立たないのではないかと・・・」と鉄男は答えたが、それは謙遜ではなかった。
鉄男は理系で研究をバリバリしている斉木や三重がうらやましかったし
彼らこそがSBSを正しく使える者なのだと思っていたからだ。
自分は文系で伝承を調べただけで、無力だと思い込んでいた。
「君ね、確かにSBS開発の最前線で研究調査をしているのは理系の技術者たちだが
この会社をまとめ、運営しているほとんどが文系出身の者なんだよ。だから君も私達と一緒にSBS開発をしようじゃないか!」と社長はそうなだめて、鉄男を誘った。
「ありがとうございます。潮崎社長からそのようなお言葉をいただけるとは思っても見ませんでした。前向きに考えさせていただきます」鉄男は嬉しかった。
自分もまだいる場所があるんだと・・・・。
それから数日後、鉄男は株式会社SBS開発の面接を受け、内定をもらった。
鉄男は大学の単位はほとんど取得していて、残りはゼミ1単位だけだったので
ゼミの日以外は砂地区の研究室に入り、週2日はSBS開発にアルバイトで出社した。
斉木もほぼ砂の研究室にいた。
ある日、斉木は鉄男を呼び止めた
「鉄男、ちょっといいか?」
「おお、斉木、どうした?何か研究が進んだか?」
「いや、今日は研究の話しじゃないんだ。ちょっとそこまで行こう」
と鉄男を誘って研究棟の会議室のほうに歩いて行った。
二人は自動販売機の紙コップのホット珈琲を買って、テーブルについた。
「斉木、話ってなんだよ」鉄男が珈琲をすすりながら言った。
斉木は両手で紙コップを包みながら、言いづらそうに口を開いた。
「実はさあ・・・俺結婚することにしたんだ・・・」
「えっ?」と鉄男は一瞬止まったがすぐに
「だ・・誰と?佐藤理恵か?」と聞き返した。
「ああそうなんだよ。まあ結婚と言っても形だけなんだけどな」
「学生結婚ってことか?」
「そうなんだ。理恵も今年で卒業だから就職をしようか迷っていたんだけど、
理恵には嫁としてうちの実家に入ってもらうことにしたんだ」
「そっか・・・お前たちが決めたことなら応援するけど、でも収入がないじゃないか」
「うん、実は頼み込んでSBS開発に佐藤理恵を雇ってもらえるように塩崎社長に言ったら、すんなり許可が降りてさ」
「ということは俺と佐藤理恵とは同期の同僚ということになるのか」と鉄男は唖然としながら言った。
「まあ、それで俺も研究室に残るし、だったらいっそのこと学生結婚しちゃおうってことになってさ・・・」と斉木は珈琲を見つめながら言った。
「もしかしたら、お前ら子どもが・・・」と鉄男が身を乗り出して斉木に尋ねると
「・・・実はね・・・」と照れた。
その後、二人は珈琲を飲み終わるまで、その話をしつづけた。
結局斉木たちは子どもを生むことにして、来年の4月からは
斉木が研究室に、佐藤がSBS開発で働くことにしたそうなのだ。
子どもは、斉木の実家と佐藤の実家が近いので両家で面倒をみることにしたのだとか・・・。
鉄男はそれを聞いて、自分は翔子を幸せにできるのだろうかと、急に不安になった。
世界の中心が「砂」になるとき
1995年12月上旬、とうとうSBSによる代替エネルギーの実用化の目処がついた。
斉木たちの実験が成功したのだ。
伊東教授は、SBS開発と枩田教授たちを会議室に集めて
トップシークレットとして研究の発表をおこなった。もちろん鉄男と翔子も参加した。
伊東教授が
「みなさん、とうとう実用化に一歩近づきました。これから斉木くんが
皆様にご報告させていただきます。尚、シークレットなので配布資料は用意しておりません。メモなども取られないようにお願いします」と挨拶をした。
それから斉木が挨拶をして続けた。
「じつは資料がないのはシークレットとは関係なく、ただ単に用意できなかったからであります」と言って一同を笑わせた。
斉木の説明では
アルコール10000に対してSBSを1溶かしてできる高出力の液体の研究を進めた結果、
SBSの精製純度を高めると更にアルコール100000に対してSBSが1でもガソリン以上の高出力な液体ができることが分かった。
また、地区外に持ちだすと爆発してしまう件の研究も行われ、
牛糞から取り出した成分を液体に混ぜることで
地区外に持ち出しても爆発せず、しかも出力は下がらないことが分かった。
尚、この牛糞から取り出した成分は、砂地区の牧草や藁を食べた牛からしか出ない成分らしく、もしかしたら弁天池の水と関係しているのかもしれないが、定かではないとのことだった。
この成分もSBSのような分子構造をしているが、まだ世界で発見されてない物質らしい
とのこと。
いずれにしても。SBSの精製や新エネルギーは砂地区内でないと作れないということは
変わっていないのだが・・・。
そして、これらの研究は、1996年3月に学会で発表になる予定だ。
発表が終わると一同拍手喝采を送った。
これから世界のエネルギーが変わるかもしれないと
皆で喜んで語り合った。
「斉木、すごいことになったな」と鉄男が発表を終えた斉木に詰め寄った。
「いやあ、鉄男、おまえが牛糞の話を持ってきてくれたおかげだよ。
地域伝承と科学がみごとに結びついたって感じだな」と斉木も喜んで言った。
鉄男は謙遜しながら
「でも、まだまだ弁天池には不思議な事がいっぱいあるのかもな」と言った。
そして「ところで斉木、子どもは順調に育っているのか?」と聞いてみた。
「ああ、2月に出産の予定だ。ちなみに、今度の日曜日に弁天の厳島神社で
形だけの結婚式をするんだが、来てくれるか?」と鉄男とその横にいた翔子に聞いた。
「もちろん」と二人は声を合わせて言った。
ちなみに弁手池横の厳島神社は池とともにそのまま保存されていた。
三重は今回の発表会の裏方をやっていたので、音響機材などの片付けをしながら
「俺も行くぞ」と口を挟んできたので、みんなで笑った。
次の日曜日が来た。
斉木と理恵の結婚式の日だ。
この日は朝から晴れていて、風は冷たいが日差しは暖かかった。
とくに気取らないということで、
出席者はみんな普段着で来ていた。
鉄男も翔子も少しだけおしゃれな普段着で参加した。
この神社には管理者も居ないので
枩田教授が、地域で一番大きい川越氷川神社から
旧知の宮司さんを呼んでくれて、簡単な結婚式が行われた。
2月に生まれる予定の理恵のお腹は大きく
斉木と理恵2人と言うより、家族3人での式といったほうがいいかもしれない雰囲気だった。
斉木から挨拶がありその中で、お腹の子は女の子だと発表があった。
それを聞いて思わず三重が
「お母さんに似て天然にならないといいな!」と声をかけたので
「天然のお母さんの子はしっかりするから大丈夫だよ!」と鉄男も声をかけた。
翔子も「うん、大丈夫、大丈夫!」と後に続けて言って皆で笑った。
それから理恵が
「この度はお忙しい中私達のためにお集まりいただきありがとうございました。
今後は私は妻として、また母として、社会人として頑張りますので
ご指導ご鞭撻よろしくお願いします」と珍しくまともな挨拶をしたので周囲を驚かせた。
それから年が明け2月になり、斉木家に新しい家族が増えた。
3月には学会の発表があり、SBSの存在が世界に発表された。
発表後は各国の研究者やエネルギー関連企業、マスコミがこぞって
川越市砂地区に押し寄せた。
3月末に大学を卒業した鉄男もSBS開発の社員として
その対応にあたった。
これから、しばらくは川越市砂地区が世界の注目をあびることになる。
次期エネルギー開発として、文字通り「世界の中心」になるのである。
しかし、鉄男と翔子の関係は・・・・
弁天池の秘密は・・・・
まだまだ謎を残したままであるが
ここで一度この物語を終わりにする。
続きはまたいつの日か・・・。