青春の足跡
世界の中心が砂になる時・・・
令越羅伍
序章
世界の中心・・・それは人類史で見ても分かるように時代時代で移り変わってきた。
グローバル化した現代という時代でもアメリカという国がいろいろな意味で
世界の中心なのであろう・・・。
筆者は歴史に詳しくないが、
近代史では大英帝国や、大航海時代のスペンなどが
世界の中心であったとか
中世ではチンギスハーンのモンゴル帝国がヨーロッパまでを征服し、
更に古代のローマ帝国もその繁栄を世界に轟かせ、その国の首都が、
まさに当時の世界の中心になったと歴史の教科書で読んだ記憶が有る。
ギリシアやエジプトもそうだったのだろう。
いずれも、権力者がその時代の文明の力を利用し、絶妙なタイミングで
その国、その地域を押し上げていったに違いない。
現代のアメリカも自由の名のもとに権力者が国を統治して
宇宙にまで出て行けるような強力な文明の力を持って、世界を席巻している。
文明の力や発明などが絶妙なタイミングでその地域を世界の中心に押し上げることは
グローバル化した現代でもある。
と、偉そうに書いているが、以下より突然関係の無い話になる。
埼玉県川越市の南部に「砂」という地区がある。
多くの読者諸氏はそんな地名を聞いたことも無いであろう。
埼玉県人ですら、いや川越市民の多くですら「砂」という地区など知らないであろうし、
もし聞いたことがあったとしても、場所がどこにあるかも分からないと思われる。
この序章で物語の大筋を暴露することになるが、
もったいぶってもしょうがないので白状すると
この話の「世界の中心が砂になる」というのは
文字通り世界の中心が日本国民の殆どが知りもしない
埼玉県川越市にある「砂」という超ローカルな地域が、
いかにして世界の中心になっていくのかという
現実的にはほぼ可能性がゼロの内容をつらつらと書いていくという
百パーセント筆者の妄想物語である。
この時点で読むのを辞める方は、それが正解と言っていいだろう。
恐らく、こんな物語は川越市砂に住んでいる住民ですら読まないと思われるからだ。
というわけで、私は万が一にも読んでくださる読書のために
そして私の妄想話を完成させるという更なる妄想のために書こうと思う次第である。
尚、すべてはフィクションであるので登場人物などは一部を除いて存在しない。
またこの小説で出てくるすべての地域名や施設名、科学的考察も、
現実世界で存在するそれとは一切関係ないことも予め記しておく。
※ただし埼玉県川越市砂という地名は実在する
1980年代
1980年・・・それは高度経済成長からオイルショックを越え、学生運動やテロなども無く、すべてが一段落したエアポケットのような年。
来るバブル時代の始まりを予見させるものがちらほら見え隠れしていたようにも思えるが、
華やかな雰囲気はまだ見えない時代だ。
しかし、別の意味でのバブルのような場所があった。それは小学校だ。
この頃の小学校は第二次ベビーブーム前後の子どもたちが通い、
学校は児童であふれていた。
ここ埼玉県川越市という田舎でも小学校には1学年240人以上の児童がいた。
40人学級で6クラスもあったのだ。
ちなみに、今の川越市の小学校は1学年平均100人しかいないらしい。
それと比べると子どもがあふれていて、まさにバブルのような状況であった。
川越市の南部にある砂地区はおよそ25ヘクタールで、東京ドームに換算すると
5~6個分という小さい地区だ。
この地区周辺は住宅地としてかなり醸成されてきてはいるものの
まだまだ田畑が広がり、用水路が道路の脇を流れ、古い住宅地には手押しポンプの井戸が存在していた。その水はとても冷たく、80年代初頭まで飲水として愛用されていた。
砂地区の外れには新河岸川があり、その対岸は広大な水田が広がっている。
そして特記すべきほどのことでもないが、この時期の砂地区の住宅地内には牧場があり、
かぐわしい臭いが周辺を覆っていた。
牧場と言っても、牛を放牧しているのではなく、牛舎に繋いで餌をやり
その牛が出す排泄物を堆肥として使っている程度だ。
牧場はきっと昔からそこにあり、周辺に道ができ、住宅地になっていったのだろう。
砂地区は東武東上線新河岸駅の北東方面に広がる地域で、都内に通うサラリーマンのベットタウンとして、そこそこ人気のある田舎なのだ。
川越市の中心よりも都内に近いが、急行や特急が止まらないので土地が安く、
金銭的に外部から来る人が集まりやすかったのかもしれない。
その砂地区に、弁天池という池が存在した。
ここも住宅地の真ん中にある貯水池なのだが、水深もたいして無く、狭くも広くもない。
当時の子どもたちは、その池を中心に遊びを覚えていった。
カエルを捕まえたり、ザリガニを釣ったり、周辺で鬼ごっこやかくれんぼなどをして遊んだものだった。
まだ家庭用テレビゲームが子どもたちを虜にする前の話だ。
この弁天池という小さな池が、後に世界の中心となっていくことなど
この時点で誰ひとりとして想像できなかったであろう。
のどかな時間
星野鉄男は1973年7月1日、ここ埼玉県川越市で星野家の次男として誕生した。
父の哲郎と母のすみれは静岡県出身で、長男千一を静岡で出産、その4年後に
仕事の関係でここ川越市砂に移住してきて、次男鉄男が生まれた。
鉄男は好奇心旺盛で、地元の砂幼稚園に通っている時から、何度も園を脱走して
そのたびに先生に捕まり、母すみれは呼び出された。
彼はとにかく自然が大好きで、草木をかき分け昆虫を観察して、時には捕まえ、野良猫や
小動物を追っかけまわして泥だらけになって遊んでいた。友達も多かったが、一人で自然の中にいる時が一番好きだった。それ故に幼稚園のお遊戯という「幼稚」な時間よりも、そこを抜け出して大自然の中の一人として過ごしたかったのだ。そのためには先生のお説教も大して気にならない。
ただ、父哲郎からはこっぴどく叱られ、それがとても嫌だった。
ある日の夜、父哲郎が仕事から帰宅し、家族団らんの晩御飯が始まる・・・という時に、
哲郎が強い口調で鉄男に切り出した。
「鉄男、お前はまた幼稚園を抜けだして先生に怒られたそうじゃないか。なんで何度も何度も同じことをして怒られるんだ?次にやったらお仕置きだと言っておいたはずだぞ。」
「だって・・・幼稚園の外にすごく大きな猫が歩いてたんだもん。一緒に猫と遊びたかったんだ・・・幼稚園つまらないし・・・」鉄男が小声でつぶやいた。
鉄男は父哲郎のことが大好きだったが、やはり怒られるときは怖いし、つらい。
「鉄男、言い訳はいい。何度言っても聞かないなら、今日はお仕置きだ!」と哲郎は強い口調で言いながら、鉄男を抱えて玄関の外に放り出し鍵を締めた。
「ぎゃー、ごめんなさい、もうしないから、うわー、ぎゃー」鉄男は泣きながら外で、
何度も「ごめんなさい」を繰り返しながら泣いた。
今の時代だったらこれだけで児童虐待になるのだろうか?当時は当たり前の光景で、
サザエさんやドラえもんでもこういうシーンは存在した。
鉄男はそれから30分くらい、わめき泣きながら父に許しを請うた。
そして、父から許されて家に入ると、母のすみれの胸に顔を埋めて
泣きながら眠った。
今思えば、なんとものどかな時間が流れていたのだろう。
鉄男とその周囲が慌ただしくなるのはもっと後の事・・・。
不思議な物体との出会い
そんな鉄男も小学校に入学して少しは落ち着いたのだろうか・・・。
さすがに学校を抜けだしたりはしなかったが、授業中はボーッとして
休み時間になると友達と外を走り回っている。給食も残さず食べ、放課後も
家に帰るやいなや外に遊びに行ってしまうという当時の典型的な子供だった。
テレビゲームのない当時の遊びといえば、男の子は虫取りや木登り、鬼ごっこや缶蹴り。
もう少し大きくなれば野球ごっこなどでも遊んでいた。
女の子はゴムとびとか、道路にろう石で丸を描いてケンケンパとか
あやとりなどをしていた。
もちろん男女一緒に缶蹴りなどもしていたが、当時は男女別れて遊ぶことが多かった。
鉄男は砂地区の北側にある「弁天池」で友達と遊ぶことが多かった。
鉄男の家から歩いても5分ほどのところにある。
池とは言っても、水深は子供のひざくらいしか無いし、広くも狭くもないとても安全な
池であったが、とにかくザリガニやカエル、猫などの小動物がたくさんいたので
毎日楽しかった。
話が脱線するが、ザリガニを釣るときは、適当な小枝にタコ糸を結びつけ、小さい青カエルを捕まえて、生き餌にしてタコ糸に結びつけてザリガニのそばに投げ込んでやると釣れるのだが、カエルが動きすぎて、ザリガニが警戒するので、
大抵は駄菓子屋で売っている10円の酢イカの端っこを餌にすることもある。
もちろん端っこだけを餌にして残りは食べるのだが。
酢イカでザリガニを一匹釣ったら、そのザリガニを頭と胴体を引きちぎって、カラを剥いて、それを餌にするのだ。見た目はエビと同じである。
そうすると次のザリガニが釣れる。なんとも残酷な釣り方だが、
当時の子供はそんなことは当たり前であった。
鉄男はこの時期、同級生の友達の三重博や斉木和成、八嶋健太たちとよく遊んでいた。
1981年、初秋。
この日も三人で弁天池に繰り出している。
ちなみにこの頃は『ルビーの指環』や『ハイスクールララバイ』という歌が流行った時期である。
弁天池にはその南側に、道路を挟んで枯れた川があり、
その川とは道路の下の土管で結ばれている。全長5mくらいのまっすぐな土管で
反対側が丸見えなので危険もなく、子どもがかがんで入れるくらいの高さだった。
大水の時は枯れた川に水が集まり、この土管を通って弁天池に排水されるのだが、
それは夏のスコールか台風の時期だけであり、普段は水が殆ど無い。
鉄男は斉木と三重とほか数人で弁天池周辺でかくれんぼをしていた。
鉄男と斉木、三重はオニが数を数えている間に、その土管の中に隠れた。
外から覗かれればすぐに見つかってしまうが、そんなことは関係ない。
隠れた三人はここで「運命の出会い」を果たす。
それは鉄男が土管の中央部に来た時だった。
土管の下部のつなぎ目から何かが飛び出ていて、鉄男のおしりががそれに軽く当たり
半ズボンが引っかかった。
「いてて・・・なんかあるぞ」
鉄男はその飛び出ているものを手で触って確かめた。
「石かな・・・」とつぶやくと
それに気づいた斉木が「どうしたの?」と問いかけてきた。
「なんかズボンに引っかかって・・」
「なになに?」と、オニが来ないかと土管の外を気遣っていた三重が振り返ったところ、眩しい何かを感じた。
それは目に突き刺さるくらいの緑色の光だった。
「うわ、まぶしい!」と三重が思わず叫んだ。
三重のいた場所からは確かに見えた。
「なんかすごく緑色に光ってたよ!残像が残ってる・・・」と鉄男に近づいてその場所を指差した。
「ああ、なにか石みたいのがあるんだよ。でも光ってないよ」鉄男もそれを確認しながら、
手で取ろうとしたけど取れなかった。
斉木は「みせてみせて」と言いながら、その物体を触って左右に揺らしてみた。
多少グラグラするものの取れそうもない。
「うーん、取れないなあ」と斉木がいうと
鉄男が落ちていた小枝でその物体をこじり出そうとした。
3分くらいかけてやっと取り出した物体は
ゴツゴツそしている。
すこし細長い8センチくらいの物体で端が尖っているのでそこが服に引っかかったのだ。
質感こそ石っころだが
「なんだろう?」と鉄男が土管の外の光の方に透かして見ていると
中心が少し光って見えた。
斉木と三重も顔を近寄せて見ようとしたとき、外から
「鉄男と斉木と三重みつけた!」とオニの八嶋が笑いながら指をさして大声を上げた。
「ちぇっ・・・」と鉄男が言った途端に
「あーあ」と言いながら斉木と三重が土管の外に移動し始めたので、鉄男はその物体をズボンのポケットにしまいこんで後を追った。
その後は三人ともその物体の存在を忘れ、日が暮れるまで遊び呆けていた。
鉄男は家に帰り、ズボンの中にある物体に気づき、とりあえずその物体を机の引き出しにしまい込んだ。
家の中は夕飯の焼き魚の匂いが充満していて、食欲を誘っているが、
いっぱい遊んで泥んこになったので、母のすみれがお風呂に入るように促した。
半袖半ズボンで走り回り、雑草の中でかくれんぼなどをしたあとは
家に帰ってお風呂に入ると、腕や足に見えない擦り傷がたくさんあり
ヒリヒリするのだが、それが勲章のように心地いい。
鉄男はお風呂から出て、バスタオルを首にかけたまま台所に行き
今夏、父のボーナスで買ったばかりの3ドア冷蔵庫から牛乳パックを出し
キンキンに冷えた牛乳をコップに入れて、一気に飲み干した。
「ぷはーっ」と一息ついたところで
母のすみれが
「ごはんできたから、こっちに来なさい」と言って
居間の、ちゃぶ台に鉄男を呼んだ。
すでに父哲郎と兄千一も着席していたので、鉄男は急いで居間に向かい。
家族みんなでご飯を食べ始めた。
今日も走り回ったのでご飯がうまい
鉄男の至福のひと時である。
友情
翌日、鉄男は寝坊した・・・というより、朝寝坊は鉄男の習性である。
今日もいつもどおりの寝坊と書いたほうがあっているのかもしれない。
そして母が「鉄男、起きなさい。いつまで寝てるの。鉄男!」
と何度も声をかけるがなかなか起きないので
ついには、母が布団を引剥して、やっと起きるのだった。
ところで鉄男の部屋は長男の千一と同じ部屋である。
6畳の、畳の部屋にカーペットを敷き、その上に布団を敷いて寝ている。
長男の千一とは4歳離れており、千一はキッチリした性格なので
とっくに起きて登校の準備をしている。
千一はご飯を食べ終わって、歯磨きをしている。
「おはよう・・・」と鉄男は挨拶だけは忘れずに言うことにしている。
実は昔、父の哲郎から「起きたら挨拶しろ!」とこっぴどく叱られたので
挨拶の癖がついているのだ。
「おはようっていうか、おそようね!」と母が
千一が食べ終わった食器を片付けながらチクッと言い
「寝ぼけてないで早く朝飯食えよ!遅刻するぞ」と千一がまくし立てた。
そのあと、「うー」と一呼吸置いて鉄男が
「おにいちゃん、なんで起こしてくれないんだよ?」と、
冷めた目玉焼きとトーストを口に運びながら言うと
千一は歯磨きを止め、モゴモゴと
「お前覚えてないのか?起こしただろ??そしたら、『うるせーなぁ』って言うから
放っておいたんだ!」と不機嫌そうに言ったので、何も言えなくなった。
そうなのだ、鉄男は寝起きが悪いだけでなく、起こしても不機嫌に言い返すので
母も兄も「勝手にしろ!」という感じで放っておくのだ。
星野家では鉄男が寝坊して遅刻しても、放っておく。
もちろん最低限一度は布団を引剥したりして直接起こしにかかるが、後は何もしない。
忘れ物をしても母が学校に届けたりはしない。
「自分のミスだから、自分で先生に怒られろ!」というのが星野家のやり方だ。
(痛い目に遭わないと分からないから・・・というのが理由のようだ)
しかしそれでも鉄男はなかなか直らない・・・。
鉄男は急いでパンを牛乳で流し込み、歯を磨いて登校の準備にかかった。
昨夜はめずらしく今日の準備をしていたので早く出ることができた。
毎日こうであればいいのだが、なかなかそうもいかないのは、読者諸氏の大半が
経験してることであろう。
鉄男は、一度自分の部屋を出たが、ふたたび部屋に戻り机の引き出しを開けた。
例の物体は、石のようにも見えるが、窓の外の光にかざして、首をかしげた。
「中になにかツブツブがあるみたいだな・・・」とブツブツつぶやき
それをポケットに押し込んで、急いで部屋を出た。
「いってきまーす」と元気に母すみれに言って家を出た。
母も「いってらしゃい」と居間から廊下に顔を出して見送った。
外では登校班の班長をやっている千一が少しイライラしながら鉄男の合流を待ち
学校に出発したのだった。
※登校班とは、この当時小学校登校時に地域ごとに班を作り、
年長者が年少者を引き連れて登校するというシステムである。
尚、夏休みのラジオ体操もこの班で行うことがほとんどであった。
千一はこの班の班長を任されている。
学校は歩いて10分くらいの同じ砂地区にある砂小学校である。
学校に着くと、同じクラスの斉木と三重が窓際の鉄男の席で昨日のテレビの話を始めた。
鉄男はこの二人と学校でもいつも一緒に遊んでいるのだ。
斉木と三重が昨日の「欽ドン!」の話をし始めた時、鉄男も話に参加しようとしたが
ポケットに例の物体があることに気づき、
「そういえば昨日土管で拾ったものをもってきたよ」と切り出した。
三重が「ああ、あれは何だったの?」というので
「なんか不思議な石みたいな・・・」と言いながらポケットからその物体を出して
二人に見せた。
斉木と三重は「ふーん」と言いながらまじまじとその物体を見つめた。
窓から差し込む光に、透かしてみると石に見えた物体の中心がきらきら輝いてみえた。
昨日の目を突くような反射ではなかったが・・・。
そうこうしているうちに、担任の内田先生がドアを開けて入ってきたので
鉄男はその物体をいそいで机の中に隠し、授業が始まった。
鉄男は相変わらず、ボーッと授業を聞いていたが、今日は机に隠した例の物体が気になり、チラチラ見たり触ったりしていた。
あまりにソワソワしているので
内田先生に気づかれてしまい、例の物体は没収されてしまった。
「星野くん、学校に関係ないもの持ってこないように!帰りまで預かります!」
と言って、教科書で鉄男の頭を軽く叩いて、内田先生は例の物体をポケットに入れて持って行ってしまった。
「しまった・・・」と思ったが、後の祭りだった。
放課後、鉄男は職員室に呼び出された。
鉄男が内田先生の席にたどり着き、何かを言い出そうとした瞬間
「星野くん、学校に変なもの持ってこないこと。」と内田先生が切り出した。
「それと、もう少し授業を聞いてください。授業わからないの?」と言われたので
「そんなこと無いです」と小さい声で答えた。
職員室は沢山の先生がいて若干ザワザワしていたが、
なんとなくこちらの話に耳を立てて聞いているように思えたので、つい小声になってしまった。
それからクドクドというほどでもないが、内田先生から
普段からボーッと授業を聞いているなど、いろいろ言われてしまったので少しヘコんだ。
しかも小学校ではじめて先生に呼びだされたのでそれもショックっだった。
とりあえず、謝り続けて、やっと開放してもらえ、しかも親には言わないということに
なったのでホッとした。
例の物体も学校には持ってこないことを約束させられ、返却された。
下校の時間から30分以上経っていたので校内には生徒はほとんどいなかった。
鉄男は下駄箱で靴に履き替え、外に出た。
校庭では上級生がサッカーをやって遊んでいたが、鉄男はそれには目もくれず
校門へと急いだ。
校門を出ると斉木と三重が待っていてくれた。
「鉄男くん、大丈夫だったの?」と斉木が聞くので
「う、うん・・・」と多少落ち込みながら返事をした。
それから三人でいつものように歩いて帰り、三重の家の前につくと
「帰ったら弁天池集合な!」と三重が言い
「オッケー!」と二人は言って別れた。斉木と鉄男はそれぞれ逆方向の自宅へ急いだ。
家に帰ると母がおやつを勧めたので
おやつを食べてからすぐに弁天池に向かった。
弁天池の東側には厳島神社という小さい神社があり
そこが彼らの集合場所になっていた。
三人は弁天池を一望できる神社の社の裏側にまわり、
フェンス越しに池を眺め、今日は何をしようかと三人で話していた。
その時鉄男は例の物体がポケットにあることに気づき、それを取り出して
「これのせいで先生に怒られちゃったよ」とつぶやいた。
正確に言うとその物体のせいでもあるが、普段からの授業態度にも
問題があったのだが、彼はこの物体のせいだと思い込んでいた。
鉄男はその物体を池に投げ捨てようとして投げる格好をした。
その瞬間、手からその物体が滑り落ち、
神社のコンクリートで固められた地面に落ちてしまった。
そして落ちた物体は、見事に3つに割れてしまった。
「あーあ、割れちゃったね」と斉木が言うと
「いいよこんなもの」とかぶせるように言った。
「でも、割れた部分がすごい綺麗だよ」と三重が言うので
三人は覗き込んだ。
確かにダイヤモンドのようにきらきら輝いている。
というか彼らはダイヤモンドの実物を知らないので
テレビなどでたまに流れるコマーシャル映像を思い出しながら
「宝石なんじゃないかな?」と誰かが言った。
ダイヤモンドは固くて割れない・・・などとは彼らはまだ知らない事実である。
3つに割れたその物体は、近づけると磁石のようにくっついた。
「磁石なのかな?でも3つに割れちゃったから、三人で分ける?」と三重が言い出したので
「いらないよこんなもの」と鉄男が言った。
斉木は同意してくれるだろうと鉄男は思ったのだが
「三人の友情の証で、取っておこうよ!」といきなり青春ドラマのような返答をしたので、鉄男は驚いたが、三重もそうしようと言ったので、
「じゃあ三人で分けて取っておこう」と鉄男も同意して、
ジャンケンでどれを選ぶかを決めることにした。
ジャンケンの結果、言い出しっぺの斉木が勝ち一番大きい5センチ位の綺麗な欠片を取り、
次に三重が少しくすんだ3センチ位の欠片を取った。
そして最後に鉄男が余った4センチ位のを取ったが、とくに何も感じていない。
それぞれが、物体の欠片をポケットに入れて弁天池周辺を駆けまわり
日が沈む頃にそれぞれ家に帰っていった。
その夜にある事件が起きる・・・。
「始まり」のはじまり
その夜の出来事。
いつもどおり家に帰った鉄男は、例の物体を机の引き出しにしまった。
今日先生に呼び出しをくらったことなど、もうとっくに忘れ去っていた。
そして今日もとりあえず先に風呂に入り、牛乳を飲み干してから
家族と夕食をともにしていた。
星野家では夕食の際にテレビをつけていたが
音声はなるべく絞っていて、家族で話をすることが習慣になっていた。
食べ終わってくつろぐ時にはテレビの音を大きくするのだ。
星野家のいつもの会話は、その日学校や外であったことを報告することから
始まる。兄の千一が今日のテストの自慢話を終えると、鉄男に振った。
「そういえば鉄男、放課後に職員室に入るの見たけど何だったの?」と。
「あ、いや、何でもないよ。せ・・先生に石の種類を聞きに行ったんだよ・・・」などと、急に振られたので、わけのわからないことを答えてしまった。
「なんだよそれ?」と千一が言った瞬間だった。
外から「ドーン」という低音が響くとすぐに、窓ガラスがビリビリ揺れた。
地震というよりは何かの音圧、風圧という感じだろうか。
星野家は外に出てみた。するとお隣の石田家の長女陽子も外に出てきた。
陽子は鉄男より8歳年上で今年高校一年の花の女子高生だ。
陽子は哲郎に「おじさん、なんかすごい音しませんでした?怖くて外に出てきたんですけど・・」と話しかけてきた。陽子の両親は共働きで家におらず、兄の剛も出かけて家にいない様子だった。
石田家と星野家はむかしから仲がよく、休日は家族ぐるみで遊びに行くほどだった。
鉄男はそんな石田家の陽子に好意をよせいているが、それはどうでもいい。
しばらくすると、遠くの方で消防車やパトカーの音が響き渡った。
方向からするとどうやら砂地区の隣の新河岸地区らしく、何かの爆発が起こったらしい。
三重家の話・・・
三重家はこの日、新河岸駅前に出来たばかりのファーストフード「オレンジボウル」食事に出掛けていた。ファーストフードは隣の川越駅にあるマクドナルドしか無かった時代なので、新河岸駅前にファーストフードができたときの住民たちの変喜びは半端無く、こぞってオレンジボウルにでかけた。しかしなぜかオレンジボウルは1年程度で閉店してしまのだが、この物語には関係ない・・・。
その三重家だが、家族四人で歩いてオレンジボウルに出かけたのは夜7時。
両親と博と妹の京子で仲良く出かけていった。
博のポケットには例の物体の片割れがある。
砂地区の南側にある三重家からは新河岸地区まで徒歩15分くらいだ。
彼らが歩き始めて5分くらいしてからだろうか?
博のポケットの例の物質が突然熱をおび、熱くなり始めた。
博はそれに気づき手をポケットに手を入れると、あまりの熱さに
一度は手を引っ込めたが、このままではズボンが燃えると思い
必死でポケットから物質を追い出した。物質はたまたまマンホールの蓋の上に落ちて
小さな穴からマンホールの中に落ちていってしまった。
博は一番後ろを歩いており家族はその事実を知らない。
また、畑の中にある一本道で人も歩いていなかったので、博の行動に気づく物も
他には誰も居なかった。
そのまま何事もなかったかのように、博は歩き続け、そこから5分くらい歩いた辺りの曲がり角を曲がり、人通りの多い通りに出た時、先ほどのマンホール周辺が突然轟音とともに爆破した。
通りを歩く人達は立ち止まり、何事かを確かめようと辺りを見回している。
しばらくすると、派出所から警官が自転車でやってきて、近づかないように指示をはじめ
その警官は本部に連絡を取り、また消防にも連絡して物々しい騒ぎとなった。
危険が残っているため半径100mは立入禁止になった。
三重家の人々はしばらく野次馬に紛れて見ていたが、その後オレンジボウルに行き夕食をとり、別ルートで帰ることにした。
ただ一人博だけが、放心状態だったが、両親は気づかなかったようだ。
この爆発では、幸いにも人が近くにおらず、畑の真ん中だったので建物も無く、人的被害は無かったものの畑と道路にポッカリ穴が空いてしまった。
その爆発で開いた穴の大きさは尋常じゃなく、穴の直径が5mなのに深さが20mもあったのだ。
その後の調査の結果、火薬のような成分も発見できずに、メタンガスか何かの爆発だと報告されたが、しかしその深さが20mという事実はなぜか市民には知らされず、一年後に埋め立てられた。
封印と忘却
翌日、いつもの様に学校の鉄男の机の周りに3人は集まり
昨日の爆発の話になった。
鉄男は「夕飯を食べてたら、すごい音で窓が揺れた。外に出たら陽子お姉さんとあえてラッキーだった」と言い
斉木は「トイレでウンコしてたら、轟音がして・・・このままトイレで死ぬのはいやだから、ケツを拭かずに出てきた」などと、周辺の席の同級生を巻き込んでキャッキャと騒いでいた。
「三重君は?」と鉄男が聞くと
「ああ、きのうオレンジボウルに行く途中ですごい音があったんだよ。何があったのかなあ・・・」と浮かない顔で答えた。
「あれ?三重君の家からオレンジボウル行くのって、あの爆発現場通らないと遠いんじゃないの?」と斉木が鋭いツッコミをするので
「いや、昨日はお父さんたちと別の道を散歩がてら歩いて行ったから、そこは通らなかったんだよ。運が良かったよ」と力なく笑った。
それから授業が始まっても三重はポカンとしていた。
三重は鉄男と違い授業はいつもまじめに受けていたので
上の空の三重を先生も気遣ったが、鉄男もそんな三重が気になって仕方なかった。
放課後、「今日も弁天池ね!」と斉木が言って三重の家の前で別れた。
鉄男たちは昨日と同じく、厳島神社に集まった。
昨日と変わらない風景・・・いつもの弁天池。
三重の顔色だけが違っていた。
「三重くん、どうしたの?」鉄男が言った。
「いや・・・実は・・・」と三重が説明を始めた。
昨日本当は爆発現場を直前に通ったことや
例の物体が突然熱くなって、それが現場のマンホールに落ちたこと。
怖くて誰にも言えなかったこと・・・三重は落ち込んだ様子で鉄男と斉木に説明した。
「俺のせいで爆発しちゃったんじゃないかな。警察とかにバレたらどうしよう」と三重は泣きそうに言ったので、二人は三重を慰め、このことは三人の秘密だと固く約束した。
しかし・・・鉄男と斉木は気が気じゃなかった。
あの物体が爆発したのなら自分の家は・・・。
そう思い急いで二人は自分の家に走っていった。
三重は少し元気になって歩いて家に帰って行った。
鉄男は家に着くなり机の引き出しを開けた。
恐る恐る物体を触ったがなんの変化もなかったので安心したが、
その物体を、たまたまそこにあった「白い恋人」の四角い空き缶容器に入れて
弁天池の厳島神社に急いだ。ちなみにこの空き缶は父の出張のおみやげでもらった缶だった。
神社につくと斉木も遅れてやってきた。
斉木は物体をビニール袋に入れていた。
「神社に埋めて神様に守ってもらおう・・・」と
鉄男と斉木は同意して、神社の隅の木の下に穴を掘り、鉄男の持っている缶に物体を入れ、
その上からビニールをかぶせて土をかけた。
それから、その場を踏み固めて、枯れ葉や雑草で隠して証拠隠滅(?)を図った。
二人はすぐさま神社の境内に行き、なけなしの10円を賽銭箱に入れ
鈴を鳴らして、柏手を打って祈った。
「どうか爆発しませんように」「どうか僕達のことがばれませんように」
頭に浮かんだことをありったけ祈り、最後に一礼した。
ちなみに鉄男はちゃっかり「陽子お姉さんとデートができますように」と一回だけ祈っていた。
鉄男と斉木は、このことは他言無用だと誓い合った。
後日三重だけにはその事実を話し、早く忘れて記憶から消し去ろうとした。
それからしばらくは三人とも厳島神社には近づかなかったが
そのうち事件のことは忘れて、神社で普通に遊ぶようになっていく。
「何もなかったのだ」とすら思わず。
恐怖再び
それから4年後の1986年3月
鉄男たち三人は砂小学校を無事卒業した。
ちなみに1986年前後は、チェッカーズやCCBといったアイドルバンドが大人気で
AKB48の秋元康先生が作っていた”おニャン子クラブ”が大流行していた時代だ。
徐々にバブルに近づいていく社会情勢で、イケイケ的な雰囲気が蔓延し始めてきた時代でもある。
ちなみにファミコンが爆発的にヒットしたのは1984年前後であるが
鉄男たちもファミコンにはかなりのめり込んでいた。
ファミコンが流行り始めた頃に彼らが遊んでいたのは、
ファミリーテニスやゴルフ、ベースボール、ドンキーコング
マリオブラザーズ、ロードランナーなどだったが、後には
ゲームセンターのアーケードゲームのファミコン版などが登場して
子どもたちの遊びは、徐々にインドアにシフトしていった。
ところで、鉄男たちの周囲では、あの事件から何事も起きず、平穏な日々を過ごしていた。
三人は高砂中学校に入学して、中学校生活を謳歌している。
斉木は学年でもトップクラスの成績で、しかも野球部で1年ながら準レギュラーになり
鉄男と三重とはレベルが違いすぎたので多少疎遠になったように思えた。
三重は極めて普通の成績だったが剣道部で頑張っている。
鉄男は・・・情けなくも学年で下から10位以内という成績をキープしていた。
しかも部活は・・・帰宅部だ。
中学1年の2学期の期末試験の時期、明日で期末試験は終わりという日だった。
鉄男は勉強の仕方もわからないまま家の机にだけは座っていた。
ちなみに兄の千一は高校2年生になり、学区内でも有数な進学校に進んでいて、
部活もバスケ部でレギュラーになっていた。鉄男とは正反対のようだ。
千一は鉄男に「お前勉強くらいしろよ。部活もやらないで、ファミコンばっかしてるなんて最低だぞ」と何度も言っているが、鉄男はどうしても勉強の方法がわからず集中力もないので
まともに勉強などできないのだ。成績が上がるはずもない・・・。
とりあえず鉄男は机には座っているので、いろいろ考えを巡らせてみた。
試験どうしよう・・・勉強してもわからないし・・・何をすればいいのだろう?
とりあえず教科書出して読んでみよう・・・
そして教科書を読み始めると3分で夢のなかへ・・・。
気づくと一時間も経過していた。
鉄男は「あーあ、寝てしまった・・・」とつぶやいて
欠伸をしながら何気なく机の引き出しを開けてみると、光る物体を発見した。
それはゴマ粒ほどの小さいガラスの破片のような物体で
その光り方はまさしく例の物体の破片だった。
勉強はもちろん、机の整理や掃除もろくにしてなかったから
今まで気づかなかったのだ。
「こ・・・これは、あの物体の・・・破片??? ここにずっとあったんだ???」
鉄男はすぐさまそれを取り出して、ティッシュに包んでそれを握りしめて外に出た。
12月中旬の夕方5時前後。夕焼が薄暗い夜に落ちる間際の時間帯だ。
空気も冷たい。
「爆発したらやばい・・・どうしよう・・・。
神社に行くか?いやあそこは今本殿改装中だからまずいな・・・。
そうだ川に行こう・・・流しちゃえばいいや。後は何とかなるだろう」そうつぶやきながら新河岸川に向かった。新河岸川の向こう岸は水田地帯だが、稲の刈り取りもとっくに終わり、茶色い土肌の土地だけが、強い北風に晒されている。
「冬の今は空き地も同然。だれもいないにちがいない!
しかし今までよく爆発しなかったな・・・小さいからかな?」などと
いろいろ考えながら川に近づいた時だった。
手の中にあるティッシュに包んだその物体が急に熱を発してきた。
ほんの一欠片だが、鉄男はすぐにその物体が熱を持ったと解った。
焦ってティッシュをみると煙が出てティッシュが燃え始めた。
たまたま落ちていた空き缶に、それを押し込んで土手に駆け上がり
力いっぱいその缶を向こう岸に投げた。
川の向こうには人もおらず、からっ風が吹き抜ける茶色い水田地帯が、
広大に広がっているだけである。
辺りももう薄暗くなり、遠くでカラスが鳴いている。
そこに力いっぱい投じられた空き缶が放物線を描いて地面に落ちてゆく。
新河岸川はそれほど川幅が広くないので鉄男の力でも十分に向こう岸に届くのだ。
そして向こう岸に落ちた瞬間、その缶は大爆発した。
鉄男は爆風と轟音で土手から転げ落ちた。
耳がキーンとなっていたが怪我は無かったようだ。
爆音と同時に周辺の木に止まっていた鳥達が一斉に飛び立ち
ワンテンポ置いて飼い犬の遠吠えがここかしこではじまったので
辺りは不気味な雰囲気になった。
近隣の住民が徐々に外に出てきて土手にあがり、何があったのかを探ろうとしていた。
鉄男もその中の一人となって溶け込んでいたが、警察や消防がやってきたので
やばいと思い早々と帰っていった。
足と手がガタガタ震えている。耳もキーンとなっている。
鉄男は、何も言わずにとりあえず家に帰り、母が沸かしてくれていた風呂に入った。
とりあえず落ち着かないと・・・と思いながら。
翌日、朝刊の埼玉県欄に小さく記事が出ていた。
「新河岸側付近で謎の爆発・・・隕石か!?」
鉄男は期末テスト終了後、斉木と三重を図書室に呼び出した。
それから図書室の一番奥にある目立たないテーブルで
コソコソと昨日起こった事の顛末を詳細に話した。
三重も4年前の悪夢を思い出しながら
たまたま近くの棚にあったゼンリンの住宅地図手にとった。
地図を開き
例の物体が爆発した場所を2箇所指でなぞった。
また三重の持っていた物体が熱を持った場所と
鉄男の持っていた物体が熱を持った場所を確認した。
そこは砂地区の中でもまるっきり反対側の場所であり
三重は地区の南側、鉄男は地区の北側で爆発を経験した。
4年前の三重の時は、砂地区の南側から2地区離れた高階下水処理場につづいていると思われる下水のマンホールに落としたことを、その時に確認している。
今回の鉄男は川を挟んだ反対側の水田地帯が広がる岸町という地区で爆発している。
しかしいずれも熱を持ったのが地区の境界線内側であったことも地図を見ながら確認した。
「まさかとは思うけど、あの物質は砂地区を出ると爆発するのではないだろうか?」
と頭のいい斉木が突然発言したので、鉄男と三重は顔を見合わせて頷いた。
普通だったら「そんなバカな・・・」と笑って一蹴するところだが、頭のいい斉木が言ったので「なるほど」と二人は無前提に信じてしまった。
そして地図を見ながら、実際に爆発したのは地区外だったことまでを確認した。
「ということは砂地区内にあれば爆発しない・・・?」と鉄男が言うと
「あくまで仮説だよな?」と三重が斉木に同意を求めた。
「当たり前だろ?だいたいなんの物質かもわからないんだから」
斉木は近頃声変わりが始まり、ひっくり返ったような声を荒げて二人に言った。
「警察とかに言ったら、昔の事件とかも話さなくちゃいけないし、
なんで今まで黙っていたんだって怒られるかもしれないし・・・。
そんでもってあらぬ疑いをかけられても面倒だから、どっかの大学に持ち込んで調べてもらうか?」鉄男が言うと
「お前、斉木の仮説だとこの地区から出せないだろ?この地区に大学があるのか??」と三重が答えた。
斉木は苦笑しながら「あくまでも仮説だけど、勇気があれば持っていけば?」と鉄男に言った。
「そ・・・そうか・・・」鉄男は腕組をして唸りながら答えた。
「いずれにしても、あの神社に隠した缶は一度掘り出して別の場所に移そう。神社も改装中だし、もしあの木を移設なんてことがあったらやばい。何しろ俺達の指紋もバッチリついてるからさ」と笑いながら斉木が二人に言ったので、三人はその夜神社に集まり
木の下を掘り起こすことにした。
12月中旬の夜8時、埼玉県川越市でも底冷えのする時間だ。
三人は防寒対策をしてスコップを持って厳島神社に集まった。
それから例の木の下を掘り起こし、20分位で白い恋人の空き缶を取り出した。
中には当時のままの物体が2つ入っていた。
すると、月明かりに照らされ、割れた断面がなんとも言えない輝きを放った。
「綺麗だなあ・・・」三人はつい声に出したが、見つかるとやばいので
缶の蓋を締めて、素早く掘り出した穴を埋め神社から立ち去った。
神社を出て弁天池の脇道を三人で歩いていると
池の水面が鏡となって月明かりと星の輝きを映し出していた。
こんな美しい弁天池を彼らは今までに見たことがなかった。
この日は風がほとんど無かったので池が鏡面のように大宇宙を写しだしたのだ・・・。
三人は例の物質の入った缶を、彼らの通う高砂中学の裏側にある用具用のプレハブ倉庫の下の通風口内に隠すことにした。
ここなら、だれにも気づかれない。おまけに砂地区内だし、万一爆発しても住宅街ではないし、生徒も近づかないので被害も最小限だと思われたからだ。
鉄男たちは缶を新しいビニールに入れ直して、テープでぐるぐる巻きにして隠した。
奮起
怖い思いをした鉄男は一大奮起をして勉強することを決意した。
というのも、この物質の謎を解きたいと思い、そのためには
大学に行かなければと強く思うようになったからだ。
鉄男は両親に頼んで兄千一の通っていた学習塾に通うことにした。
学習塾の講師には「私は勉強の仕方すら分からないアホなので、勉強の仕方から教えて下さい」と頼み込んで通い始めた。
塾の講師は、鉄男に各教科とも一冊の簡単なテキストと問題集を与え
それをとにかく繰り返しやるように勧めた。
鉄男はバカみたいにそのテキストを繰り返し読み、問題集も何度も解いてみた。
すると、元々何もなかった記憶領域の下地にだんだんと知識がついてきて、
さらに繰り返すことで勉強のコツがわかってきた。
不器用ながら、アホながら、着実に学力は上がり
1988年、中学3年生になると
学年で下から10位以内だった成績が、1学期末には
何と上から20位以内に入るようになった。
さすがに斉木までは追いつけないが、三重とは張り合うことができ、
学力を維持できるようになってきた。
ただ、三重は剣道部の主将を務めるのに対して、鉄男は相変わらず帰宅部である。
斉木も野球部のキャプテンになっている。
内申も気になるところではあった。
ところで斉木は、スポーツ万能で勉強もできるため
女子生徒にモテモテであり、この春頃から彼女もできた。
同じクラスの佐藤理恵だ。
理恵も頭がよく、学区内一の女子校を目指している。
運動はそこそこだが、ピアノが弾けて、吹奏楽部で部長をやっている。
部内ではサックスを担当して、
当時流行りのチェッカーズの真似をして、みんなに披露していた。
しかも容姿端麗でリーダーシップがあり、男子生徒からも人気が高い。
そんな二人が付き合っているのだから、周囲から「ベストカップル」と
認定されているほどだった。
鉄男も三重も、そんな斉木が羨ましくて仕方なかったが、友人を祝福した。
1989年1月、昭和天皇崩御のニュースが日本中に流れ、時代は平成に変わった。
しかし鉄男たちは受験生だったのでラストスパートに入っていた。
鉄男は私立の滑り止め校に合格して更に自信をつけ、それから公立高校の受験に臨んだ。
ちなみに、すでにバブル期に入っている日本は
イケイケな風潮がますます強くなっている。
昭和天皇崩御のニュースで一時期おとなしくなったように思えた日本社会も
徐々に再起動をはじめ、テレビのニュースでは「財テク」とか
「地上げ屋」などの言葉があふれていた。
イカ天(いかすバンド天国)をきっかけにバンドブームも起きた。
またトレンディードラマが流行り始めたのもこの時期だ。
とにかくこの時代の日本は良きにしろ悪しきにしろ、活気があった。
鉄男たちは”過去最多の受験者数”という中で高校受験を行っている。
この”過去最多”ということが後に彼らの世代に重くのしかかることは
今の彼らにはわからない・・・。
さて、鉄男はといえば、学区内でも、”上の下”くらいの川越北高校に合格した。
三重も鉄男と同じ川越北高校だ。
ちなみに川越北高校は男女共学だ。
斉木は周囲の予想通り、学区内一の進学校国立川越高校に合格した。
国立川越高校は男子校である。
斉木の彼女の理恵も学区内で有数の進学校である
市立川越女子高校に合格。言うまでもなく女子校だ・・・。
そして1989年3月、無事彼らは高砂中学校を卒業した。
ここから新しいステージが始まる。
青 春
「鉄男、起きなさい!いつまで寝てるの!!鉄男!!!」と母すみれが怒鳴った。
高校になってもこの寝坊という習性は治らない・・・。
四歳上の兄千一は、大学生になっていた。現役で一橋大学に合格して下宿をしているので
鉄男の部屋にはいない・・・しばらくして鉄男は目を開け、数秒後飛び起きた。
「やばい、今日は部活の朝当番だった!」
鉄男は川越北高校の放送部に入部していた。朝の放送は当番制で、今日は鉄男の日。
べつに、朝、放送が流れなくてもなんの影響もないのだが
先輩から確実に怒られる。
鉄男は学ランに袖を通して、朝ごはんも食べず、ドカドカと家の廊下を
走って、靴を履いた。
玄関のドアを開けて
「いってきまーす」と相変わらず元気に叫んで、出て行った。
8時20分に放送室に入り、朝の優雅な音楽をかけて
マイクに向かってお決まりの朝のセリフと読み上げるだけなのだ。
鉄男の家から高校までは自転車で20分程度で今は7時55分。
なんとか間に合う時間だ。
通学路のある水田地帯はさわやかな風が吹き抜けいて
田んぼにはすでに稲が植えられており、青い絨毯が広がっている。
その中を鉄男は自転車を猛スピードで走らせた。
この水田地帯をひたすらまっすぐ20分行けば北高校に着くのだ。
ちなみに、真冬は向かい風が厳しく、20分では着かない時もある。
しかし今日は穏やかな風が吹く6月10日。暑くも寒くもない。
鉄男は高校の自転車置き場に滑り込み、教室に荷物を置き、職員室に放送室の鍵を取りに行き、鍵を開けて入った。
時計を見ると8時19分・・・ギリギリセーフ。
放送機器のPA卓の電源を入れ、卓横の机にあるカセットテープの山から
該当するテープを取り出し、カセットデッキに入れ再生ボタンを押し
卓のフェーダーをゆっくり上げた。
放送用のマイクに向かって用意した朝の原稿を読み上げる準備をして
マイクのフェーダも定位置に上げた。
ここでいつもはモーツアルトのフィガロの結婚の前奏曲が流れるのだが
今日は・・・なぜかブルーハーツの「人にやさしく」が流れ始めた。
「気が狂いそう・・・ラララララ・・・」といきなり全校のスピーカーから流れ始めた。
と同時に鉄男は「うわーっ、やべー!!!」と絶叫した。
もちろんその絶叫もマイクが拾い全校に流れている。
すでに登校している生徒たちはスピーカーから流れるそれを聞いて、笑ったり
「なんだこりゃ?」などと言っていたが、放送室にはそれは聞こえない。
鉄男は慌てて、どうしたらいいのかわからずカセットデッキのストップボタンを押した。
通常なら卓のマスターフェーダーを下げればいいのだが、そこまで頭が回らない。
カセットテープの山に慌てて手を伸ばすと、その山がガチャガチャと音を立てて崩れた。
マイクのフェーダも下がっていないので、その音も全校に流れた。
程なくすると、放送室のドアが開き、2年生の高木先輩が入ってきて
鉄男を押しのけてマスターフェーダーを下げた。
「おいおい何やってんだよ、マスターを下げろよ」と笑いながら鉄男に言った。
「すみません、間違えちゃって・・・」
「いいからとにかく『朝のテープ』を探せよ」
「はい・・・」
鉄男は崩れたテープの山からやっと『朝のテープ』を探し出して
念のため先輩にも確認してもらい、再生ボタンを押してフェーダーを上げた。
原稿を読もうとしたが
「あ・・・え・・・」と動揺して読めなくなってしまっていたので
先輩がマイクに顔を近づけて
「大変失礼いたしました」と謝罪を述べてから
「6月10日 川後北高校朝の放送を始めます」と
暗記している朝のコメントをマイクに話した。
通常は学校としての連絡事項があれば、職員室の黒板に書いてあるので
それをノートに書き写してこのタイミングで読み上げるのが放送部の仕事だが、
今日は連絡が無かったので挨拶だけで終わった。
放送は8時30分ギリギリまで行い、チャイムが鳴り1限目が始まる。
放送部員は放送室を閉めて、鍵を職員室に戻し教室に戻るので
1限目の多少の遅れは免除されている。
鉄男は先輩の高木にお詫びを言い、高木はそんな鉄男の頭を軽く
小突いて笑って済ませてくれた。
最後に高木が「テープはちゃんと確認しろよ。それから鍵は職員室にちゃんと戻しておくんだぞ」と言って放送室から出て行った。
ところで、今日のテープの失敗は、どうやら前日の放送当番が
お昼に流すはずのテープを間違えて朝のテープのケースに入れてしまったらしく
テープが入れ替わっていたのだ。
ちなみにお昼の放送は、放送部員が好きな曲をかける決まりになっているが
一応顧問の清水先生に曲のリストを提出して、流して良いのかの確認を取る決まりになっている。”学校での放送に耐える曲”でないとかけられないのだが、全ては清水先生のさじ加減一つで決まるのだ。清水先生は理科(化学)の担当教員なので毎日白衣を着ている。
1限目のチャイムが鳴ったので、放送を切り上げ、職員室に鍵を返しに行くと
白衣姿の清水先生が鉄男に、笑いながら声をかけてきた。
「星野、ちゃんと放送しろよ。全校に叫び声が聞こえてたぞ」と。
鉄男は照れながら
「すみません、やっちゃいました。次回から気をつけます」と言うと
職員室の何箇所から、クスクスと笑い声が聞こえてきたので
鉄男はさらに恥ずかしくなり「失礼します」と小さな声で職員室を飛び出していった。
自分の教室の後ろのドアから入ると、1限目の古文の田中先生が
「星野、おもしろかったぞー」と教壇上からニヤけながら語りかけ、
それがクラス中の爆笑を誘った。
鉄男は、頭をかきながら窓際真ん中の自分の席についた。
1限目の古文の教科書とノートを出すと、隣に座っている
松田翔子が笑いながら、小声で話しかけてきた。
「星野くん、大変だったねー。でも面白かったよ」と。
鉄男はさらに照れている。
実は鉄男は彼女、松田翔子にホの字であった。(ホの字とは、惚れているという意味)
翔子は、見た目は普通の娘で、縁無しのメガネをかけていて
黒い髪が腰まであるロングヘアだった。
これといった特徴は無いが、他の女子には無い何かを持っていた。
誰とでも友だちになって、おせっかいにも人のためにお説教までするような、
今時あまり見かけない姉御肌的な女性だった。
後の世のテレビドラマ「ごくせん」の仲間由紀恵演じるヤンクミのような感じといえば分かるだろうか・・・。
彼女は鉄男に、
「フェーダー上げたままだったんだ?」と笑いながら話しかけた。
実は翔子も鉄男と同じ放送部なのだ。
鉄男はバツが悪そうに「う・・・うん」と答えてうつむいた。
ああ、もっとかっこいいとこ見せたいのにな・・・鉄男は思ったが、もうしょうがない。
昼休みにも放送部の大事な仕事がある。
昼の放送を流すのだが、先ほど述べたとおり、部員がチョイスした音楽を、
清水先生の許可を得て流すことになっている。
その際の曲紹介などのアナウンスは女子部員が行う。
その殆どを、先輩の島田京子か、同級生の松田翔子、もしくは朝日麻衣が行っていた。
毎日12時30分に放送室に集合して、放送が始まる。
ちなみに放送部は、顧問の清水雅也先生を筆頭に
3年生、福井太郎部長、飯山さやか副部長、伊東正樹
2年生、高木和也、金子嘉人、島田京子
1年生、星野鉄男、松田翔子、三原雄一、朝日麻衣
の生徒10名で、朝と昼のほか学校イベント時の放送などを行っている。
とても部活とは言えなようなゆるい部活であるが、正直、内申書のために
所属している部分もある。ただ何人かは部活を掛け持ちしており
伊東は吹奏楽部、三原はパソコン部にも掛け持ちで所属している。
放送室は部屋に入ると大きなPA卓(フェーダーというスライド式のスイッチがいっぱいついたミキサーという機械)が置いてあり
その周囲にカセットデッキやCDプレーヤー、カセットテープの山がある。
ちなみに1989年当時はすでにCDがレコードに代わり
販売やレンタルの音楽ソフトとして流通していたが
まだまだカセットテープが庶民の音楽ライフの中心であった。
買ったり借りたりしたCDからカセットテープにダビングして、
ウォークマンやラジカセで聴くのが普通である。
カーオーディオでさえ主流はカセットテープであったが
車の中に長期間放置したカセットテープは劣化が激しくなる(テープが伸びると言う)。
しかし車載CDプレーヤーはまだまだ高く、主流にはなっていなかった。
庶民の音楽ライフはカセットテープからDATやMDを経て
MP3プレーヤーへと進化するが、それはまだ後の話。
話が脱線したが、
放送室に入るとPA卓がある。
PA卓には簡易マイクがつており、それを使っても全校に放送ができるが、
普段の放送は卓前の大きなガラス越しにあるアナウンス用の部屋で行う。
部屋には大きな机と、卓上マイクが2本用意してあり、いつでも放送が可能だ。
ラジオ局の映像で見たことがあるような例のアレみたいなイメージである。
12時35分、昼休みの放送が始まる。
オープニングはビージーズの「メロディ・フェア」。
鉄男は卓の席に座り、フェーダーを上げオープニングを流した。
今日はガラス越しの部屋にマイウに向かう松田翔子と原稿を渡す朝日麻衣がいる。
鉄男はガラスの向こうの翔子たちに向かい
「さん、に、いち・・はい」と言いながら手を上げてキュー出しをした。
「皆さんこんにちは。川越北高校放送部です。
6月10日、これからお昼の放送をはじめます。
今日は晴天で、外も暖かいので、新緑を眺めながら外でお弁当を食べるのもいいですね。
校舎前の芝生にはクローバーが咲いていますので、
ぜひ四葉のクローバーを見つけてみてくださいね。
さて、今日お届けする音楽は・・・」
このように簡単なアドリブを入れたりして
今日流す音楽のお品書きを言うことになっている。
翔子が伝えるアドリブの放送は、なんともホッコリする内容で
また、しゃべり方がとても可愛いらしいので、実は隠れファンが多いということを
鉄男は先輩から聞いたことがある。
何度も言うが、鉄男はそんな翔子にホの字なのである。
中学時代帰宅部だった鉄男が、放送部で楽しくやっているのは
翔子の存在が大きいだろう。
放課後は放送室に集まって、次の日のお昼の選曲や
イベントがあればその準備を行っている。
とくに何もなければ、とりあえず集まってお茶とお菓子を持ち寄り世間話をしたり
授業の予習復習をしたり、およそ部活とは名ばかりの、言わば社交場になっている。
語弊はあるが生徒会に似た雰囲気があるのだが、生徒会はもっとしっかりとした目的の上に成り立っているので、似ているのは雰囲気だけといったところだろうか・・・。
鉄男は、翔子に気がありながらも告白する勇気もなく、
惰性に任せたゆるい高校生活を送っていた。
ところで同じ高校の三重は・・・
彼は柔道部に入部して頑張っている。
もともと中学は剣道部だったが、それは中学に柔道部が無かったからであり
やっと柔道ができると喜んで入部した。
なぜ柔道なのかというと、テレビでオリンピックなどの柔道競技を観て感化されたらしい。
そんな三重は、浦沢先生のYAWARAや、小林先生の「柔道部物語」が座右の書だという。
「いつか、バンバン相手を投げ飛ばしたい!!」
しかし柔道部の1年生へのシゴキはすごいもので、いぢめに近く
三重も毎日ヘトヘトになっている。最初の頃は、まるで「柔道部物語」だ!と泣き言を鉄男に言っていたが、最近は手を抜くことを覚えたと言い、部活を楽しんでいるようだ。
2年生に上がると、体つきもガッチリしてきたが、レギュラーを取れる程でもなかった。
進学校の国立川越高校に入学した斉木は・・・。
彼は野球が好きなので、高校でも野球部に入部した。
ちなみに中学3年の時は4番でファーストだったが
高校では1番センターを希望していた。
外野からの遠投が得意なのと、バッティングも4番の大振りより
1番でコンパクトなスイングと、更に足にも自信があるので、
内野安打を量産して盗塁も決めたいたいと思っていたのだ。
何かの機会にその考えを監督とキャプテンに話したところ、
ほぼ希望通りに取り上げてくれて、1年の夏の大会こそベンチだったが、
大会終了後、3年生が引退するとレギュラーの座を射止めた。
その後2年の夏の大会では地区予選ベスト8まで残ったものの
選手層の厚いうらわ学園に惜敗した。
この大会で斉木は打率3割8分、盗塁15と1番バッターとして大活躍した。
更に、市立川越女子高校に進学した彼女の佐藤理恵とも仲良くやっているようで
休みのたびに川越の繁華街であるサンロードでデートを重ねている。
選択の時
彼らは高校3年生になろうとしていた。
ここで、文系理系のコースを選択しなければならなかった。
鉄男は、例の物質の謎を解くために大学に行きたいと思っていたので
理系を選択しようと思っていた。
三重も斉木も当然理系で、大学で研究したいと思っていた。
ところが・・・鉄男は理数系が得意ではなかった。
どちらかというと英語と古文が得意だった。
現国と理数系科目が最悪で、とくに代数幾何と化学は赤点すれすれだった。
苦手科目を克服しようと頑張ってはいたものの、なかなかうまくいかない。
そしてとうとう文系コースを選択してしまった。
三重と、三重から伝聞で聞いた斉木は呆れた。
「おいおい、例の物質を解明したいんじゃないのかよ・・・」と。
もう手遅れだったが、鉄男は決意した。
「文系なりに解明する方法を探す」と・・・。
1991年4月、彼らは高校3年生になった。
三重と斉木は理系、鉄男は文系コースに。
ちなみに斉木の彼女の佐藤理恵は理系コースだ。
もう一人、松田翔子も文系コースに進学して
鉄男と同じクラスになった。
1991年といえば、「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」というドラマが流行して、そのドラマの主題歌や、「愛は勝つ」や「どんなときも」などを
流行の最先端であるカラオケボックスで歌うことが庶民の楽しみであった。
バブル景気の余波はまだ続いているが、
マスコミがバブル=悪というネガティブキャンペーンを張り
日銀がバブル潰しに奔走し、バブル崩壊の序章として経済が後退してくるのも
この時期である。
春のある日曜日の昼、久しぶりに鉄男たちは3人で集まった。
「おまたせ!」と言いながら、待ち合わせのマクドナルド川越駅前店のテーブルで
マックシェイクを飲む鉄男に、三重が声をかけた。
「おお、俺も来たばっかりだよ」と鉄男が返す。
「斉木は?」と周囲を見回しながら鉄男の前の椅子に腰を掛けると
「いや、まだ来てないようだね」とトレーの上にあるフライドポテトを三重に勧めながら鉄男が言った。
三重はそのポテトを一本もらって食べながら
「あいつは昔から時間にルーズだからな」と笑って言った。
たしかに斉木はむかしから時間にルーズだった。しかもジャイアンツファンの斉木は、ジャイアンツが負けた次の日は落ち込んでいて、決まって遅刻するという
どうしようもない熱の入れようだった。
昨日はジャイアンツが負けているので,もしかしたらそのせいかもしれない。
三重が、マクドナルドのレジにハンバーガーセットを買いに行き、戻ってくる頃
「おー、おりーわりー」と言って斉木が店内に入ってきた。
「お、10分遅刻な」少し呆れて鉄男が言う。
「まあ10分ならいいほうじゃない?前は30分遅刻って結構あったからな」三重が苦笑しながら続けた。
携帯電話などまだ庶民が持てない時代、ポケットベルがその代わりであったが
彼らはまだそんな物は持っていない。連絡手段は自宅への電話しか無い。
(もしくは駅の伝言ボードくらいか)
待ち合わせに遅れてくる輩がいると、そいつをひたすら待ち続けるか、
もしくは諦めて帰るか・・・どちらかしか無いのだ。
斉木は「ごめんってば。俺もなんか買ってくるよ」と言うので
「おれダブルバーがでいいよ」と鉄男が言い
「おれはマックシェイクな」と三重が続けた。
「まぢかよ・・・勘弁してよ」と斉木は言いながらレジの方に向かった。
「ケチだよなぁ・・」と鉄男と三重が笑いながらあれこれと話していると
斉木は「これで勘弁してよ」と言って、ホットアップルパイを二人に
差し出し、席に着いた。
三人は食事をしながら近況を報告し合った。
それらを食べ終わり一息つくと三重が
「斉木、お前遅刻癖があるのにデートとかで遅刻しないのか?
するだろ?よく彼女によくフラれないな?」と問いかけた。
「ああ、デートの前の日からお泊りで一緒にいるから平気なんだよ」と
あっさり言い放ったので、鉄男と三重は一瞬固まった。
「うそだよ、一応まだプラトニックな関係だから」と斉木が笑いながら返すと
「・・・だよな・・・」と鉄男と三重が同時に言って、再び和んだ雰囲気に戻り
また近況報告の雑談を続けた。
しばらくして
「ところで・・」と斉木がその雰囲気が冷めるように切り出し
「鉄男は文系コースなんだって?どこの大学行くの?」と続けた。
斉木は三重から鉄男の近況を聞いていたが、本人の口から聞きたかった。
それに対して鉄男は
「ああ、どうしても理系の科目がダメでさ・・・でも大学は行こうと思ってるよ」と
自信なさそうに言うと、三重が
「でも、例の物質の研究とかって言ってたじゃないか」と鉄男を責めるように言った。
鉄男はうなだれながら
「うん・・・大学は行くよ。でもどうしたらいいのかまだわからないんだよな。でも斉木と三重は理系コースだろ?どんなとこ目指してるの?」と自分へ向けられた火の粉を払うように言った。
すると斉木が「俺はもちろん東大理学部だよ」とあっさり答えた。やはり学区一の進学校に行ってるだけある。
鉄男と三重は関心したが、三重も「俺も理系の大学を目指してるよ。できれば国立で」と目を輝かせながら言った。
そんな目的意識をはっきり持った二人に遅れてはいけないと鉄男が
「俺もあの物体が何なのかを探れるような勉強をするつもりだから」とハッタリを込めて言い放つと
「・・・そっか・・・」と斉木と三重は鉄男の顔を覗き込みながら言った。
それから、昔話を繰り返し、しかし例の物質を必ず解明しようと誓い
マクドナルドを出て解散した。
三重は自転車で家へ、斉木は彼女とお茶をしに繁華街のサンロードへ消えていった。
鉄男といえば、行くところもないので出来たばかりのアトレという駅前デパートに行き
その中の大きな本屋に立ち寄った。
大学受験用の参考書コーナーを探しながら店内を歩いていると
郷土史のコーナに目が止まった。
「郷土史かぁ・・・」
鉄男は地理や歴史には興味がなかったが、ふと立ち止まり
棚に並んでいる本のタイトルをなんとなく見ていたが
無意識にそこにあった『川越の歴史と民間伝承 枩田建造著』という
ハードカバーの本を、手に取っていた。
目次を開くと民間で伝承されてきた川越の話のが沢山並んでいた。
「川越喜多院の七不思議」
「川越まつりの山車の言い伝え」
「川越霞が関の地名の由来」
など誰にも全く興味のわかないような内容だったので本棚に戻そうとした時、
「光る砂弁天池の秘密」という項目に目が行った。
「ん?」と思いつつ該当のページを繰ってみた。
するとこんなことが書いてあった・・・
川越市南部にある砂地区には、弁天池という池がある。
弁天池は今でこそ平静な池であるが過去に突然あふれたことがあり
砂地区一体が水浸しになってしまったという伝承がある。
地域にある弥栄神社の記録によると
1395年前後(室町時代)と1695年(江戸時代)に溢れた記録が残っている。
そのため弁天池を鎮める目的で池の東側に厳島神社が建立されたらしい。
なお、地域の伝承によると、「ある晴れた夜突然、弁天池が自噴した」
「あふれる直前に、池の中に光り輝く小さい石を見た」
「池が溢れたあと、空から何かが降ってきて爆発した」
「天狗が現れてあふれた池を元に戻した」
などが伝えられている。
<中略>
なお、近年池は地質調査は行われているが、自噴するような水源ではなく
新河岸川や雨水が溜まる貯水池であることが証明されている。
と約5ページに渡り伝承と著者の研究が書かれていた。
鉄男は一気に読んでみたが
「池があふれるとか、そんな話は聞いたことなかったな・・・」と
訝しく思ったが、よく考えると鉄男の家の星野家をはじめ、多くの家が
他地域からの移住者であったので、砂地区に古くからある伝承などは
知らなくて当然なのかもしれないとも思った。
巻末の著者紹介欄をみると
「枩田建造 帝都国際大学文学部歴学科教授」
とあった。
帝都国際大学といえば、川越市の西隣の鶴ヶ島町にある大学だ。
偏差値的には
日東駒専、大東亜帝国と言われる大学の下の、更にその下の方に位置し
国際とは名ばかりの無名の大学である。
最寄り駅は東武東上線鶴ヶ島駅で、駅から徒歩20分ほどの場所にある。
学部は文学部・法学部・経済学部からなり、一応総合大学と呼ばれている。
鉄男は
「そうか、こういう勉強とか調査もあるんだ!文系でも行けるかもしれない!」と
帝都国際大学と枩田建造という名前を暗記して帰路についた。
翌日、学校へ登校後、進路指導室に駆け込み
帝都国際大学に関する資料を閲覧した。
ちなみに、鉄男の通う川越北高校は卒業後の進路の95%が大学であり
そのほとんどが早慶上智、日東駒専、大東亜帝国といったところで
5年に一度くらいの割合で東大合格が1人出ることがある。
進路指導の先生に帝都国際大学のことを聞くと
「君、あそこを第一希望にするなんて、どういう考えだい?
うちの学校のレベルなら早慶上智を狙いなさいよ。その上で日東駒専や大東亜帝国に入るのならいいけど、最初から帝都国際大なんてありえないよ」とひどい言われ方をした。
しかし鉄男はそんな言葉はもう耳に入らなかった。
「帝都国際大で郷土史の研究をするんだ!」と思い込んで資料を読んでいた。
その資料に「枩田建造」教授が載っていた。
文学部歴史学科・・・間違いない、この教授である。写真を見ると案外若く見えた。
てっきりヨボヨボのおじいちゃんだと思っていたのだが。
鉄男は三重のクラスに行き、三重に説明した。
「俺、帝都国際大学に行こうと思うんだ。あそこには歴史学科があり
枩田っていう教授が郷土史を研究して、弁天池の伝承とかを本にしてるんだよ」
と、昨日出会った本の事や、大学の説明をした。
「うん、お前が決めることだからいいんじゃない?でも歴史学科や郷土史なんてやって
本当に謎が解けるのか?謎を解くにはあの物質を研究しなきゃ・・・仮に郷土史とか歴史とか勉強するにしても、帝都国際大学なんて5流大学に行かなくても研究はできるんじゃないのか?」とそっけない返事だった。
「まあ、そうだけどさ・・・・」鉄男は苦笑しながらそう返事をして、自分のクラスに帰っていった。
ラブストーリーが突然に回り始めた
それから時が経ち
6月のある日の放課後のこと。
放送部の部室で松田翔子と二人っきりになった時だった。
翔子が「鉄男くんは、大学行くんでしょ?どこ狙ってるの?」と
問いかけけてきた。
「あ・・・俺さあ、いろいろあって帝都国際大学受けようと思ってるんだ」と答えると
「えっ?帝都国際?鶴ヶ島の?へーそうなんだ」とびっくりしたように言うと
「何かやりたいことがあるの?」と続けた。
「うん、歴史を・・・郷土史を勉強したくてね、周りは反対してるんだけどね。松田さんは?」
「うーん、まだ決めてないんだけどね・・・大学に行くのがいいのか迷ってるのよ」
「そっか、でも松田さんは成績も優秀だから、いい大学行けるでしょ?」
「どうだろうね・・・。でも鉄男くんはやりたいことやったほうがいいね。私は賛成だよ。
応援してるからね・・・」とサラッと言った。
「そっか・・・ありがとう」
鉄男はやっと理解してくれる人に巡り合ったとホッとしたと同時に
翔子の「応援してるからね」という言葉が気になった・・・。
その「応援してるからね・・・」というフレーズが頭のなかでリフレインしている・・・。
実は彼は、翔子に惚れてはいるものの、それを口に出す勇気はない。
このまま、今の仲の良い関係が続いてほしいと思うと同時に
告白してフラれたら・・・と思うと踏みきれなかった。
でも、もし彼女が他の男と付き合ったら・・・と思うと、それも気が気じゃなかった。
それから1ヶ月くらいたった7月中旬のある暑い日のこと。
この日は学期末試験が終わり、めずらしく試験勉強を頑張った鉄男は
やれやれ、やっと終わった・・・と思い、放送部の部室にやってきた。
ちなみに放送部は秋の体育祭までが3年生の活躍の場である。
文化祭(学園祭)が9月中旬で、体育祭が10月初旬だが、それまでは部員として
学校行事の放送を受け持つことになる。
とは言っても、以前も書いたが、とてもゆるい部活なので、部室で受験勉強をしても
何ら問題が無いし、それが放送部の伝統にもなっているので
3年生とはいえ、ダラダラと放送部員を続けているのだ。
その日いつもどおり放送部の机に座った鉄男は、購買で買ったブリックパックの
レモンティーを飲みながら、一緒に買ったハムカツサンドを食べていた。、
試験後なので他の部員は、あとを鉄男に任せて帰ってしまった。
鉄男はハムカツサンドを頬張りながら、レモンティーで最後の一口を流しこみ
一息ついた。
そこへ松田翔子が入ってきた。
「鉄男くん、おつかれ」
「あ、おつかれ。試験どうだった?」
「うん、まあまあかな・・」と笑顔で翔子が答えた。
「鉄男くんは?」
「今回は結構頑張っちゃったよ。睡眠時間も削ったのでヘトヘトだよ」と笑って言った。
たしかに鉄男は今回の期末試験勉強は頑張った。
いつもは、試験勉強中でも早く寝てしまうが、今回は夜中の2時まで起きて勉強をしていた。実は頑張って早慶の文学部などを狙ってみようかという思いが芽生えてきたのだが・・・。
「そうなんだ?ところで、明日の日曜日は、何か予定ある?」と
翔子が鉄男に尋ねた。
「あ、明日は、国立川越高校に行ってる親友の斉木って奴が、野球部で夏の予選に出るから、応援しに行こうかと思ってるんだ」
「へー、そうなんだ?友達が野球部なんだ?他校だけど」と笑いながら翔子が続ける
「一緒に観に行ってもいい?私野球好きなんだよね」
「え?松田さん野球に興味あるんだ?うん、是非行こうよ。明日はベスト4がかかった試合なんだよ。川越初雁球場で11時30分からだから、11時15分に球場の正門で待ち合わせっていうのはどう?」鉄男がめずらしく積極的に出た。
「うん、わかったわ。じゃあ11時15分に待ち合わせね。でもうちの高校を応援しないで他校を応援するなんておかしいね」と翔子は白い歯をみせて笑った。
「うちの高校は1回戦負けだからさ・・・」と鉄男が言うと
「そうだよね、うちは野球弱かったんだよね。毎年1回戦負けだもの」と会話が弾む。
「あ、今日はちょっと家で用事があるので先に帰るね。」
「うん、じゃあ気をつけてね。また明日」と鉄男が翔子を見送るために席を立とうとすると
「じゃあ明日ね」と言って、そそくさと部室から出て行ってしまった。
部室に一人になった鉄男の体は、ガクガク震えていた。
二人で話しているときは、会話も盛り上がりテンションも上がっていたので
体温が上がっていたが
翔子が帰った後、一人残された鉄男の体は一気に体温が下がった。
本当に二人で会えるのか・・・と思うとさらに震えが激しくなった。
なにせ彼は女性と二人っきりで校外で会うなど、今まで無かったし
しかもそれが、好意を寄せている翔子となのだから無理も無い。
鉄男は体の震えを抑えようと自分に言い聞かせながら、
いま翔子と会話した内容を反芻した。
明日・・・会えるんだ・・・
鉄男は学校から家に帰るまで、いや寝る間際まで何度もこの言葉を繰り返した。
彼にとっては、『はじめてのデート』なのだ。
翌朝、鉄男は6時30分に目が覚めた。
いつもなら休日は10時頃まで寝ているが
その日は、早く布団から出て、居間でテレビを観ていた。
母のすみれも休日は早く起きないが、居間からテレビの音が聞こえたので起きてきた。
「おはよう、どうしたの?こんな早くに・・・」と鉄男に話しかけた。
「おはよう!今日は晴れて朝から暑いねえ。朝ごはん、もう作ってくれる?」
すみれはびっくりした顔で「あ、はいはい今から作るわね」と言いながらキッチンに向かった。
普段は遅く起きてしかも不機嫌でボーっとしがちな鉄男が
早く起きて、しかもご機嫌なのだから、びっくりしなはずがない。
すみれはトーストと目玉焼きとコーヒーを手早く作り、居間のちゃぶ台に並べた。
鉄男は早速それらを頬張りながら、引き続きテレビのニュースを観ていた。
「今日は何かあるの?どこかにお出かけ?」とすみれが問うと
「うん、国立川越高校の野球の試合観に行くんだ。斉木が出るからさ」
「なんだ、そうだったのね。」とすみれは言いながら
そういう時だけは早く起きるのね・・・と思い少し呆れたが
それ以上は何も聞かなかった。
それから、鉄男はテレビをダラダラ観て、身支度をして
到底おしゃれとは言えないような、Tシャツにジーンズといった格好で
自転車に乗って颯爽と出かけていった。
鉄男の家から川越初雁球場までは自転車で30分程度だ。
7月下旬の川後は結構暑い。
日差しが強く風も弱いので、厳しい暑さである。
埼玉県の、もう少し北部の熊谷では、夏の最高気温40度を記録したことがあったが
川越も大して変わらない。
そんな暑い地域を鉄男はウキウキしながら自転車をこいだ。
初雁球場には11時についた。約束の15分前だった。
球場は両校の関係者や野球ファンでかなり混んでいたので
鉄男は、自分と翔子の分のチケットを購入して待つことにした。
チケットーブースで並んでいると、吹奏楽部と応援団の練習が始まった。
今日の国立川越高校の対戦相手は県下でも甲子園常連の強豪校うらわ学園だった。
うらわ学園の応援は、さすが私立の名門で、しかも応援を含めた人数も多いので迫力がある。
男女共学なので黄色い声援が多いし、チアリーダー部がポンポンを持って派手に踊るのだが、一方の国立川越高校は男子校のため野太い声で応援をしている。なんとも対象的な応援だった。しかし国立川越高校にはお隣の市立川越女子高校がついている。
毎年市立川越女子高校の生徒が国立川越高校を応援しに駆けつけるのが慣例となっていた。
今日はまだそんなには来場していなが、そのうち大挙押しかけると思われる。
国立川越高校と市立川越女子高校は学力的にも釣り合っているので両校の交流は頻繁に行われいるらしい。
鉄男は場内から聞こえる吹奏楽部の応援が聞こえないくらいドキドキしていた。
もうすぐやってくる翔子のことを考えると、緊張はマックスだった。
無事チケットを購入し、球場正門前のフェンスに寄りかかると
遠くから「鉄男くーん」と呼びかけながら、こちらに駆け寄ってくる人影があった。
場内の吹奏楽部の応援も、球場周辺に集まった人たちの喧騒も
暑い太陽ににじむような蝉の声も、すべてが一瞬止まり静寂になった。
鉄男と翔子の間に『二人の世界』が広がっていた。
翔子が息せき切って鉄男のところに走り寄ると
「ごめんね・・・少し遅れたかな?」と
鉄男に言った。
その瞬間、応援も喧騒も蝉の声もすべてがフェードインして、二人の静寂の空間を打ち消した。
「ううん、ぜんぜん遅れてないよ。むしろ時間より少し早いくらいだよ」と言いながら
鉄男は翔子にチケットを渡した。
「チケット代いくら?」と翔子が言うと
「今日はおごるよ」と翔子から少し目をそらして、照れながら鉄男が答えた。
翔子は
「え・・・悪いよ・・・」と言いその後すぐに
「じゃあ、ジュース買おう?おごってあげるから」と言うので
「本当?ありがとう!」と鉄男はうれしそうに答え
早速自動販売機コーナーで二人で缶ジュースを買った。
鉄男はコーラ、翔子はオレンジジュースをそれぞれ持ちながら、
一塁側内野席に入り、空いているベンチシートに腰をおろした。
一塁側の国立川越高校の応援席には市立川越女子高校と思われる生徒が半分を占め
真夏の太陽が肌を指すように照りつける野球場は満員になった。
鉄男は、その市立川越女子高校の応援群の中に斉木の彼女である佐藤理恵の姿を見つけた。
翔子は周囲の女子たちと同じように、タオルを頭にかけて直射日光をさけている。
日陰もほとんど無いこの球場にサイレンの音が響き渡り試合が始まる。
両チームが並び、礼をした後、国立川越高校の野手が守備位置に散った。
そしてファーストを守る斉木も内野の連携練習をはじめた。
鉄男の目には、普段の斉木よりもたくましく、そして大きく見えていた。
斉木頑張れ・・・と鉄男は心のなかでエールを贈ったが
でもきっと斉木の彼女の佐藤理恵のほうがもっと強くそう思っているだろうな・・・
とも思った。
定刻になり審判の手が上がり「プレイボール」の声が聞こえると
国立川越高校の谷崎投手が第1球を投げ、
見事なストレートがキャッチャーミットに乾いた音とともに収まった。
その瞬間、拍手と歓声が沸き起こる。これから熱い戦いがはじまるのだ。
1回表を3者凡退に抑えた国立川越高校はいよいよ1番ファースト斉木だ。
吹奏楽部と応援団、そして市立川越女子高校の応援にかき消されながらも
鉄男は「斉木っ、頑張れー!!」と激を飛ばした。
そのあと、隣りにいた翔子も「斉木くーん、頑張ってー!」と大声で続けた。
二人の声など届くはずもないが、斉木は3球目の甘く入ったストレートを
コンパクトなバッティングで引っ張った。
球はファーストの脇をかすめ1塁線の内側ぎりぎりに落下し、ファールゾーンの一番奥まで転がっていった。
塁審がフェアを宣告する中、斉木は俊足を活かしてセカンドからサードを狙おうとした。
斉木がセカンドベースを蹴った時にライトが捕球してやっと返球した。
セカンドからサードへボールが送られるが、サードベースへスライディングした斉木は余裕でセーフになった。初回先頭バッターでスリーベースヒットだ。
1塁側応援席はお祭り騒ぎになった。
「うおー、やったー!」と鉄男が立ち上がって叫んだので
翔子も立ち上がり、二人でハイタッチして喜びを共有した。
その後国立川越高校は1回裏に3点をとって
試合は投手戦になった。
7回まで谷崎投手はパーフェクトで、うらわ学園の鈴木投手も2回からは四球を出すものの、被安打0で抑えている。
それから試合が動いたのは8回だった。
それまでパーフェクトの谷崎投手が、うらわ学園打線に捕まった。
狙い玉を絞ったうらわ学園はヒットを重ねて1アウト満塁のチャンスとなった。
バッターは4番サード中村。中村は今大会10本の本塁打を打っていて
打率も3割2分と悪くない。
この回、これも山をかけていたとしか思えないが、3級見送りで
4球目のカーブが甘く入ったところを、強振した。
カキーンという音が球場に響き、白球は放物線を描いてセンターバックスリーンに
直撃した。
うらわ学園の逆転・・・1塁側応援席は一気に静まり返ったが
3塁側の応援席はそれまで抑圧されていた雰囲気から
お祭り騒ぎに変わった。当たり前だが両者対象的な雰囲気になった。
谷崎投手はその後、持ち直し2者連続三振で凌ぐが
8回裏の味方の援護は無かった。
彼は9回表も無難に料理をしたが、9回裏からうらわ学園は
勝利の方程式、クローザーの高橋がマウンドに上がった。
国立川越高校の打順は8番の田中から。
しかし田中はファーストゴロ、次の9番谷崎の代打大谷はショートフライに倒れた。
とうとうあと一人のところで、打順は1番ファースト斉木になった。
照り返しの激しい球場で、しかも午後2時という一番日差しの厳しい中
どちらのナインも疲労が蓄積してゆく。
応援をしている人たちも、汗だくになり、倒れない人が出ないのが不思議なくらいだった。
鉄男は拳を握りしめた。
「斉木・・・頑張れ・・・」とつぶやき
斉木がバッターボーックスに一礼して入った瞬間に
いままでにない甲高い大声で
「斉木ーっ、頑張れー」怒鳴り声のように叫んだ。
その後をまた翔子が続ける「斉木くーん、打ってー!」
斉木は初球、2級と見送って3球目のストレートを
おもいっきり引っぱたいた。
カッキーン
ものすごい勢いでライナー性の白球がライトの外野フェンスめがけて飛んでいった。
高さはフェンスをぎりぎり越えるくらい。
「はいれー!!」鉄男が叫ぶと
「お願い、はいってーっ」翔子も続く。
一塁側がどっと湧いて、誰もが本塁打と思った瞬間
ライトの田口がジャンプ一発・・・白球はグラブに収まった・・・。
落球すること無く、着地すると審判によるアウトが宣告され
ゲームセットとなった。
終わった・・・。
鉄男は涙が流れそうになったが、堪えた。
ゲームセットのサイレンが球場に鳴り響いた。
ほんの数分間、暑さを忘れた体に、ふたたび7月の太陽が突き刺さった。
国立川越高校のナインは涙を真っ黒な腕で拭いながら
うらわ学園の校歌を聞いた。
それが終わると、一塁側応援席前に整列して
帽子を取り「ありがとうございました」と一礼した。
1塁側応援席からは割れんばかりの拍手と喝采が送られ
3塁側からも拍手と「よくやったぞー」「いい試合ありがとう」などの言葉が
国立川越高校ナインに投げかけられた。
鉄男は斉木の姿を探し、また斉木の視線の先にいる
佐藤理恵の姿も確認した。
「残念だったね。でもすごく、すご~く面白いいい試合だったね」
翔子は涙ぐみながら、鉄男に話しかけた。
鉄男も「そうだね。最後斉木が頑張ったけど、仕方ないよね。でもいい試合だったね」と翔子の顔を見ながら言った。
「暑いけど、もう少しこの余韻に浸っていたな・・・」と翔子が言うので
「うん、そうだね、もう少し・・・」と答えた。
しばらく二人で何も言わず、激闘が繰り広げられた土のグラウンドを見つめて座っていると遠くから「星野くん」という女性の声が聞こえた。
その方向を見ると話しかけてきたのは佐藤理恵だった。
「おお、佐藤ひさしぶりだな」
「一成を応援しに来てくれたの?」一成は斉木の名前だ。
「うん、一応親友だからさぁ」と笑いながら言うと
佐藤理恵は真っ赤な顔をして涙を流しはじめた
「負けちゃったよー、残念だったよぉ・・・」とべそをかくように言って
鉄男の腕を揺すぶった。
それを見ていた翔子が、少し不安な面持ちで鉄男に
「どちらの方」と小声で聞いた。
佐藤理恵はそれに気づき、はっとした表情で
「あ、ごめんなさい」と誤ると
鉄男は翔子の方に向いて
「こちらは、川越女子校の佐藤理恵さん」と言って
つぎに佐藤の方を見て
「こちらは、同じ川越北高校の松田翔子さん」と
お互いを紹介した。
すると
「はじめまして、松田翔子と言います」
「あ、はじめまして、佐藤理恵と申します」とお互いが紹介し合い、
鉄男は翔子に
「佐藤とは同じ中学校出身で、斉木の彼女なんだ」と説明した。
すると、佐藤理恵が翔子を見た後鉄男に
「え?もしかして、星野くんの彼女なの?」と言って余計な詮索をしそうになったので
「ち・・・ちがうよ」と激しく首を振って否定すると
翔子が軽く鉄男の腕を小突いた。
鉄男は一瞬のことで何がなんだかわからなくなりながら
「そ・・それより、佐藤、こういうときだからこそ、はやく斉木の傍に行ってやれよ」と
話題を変えよるように言うと
「わかってるわよ、言われなくたってそうするんだから!」となんとも言えない表情をした後、
佐藤は翔子にウインクして、そそくさと自分の席の方に戻っていった。
翔子は微笑みながら佐藤に軽く会釈をした。
鉄男は翔子の方を向いて
「ごめん、佐藤が変なこと言って・・・」というと
「ううん・・こっちも突然小突いてごめん。なんかわけわからなくなって
つい手が出ちゃったの・・・」とうつむき照れながら言った。
「もう行こうか・・・」と鉄男が促すように言うと
「そうね。帰えりましょう」と翔子も頷いた。
二人は、自転車で川越の旧市街地を抜け、西武新宿線の本川越駅前にある
ぺぺというデパートに入った。
デパートの中はガンガンに冷房が効いていて、
何時間も直射日光に晒された若い体には心地よかった。
二人はカフェに入ってアイスコーヒーを頼み
テーブルの上に、黒く冷たい飲み物が運ばれてきた。
「松田さんの家はここから近いんでしょ?」とストローをグラスに差して
鉄男が言うと
翔子は同じくストローをグラスに差し、
それから小さく蛇腹状になった紙製のストローの袋を
テーブルのお冷のグラスの下に溜まった水たまりの上に置いて
鉄男の顔をチラッと見て微笑んだ。
ストローの袋が水を吸ってイモムシのようにくねくねと動いたのを見たあと、
「そうなの、ここから自転車で5分かな。東武東上線とJR川越線が並んで走るところに、大きな緑色のガスタンクがあるでしょ?その近くなんだ」と言った。、
鉄男はもともとそこまで細かく聞くつもりはなかったが
「そっか、じゃあ富士見中学校のそばだね?」とウル覚えの知識を披露した。
「うん、そうそう。中学校の道を挟んで目の前なんだ」と翔子が返したので
鉄男は、あ、当たってたんだと思い少しホッとしてアイスコーヒーを口に含んだ。
少し間を空けて
「ところで、野球は好きなの?」鉄男が何の話をしようか迷いながらも振り絞って出した言葉だった。
「うん、小学校の頃から、お父さんに連れられて、弟たちと西武球場によく行ってたんだ」
翔子が答えた。
翔子の家は両親と弟が2人いるが、2歳下の長男は彼が中学1年の時に
病気で亡くなってしまったという話を以前鉄男も聞いたことがあった。
「そっか・・・実は俺も西武球場にはよく行ったんだ。ライオンズが好きでね」と、
翔子の弟の件にはあえて何も触れずに言った。
「そうなんだ?鉄男くんもライオンズファンなんだね?まあこの辺じゃライオンズファンばかりか」と笑らったが
「そうでもないよ、斉木なんて熱烈なジャイアンツファンだよ。ジャイアンツが負けた次の日は必ず寝坊するんだから」と得意気にしかも、自分の寝坊癖は棚に上げて鉄男が言った。
「そっか、東京も近いからジャイアンツもヤクルトのファンも多いか」と
翔子も会話のキャッチボールを楽しんでいる。
「そうだ、鉄男くん、もうすぐ夏休みだから、今度野球観に西武球場に行こうよ」と突然翔子が鉄男に言い出した。
「あ、いいね。是非行こう。でも、夏はナイターしかやってないから、夜遅くなっちゃうよ?ご両親から止められないの?」と一応鉄男が気遣った。
「うん、普段の門限は夜8時だけど、ライオンズの試合観に行くなら大丈夫だよ。逐一連絡だけは入れなきゃいけないけどね」と笑った。
しかし鉄男は一つ疑問に思った。なぜ翔子は自分を誘うのかな・・・もしかして・・・と。
でも確信は持てなかった。
アイスコーヒーと二人の時間を堪能して、1時間後に店を出た。
もう夕方5時だが、夏の陽は長い。まだ明るく、アスファルトは熱を持っている。
「ちょっと、あそこに行ってみよう」と鉄男が指で指し示した先には
ライオンズショップがあった。
ここはライオンズファンがいろいろなグッズや試合のチケットを買いに来るところだ。
二人は直近の試合日程を確認するためにライオンズショップに入った。
ショップ内にあった試合日程表をみて
一週間後の近鉄バッファローズ戦のチケットを購入した。
「西武球場までは50分でいけるから、4時半ごろ待ち合わせでどうかな?
あまり早く着くと、今日みたいに直射日光の下で時間を過ごさないといけないからね」
と鉄男。
当時の西武球場は今のドームと違って屋根がないので、直射日光がきついのだ。ナイターとはいえども夕方はまだ日差しが強い。まあ今のドームは夏は日差しこそ無いが蒸し風呂状態であるのだが・・・それはこの話には関係ない。
「そうだね。じゃあ今度の日曜日4時半に改札前で待ち合わせね。
ではまた明日学校で・・・」と翔子が確認しながら言った。
鉄男がそれに続けて、もじもじしながら何かを言おうとしたが
それに気づいた翔子は、すかさず「じゃあ、また明後日ね」と言って、
手を振りながら急ぎ足で帰ってしまった。
鉄男は「付き合ってほしい」と喉元まで出かかったのだが言えなかった。
それを言うタイミングでもないし、決意が足りない。
たとえ翔子が鉄男の言葉を待ってくれたとしても、今日の鉄男は言えなかっただろう。
それを告げられる翔子の方は、今はそのタイミングではないと思ったのかもしれない。
こうして、二人の長い長い1日は暮れていった。
鉄男・・・鉄男・・・てつお・・・
お前はなぜ勇気を出さない?なぜ決意をしない?
もうわかっているはずだ、このまま高校生活を終えて
進路がバラバラになってしまったら
離れ離れになってしまったら・・・。
今を逃してみろ、こんなチャンスは無いんだぞ!!
お前は彼女が好きなんだろ?
彼女もお前に好意があるのかもしれない。
今ここで誓え!彼女に告白するんだ!!と
鉄男は布団の中で、心のなかにいるもうひとりの自分から言われた気がした。
そして、自分の不甲斐なさに涙を流した。
胸が苦しくて仕方がない。
ああ、彼女の本心が知りたい・・・
誰に聞けば教えてくれる?
誰も教えてくれはしない・・・・。
それには告白するしか無いんだ。
でもフラれたら・・・
堂々巡りが胸の苦しさを増幅させる。
しかし次の日から、鉄男は学校で翔子に対していつもどおりに振る舞った。
それは翔子も同じである。たまによそよそしく思うとろこもあったが
誰から見ても二人はいつもの二人だった。
鉄男の学期末試験の結果は、まずまずであり
翔子もまあまあの結果だったようだ。
それから終業式が終わり、一緒に野球を観に行く日がやってきた・・・。
鉄男はこの一週間でゲッソリと痩せた・・・と自分では思ったが
周りから見る限りいつも通りだ。
毎晩自問自答を繰り返し、胸が締め付けられるような苦しさに襲われていた。
その日も朝から日差しが強い。
暑さに呼応するようにセミがジージーと鳴いて、
風鈴が時々吹く弱い風に、力なく鳴っている。
鉄男はボーッとしながら昼間を過ごし
3時半頃、自転車で出かけていった。
相変わらずの日差しに少し嫌気が差しているが
青々とした田んぼの脇を自転車で走り抜けると
汗の滲んだ体に風が当たり、少し心地よさを感じさせてくれた。
水田地帯の奥の住宅街を抜けると、商店街のある市街地に出た。
市街地をさらに進み、渋滞する車の間をすり抜け
待ち合わせ場所の本川越駅に辿り着いた。
今日も翔子に会えるのに、なぜか気持ちが高揚しない。
それは、鉄男の中で決意がしきれないでいるからだ。
「告白はしたいがフラれたくはない・・・」
という思いが、辛さを一層強くさせている。
改札前の大きな柱の前に立ち、改札上の時計が4時5分であることを確認してから
鉄男は、「本川越ぺぺ」というデパートの中に入った。
ぺぺは今日も過剰なくらいの冷房をかけているが、若い鉄男にはそれが心地よかった。
とくに目的はなかったが、3Fにある書籍コーナーにでも行こうと上りエスカレーターに乗ると、反対側の下りのエスカレータに自分と同じくらいの年の若いカップルがいちゃつきながら降りてきて、それが鉄男の目には痛かった。
3Fに上がると、踊り場のベンチに2組ほどカップルがいたが、
鉄男は見て見ぬふりをするように書籍コーナーに入った。
「これから松田さんに会うというのに・・・」と浮かない気持ちで
書籍コーナをひととおり巡って、ふたたび1Fに戻った。
4時20分、改札前に再び戻ってくると、
丁度そこに、翔子も現れた。
翔子は普段は縁無しのメガネをかけているが
今日はメガネをはずしコンタクトをつけている。
また、普段は制服のブラウスやポロシャツ姿だが
今日は涼し気な淡い水玉の白いワンピース姿だった。
「鉄男くん、早いねー。いま来たの?」
「あ、松田さん・・・、うん、いま来たところだよ」
鉄男はいつもとは違うメガネを外したワンピース姿の翔子をみて、ドキドキした。
「そっか、よかった。待たせたら悪いかなと思って、私もちょっと早めに来たんだー」
翔子は語尾を伸ばす癖があるが、流行りのしゃべり方というわけでは無かった。
どちらかというと、のんきなしゃべり方というのだろうか。
「そうなんだ?今日の松田さんはいつにも増してすごく綺麗だね。
メガネも外したんだね。ちょっとドキドキしちゃったよ」と
言葉を選びながら自分の気持ちも言い忘れないように付け足して言った。
翔子は、照れくさそうに微笑んだので
「じゃあちょっと待つけど、40分の電車に乗ろうよ。
西武球場直通の電車だから乗り換えしなくて済むよ」と鉄男が続けた。
「そうね、じゃあ、ホームのベンチにでも座ってようか」
そう翔子が言うと、二人は西武球場前駅までの切符を買って、改札を通り
3番ホームの中央にあるベンチに並んで腰を掛けた。
生ぬるい風が少し吹き抜けるホームだったが、日差しがない分、いくぶん涼しさを感じる。
「あれ?そういえば今日は荷物が多いね?」鉄男の左側に座る翔子と、その間に置かれた
四角いレジャーバックを見ながら鉄男が言った。
翔子がこのバックを持っていたことはさっき会った時から気づいていたが
彼女の容姿につい魅入ってしまったため、尋ねるタイミングが無かった。
「あ、気づいた?実は夕飯のお弁当作ってきたんだー」と言って翔子は微笑んだ。
「え?本当?すごい嬉しいなあ。そうだよね、ナイターだからお腹空いちゃうよね?」
「うん、そうなの。私ね、お腹が空くと不機嫌になっちゃうから」と笑いながら翔子が続ける。
「でも大したものじゃないのよ。鉄男くん苦手なものとかある?」
「うん、そうだなあ、人参とピーマンかな?」
「えーっ、子どもみたーい」と翔子が笑ってはしゃぎながら言ったところで、
『3番ホームに電車が参ります、黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。
尚この電車は折り返し、西武球場前行となります』とアナウンスが聞こえ、
まもなく黄色い車体の電車が入ってきた。
鉄男は「子どもみたーい」と言われたことに少し照れつつも
今日会うまでの浮かない気分が、一気に無くなっていることに気づいた。
そして、「この時間がずっとつづけばいいな・・・」と思うのであった。
それから二人で電車に乗り込み、5時30分に西武球場前駅に着いた。
改札を出ると迷うことなく、1塁側入り口へのゆるい坂道を足早に向かった。
試合前ではあるが、球場ではすでに両チームの応援団による応援がはじまっていた。
5時30分を過ぎてはいるが、突き刺すような太陽の光がまだ球場に差し込んでくる。
それが両チームの応援をさらに後押ししているように思えた。
鉄男と翔子は1塁側ポール付近の、内野自由席中段の席に腰を下ろした。
そこからは丁度ブルペンが見え、今日登録されている控えの投手が
ウォーミングアップを行っていた。
「松田さんなにか飲む?買ってくるよ」と鉄男が翔子に尋ねると
「ほんと?ありがとう、じゃあ・・・コーラがいいな」と答えた。
「うんわかった、じゃあちょっと待っていてね。急いで買ってくるよ」
とハキハキと言って鉄男は、座席横の階段を駆け上って行き
最上段の通路の奥にある売店に向かった。
その時の鉄男は何かを決意した男の顔で、すっきりとしていたが
翔子にもその変化が見て取れたのか、
いつもの彼より多少頼もしく感じた瞬間だった。
しばらくすると鉄男が翔子の元に帰ってきて
両手に持っているラージサイズの赤い紙コップの片方のコップを手渡した。
「鉄男くんは何を買ったの?」
「同じコーラだよ」
手に持っている紙コップに刺さるストローを口にくわえ、一口飲みながら座席に座った。
「お弁当たべる?」と翔子が聞くので
「うん、食べよう。実はお腹ペコペコなんだ」とすっかり調子が戻った鉄男は
喜んで答えた。
翔子はレジャーバックから弁当箱を取り出して、鉄男に渡した。
そして翔子がバックを足元のスペースに置いたのを確認してから鉄男は
「あけてもいい?」と聞いて「いいよ」と翔子が答えるとすぐに弁当の蓋をあけた。
そこには、綺麗に並んだおにぎりやおかず、サラダなどが二人分入っていて
とても美味しそうな匂いを漂わせた。
「これ全部作ったの?たべていい?」と鉄男。
「うん、お口にあうかわからないけど食べて。今日はお昼から作ってったんだー」と勧めた。
鉄男はおにぎりを一個取り出し、早速食べ始めた。
「うまい!!」と鉄男は声に出した。
「そう?おにぎりなんて誰が作っても同じよぉ」と照れながら翔子。
「いや、塩加減が丁度いいよ。しかも、この梅干しがすごく美味しいね」鉄男は
満足気に言った。
山に囲まれた西武球場は、傾く太陽が山の縁に消えそうになってはいるが
コンクリートに吸収された熱と応援に来た観衆の熱気で、ひどく暑いので
翔子の作ってくれたおにぎりの塩加減がとても良い塩梅に思えた。
鉄男がおにぎりを一個食べ終わると、両チームの選手がグラウンドに並び
国歌斉唱が始まったので、二人もあわてて立ち上がって国旗の方を向いた。
この頃の西武ライオンズは森監督が指揮する黄金期で優勝常連チームだった。
選手も
辻、平野、秋山、清原、デストラーデ、石毛、田辺、伊東、羽生田などが
打順を組み、ピッチャーも工藤や渡辺久信、ベテランの東尾などが起用され
まさに全盛期であった。
この日は工藤が先発投手であった。
試合が始まると
鉄男は、ふたたび弁当を美味しそうに食べ出した。
翔子もそれに合わせて、一緒に食べ始めた。、
今シーズン絶好調の工藤投手であったが、この日は思いがけず近鉄打線に捕まったため、
1回表を2失点で終わった。
この回は時間がかかったの、二人はお弁当を食べ終わってしまった。
ライオンズの攻撃が始まると球場全体の応援もひとしお大きくなる。
太鼓とトランペットに先導され、メガフォンを両手に持ったファンが
軽快なリズムをとりながら応援歌を歌う。
鉄男と翔子も、メガフォンこそ持っていないが
手拍子でリズムを取りながら応援歌を歌った。
その甲斐があったのか、1回の裏にあっさり同点に追いついた。
時間も夜7時前、ようやく暗くなり始め、山間の西武球場は若干涼しくなり始めた。
それからはシーソーゲームになった。
7回を終わり6対6。時間は8時30分を回っていた。
翔子は「ちょっと家に電話してくるね」と言って
座席横の階段を駆け上がり売店の方に消えていった。
ピッチャーマウンドには
この回から潮崎投手が上がり、投球練習をしている。
鉄男はそれを見つめながら
「今日ライオンズが勝ったら、告白するんだ」と
なぜかライオンズの勝敗にかこつけて、そう自分に誓った。
まもなく翔子が帰ってきて
「鉄男くん、お母さんが9時には球場を出なさいって言うから
最後まで観れないかもしれないけど・・・鉄男くんは最後までいていいよ」
と言ったので
「いや、帰りも一緒に帰ろうよ。少し早く帰るだけだから大丈夫!ちゃんと本川越まで送って行くから」と返した。
「でも・・・」と翔子が言ったと同時に、8回表のマウンドの潮崎が打たれ、
球場がどっと湧いた。
打たれた打球はぐんぐんと伸びて、レフト側の近鉄応援団のまっただ中に吸い込まれていった。
7対6で近鉄が再びリードして、一塁側はため息に包まれた。
その後潮崎はピシャっと後続を抑えた。時間は8時48分。
8回の裏のライオンズの攻撃が始まったが、残念ながら9時になると同時に
8回裏の攻撃も終わった。
「じゃあ、帰ろうか。たぶん今日は負けかもしれないしね」と
鉄男が気を使っていったつもりだったのだが
翔子は「うん帰ろうか。でも西武は負けないよ・・・ぜったい・・・」と
ちょっとムキになった顔で、ライオンズの勝利を願って言った。
「そうだね!!」と鉄男は余計な一言だったかなと思いながら席を立った。
二人は応援団のいる1塁側外野スタンドの後ろを通って、入退場ゲートに向かい
途中翔子が「ちょっとお手洗いに言ってくるね」とバックスクリーン下のトイレに入っていった。
もう9回の表は始まっていたが、その間、潮崎投手はあっという間に2アウトを取った。
9回逆転サヨナラがあるかどうか・・・ライオンズがサヨナラ勝ちしたら・・・と
先ほど「ライオンズが勝ったら告白する」という自分への誓いを何度も思い出した。
「おまたせー」と翔子が帰ってきたので
「じゃあ行こうか。」と言って鉄男はこの試合の結末を気にしながらも歩き始めた。
入退場ゲートを出ると、1塁側が湧いた。どうやら3アウトチェンジのようだ。
9回裏ライオンズはサヨナラに向けて1番の辻からの攻撃。
普段なら球場から駅までは帰る観客でごった返すが
1塁側の観衆はサヨナラ信じて、ほとんど動かず
3塁側の観衆もこのまま勝利の瞬間を見るために席を立たない。
したがって、閑散とまではいかないが、出口はかなり空いている。
二人が駅に向かって並んで歩いていると、背中の球場方面から『1番ショート辻』というコールが聞こえたとともに大声援が巻き起こった。
辻の応援歌がいきなり途切れ、それからすぐに大完成が上がった。
どうやらヒットを打ったようだ。
鉄男と翔子は自動券売機で切符を買って改札の中に入った。
時刻は9時5分。
電車は9時15分の池袋行だったので、二人は所沢駅で本川越行の電車に乗り換えることを確認した。
鉄男が電車の方に向かおうとすると、翔子が改札横の踊り場の柵の下に
仔猫がいるのを発見し、まだ時間があったので仔猫の方に歩いて行ってしまった。
それに気づいた鉄男も、ゆっくりと翔子の後を追った。
翔子が仔猫を触ろうとしゃがんで手を出すと、仔猫は柵をくぐって行ってしまった。
「あぁ、行っちゃった・・・。可愛らしい猫ちゃんだったなぁ・・・」とひとりごとを言った。
球場からは、3番秋山の応援歌が聞こえてくる。
「秋山選手だね。辻さんがもしヒットだったら、秋山さんがホームラウン打てば
サヨナラ勝ちかもね」と翔子は言って、ゆっくり立ち上がり
鉄男の方を振り返った。
鉄男は、黙ったまま真剣な眼差しで翔子を見つめた。
「ん?どうしたの?」と翔子が鉄男に尋ねたが
鉄男はそれには答えず、自分の中で決意をした結果の言葉を
告げようと、左足を1歩前に踏み出した。
この踊り場のスペースには、他に誰もいない。
そして、遠目にもこの二人を気にかける者はいない。
いや、たとえいたとしても、今の鉄男には関係ない。
鉄男が翔子を見つめながら口を開いて言葉を発した、まさにその時
球場の方向から割れんばかりの声援が聞こえてきた。
駅ではポケットラジオを聞きながら改札に入ってきた人が
「秋山サヨナラだぁー」と騒いだので
周辺の人達がそれにつられてどっと騒ぎ始めた。
どうやら秋山選手のサヨナラホームランらしく
駅の中も外もお祭り騒ぎになった。
翔子には、その騒ぎの中でも鉄男の声がはっきり聞こえていた。
サヨナラの余韻の喧騒の中、そっちに気を取られること無く
はっきりと鉄男の言葉を聞き取っていた。
そして翔子は黙ったまま、ゆっくりとゆっくりと鉄男に抱きつき、
ホッと安心した気持ちで鉄男の胸に顔をうずめた。
「うれしい。ありがとう・・・信じてた・・・」翔子が涙声でそう言った瞬間
ライオンズの勝利の花火が、何発も何発も夜空に上がった・・・。
その祝福の花火の爆音と振動は、まるで二人をも祝福しているかのようだった。
・・・球場ではサヨナラホームランを打った秋山選手がダイヤモンドを一周し、
ホームベース手前で得意のバック宙を披露しいた・・・・。
「まもなく池袋行の電車が発車いたします。ご乗車の方はお急ぎください」と
係員の声がスピーカーから響き渡った。
”男としての最初の自信”を手に入れた鉄男は静かに、
そして優しく、「行こうか」とささやき、
翔子をそっと自分の胸からはなし、電車に向かうために体を反転させた。
すると後ろから翔子が鉄男の左手をそっと握った。
発射のベルが鳴り響く中
鉄男はすっかり男の顔になり、翔子を導くようにして二人で電車へ急いだ。
それからどうやって帰ったのかは二人とも、あまり覚えていない。
ただ、電車の中で二人はずっと手をつないでいた。
その間、会話は殆ど無かった。
電車は多少混んでいたせいもあり、冷房がかなり効いている。
一部の人は寒さすら感じるくらいであったが
鉄男たちは、お互いの手から感じるぬくもりを、無意識の上に確かめ合っていた。
翔子は鉄男の手をそっと握りながら、彼が言ってくれた言葉を何度も思い返した。
「翔子さん、俺ずっと君のことが好きだった。どうか真剣に付き合ってください」
とても上手とはいえないが、鉄男らしい不器用な告白だった。
しかしはじめて自分のことを「翔子さん」と呼んでくれたその瞬間の、
彼の優しい眼差しを思い出すと涙が溢れそうになった。
鉄男は、翔子の「信じていた・・・」という言葉を思い出し
「ずっと待っていてくれたんだ・・・遅くなってごめん」と
心のなかで謝りつつ、「これからは俺が幸せにするから」と誓っていた。
そして何度も心で誓うたびに翔子の手を強く握った。
所沢で二人が無意識に乗り換えた電車は、終点本川越駅にたどり着いた。
手をつないだままホームに降りた二人は改札に向かう。
改札前には、「今日の西武ライオンズ戦の結果」というボードが用意してあり
9回裏に2☓と記載されていた。そして欄外に「秋山選手サヨナラ本塁打」と
大きく書いてあった。
「家まではどうやって帰るの?」改札を出て鉄男は翔子に尋ねた。
「家に電話をしてお母さんに車で迎えに来てもらうの。ちょっと家に電話してくるね」と翔子は言って公衆電話に向かった。
鉄男は改札前の丸い大きな柱の陰に行き、自分の手のひらを見つめながら
さっきまでつないでいた翔子の柔らかい手のぬくもりを
何度も思い出して確かめた。
夢でも妄想でもないんだ。今日から俺は一人じゃない。
彼女は自分が守り幸せにしないと・・・・・。
翔子が戻ってきて、
「ごめんね、おまたせー。お母さん5分くらいで来てくれるみたいだから」
翔子はすっかり元の翔子に戻っていた。
「明日、電話してもいい?これから一緒に受験勉強したりしたいな」
「うん、一緒に勉強しよう。明日電話は午前中にくれる?」
「そうね、午前中にするね」ニコッと笑って後ろ手に組んだ翔子が
今度は彼女の方から鉄男に歩み寄り
いたずらっぽく鉄男の顔を覗き込んだ。
それからゆっくりと目をつむる・・・。
もう鉄男に迷いはなかった。
鉄男は翔子の両腕を軽く持って、彼女の柔らかい唇に自分の唇をそっと重ねた。
キスの仕方など分かるはずもない二人だったが
そのキスはとても優しく、そして甘酸っぱかった。
キスが終わった余韻の後、翔子は一歩下がって「行かなきゃ、じゃあね」と
いつもどおりの元気な様子で鉄男に言って
手を振りながら、駅前ロータリーの方へ消えていった。
鉄男は昼間来た道を帰って行った。
昼間とは道も気分もすべてが反対だった・・・・。
進路
翌日、鉄男は翔子からの電話をとった。
「もしもし鉄男くん?翔子です」
「あ、松田さん?昨日はありがとう。とても楽しかったね」
「うん、楽しかったぁ。あ、でもこれからは、翔子って呼んでね」
「あ、そうだね・・・翔子・・・ちゃん」
次男の鉄男はただでさえ他人の下の名前を呼び捨てなんてしたこと無かったのに
それが女の子の名前となるとなおさら呼び捨てなどはできない。
だから「翔子」ではなく「翔子ちゃん」と呼ぶことにした。
しかし、最初は「翔子ちゃん」と呼ぶことすら照れくさかった。
二人は夏休みは市立図書館で一緒に受験勉強することに決め
その日の午後さっそく図書館で待ち合わせをした。
図書館はとても涼しく、しかも自習室があるので、
受験生がたくさん勉強をしていた。
二人は空いている席に座り、参考書を広げて勉強を始めようとした。
すると鉄男が翔子の持っている問題集に気づいた。
「それ、赤本だよね?どこの?」と小声で尋ねた。
すると翔子がその本のタイトルを指差した。
そこには『帝都国際大学 文学部』と書いてあった。
鉄男はたいへん驚いて「えっ?」と、つい大きな声を出してしまったので
周りの人々から睨まれた。
翔子は人差し指を立てて「しーっ」と鉄男に微笑みながら言った。
そのまま小一時間勉強したが
鉄男はさっきの帝都国際大学の赤本の件で、まったく集中できず
休憩を兼ねて翔子を外のベンチに連れ出した。
「あれ?翔子ちゃん、帝都国際大学を狙っているの?」鉄男が尋ねると
「うん、実は言ってなかったんだけど、大学に行くなら
家から近く通いやすいところにしたかったんだ。
帝都国際大学の学園祭にも何回か行ったことがあって、緑が多くて広くて
結構いいところだなって思ってたの。だから鉄男くんが帝都国際大学に
行く行かないに関係なく、あそこを受けてみようと思っていたんだ・・・」そう翔子が答えた。
「そうなんだ・・・。俺も帝都国際大学を受けようと思っているけど、早稲田も受けようかと思っているんだ・・・。俺の周りでは帝都国際大学の評判があまり高くなくてさ・・・」
「そっか・・・。でも鉄男くんが選んだ道を私は応援するよ。それに別に大学まで一緒じゃなくてもいいと私は思っているから、私のことは気にしないでね」と、本心はできたら一緒に大学も行きたいと思っている翔子ではあったが
それは言ってはいけないような気がして、言えなかった。
「そうだね、自分でももう少し考えてみたいんだ。本当に勉強したいことがある大学と
世間体で選んだ大学と、どっちがいいのかを・・・」そう鉄男は言って
二人は涼しい図書館に入っていった。
自習室に戻る途中、鉄男はトイレに寄ってから
あるコーナーに目が行った。
それは「郷土史」のコーナーだった。
そこには川越市に関する文献や資料がたくさん陳列されていた。
ガラス張りの大きなショーケースには、江戸時代前期の川越市の中心部の
古地図の掛け軸がかけられていた。
「こんなところ、普通に生きていたら、通り過ぎちゃうよな・・・」と心のなかでつぶやきながら、そのコーナーの一角にある書籍棚の前で止まった。
そこには以前、斉木と三重と集まった日に本屋で見つけた
「川後の歴史と謎 枩田建造著」の書籍があった。
枩田建造・・・帝都国際大学教授・・・・
鉄男はこの教授なら、弁天池に関する言い伝えなどを知っていて
例の物質の謎が解けるヒントも知っているかもしれない・・・
それに東京の有名大学で、一地方の、それも地図上では
ほんの爪の先ほどしかないそんな地域のことを真剣に研究してる教授に会うなんて
奇跡に近いに決まってる・・・と思った。
そして「やはり帝都国際大学にいくしかないよな」と考えながら自習室に戻った。
鉄男と翔子は、夏休みほぼ毎日のように図書館に通い勉強をした。
また、息抜きで2回ほど西武ライオンズのナイター試合を観に行った。
彼らはとにかく二人で一緒にいることが、楽しくて仕方がなかった。
夏休みが終わり、二学期が始まり二人は普通に登校した。
しかもクラスの中でも部活でも、以前と変わらない態度の二人だったので
彼らが付き合っていることを知っている人は誰もいなかった・・・一人を除いて・・・。
唯一知っていたのは、理系クラスに進んだ鉄男の幼なじみの三重博だった。
ある日、鉄男が学校の廊下を歩いていると
「鉄男!」と呼び止める声がした。
振り向くとそこには三重がいた。
「おお、三重、久しぶり」
「久しぶりじゃないよ、お前俺に隠し事てるだろ?」と三重はニヤニヤしながら言ってきた。
「え?隠し事??ああ、早稲田を受けるってこと?」とまさかとは思いつつ、しらばっくれた。
「え?お前早稲田受けるの?帝都国際大学じゃないの??」三重はそれも聞いていなかったので驚いたが続けた。
「ってかお前、そんなことじゃないよ。もっと大事なことあるだろ?」としつこく聞いてきた。
「え・・・・」やばい、こいつにはバレてると鉄男は思いつつ
どこでバレたんだ?と思いを巡らせた。
図書館にはずっと通ったが、うちの高校の生徒は見る限りいなかったし
西武球場か?とも思ったが、
「実はさ、この前、斉木と佐藤がマルヒロ前のサンロードでデートしてるとこに、偶然出会ってさ、その時、佐藤が教えてくれたんだよ。鉄男が彼女らしき女性と、斉木の試合を観に来てたって」
「ああ・・・ちなみにマルヒロ前は新富町通りな」と
いらないツッコミを、鉄男が三重に入れた。
「んなことは、どうでもいいだろ?で、その彼女らしき女ってだれなんだ?」相変わらずニヤけながら三重が言う。
「佐藤の話では、タレ目でメガネをかけ、髪の毛をうしろで束ねたすごく普通な女の子って言ってたっけ・・・」
鉄男は伝聞ではあるが佐藤のその言い方にムカついた。「タレ目で普通な女だと???ふざけんな」と声には出さなかったがムッとした。
ちなみに翔子はタレ目というほどではなかったが、角度によっては目尻が少し下がって見えるかもしれなかった。そしてそこが可愛いところでもあったのだが・・・。
鉄男が黙りこんだので三重が続ける
「佐藤の言うような女なら、放送部の松田じゃないのか?」と。
やはりバレたかと鉄男は思い、隠してもしょうがないので
「うん、じつは彼女と付き合っているんだ」と白状した。
三重はやっぱりと言った雰囲気で
「あ、さっきのタレ目で普通の女ってのは、佐藤が言ったことだからな」と
一応親友のことを気遣って言い訳をした。
「佐藤のやつ、自分はすこしばかり美人で頭がいいからって、人のことひどく言うよな・・・」とポロッと鉄男が言った。
「いや、あいつに悪気は無いんだよ。ひどく言ったつもりもないだろうね。彼女の特徴を言っただけだろ?しかも佐藤は彼女のことを清楚な感じとも言っていたぜ。まあ、あいつ少し天然入ってるじゃん」三重はそう言うが、鉄男は自分の彼女をバカにされたと思い込んで、なかなか納得できなかった。
「そっか、でも鉄男もなんだかんだいって、いろいろと頑張ってるんだな?早稲田も狙ってるんだ?」と関心した様子で続けた。
鉄男にしてみたら早稲田の件は、翔子とのことをごまかすために
つい口から出てしまったのだが、引っ込みがつかなかったので
「ああ、早稲田はダメ元で受けようかと・・・」と少し笑いながら言った。
鉄男はその後三重の近況を聞いたが
柔道部は夏休み前の大会で負けたので、その時点で引退したそうだ。
彼女はまだいないらしいが、しかし
「部活はダメッだったけど、俺は大学は一番上を目指す」と豪語した。
たしかに三重は学年で5番以内を行っているらしいが、
一番上とは東大のこと・・・過去5年間この高校からは東大には誰も行っていない。
しかもこの学年は「過去最高の受験者数」を戦わなければいけない世代だ。
並大抵の努力では・・・。
鉄男は「まあ、頑張ってよ・・・」と三重に言って教室に戻った。
教室では、翔子の席を中心に集まった数人の女子生徒が、ワイワイ話している。
「タレ目で普通の女・・・」鉄男は翔子のほうを見ながら、
三重から聞いた佐藤の言葉を思い出した。
確かに目立たないけど・・・普通だけど・・・美人じゃないけど・・・
鉄男は悔しかったが、翔子の魅力が外見では無いことを前から分かってはいた。
鉄男は翔子の、ちょっと古風な性格で姉御的でかつ甲斐甲斐しい雰囲気が大好きだった。
しかも二人でいる時は、ちょっと甘える感じがあってそのギャップに可愛さすら感じるのだ。
(後世の人が言うツンデレとは違う。ツンツンしてるわけでも、デレデレというほどでもない)
鉄男が翔子のいる集団の方をみて考えていると
その中の一人の女子が気づいて
「何じっと見てるの?星野鉄男~」と笑いながら言ってきたので
「うん、君たちの向こう側に、血だらけの女の子が立っているのが見えるんだ」
と真剣な表情で適当に答えると
「きゃ~っ」と叫びながらその集団は翔子を残して、雲散霧消した。
翔子は笑いながら机をバンバンと叩き「うそつけ~」と心のなかで叫んだ。
川越北高校は学園祭を迎え、その前後は放送部も忙しかった。
校内の連絡放送や、BGMを流したりするのだ。
そして校庭に設置されたイベントステージでの音響と、
体育館で行う学生によるバンド演奏の音響などに東奔西走した。
それが終わると、放送部最後の仕事、体育祭が待っていた。
体育祭では放送ブースで競技案内やBGMを流したりする。
そして、今回からは鉄男が考えだした
「実況中継」が行われることになった。
放送ブースでは翔子たち女子部員がアナウンスをして
鉄男や三原など男子部員がワイヤレスマイクを持って、
グラウンドを駆けまわり
競技前や競技後の生徒の「生の声」を届けるといった企画であった。
たとえば100m走のスタート前とゴール後の生徒の感想を実況放送したりするのだ。
中にお調子者の生徒がいると
スタート前に「ぜってー負けねー」とマイクをぶんどってハッスルして見せて
結果ビリでゴールして「すみませんでしたぁ」と土下座をして謝る者がいたり
9月までテレビで放映されていた「101回目のプロポーズ」を模して
「僕はしにましぇーん」と言って騎馬戦の馬にわざと突っ込んでいく反則者などが出没して、体育祭を盛り上げた。
また、放送ブースの翔子が
「さて、これからクラス対抗の棒倒しがはじまります。
ここで現場の様子を聞いてみましょう。
棒倒し会場の星野鉄男さーん」と言うと
「はーい、星野です。ただいま棒倒し会場は大変白熱してまいりました。
競技直前の感想を2~3名の方に聞いてみましょう」
というようにいちいち実況するという企画だったが
その企画はとても受けて、その後の川越北高校放送部の伝統行事ともなった。
そして体育祭を大成功に終えて、鉄男たちは放送部を引退した。
鉄男たち3年生は後輩たちに後を任せ、部室から出てバラバラと帰っていった。
この頃には鉄男と翔子が付き合っていることは、近しい人たちは知っており
部活内でも公認の仲であった。
そういう事情もあり、周りが気を使って、下校時は鉄男と翔子二人で帰ることが増えた。
「鉄男くん、お疲れ様。体育祭の企画とってもよかったね。先生たちもすごく喜んでいたんだよ。放送ブースの横にいた、柔道部顧問オニの澤田ですら、大笑いしてたよ」と
満足そうに翔子が言うと
「そっか、でもみんなが喜んでくれてよかったよ・・・。あとは受験だけだね」と鉄男が返した。
「そうね・・・で、鉄男くんは結局どこを受けるの?」
「うん・・早稲田は力試しに受けるよ。でもやっぱり帝都国際大学にいくつもりだよ」
「そうなのね?そしたら大学も一緒に行けるといいね」
「そうだね」と10月の夕焼けの中、二人は自転車を並べ帰っていった。
ちなみに二人の大好きな西武ライオンズはこの年の10月も日本一輝いた。
それから二人は受験勉強を続け、1991年が終わり
1992年の元旦がやってきた。
鉄男と翔子は朝9時から川後氷川神社に初詣に行った。
鉄男は当時流行り始めたモコモコの紺のダウンジャケットを
翔子は紺のダッフルコートを着ていた。
神社はすごい人の数でごった返していて
鉄男がお清めの仕方に迷っていると、翔子がさっさとお清めをはじめた。
鉄男が翔子を真似てお清めを済ますと、翔子はさっとハンカチを鉄男に手渡した。
祈願やお守りの拝受など、神社のお参りの仕方は翔子が詳しく知っていて
鉄男はそのたびに翔子の所作を真似た。
「何でそんなに詳しいの?」と鉄男が翔子に聞くと
「昔から家族でよく来ていたの。弟が入院してからは頻繁に来て祈願とかも結構したからね」と翔子はサラッと答えた。
鉄男はあまり弟の件には触れて来なかったが、翔子が話したいと思った時には真剣に聞こうと思っていた。
「そっか・・・弟さんは長く入院されていたの?」
「ううん。入院して1ヶ月もしないうちに亡くなってしまったのよ・・・」と翔子は
晴天の冬の空を見上げて少し目をつむった後、
「さ、あっちに行って甘酒でも飲もう」と翔子はこの会話を終わらせた。
二人は露天の並んだ一角に行き、焚き火のそばで暖を取りつつ、甘酒を飲み冷えた体を芯から温めた。
すると「あら、翔子?」と声をかけてきた中年の女性がいた。
見た目は翔子より少し背が高く、小奇麗な顔立ちで、優しそうな女性だ。
「あ、お母さん??どうしたの???」
「え?どうしたもこうしたも無いわよ。いつも通り初詣に来たのよ。毎年一緒に来てたのに今年は、さきに出かけちゃうんだもの。一人で来たのよ」とゆっくりとした穏やかな感じで翔子に言った。
鉄男がポカンとして見ていると
「あら?・・・もしかして・・・この方?」と翔子に”お母さん”と呼ばれたその人が
鉄男を見て何かを言おうとすると
「そう、こちらの方が星野鉄男さん。いまお付き合いしている人なんだ」
と嬉しそうに紹介した。
鉄男は会釈をして自己紹介をしようとしたが、それより先に
「はじめまして、翔子の母の佳代と申します」と嬉しそうに言ったので
今度こそ言い漏らしまいと思い
「はじめまし。翔子さんとお付き合いさせていただいています星野・・・星野鉄男と申します」と深く頭を下げた。
佳代はまじまじと鉄男を見てから翔子に
「あら、翔子、真面目そうないい人でよかったわねぇ」と言ってから
鉄男にも
「翔子は気の強い女だけど、優しくしてあげてね。おほほほほ」と言って笑った。
「もういいよお母さん、これから二人で出かけるから、また後でね」と
翔子はバッサリ言って切ったので
佳代は「あらあら、じゃあ鉄男くん、面倒見てあげてね」と笑いながら言って人波に消えていった。
鉄男はあっけにとられたが、翔子が
「鉄男くん、ごめんね。うちのお母さん天然だから・・・しゃべり方もゆっくりでしょ?」と笑いながら鉄男に告げた。
「あ、そうなんだね。でもお母さんに俺のこと言ったんだ?」
母の佳代が天然っぽいことは見れば分かったが、自分のことを知っていたのに少しおどろいた。
「そうなの。お母さん実は天然のくせに、そういうことには目ざといっていうか・・・
私の態度がいつもと違うって気づいたから、根掘り葉掘り聞かれてね・・・」と苦笑しながら答えたので鉄男は
「お父さんには?」と探りを入れてみた。男としては一番気になる部分だ。
「あ、お父さんはまだ知らないよ。なにせ仕事が忙しくてあまり家にいないの」
「そっか・・・お父さんは何やってる人なの?」
「うーん、学校関係者っていうか研究者っていうか教育者っていうか・・・」
「へー、そうなんだね。教育関係者なんだ?」
「うん・・・まあね・・・」と翔子は濁した。
しかし、”天然の母親の子どもはしっかりしている”というのは本当かもしれないと改めて思う鉄男であった。
二人は観光地なった蔵造り通りを歩きながら、本川越駅前までやってきた。
本川越ぺぺは休みだったので新富町通りを抜けてサンロードに出た。
何をするわけでもないが、二人は手をつないで元旦のデートを楽しんだ。
駅に向かって歩いていると、前から斉木・佐藤のカップルがやってきた。
「おー斉木」鉄男が先に言うと
「おー鉄男」と斉木が応え
そして「あら、星野くん」と佐藤理恵がワンテンポ遅れて言った。
「お、この方が鉄男の彼女?」と斉木が聞いて鉄男がうなずいたので
「はじめまして、斉木一成です」と翔子に向かって会釈をした。
「はじめまして、松田翔子です」と翔子も斉木に言うと
「私たちは2回目よねー」と佐藤が翔子に馴れ馴れしく言って
「そうね~」と翔子も軽く答えた。
それから、久しぶりに会ったので、4人で喫茶店に入った。
鉄男は佐藤を見ると、彼女が翔子のことを「タレ目の普通のお女」と言ってたという
三重の発言を思い出して、あまりいい気分はしていないが
それはそうと4人で会話を楽しむことにした。
「鉄男、結局大学はどうするんだ?」と斉木が切り出すので
「うん、早稲田を受けてみようとは思っているよ」と鉄男は答えた。
すると聞いてもいないのに
「私は青学を受けるんだー」と佐藤が言ったので
「そうなんだ」と適当に流して
「斉木はどうするの?」と聞いた。
佐藤はムッとした表情をしたが、そこを翔子が拾って
「すごいね~。青学なんて、なんかおしゃれねー」と佐藤の相手を買って出てくれたので
鉄男は、流石に毎日天然な母を相手にしているだけあって、慣れているのかもしれないと思い感謝しつつ佐藤の対応を翔子に任せた。
「俺は東京大学を受けるよ」と斉木はサラッと言ったが
斉木なら受けるだろうと思っていたので、三重の時ほどの衝撃はなかった。
佐藤と翔子はふたりで何やら盛り上がっているので放っておいて
「三重も東大目指すって言ってたな・・・」と斉木に言うと
「ああ、あいつはそっちの学校でもトップクラスなんだろ?この前偶然会ったけど、全国模試も結構イケてるみたいじゃないか。たぶん大丈夫だろうな」と三重のことを評価して言った。
「そうだな。あいつは努力家だからなぁ」
確かに三重は努力家だ。目標を高く持って部活も勉強も頑張ってきた。
鉄男のようにのほほんとはしていないので、努力は報われるのかもしれないと思った。
それから、鉄男と斉木はお互いの学校のことや勉強のことなどを話した。
翔子と佐藤も女子的な話しで盛り上がり
小一時間経ったので、店を出てそれぞれ別れた。
「ありがとう、佐藤の相手をしてくれて」と鉄男は翔子に礼を言うと
「ううん、なかなかいい子だったね。しかも美人で頭いいし」と翔子は佐藤をほめた。
鉄男の心中は複雑だったが、翔子には何も言うまいと思った。
正月三が日が過ぎ
3学期が始まると、一気に受験直前モードになり
鉄男は毎日夜1時過ぎまで勉強をしてきた。
2月上旬に早稲田大学文学部と帝都国際大学文学部の試験を受けた。
早稲田大学には無事合格した。
翔子も帝都国際大学文学部を受験した。
2月10日
今日は帝都国際大学の合格発表だ。
この日、二人で大学に結果を見に行くと見事合格していた。
そして二人で健闘を讃え合った。
大学からの帰り道、二人は最寄りの東武東上線鶴ヶ島駅に向かって歩いた。
大学から駅までは徒歩で20分ほどだ。
歩きながら
「鉄男くん、よかったね。でも、どっちに行くか決めたの?」と翔子が尋ねる。
「うん、もう受ける前から決めているんだ。帝都国際大学に行くよ」
「そっか。でも早稲田を蹴るなんてもったいないね」と笑って翔子が言った。
「そうかもしれないけどね・・・やりたいことがあるから・・・」鉄男が真剣に返した。
「そっか・・でも鉄男くんのやりたいことって、まだ聞いてなかったね。今度教えてね」
「あ、そうだったね。今度ゆっくり話すよ」と笑いながら鉄男が答えると
翔子が突然真面目な表情で話し始めた。
「私もまだ言ってないことがあるの。亡くなった弟の事とかいろいろ・・・」と。
鉄男は少し考えてから
「話したくなったら、聞かせてよ」と優しく返答した。
翔子も少し考えてから
「ありがとう・・・そうね・・・実はね、明日が弟の命日なの。
私が中学3年の受験の時に、中学1年の弟の一樹が、ガンで亡くなったの」
鉄男が黙って頷きながら聞いていたので翔子は続けた。
「弟は小学校6年生の卒業式直前に体調を崩して、精密検査を受けたら
喉頭ガンが見つかってね・・・それから治療をしていたんだけど、1年くらいで
亡くなってしまったの。最後は何も喋れなくなってしまってね・・・」
鉄男はいつか聞くであろうと思っていたが
実際に聞くと、翔子の悲しい思いががひしひしと伝わってきた
鉄男がちゃんと聞いてくれていること確認して翔子は続けた。
「そのあと1年はお母さんがひどく落ちこんでしまって、私が代わりに食事を作ったり家事をしたりしていたの・・・。高校一年の時の話よ・・・。一番下の弟の茂も育ち盛りだったからね・・・面倒見ないといけないし」
「そうだったんだ・・・。亡くなった一樹さんはどんな人だったの?」と鉄男が聞くと
「そうね・・・やればできるのにやらない子で、おまけに寝坊助で手のかかる弟だった。
せめて最後に一樹の声を聞きたかった・・・」
と遠くを見つめるような眼差しで翔子が語ると
ビューっとからっ風が二人の間を吹き抜けていった。
「でもね、とても優しくて、家族思いで、あんないい子はいない・・・って子だったの」
鉄男はなぜか自分のことを言われているようで、何とも言えない気分だった。
「そっか・・・よく話してくれたね。俺もいつか一樹さんのお墓参りに行きたいな」
「そうね、近いうちに行きましょう」そう話しているうちに駅に着いた。
二人はそのまま電車に乗り、それぞれの家に帰っていった。
そして、いよいよ鉄男たちの大学生活が始まる。
鉄男と翔子は帝都国際大学文学部に
斉木は東京大学理学部、彼女の佐藤は青山学院文学部に。
三重は残念ながら東大は受からなかっが、
浪人をして来年を目指すと宣言した。
はたして例の物質の謎は、解明されるのであろうか・・・。