プロローグ
試作です。チラシの裏に書くには長くなりそうなので。
もう一昔と少し前、僕は東京・高円寺で随分と長々した学生生活最後の一年を過ごしていた。その頃の僕はある女性に随分と入れ込んでおり、短い間だが恋仲と呼べる関係でもあったはずだ。それでも時の流れの為せる業なのか、彼女の顔も声も記憶の中で朧げな --- 多分、あの頃のままの彼女と道ですれ違ってもわからないくらいには --- もう「思い出」とも呼べない命名しがたい何かに変容している。
「あなたって綺麗な文章を書くのね。芥川龍之介のラブレターみたいな。」
この一言がほぼ唯一「彼女の形」をとどめている。いつどんなシチュエーションで聞いた言葉なのか、本当に芥川龍之介だったかそれとも太宰治だったか、僕の記憶は実に心もとない。読書の習慣のない僕にもそれとわかる文豪二人のラブレター、これらを目にすること自体は容易である(ネットは何でも教えてくれるものだ)。しかし、彼らを作風よりも最期の遂げ方で識別している僕にとって、自分の文章をいずれのタイプに分類すべきかという問は容易とは程遠い(ネットに関する前言は撤回せねばならない)。そもそも、それらがどう美しいのかさえ、僕にははっきりしてこない。
それにしても、彼女はいつ僕の手になる芥川式ないしは太宰式ラブレターを目にしただろう?しかもそれは『綺麗』と評される文章から構成されねばならぬ。ごく一時でも「そういった関係」にあったから、ラブレターでないにしても多分僕が書いた何がしかを彼女は目にしただろう。多分メールか、何かの折にプレゼントでも贈っていれば添書きくらいは僕でもしただろう。しかし、それらが『綺麗』と評されるべき文章だったかといえば、多分そうではなかったように思う。学生時代にしても今にしても何ら文学的な表現について修練を積んだことはなく、また読書家でもないから『綺麗』な文章を目にする機会で考えても有利な状況とは言い難い。況やそれを書く能力をや。生み出すためには知らねばなるまい。
ともあれ、もはやボンヤリとした彼女の声で、僕は今でもその言葉を聞くことがある。今朝もそうだった。
「おーい、新聞持って何ボーッとしてるの?月曜だから、私もう出るね。出かける時は戸締まりよろしく。」
「ああ、いや、なんでもない。いってらっしゃい。」
過去の女性からの囁きを妻に向かってバカ正直に語るほど度胸が据わってはいない。というよりも、十数年前から持ち越した一言など当然今の僕には何ら実際的な害も益もなく、客観的には取るに足らないことと見るべきなのだ。お役所勤めの妻は朝礼のためいつもより30分早く出かけて行った。僕の方はといえば、ホットサンドを咥えたまま二杯目のコーヒーを注ぎ、今度は本当に新聞に目を落とした。記事は数日前の西日本での豪雨被害について生々しく報じていた。避難を促す放送をかき消すほどの大雨は地滑りを引き起こし、土砂は大雨の音をかき消す轟音とともに集落を丸ごと飲み込んだという。
(こういうのはあまり綺麗な文章とは言えないんだろうね?)
答えはあるべくもなかった。
--- つづく ----