舎六部と依頼人
ここ最近雨が降らなかったせいか、窓は砂埃で軽く汚れていた。
ふと目を上げると視界に入るのは、申し訳程度にしか掃除していないため、いつも歩くと足の裏へざらりとした感触を残す板張りの床。その上に雑然と並べられた、現役を引退して間もない机や椅子たち。前に掲げられた黒板はぞんざいに消されたチョークの怨念で煙っていて、その上に掲げられた時計も心なしか動きが鈍い。
そんな備品の全体、あるいは一部に統一感を与えているのは、窓から差し込む薄い夕焼けが教室を染め上げる頽廃と倦怠の朱色だった。醸し出されている雰囲気はほとんど倉庫のそれで、実際にこの教室は余った備品の保管場所としても使われている。
この場所で長時間過ごしていると、時間というものがいかに相対的な概念であるか身に染みて分かる。痛感する。
音もなければ動きもない。一周回って牢屋かと思うくらいに、時間がストイックな趣を呈している。
つまり、何が言いたいかと言うと、
「ぜんっぜん依頼が来ないな、ワトソン君」
「亜理紗です」
――わたしたちは暇を持て余していた。
もはや、親が癇癪を起こした子供を持て余すのと同じレベルだ。部長は教室の机を長方形状に並べてその上で横になっているし、このわたし、蓮山亜理紗も少し離れた場所にある椅子に腰掛けて小説を読んでいる。これ以上の浪費があるのかと疑いたくなるほどに青春の浪費もこの上ない。
「もう一ヶ月も依頼が来てないぜ、ワトソン君」
「だから亜理紗です」
そんなぐだぐだとしたやりとりをしながら教室にたむろしているわたしたち二人が今まさに部活動の真っ最中だと聞けば、大半の人は「え? 化石の物真似してたんじゃなかったの?」という反応をするに違いない。かれこれ一時間近くは今の位置から微動だにしていないのである。
気紛れに高い今夏の気温もあり、夕焼けを頼りに活字を目で追うのにも疲れたので、わたしはお手製のベッドに寝そべっている部長の姿をちらっと見やった。
頭の上で暴動でも起きたのかと疑いたくなるくらいに野性味あふれる髪。死んだ魚の目という形容がしっくりくるような活き活きとした瞳。着崩したというよりは崩壊したという言葉が当てはまる小粋なファッション。街中を歩けばきゃーきゃー言われること請け合いだ。そのあふれんばかりの魅力は人を惹きつけずにはいられないだろう。特に警察を。
「この学校では事件の類は起こらないのかねぇ、アリソン君」
「ワトソ……亜理紗ですってば」
わたしがアリソンならあんたはヴィルか、と突っ込もうかと思ったが、やめておいた。どうせ推理小説しか読まない部長には通じないネタだろうし、この浮浪者もどきと一緒にされたのではあまりにもヴィルが浮かばれない。
そんなことを考えてしまうのも無為なる時間の賜だろう。度が過ぎた暇とは人から正常な思考能力を奪うのである。
そのせいもあってか、わたしは教室の外から聞こえてくる微かな物音を聞き逃しそうになってしまった。耳がそれを取り逃す手前で危うくふん捕まえる。
「……? 部長、足音がここに近づいてきてますよ。依頼人かもしれません」
「この教室に向かってるとは限らねぇし、もしそうだったとしても先公か何かだろ。もう俺は期待を裏切られるのはたくさんだ」
「依頼が来て欲しいんじゃないんですか? 矛盾してません? それにほら、どんどん近づいてきてますよ」
「幻聴だよ幻聴。あんまりやることがないもんだから、勝手に頭の中で足音を作り上げているに過ぎないのさ。人とはかくも悲しい生き物なのだよ」
「あぁ……なるほど」
そうか幻聴か。
あり得る話だ。
確かに、校舎の隅もまた隅に位置しているこの教室まで、好き好んで足を運んでくる生徒などほとんどいないだろう。こんなところまで訪れてくるのは大体用務員のおじさん(もしくはおばさん)か、ご苦労にも校内見回り中の先生くらいのものだ。だから単純な推理として、用務員のおじさん(もしくはおばさん)が顔を出す曜日ではない今日の、先生が見回りをする時間帯でもない今、足音などと言う、ともすれば輝かしい未来を連想させる福音などは聞こえてくるはずもないのである。……わたしとしたことが、そんなことにすら思い至らなかった。恥ずかしい。というか、
「部長、わたし、病院に行った方がいいんでしょうか……」
だらだらしているだけならいざ知らず、幻聴が聞こえているのならいよいよまずいだろう。不安になって部長の顔を見る。しかし当の部長は澄ましたもので、
「大丈夫、空耳なんて誰にもあるものさ。心配しなくてもいい」
などと言ってきた。
「そうでしょうか」
「そうだよ。俺なんか街を歩く度に『不審者だ』とか『こら、見ちゃ駄目よ』とか幻聴が聞こえてくるけれど、もう心配なんかしてないぜ」
「それは違う意味で心配した方がいいと思いますけど」
「たまに『素敵!』とか『あの人格好いい!』とかいう黄色い声も聞こえてくるが、まぁそれは幻聴じゃないだろうし」
「それこそ幻聴じゃないですか。病院行ってください」
「んだコラぁ! これでも引く手数多なんだぞ俺は! 夜、暗いところとかで時々ばっちり目が合うもんね! 二人ともなんか足がないけど」
「……いやぁあああ! それ、ばっちり取り憑かれてるじゃないですか! 今すぐお祓いしてきてください! すぐに!」
「失礼だろ! 今、アヤちゃんが隣にいるんだぞ! 気ぃ悪くしたらどうすんだ!」
「きゃあああああああ!? 寄るなぁ!」
何かに取り憑かれたような不気味な動きでにじり寄ってこようとする部長。その顔に平手打ちをお見舞いすると、バランスを崩したらしく机の森へと突っ込んだ。その拍子にお手製のベッドまでもが次々に倒れ、教室に騒々しい音が響き渡る。
それだけでは悪霊を追い払えた自信がないので、わたしは床に転がっている部長にスタンピングの雨を浴びせかけた。南無阿弥陀仏! 悪霊退散!
「ちょ、痛、冗談だって、やめ」
「部長から出て行け、この悪魔!」
「うげ、悪魔は、お前、ふぐぅっ」
死ね部長! あ、間違えた。死ね悪魔!
――そんな風にスタンピング除霊を行っている最中だった。
何者かの気配を感じて入り口の方を振り向くと、開けっ放しになっている引き戸の向こうに男子生徒が立っているのが目に入る。
新たな悪霊の襲来かと思い身構えるが、ちゃんと足はある。なんだか引き攣った表情を浮かべてはいるが、生きた人間のようだった。
スタンピングを一旦止める。
一気に静けさを取り戻した放課後の教室に、男子生徒とわたしたちの視線が交錯する。何とも言えない不思議な空気が下り、蝉の鳴き声しか聞こえないという傍迷惑な沈黙がこの場を支配した。
みーんみんみんみん。
「……えっと……」
彼は笑顔をつくろうと努力している様子だったが、相変わらず顔は引き攣っていた。きっと、悪霊に取り憑かれた人間を見るのは初めてだったのだろう。
「依頼があって来たんですけど。……お取り込み中ですか?」
「あぁ、いえ、大丈夫です。少し私刑を加えていただけですので」
「私刑?」
「あ、間違えました。除霊です」
「除霊?」
とりあえずほっとしたわたしは一息をつく。
なんにしても、依頼ならそんなところに突っ立っていないで早く声を掛けてくれればよかったのに。そうすればわたしたちももう少し早く対応できたというものだ。
お客様に親切にするというのは客商売の基本も基本である。少々サービス精神に欠けた輩が部長を務めてはいるものの、わたしに関してはまさしく接客のプロと誰もが言わざるを得ないほどのスキルと経験を積んでいたらいいなぁ……という願望を思い浮かべたところでどうにもならないので、お得意の自己暗示によって某テーマパークのキャスト並の接客術を手に入れようともくろんだわたしはとりあえずお客様に目をやり、一期一会の奇跡に感謝しつつ奉仕の喜びを存分に噛みしめ――
ん。
――お客様?
「い、依頼人の方ですか!?」
わたしが思わず身を乗り出すと、彼はぎくっとしたように数歩後退りして首肯する。いけない、今のはあまり上品な振る舞いではなかった。
「は、はい。でもお邪魔なようだったらまた出直して、」
「とんでもない!」
再びお客様がぎくっとする。また勢い込んでしまった。はしたない。
わたしは一度咳払いをして落ち着きを取り戻すと、床で何故かぼろぼろになっている部長を尻目に、心からの営業スマイルを依頼人に向かって浮かべ、そして言った。そう、ウェルカムトゥ――
「ようこそ、舎六部へ」
少し思うところがありまして、今後のためにも最初から徐々に文章を書き直していきます。既出の展開に関しては変えるつもりはありませんので、「あ、読み応えが変わったな」くらいに思ってくださると幸いです。