3
息を切らしながら、エレオノーラはヴェルナを引っ張って走った。森から自分達の住む場所を、まさに逃げるように走って、やっと後もうすぐで森を抜けると言うところまで戻ってきた。
そこまで来ると、エレオノーラは足を止めた。止めたと言うよりは、それ以上は走れなかった。乱れたままの呼吸で、倒れこむように地面に座り込んだ。ヴェルナの手はしっかりと握ったままに。
「ヴェルナ…だいじょう…ぶ?」
胸を押さえて苦しげな呼吸を繰り返すエレオノーラは、それでも幼馴染を気にかけて声をかける。すぐ後ろにいるヴェルナを振り返ると、ヴェルナは濃い紅の瞳から大粒の涙を流していた。
「…ヴェルナ?」
「私……なんてことを……」
艶やかな黒髪を掻き毟って頭を抱え込み、ヴェルナは搾り出すように声を出した。心の奥底から湧き上がる激しい感情を、手に余るかのように大きな息を繰り返して、ヴェルナは叫び声をあげる。鼓膜がどうにかなってしまいそうなその声に、エレオノーラは守るかのようにヴェルナを抱きしめた。
やっと、いつものヴェルナに戻ったことの安堵と、そしてヴェルナの苦しさと、アーツの命の事とエルネスティの事。
もう何から考えれば良いのか分からない。でも、こうして泣き叫ぶヴェルナを放っておくなど出来ない。興奮して暴れるヴェルナの細い身体を、エレオノーラは力いっぱい、半ば押さえつけるかのごとく抱き締めた。ただ何も言わず、振り切ろうとしたヴェルナの手が少女の頬を思い切りひっぱたいても、エレオノーラは抱き締める腕を解かなかった。
ヴェルナにはあまり記憶らしいものはなかった。ただ、欲しくて欲しくて、気付いたらその青年の身体を抱き締めていた。そして身体に廻る赤いそれで身体を潤していた。自分がどうやってそこにたどり着いたのかも、なぜそこにいるのかも、さして気にせず……甘く香る赤の元を求めていたら、人間がいた。それだけだった。
せめて、知らない人間だったら。
親しくしていた人間を襲うより、会った事もない方がましかもしれない。そうであって欲しかった。
ヴェルナとて、やはり何度も会い、そして自分に好意を抱いてくれていたアーツの事は、あの青年の性格も手伝っていつの間にか親愛の情がしっかりと息づいていた。穏やかで優しくて、少々天然の翡翠色の瞳の青年。
本来ならば少女の赤い瞳を見て、逃げ出したり、エルネスティのように嫌悪感を滲ませるのが当たり前なのに、アーツは綺麗な瞳だと褒めてくれた。そんな、ヴェルナにとっても大切な相手を自分で奪ってしまった事は、受け入れろと言われても到底無理だった。
ただ、何となくでも覚えている。自分を温かくやさしく抱きこんでくれた腕と、誰かの咆哮を。
「どうしたら良い?…私はどうしたら良いの?ね?エレオノーラ…教えて!」
エレオノーラの腕を力いっぱい掴んでヴェルナは問いかける。しかしそんなことを聞かれても、エレオノーラに答えられるはずもない。
答えなどないのだから。
おきてしまった事は仕方ない。そう言えるほど冷酷でもないし、簡単でもないし、軽くもない。
じゃあ、責任を取るように、アーツの後を追えば良いのか。そんなことをして何になる。ヴェルナが死ねば、また誰かが悲しむ。それに吸血族は他にもまだいる。ヴェルナが死んだ所で、人間の犠牲がなくなるわけでもない。
どれが正しいなんて答えはない。今は、苦しくても悲しくても、おきてしまった事を受け入れるしかない。
だがそれを言えるほど、エレオノーラは強くはなかった。そして自分ですら受け入れる事ができない今、ヴェルナにそれを求める事すらできなかった。
だから、だた抱き締めた。泣いて震えるその大切な幼馴染の身体を、自分の出来る限りの愛情を持って、しっかりと抱きとめているしか出来なかった。
森の中でそのまま気を失ってしまったヴェルナを、なんとか背負ってエレオノーラは家に戻った。家族に頼んでリクを呼んで来て貰い、そのまま自分の部屋のベッドにヴェルナを横たえる。泣きはらしたヴェルナの顔を覗き込んで、エレオノーラはまた泣いた。くたくたになって、自分も疲れているはずだが、とても眠れる状態ではなかった。
それに目を閉じるのが怖かった。瞼を下ろせば浮かび上がるのは、ヴェルナを抱き締めたアーツの姿。あんなに幸せそうに、そして誇らしげにも見える青年の最期の姿を見ることになるとは思わなかった。
もっと、たくさん話をしたかった。遊んでいたかった。
自分がいて、ヴェルナがいて、エルネスティがいてアーツがいる。そんな穏やかで大切な時間が、もう少しだけあると思っていた。
幻想だと、どこかで分かっていたけれど、夢を見ていたかった。
『俺はかまわない。ヴェルナなら殺されても…それくらい好きだから』
そう言った、あの翡翠色の瞳が少女の中に鮮やかに思い出される。
「アーツ……」
もう呼びかける事はないその名前。エレオノーラは小さく口に出して嗚咽を漏らした。
自分でもこれほど苦しいのなら、あの人はもっと苦しいはずだ。
栗色の瞳に中に、燃え盛る炎のように見えたエルネスティの負の感情。それを考えると、身を裂かれるほどに苦しい。
まだ耳に残っている。無口な少年の叫び。エレオノーラも持つ赤い瞳にぶつけてきた、家族と親友を失った、その苦しみや悲しみや憎悪は、ただ平和でいた少女にとってはこれ以上ないくらいに怖かった。
思い出すだけで総身が震えてくる。人間でも魔族でも、あれほど恐ろしい眼差しを誰かに向けるなど出来るのだろうか。張り詰めた刃物のような視線と感情を、エルネスティはどうしているのだろうか。たった一人でどう向き合っているのか。
……何か、出来ることはないのか。
ふと、馬鹿なことを考えてしまった。
「何もないじゃない…」
赤い瞳を持つ自分に何が出来る。これを見せないことくらいしか出来ない少女は、長い睫毛を伏せる事もなく、亡くなった青年と、目の前で眠る幼馴染と、そして最愛の少年を思って、真紅の瞳から涙を零した。
それ以外、何も出来なかった。




