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透明な春

作者: 朗読
掲載日:2026/04/19

一章 定時のホーム


田中誠三は今日も定時に会社を出た。


エレベーターを降りると、同僚たちは「飲みに行こうぜ」と笑いながら別の方向へ歩いていった。誠三も一瞬だけ足を止めたが、誰も振り返らなかった。正確には、誰も彼が立ち止まったことに気づかなかった。


三十四歳。独身。賃貸の1LDK。


駅まで歩く間、誠三はイヤホンをつける。音楽ではなく、ポッドキャストだ。誰かが喋っている声を耳に流しておくと、一人でいることが少し違うものに感じられる気がした。内容はほとんど頭に入らないけれど、それでよかった。声があればいい。それだけでよかった。


改札を抜けてホームに降りると、電車はまだ来ていなかった。誠三は黄色い線の内側で、ぼんやりと線路を見下ろした。夕方のホームは人が多い。カップルが笑い合いながら歩いてきて、誠三の隣に並んだ。女性が男性の腕に手を絡めている。誠三はさりげなく半歩ずれた。特に理由はない。ただなんとなく、その幸福の輪郭に触れたくなかった。


電車が来た。誠三は端の席に座り、窓の外を見た。夕暮れの街が後ろへ流れていく。隣に座ったサラリーマンが舟を漕ぎ始め、誠三の肩にもたれてきた。誠三は避けなかった。避けるほどのことでもないし、人の重さが少しだけ、悪くなかった。


家に帰ると、誠三はスーツを脱いでジャージに着替え、冷蔵庫を開けた。昨日の残りのキャベツと、豚肉の薄切りがあった。いつものように炒めて、醤油で味をつける。テレビをつけると、バラエティ番組で芸人たちが恋愛トークをしていた。スタジオが笑い声で満ちる。誠三は笑わなかった。笑えないのではなく、笑うタイミングを少し外してしまうのだ。いつも、少しだけ。


食べ終わって皿を洗い、風呂に入って、布団に入る。明日も同じ時間に起きて、同じ電車に乗る。そのことに不満があるわけでもなかった。ただ、自分の一日がひとつの点として存在しているような感じがした。線にならない点。誰かと繋がらない点。


二章 雨の図書館


週末、誠三は図書館へ行く。


べつに本が好きというわけでもない。読書が趣味と言えるほど熱心でもなかった。ただ、図書館にいると「用事がある人間」のふりができる気がした。カフェでは一人でいることが目立つ気がして、公園では手持ち無沙汰が体に出てしまう。映画館は暗くていいけれど、終わったあとに誰とも感想を言えないのが逆につらかった。図書館だけが、一人でいることに理由を与えてくれた。


その日は雨だった。


傘立てに傘を差して、誠三はいつもの席――窓際から三番目、柱の陰になっているところ――へ向かった。そこはあまり人気のない場所で、光が少し弱く、夏は少し涼しかった。誠三が図書館へ通い始めてから一年、その席が埋まっていたことはほとんどなかった。


ところが、そこには見知らぬ女性が座っていた。


三十代前半だろうか。黒いセーターを着て、分厚い本を読んでいた。髪が少し濡れていた。傘を持ってこなかったらしい。テーブルの上には、借りてきたらしい本が三冊積んであって、付箋が何枚もはみ出している。真剣に読んでいるというより、本と格闘しているような印象だった。


誠三は仕方なく隣の席に座った。


文庫本を開いたが、集中できなかった。雨の音がしていた。女性がときどきページをめくる音がした。それ以外は静かだった。


一時間ほどして、女性がふいに顔を上げた。


「すみません」と彼女は言った。「この棚の上の本、取っていただけますか? 背が届かなくて」


誠三は立ち上がり、彼女が指さした場所を見た。棚の上から二段目、哲学のコーナーに一冊だけ立っている本。カバーには難しそうな横文字の題名が書いてあった。


「これですか」


「そうです、ありがとうございます」


本を渡すと、彼女は表紙を確認して、少し安心したような顔をした。


「ありがとうございます」


「いえ」


それだけだった。


誠三は席に戻り、また文庫本を開いた。でも文字は頭に入らなかった。彼女の声がまだ耳の中にあった。低くて、少しハスキーで、本物の感謝がこもっている声だった。お世辞じゃない「ありがとう」というのは、こういう音がするんだと思った。


閉館の時間になり、二人はほぼ同時に席を立った。誠三は出口で少し間を置いた。先に出ていいのか、後から出た方がいいのか。そんな些細なことを一瞬考えて、結局ほぼ同時に外へ出た。雨はまだ続いていた。彼女は鞄から折り畳み傘を取り出した。やはり持っていたのか、と誠三は思ったが、何も言わなかった。


電車の中で、誠三は窓に映る自分の顔を見た。


名前も知らない。また会うこともないだろう。


それでも彼は、来週も図書館へ行こうと思った。


三章 ランチの話題


月曜日、会社の昼休み。


誠三はデスクで弁当を食べていた。自分で作った弁当で、中身はほぼ毎回同じだ。ご飯と、卵焼きと、ブロッコリー。栄養のことを考えているわけではなく、それ以上考えるのが面倒なだけだった。


隣のデスクでは、後輩の中村が楽しそうに女子社員たちと話している。中村は二十六歳で、なんとなく場の中心にいるタイプだった。特別イケメンでも面白くもないのに、なぜか人が集まってくる。声が少し大きくて、リアクションが素直で、人の話を遮らない。それだけのことのように見えるのに、誠三にはそれができなかった。


会話の輪というのは、誠三にとって外から見ると単純に見えるのに、入ろうとすると急に複雑になる迷路のようなものだった。どこから入ればいいかわからないうちに、話題が変わってしまう。


「田中さんって、週末なにしてるんですか?」


中村が聞いてきた。唐突に。


「図書館、とか」と誠三は答えた。


「え、マジですか。勉強してるんですか?」


「いや、別に……」


「すごいっすね」と中村は言ったが、その目は既に別の話題を探していた。


誠三は弁当箱の蓋を閉めた。外を見ると、空が白く曇っていた。「すごいっすね」という言葉の空虚さについて、誠三は少し考えた。何もすごくない。ただ、行く場所がないから行っているだけだ。でも、それを言える相手もいなかった。


午後の業務が始まり、誠三はパソコンの画面に向かった。エクセルのセルを埋めながら、頭の片隅であの女性のことをまた思った。付箋だらけの本。哲学の棚。濡れた髪。


どんな仕事をしているんだろう、と誠三は思った。それから、なぜそんなことを考えているんだろう、と思った。


四章 晴れた日の不在


次の週末は、打って変わって青空だった。


誠三は図書館へ行った。いつもの席は空いていた。彼は座って、少し背筋を伸ばし、今日持ってきた文庫本を開いた。先週よりちゃんとした本を選んできた。哲学とまではいかないが、少し硬めの随筆集だ。理由は自分でもよくわからなかった。


一ページ目を三回読んだが、内容が頭に入らなかった。


扉が開くたびに、誠三は顔を上げた。来館者が入ってくる。老人、子連れの母親、学生らしき男の子。彼女ではなかった。


一時間が過ぎた。


二時間が過ぎた。


彼女は来なかった。


誠三は随筆集を棚に戻し、水を一杯飲んで、外に出た。春の陽気が妙に気恥ずかしくて、誠三は少し早足で歩いた。


家に帰り、夕食を作った。キャベツと豚肉を炒めて、醤油で味をつける。毎週末、だいたい同じものを作る。うまくも不味くもない。食べながら、彼女が読んでいた哲学の本のことを考えた。タイトルを確認しておけばよかった。そうすれば、次に会ったとき話のきっかけになったかもしれない。


でも次があるかどうかも、わからない。


そもそも、なぜ次を期待しているのか。たった一度、本を取っただけだ。五秒か十秒の、それだけのことだ。


皿を洗いながら、誠三は蛇口の水を見つめた。水が排水口に吸い込まれていく。何かを期待するということ自体、久しぶりだった。うまくいかないとわかっていても、期待することをやめられない感覚。それが懐かしくもあり、少し苦しくもあった。


布団に入って、誠三は天井を見た。


来週も、行こう。


五章 春の手前


三月の終わり、図書館の前の桜がまだ固い蕾をつけていた。


誠三がいつもの席に向かうと、彼女がいた。今度は雨ではなく、よく晴れた午後だった。黒いセーターではなく、淡いグリーンのシャツを着ていた。テーブルの上には、また付箋だらけの本が積まれている。


彼女は誠三に気づいて、少し会釈した。


誠三も会釈した。


それだけだった。でも今回は、ただの「それだけ」ではなかった。先々週もここにいた、という記憶が、お互いの間にある。言葉にはならないけれど、確かに何かがそこにあった。認識、とでも言えばいいのか。存在を知られているということの、ささやかな重さ。


誠三は席に座り、今日持ってきた本を開いた。先週よりさらに少しだけ硬い、哲学に隣接した思想の本だ。読めるかどうかわからなかったが、それでよかった。


今日は、一ページ目が頭に入った。


二ページ目も入った。


三ページ目まで読んだとき、彼女がまた本棚の前で背伸びをしているのが視界の端に映った。


誠三は本を置いて立ち上がった。


「また、上の棚ですか?」


彼女は振り返り、少し笑った。今度は先々週より少し大きな笑いだった。


「また、上の棚です」


誠三は本を取った。今度は二冊。彼女は表紙を見比べながら「重いですね、この著者」と言った。誠三は「読んだことがあるんですか」と聞いた。彼女は「格闘中です」と答えた。


そこから、会話が続いた。


五分くらい。哲学の話と、近くのパン屋の話と、図書館の閉館時間が最近早くなった話。特別なことは何もない、五分間の会話。でも誠三にとっては、ここ数ヶ月で一番、言葉がするすると出てきた五分間だった。


「また来週も来るんですか」と彼女が聞いた。


「たぶん」と誠三は答えた。「毎週来てるので」


「私もだいたい来てます」と彼女は言った。「じゃあまた」


それで会話は終わった。


誠三は席に戻り、本を開いた。文字が、するすると入ってきた。ページをめくるたびに、窓から差し込む光が少しずつ傾いていった。


閉館のアナウンスが流れて、誠三は本を閉じた。彼女も荷物をまとめていた。出口に向かいながら、誠三は「来週も」と言おうとして、やめた。もう言ってある。「またね」はもう交わした。それで十分だった。


外に出ると、図書館の前の桜が夕光を受けて、蕾の先がほんの少しだけ色づいているように見えた。


誠三は空を見上げた。


名前は、まだ知らない。でも来週聞けるかもしれない。それとも再来週か。あるいは、もっとずっと先になるかもしれない。それでもよかった。焦る必要はなかった。


来週、また来る。彼女もまた来る。それだけで、今は十分だった。


駅へ向かう道に、風が吹いた。桜の蕾が、かすかに揺れた。


まだ開いていない。でも、もうすぐだ。


そのことが、誠三には少しだけ、自分のことのように思えた。

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