ある程度のどんぐりの背比べって、必要なことなんだと思う
私は、SNSが無い方が良いとは思っていない。
便利だし、誰かを救っている側面があることも、きっと事実だ。
遠くにいる誰かの言葉に救われたり、孤独だと思っていた感情に名前が付いたりする。
そういう奇跡のような瞬間が、あの場所には確かに存在している。
それでも、私は時々考える。
あそこは、人が立つには少し早すぎる場所なのではないか、と。
人は本来、もっと狭い世界で自分の輪郭を知る。
同じ教室、同じ職場、同じ町。
能力も、環境も、経験も、だいたい似通った人間同士で比べ合い、ぶつかり合いながら、少しずつ自分の位置を覚えていく。
勝ったり、負けたり、認められたり、無視されたり。
その繰り返しの中で、「自分はこのくらい」という感覚を身につけていく。
けれどSNSは、最初から完成された人間ばかりを並べて見せてくる。
努力の途中や、何者でもなかった時間は削ぎ落とされ、結果と称賛だけが流れてくる。
そこにいるのは、自己表現において明確な才能を持った人間たちだ。
言葉の選び方を知っていて、見せ方を理解していて、評価される構造を無意識に掴んでいる。
彼らが凄いことに異論はない。
むしろ、あれは一つの技術であり、努力の結晶でもある。
ただ、その舞台にいきなり立たされる側の心は、あまりにも無防備だ。
現実で、同じくらいの実力を持つ誰かと競った経験がないまま、世界の上澄みだけを見せられる。
上には上がいる、という言葉の「上」だけを、最初に突きつけられる。
それを目指すことが前提の空気の中で、何も持っていない自分は、最初から欠けた存在のように感じてしまう。
本当は、すべての人間が頂点を目指す必要なんてない。
そもそも、それは構造的に不可能だ。
けれどSNSは、その不可能を努力不足のように見せる。
到達できない理由を、個人の価値の低さにすり替えてしまう。
現実の世界で、顔の見える誰かと競い合わなかった人ほど、その罠に落ちやすい。
最初から、凄すぎる誰かと自分を比べてしまう。
そして、努力を始める前に落胆し、競うことそのものをやめてしまう。
負けることすらできないまま、勝負の外に出てしまうのだ。
私は思う。
ある程度、心が成熟してからでなければ、SNSは扱えない。
負けた経験や、思い通りにならなかった時間を経て、それでも自分の価値を手放さずにいられるようになってから。
才能の差を理解し、それを理由に自分を否定しなくなってから。
そうでなければ、あの場所はただの残酷な比較装置になる。
成熟とは、諦めることではない。
届かない場所があると知ったうえで、それでも自分の歩幅を信じられることだ。
誰かの成功を見て、自分の失敗と結びつけなくて済むことだ。
SNSは、成熟した人間にとっては武器にも、居場所にもなる。
だが、まだ自分の輪郭を知らない人間にとっては、心を削る刃でしかない。
だから私は、今日も画面を閉じる。
競う相手は、顔の見える数人でいい。
同じ速度で息を切らし、同じ地面で転び、同じ高さを見上げる人たちとで十分だ。
それだけで、心はもう十分に消耗する。




