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第9話 君が歌う前に


 文化祭の朝は、夏と秋の境目みたいな匂いがした。


 湿度の残った空気がまとわりつくのに、風だけは少し冷たい。その曖昧さの中で、昨日の彼女の声がまた浮かび上がる。


──明日、来てほしいんです。

──朔先輩に、聞いてほしくて。


 その言葉を思い出すだけで、胸が重くも、軽くもなる。正確な感情の名前はわからない。ただ、忘れられなかった。


 校門をくぐると、焼きそばの匂い、教室から漏れる笑い声、呼び込みの声、アンプのノイズ。文化祭特有の雑多な熱が押し寄せてくる。それなのに、僕の足取りだけは妙に落ち着かない。


 昇降口に着いたとき、体育館のほうからアンプを叩く音が響いてきた。


(……リハーサル、始まってるんだ)


 そう思った瞬間、胸の奥で小さな音が跳ねた。


「なあ朔、今日の昼さ、軽音部のライブ行くよな?」


 突然肩を叩かれ、振り返ると友人だった。


「ああ、行くよ」


「一年にすげー可愛いボーカルいるって聞いたぞ。名前……高瀬?」


「……知ってる」


 即答すると、友人が「お前なんかあるだろ」とニヤついた。


「ないって」


「その“ない”は絶対あるやつだろ〜」


 軽く茶化されるのが嫌で、僕は曖昧に笑った。

 理由はよく分からない。でも、彼女のことをからかわれるのは嫌だった。


 昇降口から教室へ向かう途中も、胸のざわつきは消えない。

 午前のクラスの仕事をこなしながらも、気づけば彼女の言葉ばかりが頭を巡る。


──聞いてほしい。


 たったそれだけの言葉が、こんなにも膨らんでしまうなんて。


 ◇


 昼前。

 廊下へ出ると、体育館へ向かう人の流れができ始めていた。


(……行くしかないだろ)


 自分に言い聞かせるようにして、その流れへ足を向けた。


 体育館が近づくにつれ、音が大きくなる。

 ギターのコード、ドラムの試し打ち、スタッフの声。

 その全てが胸に響き、呼吸が浅くなる。


 入口前にはすでに列ができていて、僕はその最後に並んだ。


 扉の向こうは薄暗く、ライトチェックの光が散っている。

 人混みのざわつきと音響の振動が混ざり、独特の熱気が漂っていた。


(……ちゃんと見られるのか、僕)


 昨日の彼女の横顔を思い出すと、胸がひどく落ち着かなくなる。

 彼女がステージに立つ姿を想像するだけで、息が詰まりそうだった。


 列が進み、体育館に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 天井の高い空間に、緊張と期待が入り混じった透明な気配が満ちている。


 僕は後ろの壁際に立った。

 彼女に気づかれないように──というより、近くに行く勇気がなかった。


 照明が少しずつ落ちていく。

「間もなく開演でーす!」

 スタッフの声が響き、ざわめきが静まる。


 ギターのストロークが会場を走り、ステージに光が落ちた。


 その瞬間、視線の先に彼女の姿があった。


 制服姿のままなのに、不思議と雰囲気が違う。

 マイクを握る指がわずかに震えているのが見えて、胸の奥がぎゅっとなる。


「1曲目、いきます」


 彼女の声は思ったより強くて、でもどこか頼りなくて、ひどく親しみを感じた。


 ギターが始まり、彼女は目を閉じて歌い出した。


 澄んだ声だった。

 少しだけ震えていて、でも芯があって、まっすぐ届く。


 さっきまでのざわつきが一気に遠のき、僕はただその声に耳を傾けた。


 1曲目が終わると「一年であれはすごい」「ほんとに上手いな」という声が周囲から聞こえた。

 彼女は小さく頭を下げ、その仕草がやけに丁寧で、胸が温かくなる。


 ◇


 2曲目はアップテンポで、彼女の声が跳ねるように広がった。


 緊張が解けていくのがわかる。

 歌うことを楽しんでいるような表情に変わっていく。


(……こんな顔、するんだ)


 心が軽くなるような感覚に包まれ、気づけば息が深くなっていた。


 歓声が上がり、彼女が小さく笑った瞬間、胸がきゅっと締まる。

 こんなに嬉しそうな笑顔を、僕は知らなかった。


 ◇


 そして3曲目が始まる。


 イントロが流れた瞬間、彼女の表情がまた変わる。


 緊張でも、覚悟でもなく、ただ静かに何かを確かめるような目。


(……なんだろう)


 胸がざわついた理由がわからない。

 でも、目が離せなかった。


 ゆっくりと広がるバラード。

 彼女の声はさっきよりもずっと深くて、空気ごと震わせるようだった。


 歌い終わると、会場がふっと静かになる。

 その静けさの中で、彼女はすぐに次へ進まなかった。


 マイクを両手で握ったまま、息を整えている。

 ライトに照らされて、長い睫毛が影を落としていた。


(……どうしたんだ)


 不思議な静けさに包まれ、胸がざわつく。

 けれど理由はわからなかった。


 やがて彼女が顔を上げた。


「あの……」


 小さな声。

 体育館全体が一瞬で静まり返る。


 何か言おうとしている。

 でも、その“何か”が何なのか、僕にはまるでわからなかった。


 ただ――空気の密度が変わったような気がした。


 彼女は少しだけ唇を開いた。

 でも、ためらうように閉じる。


 一拍置いて、息を整え、


「……ラスト1曲、いきます!」


 少し強い声でそう言って、笑った。


 さっきのためらいの理由はわからない。

 でも、その笑顔の奥に小さな影のようなものが見えた気がした。

 気のせいかもしれない。


(……何だったんだろう)


 胸の奥がざわざわしたまま消えない。


 ステージのライトが少し落ち、代わりに青みの強いスポットが彼女を包む。


 静かなイントロ。

 ギターとベースが柔らかく絡み、ドラムがゆっくりと拍を刻む。

 3曲歌い切ったはずなのに、彼女の表情は疲れて見えない。むしろ、ここからが本番のように見えた。


(……この曲、さっきのよりも静かだな)


 知っている曲でも、知らない曲でもない。

 でも、彼女の声が入り込んだ瞬間、胸がひどく熱くなった。


 さっきまで賑やかだった体育館が、まるで彼女のためだけに息をひそめているみたいだった。


 声が震えている。

 でも、それは緊張というより、なにかを抱えた震えに見えた。


 音が広がるたび、僕の胸の中に、形にならない感情が押し寄せてくる。


(……どうしたんだろう、彼女)


 まっすぐ歌っているだけなのに、胸がざわつく。


 誰のことを思って歌っているのかなんて、知らない。

 でも、彼女の視線がふっとこちらをかすめるたび、呼吸が浅くなる。


(……なんで僕、こんなに緊張してるんだ)


 理由はわからなかった。


 ただ、彼女の声が、さっきよりも心に深く刺さった。


 曲のサビ。

 彼女は苦しそうな顔をして、でもそのまま声を伸ばした。


(……そんな顔、して歌うんだ)


 知らなかった。

 軽音部に入っていたことも、歌が上手いことも、何も知らなかった。


 あの日、教室前の廊下でばったり会っていなかったら。

 昨日、あの声で「来てほしい」なんて言われていなかったら。


 僕は今日、ここでこんな気持ちになっていなかった。


 曲が終わる。

 体育館に、少し遅れて拍手が広がった。


 みんな、さっきより静かだった。

 余韻が残っていた。


 彼女は軽く頭を下げ、深呼吸をした。

 その呼吸が、遠くからでも分かるくらい大きかった。


 ◇


「アンコールーー!!」


 誰かが叫ぶ。

 それが合図になって、体育館中から声が上がった。


「もう一曲!!」

「アンコール!!」


 僕は叫ばなかったけど、胸の奥では同じ気持ちだった。


(……もう少しだけ、聴きたい)


 ステージの横で、バンドメンバー同士が目を合わせて笑い、彼女に頷く。

 彼女も頷き返して、マイクを口元へ運んだ。


 その姿を見ただけで、胸がまた重くなる。


「……ありがとう、ございます」


 さっきの曲より、ずっと小さな声だった。

 それなのに体育館の隅々まで届いた。


 次の言葉を探しているようで、彼女は一度視線を落とした。


(……また、さっきみたいに何か言うのかな)


 胸が妙にざわつく。

 でも理由はわからない。


 そのとき——少し震えた声が響いた。


「あの、最後に……少しだけ、話をさせてください」


 体育館中のざわめきがぴたりと止まる。


 彼女はマイクを両手で握り直し、ほんの少し笑った。

 けれど、その笑顔の奥に影があるように見えた。


「今日のライブ……来てくれて、ほんとうにありがとうございます。

 すごく緊張してたんですけど、皆さんが盛り上げてくれたおかげで……ここまで歌えました」


 客席から「すごかった!」という声が飛ぶ。

 彼女は嬉しそうに頭を下げた。


 でも次の瞬間、表情が変わった。


「それで……最後の曲に行く前に、ひとつだけ、言いたいことがあって」


 息を飲む音が聞こえるほど、体育館は静かだった。


 彼女は一度、ほんの一秒だけ目を閉じた。

 そして——顔を上げた。


「今日、このステージに立つのが怖かった理由があって」


 その声は震えているのに、逃げようとしなかった。


「……見てほしい人が、いるからです」


 体育館の空気が変わった。

 ざわ……という気配が走り、僕の心臓が跳ねる。


(見てほしい人……?)


 胸が痛い。

 理由なんてわからない。


 彼女は人混みのどこかを見るように、ゆっくりと視線を動かした。


「その人に、どうしても歌を届けたくて。

 どうしても……聴いてほしくて」


 視線がまた揺れ、客席を一度だけ横切った。


 まさか自分の方を見るとは思わなかった。

 でも——一瞬だけ、光の隙間から彼女の瞳がこちらを向いたように見えた。


(……いや、気のせいだ)


 そう言い聞かせたのに、胸が荒く脈打つ。


 彼女は息を吸い、マイクを握る手に力を込めた。


「……今日、歌えてよかった。

 その人が来てくれたから」


 体育館がどよめく。

 でも彼女は視線をそらさず、まっすぐ言葉を続けた。


「……ずっと、好きでした」


 鼓膜が一瞬で熱くなる。

 周りのざわめきが遠くなる。

 自分の心臓の音だけが大きく響く。


(……え?)


 誰に向けてなのかなんて、わからない。

 でも、頭の中が真っ白になった。


「届くかどうかは分かりません。

 でも……言いたかったんです。今日、ここで」


 まっすぐな声だった。

 震えているのに、逃げない声。


 誰に向けてなのか、なんて。

 考えられなかった。


 ただ、胸の奥がひどく痛い。


「……それでは、最後の曲です」


 そう言って、彼女は小さく息を吐き、笑った。


 その笑顔は、ほんの少し泣きそうで、でも誰より強かった。


 次の瞬間、ギターのイントロが始まる。


 体育館が、再び光に包まれた。


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