第8話 君の声が届く場所で
夏休みが終わる頃には、あの夏祭りの夜が、本当に現実だったのか分からなくなっていた。
浴衣姿の彼女と歩いた境内。
階段で分け合ったかき氷。
手が触れそうで、触れなかった帰り道。
全部、胸の奥では鮮明なのに──言葉にしてしまえば消えてしまいそうで。
それから一度も会わないまま八月が終わり、九月が来た。
新学期の朝、まだ少し暑い風が吹く昇降口に立つと、夏休みの静けさが嘘みたいに校舎がざわついている。
“受験生”って言葉が、いよいよ現実味を帯びてきた。
僕は指定校推薦で行くつもりの大学をほぼ決めていて、担任とも何度か話をしている。
成績は中の上。体育祭実行委員長をやったり、先生との関係もそこそこ良いらしく、内申点にも不安はない。
でも、そんな進路の話より、今いちばん気になっていることがある。
夏祭りの日の“あの表情”を見たあと、なんで僕はひとこと連絡をしなかったんだろう──ってことだ。
帰りの電車でメッセージを打ちかけたのに、送れなかった。
「今日はありがとう」それだけの言葉が打てなかった。
怖かったのかもしれない。
送ったら、また何か変わってしまう気がして。
そんなことをうだうだ考えて、昇降口の階段を上がったときだ。
廊下の向こうから、制服姿の彼女が歩いてくるのが見えた。
息が止まる。
まさか初日の朝から会うとは思っていなかった。
僕の動きが一瞬止まり、彼女も同じようにぴたりと足を止めた。
目が合う。
けれど、どちらも言葉が出ない。
「……おはようございます」
先に口を開いたのは彼女だった。
小さく、でもしっかりした声。
「あ、……お、おはよう。高瀬さん」
全然いつも通りじゃない声が出て、自分で情けなくなる。
僕がこんなに緊張するタイプだったっけ。
彼女は軽く会釈をして、すぐに視線をそらした。
「じゃあ……また後で」
そう言って歩いていく背中は、どこかぎこちなくて。
思わず呼び止めたくなったけど、声は出なかった。
僕たちの間にある“気まずさ”は、夏祭りよりずっとはっきりしていた。
────また、距離が分からなくなってる。
胸がきゅっとなる。
◇
三年の教室は、すでに文化祭の話題でざわざわしていた。
文化祭は十月。
ちょうどこの時期から準備が本格化する。
「おい朔、うちのクラス模擬店どうするよ?」
「まだアイデア会議中だろ」
「やっぱタピオカとか?」
「もう古いだろ。てか飲食はめんどくさいし」
そんな会話をしているときだった。
廊下が妙にざわつきはじめ、数人の一年生が走っていくのが見えた。
その中に、彼女がいた。
手には軽音部のファイル。
仲間と何か確認しながら歩いていて、僕の方には気づいていない。
そのとき後ろで友人が言った。
「軽音部、今年は一年のボーカルが入ってすげえ盛り上がってるらしいぞ」
「へぇ……一年でボーカルなんてすごいな」
「お前知らねえの? 高瀬さんだよ」
「……は?」
思わず声が裏返った。
友人は呆れたように笑う。
「いや普通に有名だって。歌上手いらしいし。文化祭のライブも出るってよ」
僕は廊下の向こうの彼女を、思わずもう一度見た。
歌うんだ、高瀬さん……。
夏祭りのとき、僕が知らない表情を何度も見たけれど。
またひとつ、知らなかった顔が増えた気がして、心がざわつく。
◇
その日の放課後だった。
昇降口で靴を履き替えていると、階段の影から彼女が降りてくるのが見えた。
「あ……」
また目が合う。
逃げ場がない。
僕も、彼女も。
「……帰るの?」
「はい。軽音部、今日はミーティングだけだったので」
「ああ、そっか」
沈黙が落ちる。
話したいことは山ほどあるのに、どれも口から出る前に消えていく。
勇気を出した方が負けみたいな空気は、夏祭りのときから何も変わっていない。
でも──このままじゃ何も変わらないままだ。
「……夏祭り、さ」
自分でも驚くほど唐突に、言葉が出た。
彼女がびくっと肩を揺らし、こちらを見る。
「……楽しかったよ」
小さく、でも嘘じゃなく。
彼女は目を伏せて、小さく笑った。
「……わたしも、です。
その……ありがとうございました」
そんな言い方をされたら、胸が熱くなるに決まってる。
気まずい沈黙が再び落ちる。
でも、今回は逃げたくなかった。
「軽音部……ボーカルなんだって?」
彼女の肩がぴくっと跳ねた。
「だ、誰から聞いたんですか……?」
「クラスのやつが。……すごいよな。一年でボーカルなんて」
「い、いえ……全然。まだ下手ですし。ほんと、下手じゃないくらいで……」
慌てた様子が可愛くて、思わず笑いそうになる。
「文化祭、歌うんだろ?」
「……はい。
あの……その……」
彼女は制服の袖をぎゅっと握り、うつむいたまま続けた。
「……もし、予定があったら無理しなくていいんですけど」
声が震えている。
次の一言が、僕の胸にまっすぐ刺さる。
「……見に来てください。
朔先輩に、聞いてほしくて」
鼓動が跳ねた。
僕が返事をしないあいだに、彼女は不安そうに顔をあげる。
「だ、だめですよね……急に、こんな──」
「……行くよ」
自分でも驚くほど即答だった。
彼女は息を呑んで、ほんの少し、目が潤んだように見えた。
「……ほんとに?」
「うん。聴きたいし。
高瀬さんの、歌」
彼女は唇をきゅっと結んで、こくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
そう言って、鞄を抱きしめるように胸に当て、
ふわりと小走りで昇降口の外へ出ていった。
その背中は、夏祭りで見送ったときよりずっと軽くて、
どこか嬉しそうで。
僕の胸の奥にも、同じような熱が灯っていた。




