第7話 花火の音より、君の声が近かった
夏の夕方の空は、昼間の熱をまだ離したがらないみたいに、じりじりと赤く滲んでいた。
夏祭り当日の夕方。
玄関の鏡の前で、僕は三度目の髪型チェックをしていた。
「……なんか違うな」
前髪を少し上げてみる。下ろしてみる。
どっちでもそんなに変わらないのに、妙に落ち着かなくて、鏡の前から離れられない。
Tシャツも二回着替えた。
最終的に、無地でシンプルなやつに落ち着いたけど、決めるまでに二十分かかった。
――何やってんだ僕。
高瀬さんと会う。それだけのことなのに、胸の奥がそわそわして仕方がない。
しかも今日は“夏祭り”だ。
約束した時点では軽い気持ちだったはずなのに、いざ当日になると意味合いがまったく違って感じる。
スマホを確認する。
時間はまだ余裕があるけど、落ち着かないので少し早く家を出た。
◇
駅前に着くと、すでに浴衣の人がちらほらと歩いていた。
夏休みの空気が冷房のないホームにむわっとこもっている。
屋台から吹き抜ける甘い香りが風に乗って、なんだか胸にひっかかる。
僕は、集合時間の十五分前にはもう待ち合わせ場所に立っていた。
行き交う浴衣姿を見るたびに、心臓が変に動く。
どんな姿で来るんだろう。
高瀬さん、浴衣……似合うのかな。いや似合うに決まってるけど――などと考えていると、視界の端でふわりと水色が揺れた。
息が止まる。
「……朔先輩」
そこに立っていたのは、淡い水色の浴衣を着た彼女だった。
普段の制服よりもずっと落ち着いた色なのに、光に照らされて柔らかく浮かんで見える。
髪は高すぎない位置でまとめていて、うなじが少しだけ見えていた。
いつもより大人っぽくて、でもどこか幼さも残っている。
数秒、言葉が出なかった。
「……似合ってる」
やっと出た声は、自分でも情けないくらい小さかった。
彼女は一瞬、目を丸くして、すぐに視線を落とした。
「ありがとうございます。……朔先輩も、その……いいと思います」
最後の数語は、夏のざわめきに溶けていきそうなくらい小さかった。
距離が、またひとつ縮んだ感じがした。
◇
「人、すごいですね……」
「まあ夏祭りだしな」
境内へ向かう道はすでに賑わっていて、屋台の明かりが夕暮れの中で揺れていた。
金魚すくいの水の音、焼きそばの鉄板のじゅうっとした音、子どもの笑い声。
全部が混ざって、夏そのものみたいな空気をつくっている。
人の波に押されて、自然に彼女との距離が近くなる。
肩が触れそうになるたび、彼女の息が小さく弾むのが分かった。
すれ違うカップルが笑い合っているのが目に入る。
なんとなく視線をそらした。
「高瀬さん、なんか食べたいものある?」
「えっと……焼きそばとか、いい匂いだなって」
「じゃあ行くか」
屋台に並んで、焼きそばを二つ買った。
熱気とソースの匂いに包まれて、どこか懐かしい気分になる。
「美味しい……! 屋台の焼きそばってなんでこんなに美味しいんでしょうね」
「分かる。なんか特別な味するよな」
彼女は箸を進めながら、時々こちらを見上げる。
そのたびに、胸の奥がひゅっと締まる。
次に彼女が目を輝かせたのは射的だった。
「朔先輩! あれやりたいです!」
「射的?」
「はい! 小さい頃一回だけやったんですけど全然当たらなくて……今日こそ勝ちたいです!」
子どもみたいに少し弾んだ声。
その無邪気さが可愛くて、思わず笑ってしまった。
「じゃあ挑戦してみる?」
「……します!」
彼女が撃つが、予想以上に当たらない。
弾は全部、的の近くをかすっていく。
「うぅ……難しい……」
「貸してみ?」
僕が銃を受け取り、狙いを定めて一発。
ぽとん、と小さめのぬいぐるみが落ちた。
「……すごい!」
「いや、たまたま」
「すごいです! 朔先輩!」
目をキラキラさせて顔を近づけてくる。
その距離が近すぎて、動揺をごまかすように咳払いをした。
「ほら、これ。高瀬さんに」
「……いいんですか?」
「うん」
彼女は両手でそれを受け取ると、胸の前で大事そうに抱えた。
「……宝物にしますね」
その言葉は、焼きそばよりも、祭りの賑やかな音よりも、強く僕の胸に響いた。
視線が何度も合う。
合うたびに、夏の蒸し暑さよりも胸の熱の方が勝っていく。
◇
歩き疲れて、少し人が少ない階段に腰を下ろした。
二人でかき氷を分け合う。
「……暑いけど、いい夏ですね」
「だな。なんか、あっという間だったけど」
スプーンで氷をすくいながら、彼女がふと真剣な顔になった。
「……誘うの、すごく迷ってたんです」
「ん?」
「朔先輩、嫌じゃないかなって……。私なんかと来るの、つまらないかなって」
その言葉に、胸の奥がぎゅっとなる。
「嫌なわけないよ。むしろ――来てよかった」
彼女は俯いて、でもその口元は小さく緩んでいた。
「……よかった」
その言い方が、夏の風よりも柔らかかった。
かき氷の冷たさが舌に残る。
けれど、胸の奥はどうしようもなく熱かった。
階段の少し上から、風鈴の音がかすかに降りてくる。
人のざわめきも、屋台の呼び込みも、遠くに薄まって聞こえる。
彼女は残り少なくなったかき氷をスプーンでつつきながら、ふと顔を上げた。
「朔先輩、あの……」
「ん?」
「……花火、見ませんか? もうすぐ始まるみたいで」
提灯に照らされた浴衣の袖が、ひらりと揺れる。
その影の動きまで、なんだかやけに綺麗に見えた。
「ああ、行こっか」
階段から立ち上がった彼女は、少しだけ歩幅を狭める。
自然に、僕との距離を近づけようとしているのが分かった。
僕も、それに合わせて歩く。
夜風が、さっきより涼しく感じたのはきっと気のせいじゃない。
◇
広場に近づくにつれて、人の密度が増えていく。
浴衣同士が軽く触れ合うたび、彼女が小さく息を呑むのが伝わった。
「……すごい人」
「はぐれないように」
言いながら、僕の右手がなんとなく空く。
握ってくれ、とまでは言わないけど――
その意図を察したのか、あるいは偶然か、
彼女の指先が僕の手の甲にふれて、すぐに離れた。
鼓動が一瞬で跳ね上がる。
「……ごめんなさい、今の……」
「いや、いいよ。むしろ……」
むしろ、離さないでほしかった。
だけどそれは声にならず、喉の奥でほどけた。
花火の合図の前のざわめきが、空気を押し広げていく。
「このへん、見やすいかな」
「はい……!」
そう言って隣に立った彼女の肩が、そっと僕の腕に触れた。
わざとじゃない。
でも、避けようともしていない距離感。
(……こんな距離で花火なんて、集中できるわけないだろ)
心の中で苦笑した。その時――
――ぱんっ。
大きな音が夜空を割いた。
「わ……!」
彼女が驚いて僕を見上げる。
空には大輪の赤い光が広がっていた。
次の瞬間、青、白、金……色とりどりの花火が夜の幕に咲いては消えていく。
「綺麗……」
その言葉は花火の音にかき消されそうなくらい小さかったけど、僕にははっきり届いた。
横顔を横目で盗み見る。
光の反射で、彼女の睫毛がきらきらと揺れている。
その横顔に、目が離せなくなる。
(……綺麗なのは花火のほうじゃないだろ)
心の中で呟いて、すぐに自分で苦笑した。
けれど次の瞬間、僕の手に、温度が落ちる。
……握られた。
驚いて横を見ると、彼女の顔は花火の光で赤く染まっていた。
浴衣の袖が震えている。
「……その……はぐれないように、なので」
苦しいくらいに小さな声。
握るというより、そっと触れているだけの弱い力だったけれど、
僕には十分すぎた。
「……うん」
僕も同じくらいの力で、彼女の手を握り返す。
夏の夜のざわめきよりも、花火の音よりも、
その手の温度だけがやけに鮮明だった。
◇
フィナーレの連続花火が夜空を白く染め、
大きな拍手と歓声が広場に広がった。
手をつないだまま、僕たちはしばらく余韻の中にいた。
「……終わっちゃいましたね」
「時間たつの早いな」
「はい。でも……」
彼女は小さく笑った。
「今日は、すごく楽しかったです」
その表情が、花火よりもずっと眩しかった。
「僕も。誘ってくれてありがとう」
「誘ったの、私ですよ?」
「まあ……そうだな」
「……だから、朔先輩が来てくれて、嬉しかったんです」
言ってから、彼女はまた恥ずかしそうに俯く。
つないだ手の中で、指先がきゅっと動いた。
(……やばい。ほんとに、やばい)
こんなの、意識するなってほうが無理だ。
◇
帰り道、駅に向かうまでの道は、さっきより静かだった。
人の数が減って、夜風がすうっと通り抜けていく。
彼女は時々僕を見上げては、何か言いかけて、結局言わないまま口を閉じる。
そんな仕草すら愛おしく思えた。
「高瀬さん」
「はい?」
「……また、来年も行けたらいいな」
自分でも驚くほど自然に言っていた。
彼女は一瞬目を丸くして、すぐに柔らかく笑う。
「……はい。来年も、行きたいです。朔先輩と」
その返事に胸が跳ね、
つないだ手の温度がじわっと広がる。
駅の灯りが近づくにつれて、
祭りの喧騒はすっかり背中のほうに遠ざかっていった。
「今日は、ほんとありがとう」
「こちらこそ……ありがとうございました」
改札前で手を離す瞬間、
彼女は少し名残惜しそうに目を伏せた。
「……また明日、連絡しますね」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「はい。朔先輩も」
そう言って手を振る彼女の姿が、
浴衣の裾と揺れる金の髪飾りごと人の波に沈んでいく。
その姿が見えなくなるまで立ち尽くしてから、
ようやく僕は自分の鼓動がうるさいことに気づいた。




