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第6話 夏休み、十日目の呼び声

八月に入って、十日が過ぎていた。

 毎日がじりじりと暑く、昼と夜の境目が溶けていく。僕はというと、バイトを入れて、残った時間は宿題とだらだらに半分こしているような有様だ。なのに、どこか落ち着かない。それは多分、あの日の約束がまだ“形”になっていないからだ。


 期末の帰り道、彼女はふと「夏休み、会いませんか」と言った。彼女の言い方は軽かったけれど、目は真面目だった。僕はそのとき、「いいよ」と軽く返した。社交辞令かもしれないと思いつつも、その言葉を僕は素直に嬉しく受け取った。


 それから、連絡は少し減った。彼女は元からそっけない文を送るタイプではないが、こっちから具体的な日付を出さないまま十日が過ぎてしまった。どちらからも踏み込めないでいる時間は、夏の空気よりも重く感じられた。


 そんなある朝、九時過ぎ。寝ぼけた頭でスマホを拾うと、画面に彼女の名前が見えた。


 〈先輩、今日って……時間ありますか?〉


 その一行で、心臓が跳ねた。覚えていてくれたのだ、と自然に安堵が広がる。返信を打つ指がほんの少し震えた。


 〈あるよ。午後なら空いてる〉

 〈午後なら嬉しいです〉


 送信ボタンを押した後、なんだか急に落ち着かなくなった。午後が待ち遠しいという感覚を久しぶりに味わう自分に、少し笑ってしまった。


 ◇


 約束の午後、駅の西口にはいつもより人が多かった。夏休み中の午後は、どこか浮ついた空気が満ちている。バスロータリーの陰、木陰に彼女は立っていた。薄い色のカーディガンを肩に掛け、夏服の裾が風にふわりと揺れる。少し緊張しているように見えた。


「先輩、来てくれてありがとうございます」

「うん、久しぶりだな」


 彼女は微笑んで会釈をした。地の文では彼女、と書く僕の中で、彼女のその仕草はいつもより柔らかく見えた。二週間ほど会っていないだけなのに、距離感がわずかにぎこちなくなる。


「夏休み……どうしてるかなって。ずっと、連絡しようか迷ってました」

「迷ってたのか」

「はい。私からばかり誘ってるみたいで、先輩に負担だったらどうしようって」


 その正直さが切なかった。彼女は自分の考えを素直に伝えるのが得意なタイプではないけれど、必要なときはきちんと言葉を選んで出せる人だ。僕は、それを嬉しく思った。


「迷惑なんかじゃないよ」

「……なら、よかったです」


 その「よかった」は、小さな宝石みたいに胸の奥で光った。


 ◇


 暑さを避けるため、僕らは近くのカフェに入った。冷房が効いた空間に座ると、外の熱気が遠い世界のように感じられる。氷の入ったグラスがきゅっと音を立て、僕はその涼しさに一瞬だけ救われた。


 彼女はアイスティーを頼み、メニューを少し眺めた後にぽつりと言った。


「先輩、宿題進んでますか?」

「まあ、三分の一くらいかな」

「え、それで大丈夫なんですか?」

「ぎりぎりで何とかするタイプ」

 彼女は口元を緩めて、小さく笑った。こういう何でもない会話が、妙に落ち着く。


 しばらくは互いの近況を軽く交換した。バイトの話、家で見た映画のこと、寝苦しい夜のこと。彼女はテストのときよりずっと柔らかい表情をしていて、僕はそれを隣で見ているだけで胸の中が穏やかになっていくのを感じた。


 カフェのテーブルに置かれた季節のポップが目に入る。〈夏のかき氷フェア〉と書かれ、色とりどりのかき氷が写真で並んでいる。ページに目を落としていた彼女が、ふっと視線を上げて小さく呟いた。


「……夏祭り、行ったりしますか?」


 突然の問いに、僕は少し間を取った。夏祭り。浴衣。屋台。人混みの中で手をつないで歩く図。想像すると少し心がざわつく。


「いや、行く相手いないし」

 そう言うと彼女は少しさえない顔をした。


 その反応を見て、なぜだか胸の中にあたたかいものが広がった。彼女が行きたいという気持ちを、自分が叶えてあげられるのだと突然思った。


「じゃあ、行きませんか? 先輩と」


 言葉は小さかった。遠慮がちな鼓動を伴ったように、彼女は顔を少し上げる。


 僕の返事は反射だった。


「いいよ」


 その一言で、彼女の顔がぱっと明るくなる。胸の中にこみ上げる何かを誤魔化すように、僕は急に冷静を装ってみせるが、手のひらはほんの少し汗ばんでいた。


「本当ですか?」と彼女は少しだけ声を震わせて尋ねた。

「うん、本当」

 彼女は小さく頷いて、胸の前で指を軽く組んだ。


 その仕草が、いちいち僕の胸に触れてくる。


 ◇


 帰り道は、妙に早く過ぎた。駅の階段まで一緒に歩き、別れ際に彼女は何度か言いかけてはやめて、また言葉を飲み込んだ。やっとのことで口を開いたのは、改札の前だった。


「……今日、誘ってよかったです」


 その言葉は小さくて、ぎこちない。けれどそのためらいの全部が、嬉しさだと僕は感じた。彼女が迷って、勇気を振り絞って言ったのだとわかった。


「俺も。来てくれてありがとう」


 彼女は何度も振り返りながら階段を上っていく。その背中が見えなくなるまで、僕はその場に立ち尽くした。胸の奥にぽっと何かが灯ったような感覚があって、それがどんどん温度を上げていく。


 ――夏祭り、どうしよう。

 妙に緊張して、でも悪くない。期待がぽっかりと胸に落ちる。


 夏休みの風は熱く、虫の声が少しだけ遠く感じられた。僕は微かに笑って、ゆっくりとその日の帰り道をたどった。胸の中で育ち始めた気持ちを、まだ僕は「恋」と呼べない。ただ、確かなのは、今年の夏が去年とは違って見えているということだった。


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