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第5話 茜色に溶けた、きみの声

 七月の風は、まだ夏になりきれずにどこか湿り気を含んでいた。

 期末テストが終わった直後の教室は、熱気と解放感がまぜこぜになっていて、誰もがどこかぼんやりしている。鉛筆を握り続けた指がまだ軽く震えていて、黒板のチョークの匂いが、すでに遠いもののように感じられた。


 鞄に教科書を詰め込みながら、机の上のプリントをまとめていると、スマホが小さく震えた。


 〈期末おつかれさまでした!〉


 表示された名前に、思わず動きが止まる。

 ――高瀬さん。


 〈そっちもおつかれ〉

 〈手ごたえどうでした?〉

 〈まあ、ぼちぼち〉

 〈点数勝負しません?〉


 唐突すぎる提案に、思わず口元がゆるんだ。


 〈いいけど、負けた方どうする〉

 〈奢り、です〉


 ずいぶん強気に言ってくる。

 画面の向こうで、眉を上げてにやっと笑っている顔が、なぜか簡単に想像できた。


 〈強気だな〉

 〈当然です〉


 その自信満々な文面に、「まあ勝てるだろ」と気軽に思ってしまった自分を、このあと盛大に後悔することになるなんて、まだ全く気づいていなかった。


 ◇


 答案が返されていく数日間、廊下は紙の擦れる音と誰かのため息で満ちていた。

 僕の点数はいつも通り平均七十点台。できなくもないし、突出しているわけでもない。いわゆる「まあ普通」。


 放課後、廊下の端の掲示板のそばで、彼女が小さく手を振っていた。


 「先輩、どうでした?」


 「まあ、ぼちぼち」


 「私も、ぼちぼちですよ」


 そう言って差し出された答案を覗きこんだ瞬間、視界が二度見を要求してきた。


 「……九十二、八十八、九十五……って、おい。全然ぼちぼちじゃないじゃん!」


 「えへへ……ほんとは、ちょっと頑張っちゃいました」


 頬に指先を添えて照れ笑いする姿が、やけに小動物っぽくて腹立つというより、なんか負けた気分になった。


 「反則だろ、それ」


 「勝負は勝負ですから」


 舌をちょこんと出すような笑み。

 その瞬間だけ、彼女が同い年みたいに見えた。


 ◇


 翌日。

 昇降口の前で靴を履き替えていると、柱の影から小走りで近づいてくる気配がした。


 「先輩!」


 振り向けば、白いカーディガンの袖を肘まで折った彼女が立っている。

 手にはメッセージアプリが開かれたスマホ。


 「じゃあ、約束どおり……奢ってくださいね」


 「はいはい。何がいい?」


 「……アイスがいいです」


 すこし間を置いた声。

 けれどその響きが妙に耳に残った。


 コンビニでアイスを買って、校門横のベンチに腰を下ろす。

 夕方の風は生ぬるく、セミの声が遠くでぽつ、ぽつと鳴き始めていた。


 「勝負、完敗だったな」


 「ですね」


 「なんでそんなに勉強できるんだよ……」


 「先輩が“勝てる”って言ってたから、ちょっと悔しくて」


 「それで九十点台って、どんな悔しがり方だよ」


 「ふふっ」


 笑った拍子に揺れた前髪から覗く目が、夕陽に照らされて琥珀色に近い。

 その光を見た瞬間、胸の内側でなにかがふっと波立つような感覚があった。


 沈黙が落ちても、不思議と嫌じゃない。

 アイスの棒をくるくる回していた彼女が、ぽつりと言った。


 「……先輩」


 「ん?」


 「こうして帰るの、なんかいいですね」


 「うん。悪くない」


 言葉が自然に口をついて出た。

 自分でも驚くくらい素直に。


 ふと見上げれば、空は茜色に染まりはじめていた。

 夕風が制服の裾を揺らすたび、距離がほんのわずか縮んだように感じられた。


 ◇


 アイスを食べ終えたあとも、しばらく彼女は何かを言いたげに空を見たまま黙っていた。


 「夏、来ますね」


 「……だな」


 「先輩は、夏休みどうするんですか?」


 「んー、部活もないし、バイトくらいかな」


 「そっか」


 言葉がそこで一度止まり、

 彼女がそっと視線を落としたまま、小さく息を吸ったのがわかった。


 「……よかったら、夏休みも会いませんか?」


 その一言は、風に押されて僕の胸にまっすぐ落ちてきた。


 麦茶のボトルが足元で転がり、夕陽がその表面でキラッと光る。

 ふとした瞬間のすべてが、妙に静かに焼きついた。


 「……いいよ」


 その答えは、考えるより先に漏れていた。


 自分でも驚いた。

 言葉が出る前に、胸のどこかが先に彼女へ手を伸ばしていた。

 勝負の罰ゲームなんて、もうどうでもよかった。


 彼女と過ごす時間が、

 いま確かに“何か”へ変わり始めている――

 そんな予感ばかりが、夕空に滲んでいた。


 「……ほんとですか?」


 顔を上げた彼女の瞳は、さっきよりも少しだけ揺れて見えた。

 けれどその揺れは、不安というより期待の色をしている。


 「ほんと」


 そう答えると、彼女は胸のあたりで軽く指を握って、小さく笑った。

 “ふぅ……”と肩の力が抜けていくのが、横にいて分かるほど自然だった。


 ベンチの横で、風が紙くずを転がす。

 夕焼けが地面を照らし、影が長く伸びる。

 その影が、僕と彼女を細い糸のようにつないでいるみたいに見えた。


 ◇


 「じゃあ……またメッセージしますね」


 彼女はそう言って立ち上がった。

 制服のスカートが、風にふわりと揺れた。


 「うん、また」


 言葉を返すと、彼女は軽く手を振ってそのまま校門のほうへ歩いていった。

 振り返るかな、と思ったけど、彼女は振り返らない。

 その背中を見送っていると、胸の奥のほうがきゅっと熱く締まっていく。


 「……なんだよ、これ」


 勝負はただのお遊びのはずだった。

 本気になる対象じゃない。

 そもそも僕と彼女は、まだ恋人でも何でもない。


 それなのに――

 彼女が少しだけ遠ざかるたび、僕の心臓が変なリズムを刻む。


 夕方のチャイムが鳴った。

 校内に残っていた数人の声が消えていく。


 僕は立ち上がって鞄を持ち、ゆっくりと帰路についた。

 歩くたび、さっきの会話がふわふわと浮かんでは沈む。


 「アイス、うまかったな……」


 呟くと同時に顔が熱くなる。

 アイスの味じゃない。

 彼女が笑うたび胸が跳ねる、その感覚の方だ。


 七月の風が、夕暮れの匂いを運んでくる。


 ――夏が来る。

 その事実が、去年とまったく違うものに感じられた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

作品づくりの励みになりますので、

評価・感想など、ぜひ気軽に残していただけるとめちゃくちゃ助かります。

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