第4話 また明日、の手前
六月の終わり。
放課後の空気は、もう夏の匂いを含んでいた。
教室の窓を開けても風はぬるく、黒板のチョークの粉が湿って見える。
外では部活の声。グラウンドの隅で鳴くアブラゼミが、季節を一歩だけ進めていた。
体育祭が終わってから数日――僕と高瀬さんは、少しずつメッセージを交わすようになっていた。
〈今日も暑かったね〉
〈ほんとに。麦茶3本目でした〉
〈飲みすぎじゃない?〉
〈たぶん水分の8割麦茶です〉
そんな、どうでもいいやりとり。
でも、不思議と通知が鳴るたびに、胸の奥がふっと軽くなった。
僕の返信はいつも遅い。
既読をつけてから、何を書けばいいか迷ってしまう。
気の利いた言葉なんて浮かばないし、下手に返すと変に見えそうで。
でも、彼女はいつも律儀に返してくれる。
文の最後に、小さな絵文字をひとつ。
それが、妙にあたたかく見えた。
〈期末やばいです〉
〈俺もやばい〉
〈じゃあ、お互い生き延びましょう〉
その「お互い」という言葉が、ほんの少し胸に残った。
たぶん、それだけで一日が少しだけ良くなる。
◇
その日の放課後、珍しく早く片づけを終えて校門を出ようとしたときだった。
少し先の歩道に、彼女の姿が見えた。
白い日傘を腕にかけ、スマホを見ながらゆっくり歩いている。
「……あ」
声をかけようか迷っていると、彼女の方が先に気づいた。
「先輩!」
顔を上げた瞬間、夕陽が反射して目を細める。
その仕草だけで、時間の流れがゆっくりになる気がした。
「奇遇ですね」
「だな。今、帰り?」
「はい。先輩も?」
「うん。部活も今日はないし」
「……じゃあ、ちょっと寄り道して帰りません?」
思いがけない提案に、一瞬言葉を失う。
「え、寄り道?」
「はい。すぐそこです。ほら、あのコンビニの向こう」
指さした先には、小さな公園が見えた。
ベンチが二つと、自販機。
“特別じゃない場所”――でも、なぜか断れなかった。
「……いいよ」
「やった。じゃ、行きましょう」
彼女が先に歩き出す。
日傘を畳んで、陽射しの中を軽く駆けるように。
それだけの動作なのに、どうしてだろう――見ていると、時間が遠くへ流れていく気がした。
◇
公園のベンチに腰を下ろすと、風が通り抜けた。
夕方の風は少し湿っていて、制服の袖をゆるく膨らませる。
自販機で買った麦茶を一本ずつ手に取った。
「おつかれさまです」
「おう……って、なんかこの感じ、委員のとき思い出すな」
「ですよね。あの頃、ずっと麦茶飲んでましたもん」
「もうちょっといい思い出にしてくれ」
「えー、十分いいですよ?」
彼女が笑う。
その笑い方が、まるで六月の風みたいだった。
柔らかくて、すぐ消えるのに、どこか涼しい。
沈黙が落ちても、不思議と気まずくなかった。
麦茶のペットボトルを指で回しながら、夕陽が木々の間から差し込む。
彼女の髪が風に揺れて、頬にかかる。
反射的に言いかけた。
「……高瀬さん」
「ん?」
目が合った瞬間、喉の奥に言葉が引っかかった。
何を言いたいのか、自分でもよくわからない。
ただ、言わなきゃいけない気がした。
でも結局、出てきたのは全然違う言葉だった。
「テスト、頑張ろうな」
「……はい?」
「いや、その……期末」
「ふふ、はい。頑張ります」
彼女は小さく笑って、視線を落とした。
麦茶のボトルを両手で持って、夕陽に透かしてみている。
オレンジ色の光が、透明な液の中で揺れた。
その横顔を見ながら、僕は思った。
この時間が、どうしてこんなに短く感じるんだろう。
同じ放課後なのに、今日だけ少し違って見える。
◇
太陽が沈みかけたころ、空気がすこし涼しくなった。
公園を出て、駅へ向かう道を並んで歩く。
信号が赤で止まるたび、彼女の横顔が街灯に照らされる。
少し汗ばんだ額、光に透けるまつ毛。
それだけで、心臓の音がひとつ速くなった気がした。
「今日、ありがとうございました」
「いや、こっちこそ。誘ってくれて」
「楽しかったです。……なんか、久しぶりに“ゆっくり帰る”って感じで」
「うん、わかる」
駅前の交差点に着く。
電車の音が遠くで鳴り、風がまた吹いた。
髪がふわりと舞って、僕の肩にかすかに触れる。
ほんの一瞬のことなのに、心がざわめいた。
「じゃあ、また明日」
そう言って彼女が笑う。
その声が、少しだけ長く響いた。
手を振る背中が人の波に紛れていく。
僕はしばらく立ち尽くして、信号が青に変わるのを見ていた。
――その言葉が、どうしてこんなに胸に残ったのかは、まだわからなかった。
でも、たぶんこの日からだ。
彼女の声を、ときどき思い出すようになったのは。




