第3話 六月の風が吹いた日
六月の空は、もう夏の匂いをまとっていた。
あの日から、少しだけ季節が進んでいる。
グラウンドの熱気が靴底から伝わり、汗が首筋を伝う。
笛の音と歓声。風に揺れるクラス旗。
体育祭当日。僕たち実行委員の、一年でいちばん長い日が始まっていた。
「先輩、ゼッケン足りないクラスあります!」
「了解、職員室前の段ボールに予備がある。持ってって!」
声を張りながら走り回る。
視界の端で、白いシャツの裾がふわりと揺れた。
その方向に目をやると、彼女――高瀬さんがいた。
腕にメモを抱え、誰かに指示を出している。
眩しい光の中で、少しだけ目を細めて笑った。
その笑顔を見たとき、気づいた。
あの日より、ずっと表情が明るくなっている。
誰かの声に応えて笑うその横顔が、初夏の光に似ていた。
◇
午前の部が終わり、委員の休憩時間。
僕は日陰で麦茶を飲みながら、足に付いた白線の粉を払っていた。
遠くの競技エリアでは、二年リレーが始まっている。
歓声の波が風に乗って押し寄せてきた。
「お疲れさまです、朔先輩」
背後から声がして、彼女が紙コップを差し出した。
「差し入れです。さっき職員室でもらってきました」
「ありがとう。助かる」
受け取って口をつける。ぬるいのに、不思議と美味しかった。
「今日、めちゃくちゃ忙しいですね」
「だよな。俺もう腕章に塩吹いてる」
「うわ、がんばってますね」
そう言って笑う。
肩までの髪が風に揺れて、少しだけ麦茶の匂いが混じった。
「……高瀬さん、委員やってて楽しい?」
聞いた瞬間、彼女は少しだけ考える顔をした。
「うん、楽しいです。
なんか、誰かの役に立ってる感じがするんですよね。
小さいことですけど」
「そういうの、ちゃんと気づけるの、いいと思うよ」
「……それ、褒めてます?」
「もちろん」
そう言うと、彼女は小さく笑って、紙コップの縁を指でなぞった。
「じゃあ、頑張ります。先輩の分まで」
「俺の分ってなんだよ」
「“多分”先輩が疲れてるから、代わりに」
その言い方が、彼女らしくて笑ってしまった。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
理由はわからないけれど、心が軽くなる感じがした。
◇
午後。
グラウンドの熱気が増して、アスファルトが揺れて見える。
大玉転がしが終わり、最後の種目――クラス対抗リレー。
生徒たちの歓声が最高潮に達する中、僕たちはコース脇で旗を持って誘導していた。
「先輩、あの子、コース外れてます!」
「了解! ……っ、こっち! ラインの中!」
走り抜けてくる生徒を誘導しながら、砂埃をかぶる。
高瀬さんも隣で手を振りながら、必死に声を張っていた。
その姿が――やけに印象的だった。
笑ってるのに、真剣で。
その一瞬の光景が、時間の中でゆっくり焼きついていく。
リレーが終わると、彼女は小さく手を振った。
「終わりましたね、先輩」
「……終わったな」
「なんか、さみしいですね」
「わかる。準備が長かった分、変な感じ」
そう言いながら、僕らは一緒に白線の道具を片づけた。
砂の上を歩く音だけが響く。
沈みゆく太陽の光が、グラウンドを淡く染めていた。
◇
夕方。
片づけを終えて、校舎裏に集合した実行委員たちは、恒例の“打ち上げ”に向かった。
といっても、近所のファストフード店でハンバーガーを食べるだけの小さな会。
それでも、不思議とみんなの顔が晴れやかだった。
「宮下、飲み物なにする?」
「コーラで」
そんな他愛ない会話の合間、向かいに座った彼女が、紙ナプキンを指で折っていた。
目が合うと、照れくさそうに笑う。
「あの……委員、これで終わりですね」
「ああ、そうだね。高瀬さん、よく頑張ってたと思う」
「ありがとうございます。……先輩が色々フォローしてくれたおかげです」
「そんなことないよ。俺もだいぶ抜けてたし」
「ですね」
即答されて、思わず笑った。
その笑いが、なんだか懐かしい気がした。
まだ何も始まってないのに。
店を出たのは夜の八時過ぎ。
街灯が灯り、初夏の風がカーテンみたいに通り抜けていく。
他のメンバーが駅の方へ散っていく中、僕と彼女だけが少しだけ歩調を合わせた。
「……楽しかったですね」
「うん。なんか、ちゃんと終わった感じ」
「委員って、こんなに仲良くなるもんなんですね」
「俺も思った。まあ、もう会うことも少なくなるけど」
そう言った瞬間、彼女が少しだけ俯いた。
「……じゃあ、せっかく知り合えたし」
言葉を選ぶようにして、顔を上げた。
「連絡先、交換しませんか?」
その声が、夜風に混じって小さく震えた。
「え、あ、うん。いいよ」
スマホを取り出すと、彼女も同じように画面を差し出した。
光の中で指先がかすかに触れる。
その一瞬が、なぜか妙に長く感じられた。
「……はい。登録、できました」
「ありがと」
彼女は少し笑って、「じゃあ、また」と手を振った。
信号が青に変わり、彼女の背中が街灯の光に溶けていく。
その小さな背中を見送っている間、胸の中で何かが静かに灯った。
夜、部屋に戻ると、スマホが震えた。
知らない番号からの通知。
〈今日はありがとうございました〉
文末に、小さな絵文字がひとつ。
〈また学校でお話ししましょう〉
返信を打とうとして、何を書けばいいか迷う。
消して、打って、また消して。
結局、
〈こちらこそ。おつかれさま〉
とだけ送った。
送信音が小さく響く。
その音を聞きながら、僕は天井を見つめた。
不思議と眠れない夜だった。




