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第2話 風鈴みたいな声

 あの夜の沈黙が、こんな眩しさのあとにあったなんて。

 ――たぶん、あれが始まりだった。

 まだ、名前も知らないころの彼女。


 五月のグラウンドは、夏の手前の光で満ちていた。

 白線の粉が風に舞い、青い空の下で光る。

 スピーカーから流れるBGMと笛の音。

 汗と日焼け止めの混じる匂いが、少しだけ甘く感じられた。


 体育祭実行委員長として、僕――宮下朔は走り回っていた。

 クラス代表をまとめて、ラインを引いて、備品を運んで。

 要領は悪くないはずなのに、なぜか全部が手一杯で、昼休みを過ぎても作業が終わらない。

 腕章の内側はもう汗で濡れていて、ペンのインクが滲みはじめていた。


 「先輩、それ、ここで合ってますか?」


 その声がした瞬間、僕は振り向いた。

 日差しの中、白いキャップを押さえながら立っていたのが――高瀬ひよりだった。


 少し高めで、透き通るような声だった。

 真夏の手前の空気に混じって、風鈴みたいに軽く響く。

 体育祭のざわめきの中でも、その声だけは不思議とすぐに分かった。


 髪は茶色で、肩にかかるくらいのショートボブ。

 制服の袖を少し折って、クリップで書類を留めている。

 どこか控えめだけれど、声と同じように、目はまっすぐだった。

 光の中で、その瞳がほんの少しだけ揺れて見えた。


 「え、ああ……合ってる、と思う。たぶん」


 「たぶん、ですか?」


 彼女はくすっと笑った。

 笑うと、頬の下に小さなえくぼが浮かぶ。

 その一瞬だけで、暑さの中の空気が少し柔らかくなった気がした。


 「すみません、私一年なんで、あんまり分からなくて」


 「そっか、新入生か。どうりで見たことないと思った」


 「えっ、そんなに先輩面しちゃいます?」


 「いや、してないよ。……多分」


 「“多分”好きですね、先輩」


 そう言って、また小さく笑う。

 その笑い方が、不思議と耳に残った。

 風に混じるような、軽くて柔らかい音。

 名前をまだ知らないのに、もう少し話してみたいと思っていた。


 ◇


 午後。

 グラウンド脇のテントの下でプリントを仕分けていると、また彼女がやってきた。

 帽子を取って、額の汗をぬぐいながら僕の方を見上げる。


 「先輩、マジック貸してもらっていいですか?」


 「ん、これ? あー、インク出ないかも」


 「大丈夫です。……って、ほんとに出ないじゃないですか」


 「あー、ごめん。うちのクラス、貧乏なんで」


 「はは、それ言い訳です?」


 マジックを振りながら、困ったように笑う。

 その笑顔が“頑張ってる子”みたいで、思わず目が離せなかった。

 あのときの僕はきっと、理由もなく見惚れていたのだと思う。


 「委員、大変でしょ?」

 と、僕が聞くと、彼女は少し考えてから答えた。


 「うーん、大変ですけど……なんか、楽しいです」

 「へえ。なんで?」

「先輩たち、すごく頑張ってるから。……私も、ちゃんとしたいなって」


 その言葉に、不意を突かれた。

 “ちゃんとしたい”――その言い方が、まっすぐで。

 まるで、何かを探すように前を向く彼女の瞳が、印象に焼きついた。


 「真面目だね」


 「そう見えます? 本当は、けっこう不器用ですよ」


 「へぇ。俺と同じだ」


 「じゃあ、お揃いですね」


 彼女はそう言って笑う。

 “お揃い”という言葉が、なぜか心の奥で静かに響いた。

 その軽さが、胸の奥にひっかかったまま離れなかった。


 ◇


 夕方。

 校庭の西側では、まだライン引きのトラックがうなっていた。

 片付けを終えて、体育館裏の影に腰を下ろす。

 風が通り抜けて、シャツの裾を冷たく撫でていく。


 「先輩、今日、ありがとうございました」


 いつの間にか隣にいて、ひよりが頭を下げていた。

 その仕草が、どこまでも丁寧で。

 汗で乱れた前髪を耳にかける指が、やけに静かに見えた。


 「いいよ別に。……お疲れ」


 「また明日、頑張りましょうね」


 そう言って、彼女は軽く走っていった。

 夕陽に伸びる影が、彼女の後ろでゆらゆら揺れている。

 制服の裾がひるがえるたびに、風が少しだけ甘くなる気がした。


 その背中を、僕はなぜかしばらく見送っていた。

 名前を呼ぶ理由もないのに、呼びたくなった。

 そんな感情があることを、その日初めて知った。


 ◇


 放課後の空は、少し紫がかっていた。

 片付けの終わったグラウンドに、まだ白線の粉が残っている。

 風が吹くたびに、それがふわりと舞い上がって、陽の名残りを散らした。


 紙コップの麦茶を一口だけ飲んで、僕は思う。

 ――この人のこと、もう少し知りたいかもしれない。


 その瞬間、背後から声がした。


 「先輩。……私、高瀬ひよりっていいます」

 振り返ると、夕陽の中で彼女が立っていた。

 「えっと、今日ずっとお世話になったので、ちゃんと名乗ろうと思って」

 「あ、僕、宮下朔」

 「じゃあ、朔先輩ですね」


 そう言って笑ったその瞬間、風が少しだけ甘くなった。

 ――この名前を、たぶん一生忘れないと思った。


 特別な理由なんてなかった。

 でも、名前を呼ぶたびに、光が差すような気がした。


 その感覚を、僕はこのあと何度も思い出すことになる。

 “別れ”の夜にも、“もう届かない”と知る日にも。

 けれど、この瞬間だけは確かに、世界が少しだけ優しく見えていた。


 ――あれが、僕と高瀬ひよりの始まりだった。

 そして同時に、終わりへ向かう最初の一歩でもあった。

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