第11話 ひらり、落ちたメモ
朝、目が覚めたとき。
まず最初に聞こえたのは、エアコンの低い駆動音だった。
それ以外は、何ひとつ音がなかった。
ひよりがいない部屋って、こんなに静かだったっけ。
枕元に置いたスマホはバイブすら鳴らない。
いつもならひよりが先に起きて、キッチンの方でカチャカチャやっている音が聞こえていた。
今日は、それがない。
僕はしばらく天井を見つめていた。
眠った気がしない。
目を閉じるたびに、昨夜の“現実”がまぶたの裏に浮かぶ。
――ねぇ、別れよっか。
音量を下げたテレビみたいに、何度も何度もリピートされる。
そのたび胸の奥が、少しずつ軋む。
ゆっくり起き上がる。
キッチンへ行くと、テーブルの上にふたつ並んだマグカップが目に入った。
どちらも中身は捨てたはずなのに、なぜか“ひよりの飲みかけ”の形が残っているように見える。
気のせいだと分かっていても、そこから視線を外せなかった。
朝食を作る気力はなく、冷蔵庫を開けては閉め、また開けては閉める。
ひよりの買ったヨーグルトが一つだけ残っていた。
賞味期限はまだ先。
だけど、これを食べる気にはなれなかった。
なんでだろう。
別れたってだけなのに、ひよりの痕跡全部が触れられない。
ふいに、文化祭のことを思い出す。
あの日、ひよりが僕を好きだと言ってくれた瞬間。
あの、真っ直ぐな声。
あの、少し震えたまつげ。
手のひらがひどく熱かったことも、全部覚えている。
なのに、今は――。
僕はその場に立ったまま、長く息を吐いた。
「……部屋、片付けなきゃな」
ひよりが残していったものはほとんどないはず。
でも、あの子って意外と忘れ物するから……どこかに何かがある気がして、ゆっくり部屋を見回す。
ソファの上のブランケット。
使いかけのハンドクリーム。
バスルームの棚に置きっぱなしの、ひよりのヘアピン。
捨てるべきものなんだろう。
でも、手に取ることができなかった。
別れてからまだ半日しか経っていないのに、ひよりがずっと前からいなかったみたいな感覚と、さっきまでここにいたみたいな温度が混ざり合って、頭の中が整理できない。
今日は大学も休んだ。
行ったところで集中できる気がしない。
履歴書を書かなきゃいけないのも分かってるのに、ペンを持つだけで動悸がした。
昼過ぎ、ようやく洗濯機をまわした。
ひよりの服は全部持っていったはずなのに、洗濯ネットを開けたら、小さな靴下が一足だけ出てきた。
それを見た瞬間、胸がグッと沈む。
「……お前、こういうのだけ残すなよ」
呟いてみても、響くのは自分の声だけ。
気づけば夕方になっていた。
ひよりからのメッセージは当然届かない。
通知欄はひどく静かで、スマホの画面がやけに冷たく感じた。
外は雨が降り始めていた。
窓を叩く細かな音が、やけに規則正しくて、余計に孤独を際立たせる。
「……夕飯、どうしよう」
そう口に出しても、返事をくれる人はいない。
当たり前のはずなのに、喉の奥が少し詰まった。
とにかく何かをしないと、考えすぎてしまいそうで。
僕はキッチンの棚を雑に開けた。
――そのとき。
白い紙が、ひらりと落ちた。
足元に落ちたそれを拾い上げた瞬間、指先が止まる。
それは折りたたまれたメモだった。
見覚えのある丸みのある字。
ひよりの字だった。
メモを開いたまま、しばらく動けなかった。
そこには本当に、ただの“レシピ”だけが書かれていた。
火加減のこと。
ケチャップを入れるタイミング。
卵を巻くときのコツ。
ひよりらしくて、丁寧で。
それでいて、どこにも余計な言葉がなかった。
謝罪も、未練も、好きだの続きもない。
あるのは今までと変わらない、ただの“料理メモ”。
「……ひよりらしいな」
そう呟いたら、胸の奥が少しだけ軋んだ。
ひよりは最後の最後まで、こういう子だった。
別れたくて置いていったわけじゃない。
僕への“気遣い”が抜けないまま、
いつも通りを装ってメモを置いていったんだ。
その優しさが、今はただ痛い。
僕は紙を指先でなぞった。
切なさとか、後悔とかじゃなくて――
ただ、胸がじんわりと温かくなって、そして静かに冷えていく。
「……ありがとな」
口に出すと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
僕はそのままメモを胸ポケットに入れ、コンロに火を点けた。
パチッ、と火花が散り、青い炎がふわっと揺れる。
油をひきながら思う。
ひよりのレシピは、復縁を望む気持ちでも、未練でもない。
ただ純粋に「朔くん、また作ってね」
その一言の代わりみたいな、優しい置き土産。
――それが一番、その子らしい別れ方だった。
僕はフライパンを温め、玉ねぎのみじん切りを入れる。
ジュッと音がして、油が跳ねた。
その匂いだけで、あの日のひよりの顔が浮かぶ。
「どう? おいしい?」
「うん、普通に美味いよ」
「普通……?」
ひよりのむっとした顔。
そのあとすぐに笑って、「次はもっと上手に作るからね」と言った声。
全部、淡く優しい記憶だ。
フライパンを傾けながら、僕はそっと息を吐いた。
戻りたいとは思わない。
戻れないことも分かってる。
でも――忘れるには、まだ時間が必要だ。
卵を焼く。
ひよりのメモに沿って、火加減を弱める。
少し揺すってフライ返しで形を整え、ライスの上に乗せる。
たったこれだけの手順なのに、やけに手が震えた。
料理が完成したとき、時計は夜の九時を指していた。
外ではまだ雨が降っている。
テーブルに皿を置くと、部屋が急に広く感じた。
ひとりで食べる夕飯って、こんなに静かだったか。
「……いただきます」
一口食べる。
ひよりの味とは違う。
卵の焼き方も、ケチャップも、全部違う。
でも、不思議と悪くなかった。
レシピが丁寧すぎて、ひよりが横で教えてくれてるみたいだったから。
「……ほんと、ずるいよな」
僕は弱く笑った。
涙は出ない。
ただ、それだけ。
食器を洗い、メモをもう一度読む。
もしかしたら隅に何か書いてあるんじゃないか、なんて変な期待はない。
ひよりはそういう子じゃない。
そしてこれは、ひよりが最後に残した“優しさの形”でしかない。
それで充分だった。
僕は丁寧に紙を四つ折りにし、引き出しにしまう。
捨てる気にはならなかった。
でも、見えるところには置きたくなかった。
明日からは、ひよりのいない日々が始まる。
その現実は重い。
でも、今日みたいに少しずつ慣れていくんだと思う。
寝る前、部屋の電気を消して、暗闇の中で小さく呟いた。
「……じゃあな、ひより」
返事はもちろんない。
けれど、その静けさは昨日より少しだけ優しく感じた。
その優しさの理由を、僕はもう知っている。
――この世界に、まだ彼女の置いていった温度が残っているからだ。




