第10話 せめて、始まりだけでもドラマチックに
夕暮れが沈みきる頃、校舎の窓という窓に文化祭の余韻がうっすら残っていた。
昼の喧騒が消えはじめ、後夜祭の準備の灯りだけがゆっくりと夜を照らしている。
撤収を終えて、僕は空になった教室で深く伸びをした。
軽音ライブの音が、まだ耳の奥に残っている。
高瀬さんの歌。
ステージの上、少し震えながらもまっすぐな表情。
そして——三曲目の前に言った、あの一言。
――あれは、どう考えても……告白だった。
受け止めた、なんて言い切れない。
けど、胸の奥がざわついたまま収まらなくて、それだけは確かだった。
校庭へ向かう道を歩いていくと、後夜祭の光に照らされた人混みの端で、彼女——高瀬さんが立っていた。
両手にペットボトルを持って、誰かを探すみたいにきょろきょろしている。
僕に気づいた瞬間、表情がふっとやわらいだ。
「……朔先輩」
「軽音、おつかれ。めちゃくちゃ盛り上がってたな」
気の利いた言葉なんて出てこなかった。
なのに高瀬さんは、ペットボトルを差し出しながら小さく笑った。
「先輩、喉……乾いてるかなって。
ライブ中……ずっと見ててくれたから」
「……ありがとう」
ありがとう、なんて照れくさくて言わない言葉を、今日は自然に言えてしまった。
キャップを開ける間、静かな夜風がふたりの間を通り抜ける。
その空気に押されるように、言葉が零れる。
「さっきの……バンド、すごかったよ。三曲とも。
特に三曲目、なんか……すごく良かった」
伝えたいのに、語彙だけが追いつかない。
でも、それでも言いたかった。
「……ほんとですか? よかった……」
高瀬さんは息をほっと吐いて、胸元を押さえるみたいにカーディガンの裾を握る。
その仕草に、なんでこんなに胸があたたかくなるのか、自分でもわからない。
「文化祭……私、バンドのことで精いっぱいで。
先輩のクラスも、あんまり見に行けませんでした」
「いや、普通そうだろ。ライブあるのに余裕ないし。
むしろよく三曲も歌ったよ。すごかった」
「そんな……でも、ありがとうございます」
高瀬さんは目線を落として、少し頬を赤くして笑った。
そのほんの短い沈黙が、妙に心地いい。
気づけば、後夜祭の音楽が遠くで鳴り始め、校庭に明かりが灯っている。
それを眺めながら、ふたりでゆっくり歩いた。
食べた屋台の話。
他のクラス展示の話。
文化祭で起きたどうでもいいハプニング。
そんな些細な会話だけで、時間は驚くほど早く過ぎた。
気づくと——後夜祭の終わりを告げる放送が流れていた。
「もう……終わっちゃうんですね」
「だな。あとは片付けだけだ」
そう言ったあと、なんとなく気づく。
高瀬さんは帰り道の方向とは逆の方に立ったままだ。
帰るタイミングを、僕に合わせているようにさえ見えた。
「帰るか」
「……はい」
校門へ向かう道は昼と違って静かで、ふたりが歩く靴音ばかりがやけに響く。
隣を歩くたびに、胸のざわつきが強くなる。
――聞かなきゃ。
分かっているのに、言葉がなかなか形にならない。
文化祭の熱気が冷めるほどに、逆に自分の中の焦りが膨らんでいく気がした。
分かれ道が近づき、街灯が伸ばす影がふたりの足元で重なる。
その瞬間。
「……朔先輩」
制服の裾が、そっとつままれた。
布越しなのに、高瀬さんの指先の震えが伝わる。
思わず足が止まった。
「さっきの……ステージで言ったこと……」
声は小さく、でも震えるほどまっすぐで。
その一言で、胸の奥に火がつくみたいに熱が広がった。
「……聞いてくれますか。ちゃんと、言わせてほしくて」
裾から離れた手が、今度は俺の袖口あたりに触れる。
触れた、というより——寄りかかるように。
言わなくても分かってしまう。
これから高瀬さんが口にする言葉の意味も、その覚悟も。
だけど、僕は逃げようとは思わなかった。
「……うん。聞かせてよ」
自然に言葉が出た。
高瀬さんの肩が震え、そしてゆっくり顔を上げる。
街灯の光が瞳に反射して、涙ではないのに潤んで見えた。
近い。
息すら聞こえる距離。
――あぁ、これが告白される前なんだ。
胸がうるさくて、息が詰まる。
それでも目をそらさなかった。
そして、高瀬さんの唇がゆっくり開いた。
「朔先輩のことが——」
その続きを待つあいだの数秒が、やけに長く感じられた。
夜風の温度も、遠くの後夜祭の片付けの音も、何ひとつ耳に入ってこない。
ただ、目の前の高瀬さんの震える息遣いだけが、まっすぐ僕の胸に届いてくる。
高瀬さんは、ゆっくり唇を結びなおして、それからもう一度だけ息を吸った。
覚悟を決めるみたいに、ぎゅっと袖口をつかんだまま。
そして——。
「……好きです。
朔先輩が、ずっと……好きでした」
思い切り泣くわけでも、声を張るわけでもない。
ただ静かでまっすぐな、けれど逃げ場のない告白だった。
胸に落ちてくるようなその言葉が、思った以上に僕の中に大きく広がった。
あぁ——。
やっぱり、そうだったんだ。
僕は知らないふりをしていたのかもしれない。
あのライブの瞬間だって、文化祭のあいだの距離だって、気づける場面はいくらでもあったのに。
それでも“怖かった”ことの方が大きかっただけで。
高瀬さんは、袖をつかんだまま俯いていた。
言い終わった直後の緊張で、指先がさらにふるえている。
「……返事、聞かせてほしいです。
ゆっくりでいいから……」
そんなふうに言われると、こっちの方が苦しくなる。
ゆっくりなんて、無理だった。
僕は一歩だけ近づいた。
袖をつかんでいた指先に、そっと自分の手を重ねる。
「高瀬さん」
呼ぶと、びくっと肩が揺れた。
「僕も……好きだよ」
言葉は自然に落ちていった。
胸の奥にずっと溜まっていた重さが、やっと形になったみたいに。
高瀬さんがゆっくり顔を上げる。
瞳が驚きで大きく開いて、そしてすぐに潤んで揺れた。
「……ほんとに……?」
「ほんと。
今日だけの勢いとかじゃなくて……。
ずっと、一緒にいて……心地よかったから」
気づいたのは最近だった。
でも、きっとそれより前から——高瀬さんが隣にいるだけで、どこか安心してた。
「三曲目……あれ、高瀬さんの気持ちだって、俺……だいぶ前から薄々分かってた気がするんだけど……。
認めるの、怖かっただけなんだと思う」
言ってしまえば、情けない話だ。
けれど高瀬さんは、涙をこらえながら首を横に振った。
「そんなこと……ないです。
言えたの、今日が初めてだから……。
やっと……届いたんだって思って……」
泣きそうな笑顔だった。
その表情があまりにまっすぐで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
まだ触れている袖口の上から、僕はそっと手を滑らせて、彼女の指先を包んだ。
拒まれる気配はなく、むしろ指先が頼るように絡んでくる。
手をつなぐ——そのほんの少しのことで、夜の空気が変わったように感じた。
「……帰るか」
そう言うと、高瀬さんは涙の跡を指でそっと拭って、小さくうなずいた。
「はい……」
校門の外へ歩き出す。
街灯の下、さっきまで距離のあった影と影が、今は一つに重なりながら伸びていく。
手の温度が思っていたよりもずっと高くて、離さないように自然と指が強く絡む。
家までの道は、普段よりずっと静かだった。
文化祭の片付けのざわめきは遠くなり、夜風と、繋いだ手の心臓の音だけがゆっくり流れている。
「朔先輩」
「ん?」
「……言えてよかったです。
本当に、今日でよかった」
照れたような、泣き笑いの声。
それだけで、胸の奥がじんわりあたたかくなる。
「僕も。……聞けてよかったよ」
言葉にした瞬間、指先がきゅっと強く握り返された。
まだ付き合うとか、そういうはっきりした言葉は交わしていない。
でも、そんなのはあとでいくらでも言える気がした。
今はただ——。
隣で歩く高瀬さんの手の温度が、
今日の文化祭で一番確かな“答え”だった。




