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第1話 コーヒーの香りが残る部屋で

 コーヒーの香りだけが、まだこの部屋に残っていた。

 テレビは消えたまま、壁には外灯の揺れる光。

 冷めたマグカップが、ふたつ。

 どちらも飲みかけで、どちらの手にも戻る気配はない。


 エアコンの音が、やけに大きく聞こえた。

 時計の針が進むたびに、空気だけが少しずつ冷えていく。


 ひよりはカップを見つめたまま、口を開いた。

 「ねぇ、別れよっか」


 言葉が、空気を切った。

 でも不思議と、驚きはなかった。

 まるで、そう言われるのをずっと待っていたような静けさだった。


 僕はテーブルの木目を見つめたまま、言葉を探した。

 けれど、見つからない。

 何かを言えば、なにかが崩れてしまいそうで。


 ひよりはマグカップの縁を指でなぞる。

 いつもなら「冷めちゃったね」って笑う仕草。

 けれど今日は、その笑顔がどこにもなかった。


 「……そっか」

 やっと出たのは、それだけ。


 ひよりは少しだけ目を伏せて、息を吐いた。

 その吐息さえ、僕には遠く感じた。


 外では風が吹いていた。

 カーテンの端が、ほんの少しだけ揺れる。


 「ごめんね、こんな言い方しかできなくて」

 その声が、どこか懐かしく聞こえた。

 僕は小さく首を振る。


 「ううん。……多分、わかってたから」


 ひよりの肩が、小さく震えた。

 その意味を考えるより先に、胸の奥が静かに痛んだ。



 別れ話って、もっとドラマチックなものだと思っていた。

 涙とか、怒鳴り声とか。

 誰かが飛び出していくとか。

 でも実際は、こんなにも静かで、淡々としている。


 「荷物、今週中にまとめるね」

 「うん」

 「鍵は……どうしよう」

 「ポストでいいよ」


 会話のひとつひとつが、ひよりの手から僕の手のひらへ、

 そっと“過去”になっていくようだった。


 ソファの上には、ひよりのブランケット。

 冷蔵庫には、半分残った牛乳。

 どれも、ふたりでいた時間の残り香みたいで、見るたびに胸が軋んだ。



 「ねぇ、朔くん」

 ひよりが立ち上がって、玄関の方を見た。

 肩までの髪が、少し伸びていた。

 ライトの下で、少しだけ橙色に揺れる。


 「最初に会ったとき、覚えてる?」


 その言葉に、心臓が少し跳ねた。

 答えようとして、やめた。

 そして、静かに笑って言う。


 「もちろん。……忘れられるわけないよ」


 ひよりも、同じように笑った。

 でもその笑みは、まるで“さよなら”を言うために練習した笑顔のようだった。


 「そっか。……よかった」


 ドアノブを回す音が、やけに大きく響いた。

 金属の小さな音が、まるでフィルムの終わりを告げるみたいで。


 「元気でね、朔くん」

 「ひよりも」


 その瞬間、僕らは恋人じゃなくなった。

 ドアが閉まる音がして、

 その後に訪れた静寂が、少しだけ優しかった。



 部屋には僕ひとり。

 外の街灯が、カーテンの隙間から床を照らしている。

 ひよりのマグカップ。

 飲みかけのコーヒー。

 さっきまで“ふたり”だったものが、今はただの“物”になっていた。


 僕はマグを手に取り、口をつける。

 冷たくなった苦味が、舌の奥に残った。

 あのとき、ひよりが笑って言っていた。


 ――「朔くんって、コーヒー似合わないよね」


 その声が脳裏をかすめる。

 笑顔の形も、息の混じり方も、全部はっきりと覚えている。

 それでも、もう彼女はいない。


 机の上には、明日の履歴書が置きっぱなしだった。

 書きかけの“志望動機”の欄が、やけに白く見えた。

 ――未来って、こんなに静かに訪れるんだろうか。



 時計の針が深夜を越える。

 外では雨が降り始めた。

 水滴がガラスを打つ音が、心の中の何かを少しずつ溶かしていく。


 僕は小さく息を吐いて、呟いた。


 「……せめて、もう少し早くに言ってくれればよかったのに」


 その言葉は、空気の中に沈んでいった。

 返事はない。

 だけど、不思議と涙は出なかった。


 ――終わりは、こんなにも静かで、

 それでも確かに、愛の形だった。


 コーヒーの香りだけが、まだこの部屋に残っていた。


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