鎮静
焦りの中にいる桔平に優斗から会わないかという連絡があった。桔平はすぐに会おうと返事をし、ついでに未来も呼ばないかと付け加えた。ただし二人は、優斗とマッテオさんとの件については、未来に隠しておこうと話し合った。
いつもの店に桔平が着くと、優斗も未来ももう来ていた。二人は楽し気に笑いあっているので、桔平は席につきながら、何を話しているのかと聞いた。
「未来、彼女と結婚するんだって」
桔平は驚いて未来を見ると、未来は嬉しそうににやにや笑っていた。
「おめでとう。ずいぶん早いな」
未来は、肘で桔平を小突きながら「早くないさ。彼女とずっと一緒にいたいと思ったんだから」と言った。
「家族には紹介したのか」
「結婚するんだから当然してるにきまってるだろう」未来は呆れたように優斗に言った。
桔平と優斗は未来のために祝杯を挙げることにした。未来は結婚式はせず、家族だけの食事会をするつもりだと言った。そして二人に新居に遊びに来てと言った。
三人は食べたり、飲んだりして、楽しく過ごした。桔平も久々に悩み事を忘れることができ、楽しい時間を過ごした。ふと、未来があの件どうなったと桔平に聞くまでは。
「ああ」桔平は一気に気持ちが沈んだ。
「うまくいってないのか」優斗が尋ねた。
「ああ、別の治療法があったのは、あったが、それを俺が覚えることができないだ。」
「難しいのか」未来が心配そうに尋ねた。
「ああ、かなり。やっぱり俺、焦っちゃうんだ。早くしないとと思って、それがいけないらしい。」
未来は頷いて、「それはわかる。」と言った。
「先生からは俺の心臓の音、何とかしろと言われて」と桔平が言うと、未来が「どういうこと」と聞いた。桔平はかいつまんで、経緯を話した。未来と優斗は、桔平の話を聞いて、顔を見合わせた。
「なに、二人して」
「お前、本当に気づかないの?」未来が言った。
「何を」
「お前、その子のこと好きなんだと思うよ」優斗が言った。
「まさか」それこそ桔平の心臓は跳ね上がった。未来が神妙な、しかしどこかからかうような調子で「間違いない。焦りはもちろんあるだろうけど、心臓がそんなにドキドキするなんて、その子といる時に、それはお前がその子のこと意識してる証拠さ」と付け加えた。
「意識って」桔平は気恥ずかしくなり、顔がほてるのを感じた。
「よかったじゃないか。お前、女の子に全く興味ないし、何の話もしないから、どうなんだろうって思ってた。俺たちも彼女の話しやすくなるよな」優斗が未来とくすくす笑いながら桔平に向かって言った。
「お前、彼女できたの」
「ああ。お前に言いづらくて言ってなかったんだ。未来みたいにあけっぴろげに言える質じゃないし」
桔平は笑いながら「そんなことないだろ」と言った。そうやって笑いあっている三人はまるで高校生みたいだった。
「でも、じゃ、俺がその子のこと、好きだとして、するとどうすればいいんだ」桔平が尋ねると、
「そんなこと聞くなよ。お前がどうしたいかに決まってるだろう。どうしたいんだよ」未来が答えた。
「いや、俺はどうしたいも、こうしたいも」
「そんなのお前次第だし、別にどうもしたくなければどうもしなくていいんじゃないか」
「いや、治療が進まないのはそれが原因なのか」
「それは必ずしもそうとも言えないと思うけど」未来は考え込むように言った。「俺に聞かれてもわからないよ。お前の治療の仕方と俺の治療の仕方じゃ全然違うだろう。俺は焦っていることが問題なんて言われたことがないからわからないよ。お前の先生に聞いた方がいいんじゃないか。」未来にそう言われて、桔平はそうだなと思ったが、なんとなく先生に聞きたくはなかった。
そうだな。一つ解決はしないが、原因は分かった。ただ桔平にはその克服の仕方はわからなかった。
三人は、近々また会おうと約束して店を出たところで、別れた。自分のオフィスに戻った桔平は、しばらく考えてユージインさんに相談したいことがあるとメッセージを入れた。夜遅い時間だったが、ほどなくして、ユージインさんからメッセージが返ってきた。今でよければ、聞くという内容だった。桔平は、すぐに今大丈夫と返信した。すぐにユージインさんが現れた。
「どうしたの、相談って」
実はと、桔平は優斗や未来と話したことを打ち明けた。ユージインさんは、桔平の話を聞きながら、茶化したりすることなく、黙ってうなずいて聞いていた。
そして「桔平君が困っているのって、ミイちゃんとどうするかということ?それとも治療のこと」と聞いた。
「治療のことです。彼女といて心臓がどきどきすることが、呪を覚えることの邪魔になっているなら」と桔平が言うと、
「待って、待って。心臓がどきどきするのが邪魔になるというのは治夫が言ったんだよね」とユージインさんが制止した。
「そうです。先生が邪魔になるって」
「じゃ、それは治夫の問題で、桔平君の問題じゃないんじゃない」
「そうなんですか。」
「わからないけど。桔平君は早く呪を覚えたくて焦っていて、それは確実に呪を唱えることの邪魔になっているということだよね」
「そうです。」
「じゃ、心臓の方は忘れて、呪の方に集中すれば」とユージインさんが言ったので、
「それができないから困ってるんじゃないですか」と桔平は言った。
「とりあえず、ミイちゃんのことはおいておけないの」ユージインさんは意外なことを言い出した。
「おいておくって?」と桔平が尋ねると
「桔平君は呪を覚えて、早く治療したいんでしょ。ミイちゃんのことはそれからでいいじゃない。急ぐ話でもないだろうし」
桔平はいっぺんに目が覚めたような気がした。
「本当だ。その通りです。僕はまず呪を覚えて、彼女に」
ユージインさんはにっこり笑って「またね」と言って消えた。
ようやく落ち着いた桔平は呪を覚えることに取り組み始めたが、それでもなかなか進まなかった。半年ほどして、ようやく一小節終わり、第二小節に入った。桔平は、最初よりは覚えることが大分楽になっているように感じた。ミイの声帯の使い方、声のふるわせ方、呪の置き方、そういったものを以前よりももっと聞き取れるようになってきた。そしてその真似をすることも以前よりも容易になってきた。
ミイも桔平の上達ぶりをほめてくれた。
何より、桔平は自分の患者に以前よりもより繊細に呪を唱えるようになった。自分の患者の症状について、ミイに相談して、呪をミイに唱えてもらい、それを桔平も真似した。患者は以前よりも身体が楽と喜んだ。また以前よりも呪の効果が長い期間持続するともいう患者もいた。
さらに4カ月経った頃に、桔平と先生はやっと最後の小節までたどり着くことができた。最後の文言のところが、難しく桔平はなかなかミイの唱えるようにできなかったが、それもかなりの時間をかけて、やっとできるようになった。
さらに1ヶ月が経ち、ミイは「いいよ」と言った。桔平は心から安心した。彼女はどうしているだろうか。まだ生きているだろうか。ミイは、今にも家を飛び出していきそうな桔平の様子を見て、声をかけた。
「まだ、会うよね」
桔平は振り返った。桔平は、ミイを振り返って、心が弾んでるんだと初めて気づいた。
「うん」それだけ言うと、すぐに家を飛び出した。
桔平は、行き先を明石ユーリの家に設定した。車はゆっくり走りだした。急がせたいと思ったが、気を付けなくてはならなかった。明石ユーリの家に着いて、玄関の呼び鈴を押すと母親が現れた。母親は桔平を見て、明らかに不快そうな顔を隠さなかった。そして口をゆがめて「何のご用」と吐き出すように言った。
「ユーリさんは、ここですか。」
「あなたに何の関係があるんですか」母親は扉を閉めようとした。桔平はそれを必死に押しとどめて、「治療をさせてください」と言った。母親はあきれ果てたような顔をして、「今更。何。」と吐き捨てるように言い、桔平を外へ力いっぱい押し出そうとした。
「別の呪が見つかったんです。」桔平が言っても、母親は一瞬手を止めたが、「今さら」とことさらに取り合おうとしなかった。扉のところで、二人が押し問答している時、ユーリの父親が帰ってきた。
「何の騒ぎだ」桔平の顔を見て、不快そうに言った。
「帰ってくれないか。」父親は、母親を桔平から引き離し、家の中へ戻るよう促した。そして桔平に向かい合った。
「勝手なことはわかっています。ただ色々と事情があったんです。今なら彼女に」
「その事情とはやらは何なんだ。今更、ユーリと会って何をしようというんだ。」父親も吐き捨てるように言った。桔平は、二人が桔平のことをどう思っているかということを痛いほど感じた。
「お願いします。今までとは違う呪なんです。今までは彼女に苦痛を与えてばかりで、だから」桔平は一生懸命頼んだ。これまでのことは話せなかったが、何とか、ユーリに会いたかった。桔平の一生懸命な様子を見て、父親のこわばった表情が少し緩んだように、桔平に思えた。
「どうしたんだ。君は。私たちがあんなに頼んだ時、全く聞き入れなかったじゃないか」
「事情は話せないですが、どうしてもその呪を唱えることはできなかったんです。」
父親は大きくため息をついた。「ユーリは病院にいる。医者からはもう無理だと言われている。ただ君に何かユーリが言ったのか。それを気にしている。自分が悪かったんじゃないかと」
「最初に会った病院ですか」
「そうだ」それを聞くと、桔平は急いで車に向かった。よかった。まだ生きていた。死んでいても不思議はなかった。
父親は桔平の背中に向かって、「私も一緒に行く」と言った。桔平は、父親を振り返り、頷いた。病院まで、二人は何も話しなかった。父親は車内で、母親に事の次第を話し、病院に来るよう伝えた。
ユーリの部屋は、病院の奥の個室だった。両親はせめてユーリが大切にしているキティと一緒にいられるようにと思ったからだった。キティもユーリから離れようとしなかった。
桔平と父親はユーリの部屋へ入った。ユーリは静かに横たわり、まるで彫像のようだった。15歳だった彼女はおそらく17,8歳になっており、身長も少し伸びたのか、大人びた印象になっていた。彼女の肌は遠くから見ると若く輝いて見えたが、近くで見るとくすんだ色をしていて、触れてみなくても硬くなっているということがわかった。
「ユーリ」父親が優しく声をかけた。ユーリは目を開けることはできなかったが、父親の声に気づいたというメッセージ、目のあたりをぴくっとほんとうにごくわずか動かした、を送った、父親は、桔平の方を振り向いた。
「ユーリ、先生が来ているよ。治療をしたいそうだ」
ユーリの目のあたりが、またぴくっと動いた。キティがか細い声で鳴いた。
桔平は、ユーリの枕元へ近づいた。
「今までのとは違う呪です。」とユーリにささやいた。ユーリの閉じた目から涙が流れた。涙は止まらず流れ続け、枕元にいたキティの柔らかな毛皮を濡らした。桔平は父親に外で待ってもらうよう伝えた。父親が外へ出ていくと、桔平はユーリのベッドの脇に移動した。そしてミイに教わった通りに、呪を唱え始めた。呼吸の仕方一つ一つ気を付け、呪をその合間に置き、音律の些細な乱れもないようにした。そして自分の唱える呪をユーリのわずかな呼吸音に合わせるようにした。
ユーリは全く体を動かせなかったが、桔平がやってきたことを知り、そして治療をするということに安堵したと同時にまたあの痛みが全身を襲うのかと恐ろしかった。しかし唱え始めた呪はこれまでと全く違っていた。それはユーリの身体を柔らかく包み込み、音の細かな旋律は体の細胞のあらゆる箇所へしっとりといきわたり、ユーリの細胞に反響するように鳴り響いた。
桔平は呪を唱えているうちに、どうしてこの子はこんな病気にかかったのか、どんな問題がこの子にあるのかと考えるようになった。そんなこと今まで考えたこともなかったので、どうして自分がそんなことを考えるのかわずかに疑問に思ったが、とにかく、その源を見つけてみようと思った。彼女の体のあらゆる箇所が、桔平の唱える呪にどんなふうに反響しているか、それまで以上に耳を澄ませた。呪に反応する彼女の音は、オーケストラのように鳴り響いていた。彼女の身体は生きようとしており、彼女のあらゆるすべてがその目的に向かって、桔平の呪に共鳴していた。しかし桔平は、耳を澄まし続けた。彼女の何かが、彼女の生きたいと願う気持ちを邪魔しようとしているんだ、どうしてか桔平はそう確信していた。
焦ることがよくない、というミイの声が桔平の頭の中で響いた。桔平は、気持ちを落ち着け、ユーリから反響する音を聞き続けた。耳を澄ましていると、ふと妙な音が混じっていることに気づいた。それはユーリの身体のあちこちに点在し、まるで桔平の呪に反響する彼女の身体から流れ出る音の一部であるかのようだった。しかしいったん桔平がそれに気づくと、それは確実に存在しているし、桔平の唱える呪に抵抗してもいるようだった。これかと桔平は思い、ユーリの身体に傷をつけないように慎重に慎重にその抵抗する部分を捉えるように呪で包み込もうとした。そして一つずつを包み込み、これ以上ユーリの身体を傷つけないように、それがこれ以上動くことのないように、鎮まるように、鎮静の呪を唱え続けた。
もともと彼女の身体の中にあったものだろうか。それが急に暴れ始めたんだろうか。桔平は、気持ちを乱さないように、しかし疑問を抱きながら、いくつもある抵抗を鎮めるように一つ一つ呪の響きで包み込んでいった。
どのくらい時間が経ったのか桔平にはわからなかった。すべてを鎮めることはできなかったが、ユーリの身体を支配している大きな抵抗の幾つかは鎮めることができたように思う。今日はここまでだと思い、桔平は目を開けた。ユーリを見ると、すやすやと心地よさそうに寝息を立てていた。桔平は彼女が起きないように、そっと部屋を出ようとした。ユーリの枕元にいる小さな猫がありがとうとでもいうようにかすかな鳴き声をたてた。
桔平が外へ出ると、ユーリの両親がそろって待っていた。桔平と両親は病院の待合室へ行き、これからのことを話した。以前のように組織は剥がれ落ちないので、それを取りに来ることはないこと。また以前ほど消耗はひどくはないと思うが、明日、また様子を見に来ることを伝えた。ユーリの両親は、桔平の変化に戸惑った様子だったが、治療してくれたことを明らかに喜んでいた。
桔平は、病院を後にした。桔平の方は以前の呪を唱えていた時よりも消耗していた。ユーリのことが気になりつつも、早く家に帰って休もうと思った。
翌日、桔平が病院へ行くと、すでに明石ユーリの両親が来て桔平を待っていた。母親が、ユーリは身体が動かせなくなったことが不快で、眠れなくなって睡眠薬を飲んでいたが、昨日からとてもよく寝ていると話した。ただ目を覚まさないので、本当に良くなったかどうか心配していた。
桔平は、ユーリの病室へ入った。彼女は、昨日と同じように横たわっていた。規則正しい寝息が聞こえてきた。桔平には彼女が心地よい眠りの中にいるように感じたが、実際そうかどうかはわからなかったし、確かめようもなかった。小さな猫は心配そうに彼女に寄り添っていた。しばらく見ていた桔平は、横にいた彼女の両親に3日後にまた来ることを伝えて、病院を後にした。本当に呪が効いているのか、心配だったが、ユーリが目を覚ますのを待つしかなかった。彼女は、かなり衰弱しているはずだった。
桔平が、明石ユーリに呪を唱えて2日後の夜、彼女の両親からメッセージが入っていた。母親は興奮していた。「目を覚ましました。少し動けるようになっていました。明日ご都合がよければ病院に来てください。」
桔平は、こころから安心して、泣いた。