マッテオ・クレメント
自分を隠し、相手に知られずに相手の中に入り込む練習を続けるうちに、桔平は人が自分に注意を向けるときの、ほんのわずかな音、音の圧力とでもいうようなものに気付くようになった。ユージインさんが、桔平に注意を向けると、そのわずかな変化で桔平は自分を隠すことができるようになった。そしてユージインさんに自分を隠していると知られないで、隠すこともできるようになってきた。もともと音に敏感だった桔平にとって、コツをつかむとそういうことは難しいことではなくなった。それと同時に相手に入り込むこともごくわずかな音の隙間を縫って入っていけばいいということがわかってからは、桔平にとってそれも容易かった。
ユージインさんだと慣れてきているからかもしれないという先生の意見も取り入れて、香山さんを相手にもやってみた。その場合もやはり同じだった。桔平はごくわずかな違いも感じ取ることができた。
「ネットワークで試してみたらどうかな」とユージインさんが言った。
「そうね。もう私たちじゃあ練習にもならないでしょう。実地でやってみるほうがいいんじゃない」
「そうだな」先生も賛成した。
「ユージインさんも僕と同じように音?の圧力のようなものを感じるんですか」
「んー、僕は違うなあ。僕は音を聞き取ったりはしない。波形なんだ」
「音の波形じゃないんですか」
「それが違うんだな」
「ねえ、それは聞いても無駄よ。桔平君。私たちたぶん全然違うことをやっているの。あなたの言うこと、私もわからない。それで私も説明できないもの、私がどうやって電子情報に乗っかる?入り込む?ってことを」
「治夫は説明してあげられるんじゃない。似たような感じで、音なんでしょう」とユージインさんが先生に言った。
「私は桔平の言うことは理解はできるが、だからと言って、私が同じようにやってるわけじゃないし、教えることもできない」
「呪は教えられるのに?」と香山さんが聞くと、
「呪は、どちらかというと、何というか、公の性質なんだ。だから患者に使えるんだ。俺たちみたいに、てんで、バラバラじゃ、効く呪と効かない呪の差がありすぎるだろう。効く呪だけが残って、公の性質を持つようになってきたんだろう。」
「まあ、じゃあ、来週から桔平君はネットワークで実地でやってみるんだね。人じゃない人を教えるから、まあ、人で試してみてもいいけど。人だと、もう君は誰にも気づかれないと思うよ」とユージインさんに言われ、桔平は
「そんなに人じゃない人は、気づくものなんですか」と不安気に尋ねた。
「予測できないという意味だよ。そんなに心配することはない。君はかなり音に敏感なんだろう。なら人じゃない人の音にも敏感になるよ。今まではそういうことを知らないでいたから、目を閉じていただけのような感じなんだ」とユージインさんが説明した。
「それはわかります」と、桔平は悲鳴以外の音が聞こえ始めたころのことを思い出した。
予定通り最初はユージインさんに人じゃない人について教えてもらった。まずは呪については話はせず、気づかれないように相手に入り込むこと、自分を隠すことを試してみた。人と同じように敏感な人もいたし、敏感じゃない人もいた。数人にやってみると、桔平はすぐに自分で人じゃない人を見分けることができるようになった。その人たちは、以前の風船とは違って、何となく人の形に見えた。人も同じように見えたので、最初は戸惑ったが、すぐに慣れて、違いに気付くようになった。やはり音の違いだった。人じゃない人は、聞いたことのない音や声や何かが混じっているのだった。それは地球のどの言語や音とも違っていた。そして本人がどんなに隠そうとしていても、桔平には、それを聞き分けられることができた。
さらに約3か月ほど経ち、桔平はもっと自由に自分を隠すことも、そうして相手に入り込むこともできるようになった。そして桔平も香山さんや先生と同じように人じゃない人に呪について尋ね始めた。桔平は、今ままで話をした人の中で、できるだけ敏感じゃない、そして人のよさそうな、人じゃない人にまずは尋ねてみることにした。
以前聞いたことのある音を聞き分けて、桔平は声をかけた。
「こんにちは」
ふらふらと漂っていたその人は、桔平が声をかけると、上に少し飛び上がり振り返った。桔平はその様子を見て吹き出しそうになるのをなんとかこらえた。うれしいというのが全身にあふれているように見えたからだ。
「こんにちは。君か」とその人は桔平をすぐに見分けた。
「以前話したことがあったから声をかけたんだ」と桔平が言うと、
「ありがとう。僕もすぐわかったよ」と彼は言った。犬の吠え声のような、だけどそれとは違う音が混じっているので、彼が話す内容を直接聞き取ることが難しかったが、会話に支障はなかった。
「あれからどうしていたの」桔平が聞くと
「別に、何も。ふらふらしていただけ。今みたいに。僕は中根エリック」とその人は自己紹介した。
「僕は桔平。エリックはどこの地区の人?」と聞くと
「僕は父がローマ、母が日本地区さ」と答えた。
「ローマに住んでるの?」
「いや日本だ。僕は日本が好きなんだ。母と一緒」エリックはにこにこしていた。「日本地区の桔平とまた会えてうれしいよ」吠え声が嬉しそうになった。
桔平は笑顔で「僕も、ネットワークに入ったばかりだし」と答えた。
「君も呪術師なの?」
「君もだろう」と桔平が言うと、
「僕も呪術師になりたいと思っているけど、まだなんだ。父がそうだよ」とエリックが言った。
「エリックのお父さんって、呪術師なんだ。僕、自分の患者のために別の呪がないか探してるんだ」
「桔平はもう治療してるんだね。ああ、父もよくそうやって色々と他の呪術師と相談しあってるよ。聞いてみてあげようか」いかにも人を疑わない様子だった。
「え、ありがとう。助かるよ。よかった。エリックに会えて。困っていたんだ」と桔平が言うと、エリックは嬉しそうに笑った。吠え声が大きくなった。
「どうやって連絡を取ればいいかな」と桔平が尋ねると、
「ここに連絡して」と手のひらを広げた。そこにナンバーが書いてあった。桔平はエリックの手を平に自分の手のひらを合わせて、そのナンバーを写し取った。そしてそのナンバーが写し取れているかどうか確認した。
「ありがとう。明日連絡していいかな」
「ああ、もちろん。それまでに父に聞いておくよ。」
「お父さんはローマなんだっけ?」
「多分ね。父はいろんなところで仕事をしているから。ところでどんな症状なんだい?」桔平は明石ユーリの症状についてかいつまんで説明した。
「かわいそうだね。その女の子」エリックは顔を曇らせた。「聞いてみるよ」とエリックが言った時、もう一人人じゃない人がエリックに声をかけた。その人は、以前話しかけられた紫風船みたいに、透き通った水色の風船のようだった。エリックはその風船を良く知っているみたいで、二人が話し込み始めたので、桔平はその場をさりげなく離れようとした。
「桔平、明日ね。」とエリックが声をかけてきた。片目をつぶってウインクしてるように見えた。実際は人の形をしたものに、犬のような形が重なってきて、そういう風に桔平には見えたということだが、なんだか訳のわからないものに桔平には見えた。しかし人懐こいエリックならそんな風じゃないかと、桔平が想像しただけかもしれなかった。
とりあえず自分から一人に声をかけることができたと安心した桔平はネットワークを離れた。先生の部屋には珍しく、いつも桔平が一番早くネットワークから出てくるので部屋には桔平しかいないのだが、ユージインさんがいた。
「誰かと話せたみたいだね」
「ええ、エリックという、あれはなんだろう。犬?の宇宙人なんですか?犬みたいだったし、犬の吠え声がしていた」と桔平が言うと、ユージインさんは
「宇宙人で犬はないだろう。きっとその人の何かが犬と似てるって桔平君が感じたからだろう」とユージインさんは微笑んだ。
「不思議ですね。ユージインさんにはそんな風に見えなんですか」
「見えないね。僕は粒子?分子?原子?いや何だかわからないけど、とても小さなものの集まりのようにしか見えないんだよ。全体的には、以前桔平君が言っていたみたいに、とても小さいものが集まって風船みたいになってるような」
「僕のこともそんな風に見えるんですか。」
「見ようと思うとね。でも普通は人だよ。人間の脳って面白いよね。こういう風だと思うと、そういう風に見えるんだよ」
桔平は、コーヒーを淹れにキッチンに向かいながら「彼はエリックっていうそうです。お父さんが呪術師で明日話をする約束しました」と言った。」言った。
「すごいじゃないか。」ユージインさんは手を打ち、桔平の後に続いた。そして桔平がコーヒーをいれていると、ユージインさんは、隣でキッチンにもたれかかりながら、
「やっぱり必要な人に届くものなのかな」と嬉しそうに言った。
「まだわからないですよ」とユージインさんの有頂天な様子に桔平は笑いをこらえた。お湯をわかしている間、コーヒー用のポットを準備し、そこにコーヒーの粉を入れた。先生は、昔風に何でも自分の手でやることを本当に好んだ。だから桔平も自然と同じように自分でコーヒーを入れることを好むようになった。わいたお湯をコーヒーの粉にかけるといい匂いがキッチンに漂い始めた。
「いい香りだね。」
「はい。」桔平は少し考えて「ユージインさんは、先生とはずいぶん性格が違うように見えるけど、でも友達なんですね」と尋ねた。
「治夫は友達じゃないと言うと思うよ。彼にとっては僕は軽薄なんだ」
「まあ」と桔平は否定しなかった。
「ユージインさんは何地区の人なんですか。日本じゃないみたいですが」
「僕はもう、それこそ、あちこちさ。僕の両親も日本地区の血はどこかでひいてるけど、日本地区生まれじゃない。ただ仕事でこっちにきて、それで居ついて、僕もそうということ。」
「ユージインさんも、小さいころからその能力があったんですよね」
「ああ、困ったよね。」ユージインさんは桔平に同意を求めるように言った。
「どうしたんですか」
「僕は両親がわりと理解があって、オカルトなんかを信じる人だったんだ。だから割と僕が変なことを言っても受け入れてもらえた。ただそれは外では言うなって言われて、外で言うと叱られたけどね」
桔平はコーヒーをカップに注ぎ、ユージインさんに手渡した。熱いコーヒーを飲めるようにカップは、お湯で温めておいた。
「君は、精神病って言われたんだっけ?」
「そうです。でも治療を受けて、よくなったって言ってもらえたから両親も安心したんです。だから今の僕の仕事も何をやっているか知らないし、僕も説明できない」
「まあ、いいさ。僕と君とだって、何を体験してるかなんてわからないし、そういうことがあって、困ることもあれば、役に立つこともあるってことでいいんだよ」ユージインさんはおいしそうにコーヒーを啜った。
「はい」
二人がコーヒーをお替りしていると、香山さんもキッチンに来た。
「私も頂戴」
「リカちゃん、桔平君は治療者と会うことができるよ」
「どういうこと」桔平はいきさつを説明した。
「私と治夫がずっとやっててもダメだったのに。やっぱりどうしても必要な人に縁ってつながっていくものなの」香山さんはコーヒーを口に含み、不服そうに言った。
「そうなんだろうね。でも何かしら僕たちだって情報を手に入れられるかもしれないし、桔平君の患者さんのためにも頑張らないとね」とユージインさんが言った。
ユージインさんが明石ユーリのことを話したので、桔平は2,3日前に明石ユーリの両親が家に訪れた時のことを思い出した。二人とも、見るからに憔悴しきった様子だった。桔平は、失礼だと感じながらも二人をオフィスの中に招き入れなかった。二人は入口で立ったまま桔平に懇願した。
「どうかお願いです。先生が治療してくださらなければ、あの子は死んでしまいます。いえ、死ぬというよりも、動けなくなって」と母親がそこで声を詰まらせた。しかし涙を流しながら「あの子が何か先生に失礼なことをしたんでしょうか。そんな風なことをあの子が言ってましたよね」
「そんなことは全くありません。」桔平は事情を話すことができたらどんなにいいだろうかと考えたが、何もわからない今の状態では、話すこともできなかった。
「ただ、あの治療はお嬢さんの病気の対処療法でしか、いやそれ以下でしかないんです。それがわかって、私はもうそのような治療をお嬢さんにできないと思っているんです」と何とか説明しようとした。
父親は、「私たちは、その対処療法でいいと思っていてもダメなんだろうか。」と懇願するように言った。「もう、娘は動くことが難しくなってきてしまった。君以外の治療者がいないか八方手を尽くして調べたよ。でも見つからない。私たちは、大事な娘がこのまま動けなくなって、ゆくゆくは死を迎えることをじっと待ってないといけないということなのか」
父親の口調に桔平への批判が混じった。
「すみません。本当になんと言われても、僕にはもうあの治療をすることができないんです。あれは対処療法以下の治療です。お嬢さんも苦しんでました」
「娘は今、もっと苦しんでます」母親の悲鳴が響いた。
「何とかお願いします。私たちは、それでもいいと思っています。先生があの治療を対処療法以下だとおっしゃっても、私たちには、もうそれしか残されていません。先生にお願いするしかないんです」母親は桔平に縋り付いた。桔平はその母親を自分から引き離しつつ、
「本当にすみませんが、僕にはどうにもなりません。僕には何もできません」そう言って、玄関のドアを強引に閉じた。
「ひとでなし」母親の金切り声が響いた。罵詈雑言が桔平の耳に響く。俺だって、何かできるなら、したい、と桔平はあふれる涙をぬぐった。でも、少なくとも今はどうにもならない。桔平は、外に音が漏れないようにそっと奥の部屋へ入った。そして声も聞こえないようにした。桔平自身がその声に耐えられるとは思えなかった。母親の罵詈雑言に、明石ユーリの絶望に満ちた声も混じっていた。それは桔平を責めているわけではなかった。とても若くして死ぬことに直面した恐怖や絶望だった。そして身体を全く動かせなくなることへのおののきだった。
「治夫は罪よね」桔平は香山さんの声で我に返った。
「どうして、聞こえたんですか」
「ううん、想像よ。急にあなたの顔色が変わったし、大体想像はつくじゃない。本当に治夫はひどいわよ」
「悪いと思ってるさ」と先生ものっそりキッチンへ入ってきた。
「ほんとうに噂をすればだね」ユージインさんは、空気が重くなるのを避けるように言った。
「治夫が聞くとは思わなかったから言ったのよ」香山さんは話を続けた。
「私にもコーヒーをくれないか」
桔平は、もう一度コーヒーをポットで作り直した。そしてそれを持ってリビングに移動した。桔平以外は、すでにリビングでテーブルを囲んで座っていた。桔平がみんなのカップにコーヒーを注いでいる間、何となく重苦しい空気が流れているようで、息が詰まった。
「言いたいことがあるなら、直接言えばいいだろう」先生が口火を切った。
「まあまあ、リカちゃんは心配してるだけだよ」
「直接言うと、そうやってすぐに不愉快になるでしょう。だから直接に言わないようにしてるの」香山さんはきっぱりと言った。
「不快にはなる。だけど陰口をきく必要もないだろう。私の家で」
「結局そこなのよ」香山さんはうんざりしたように言った。
「ねえ、桔平君」と香山さんは桔平のほうへ向きなおり、
「明日呪術師と会うのよね。その話、私にも連絡して。」と言った。「私は今日は帰るわ。コーヒーありがとう。明日ね」香山さんは手をひらひら振って、それ以上は何も言わず、ネットワークへ戻っていった。
「治夫も、そのくらいのことでリカちゃんに言い返す必要もないだろう」ユージインさんは注意するように言った。先生は気まずいのか黙ってコーヒーを飲んだ。
「まあ、桔平君は、明日呪術師に会って話すそうだ」
「呪があった」先生はつぶやくように言った。
「え、なんだって」
「あったんですか」
「ああ」先生はコーヒーカップから目を離さずに話を続けた。
「呪はあった。その子に唱えているものの裏だ」
「裏?」桔平は初めて聞く言葉に戸惑った。
「なんだい。それは」
「音律とでもいうのか、いつも唱えているのが表なら、異なる呪は裏というらしい」
桔平とユージインさんは顔を見合わせた。理解できるような理解できないような説明だ。
「どうすればいいんですか」
「それがわからない。それを知っている人はいないそうだ。なぜか、それはわからない。」
「じゃ、どうやってそれがあるってわかったんだ」
「初めて会った人じゃない人が教えてくれたんだ。一度だけその人もその話を聞いたことがあると。でもそれを唱えられる人はもういないんだと」
「廃れていったということかな。その病気が珍しくなって」とユージインさんが言うと、
「いや、通常、呪は保存される。残しておかなければ、病気がなくなったとしても、いつ何に役立つかわからない。だから。それなのにないとその人は言っていた。」
「じゃ、奇妙な話じゃないですか」
「そうだ」
それから桔平とユージインさんと先生は、保存されなていない呪について話し込んだ。ただし先生が最初に話した以上の情報はなかったので、推測するしかなかった。そして3人は、おそらくその裏の呪というのは、白魔術、黒魔術の黒魔術というものに近く、なんらかの毒性を含むんじゃないか。そして明石ユーリのような病気にはそれが効くが、その毒性のために隠されて、葬られてしまったということなんじゃないだろうかと推測した。ただそれにしても保存した痕跡すら残ってないのは奇妙だと先生は言った。
「これって何が起きているんですか」
「さあ、この病気だからなのか。それとも別の病気でもこういうことってあるのか。どうなんだい。治夫」
「私に聞かれてもわからない。患者の組織が何かに使われる病気では、そういうことはあるのかもしれないな」
「そういえば、明日、人じゃない呪術師に会うことになってるんです」桔平は先生に伝えた。
「そのこと聞いてみてもいいですか」
「ああ。たぶん話してもいいことではあるんだろう。だから初対面で向こうも私に話したんじゃないか」先生は、桔平にいろいろと尋ねることはしなかった。
桔平は二人に結果について報告することを伝え、先生の家から立ち去ることにした。部屋を出る時に、桔平が振り返ると、ユージインさんと先生は向き合って座っていたが、話はしていなかった。どちらも明後日の方向を見ていた。
桔平はエリックの父親とオフィスで会うことにした。エリックの父親は約束の時間丁度に現れた。
「やあ、初めまして。エリックの父のマッテオ・クレメントだ。よろしく桔平」
「初めまして、マッテオさん。お時間とってくださってありがとうございます。」
「いや、呪術のことだから」
マッテオさんは、180センチくらいの身長で、青い瞳、ブロンドの髪を刈り上げて、若々しい様子だった。おそらくイタリア製と思われるスーツに身を包んでいた。当然どことなくエリックと似ていた。これまで桔平は、洋服は身体を隠せればいいとしか考えていなかったが、マッテオさんの姿を見て、初めてきまり悪く感じた。そしてやっぱり桔平には、マッテオさんと犬のイメージがどこか重なって見えた。ただ立体ホログラムをだからか、吠え声は聞こえなかった。
桔平はかいつまんで、明石ユーリの症状について説明した。そして桔平の使用する呪は明石ユーリにひどい苦痛を与えるので別の呪があるんじゃないかと思い、探している。自分の師が裏の呪があることを見つけたが、それについて知っている人はいないようだし、保存もされてないということもわかったことも付け加えた。
マッテオさんは、明石ユーリの苦痛のことを聞くと、眉をひそめた。そして裏の呪が保存されてないようだと話したところでは、大きなため息をついた。
「その少女は気の毒だ。私にも君の先生の言ったように、どうして保存されてないということが起きているのかわからない。早急に調べるべきことだ」
「調べること、そんなことができるんですか」
「ああ、そういうアソシエーションがある。そこに関わってはいるから、調べてみるよ。」マッテオさんは桔平を安心させるように微笑んだ。マッテオさんの頷く様子は桔平には洗練されて見えた。
「その少女はどうするの」とマッテオさんが聞いた。
「裏の呪を使えるようになるまではやめようかと思って」と桔平が答えると、
「でも、そうすると彼女は動けなくなるんじゃないのか」と質問した。桔平は、うなだれて、「そうです。でも僕にはもうその呪を使うことはできないんです」と答えた。
「君の気持ちもわかるが…。」マッテオさんは顎を手でこすった。
「早速、調べてみるよ。連絡する」とあっさり言って、消えた。
桔平は、オフィスの椅子に座った。マッテオさんは協力的だったし、アソシエーションというものがあるということもわかった。とりあえず、ここまで進んでよかったと考えた。先生はアソシエーションについて知らなかったんだろうか。人じゃない人たちの集団なんだろうか。もっと早く気づくことができたら、彼女に別の呪を、まあ、それが現在の呪より楽かどうかはわからないが、使うことができたんだろうか。
桔平は自分の考えに沈んでいて、オフィスのベルが鳴ったことに気付かなかった。何度目かのベルが鳴って気づき、それがだれか確認すると、優斗だった。桔平は優斗から、連絡が来ていたかどうか確認したが、何も来ていなかった。その時、午後の患者からのキャンセルの連絡と日程変更についての相談が来ていたことに気付いた。
桔平がドアを開けると、「やあ」と優斗が笑った。「連絡しないですまない」
「いや、そんなことはいいよ。何か飲む?」
「あったかいものがいいな」
「準備するから座っていて」と桔平は言ったが、優斗は桔平についてキッチンへ来た。そして待ちきれないように
「なあ、この間の話だけど」と言い出した。優斗は神妙な様子で、考え込みながら、
「桔平みたいな呪術師って結構いるんだろう」と切り出した。
桔平は優斗の好みそうな飲み物を準備しながら「いると思う。俺はそんなに知り合いはいないが。それでこの間の話とどう関係しているの」と尋ねた。
「桔平は、この間の話の子のこと本当に心配してると思ったけど、そうじゃないのもいるよな」
桔平は手を止めて、
「どういうこと、何を言いたいんだ」と優斗に向き直った。
「ああ、つまり、あれから調べたんだ。呪術治療を受けている人の中に亡くなった人がいた」
「ああ、それで」
「その人の臓器は売られている。お前の患者の女の子みたいに」
桔平の身体は凍りついた。
「そんなに驚くことはないだろう。桔平の患者の皮膚組織は売買されている。」
「どこで聞いた?どうやって調べたんだ」
「調べ方は企業秘密。どこで聞いたかも秘密だ。でも事実さ」
桔平はその場に座り込んだ。天井や床がぐるぐる回って見えた。優斗は桔平の隣に座り込み「ごめん、衝撃だよな。」と謝った。桔平は頭を押さえ、優斗に返事をしようとしたが、吐き気がして答えられなかった。
「もっと嫌な思いをさせるかもしれないけど」優斗は続けた。
「今の医学だと、老衰以外ほとんどなくならないじゃないか。桔平たちみたいな呪術師の扱う病気以外。だから臓器移植がどうしても必要な時、どうしても手に入れられなくて、呪術師から手に入れてるそうだ」
桔平は何も言えなかった。しばらくして、
「いや、人工臓器があるはずだ」桔平はやっとの思いで声を絞り出した。
「ああ、だけど、本物に比べたら人工は早く劣化するんだそうだ。どんなに適合がよくても。それで何度も手術するのを嫌がる金持ちが人の臓器をほしがるらしい。」
「ただ、それだと、自分にあうかどうかということが問題だろう。人工以上に」桔平はめまいを抑えるため、床を見つめながら言った。
「ああ、それはどうやってるかわからない。」
優斗の声が涙声になっていった。そして「俺の妹も臓器を取り出されたのかもしれない」とつぶやいた時、桔平はめまいも忘れ、優斗の顔を見つめた。
「見たのか」
「見たけど、臓器を取り出した跡はなかった」
「じゃあ」違うんじゃないかと桔平が言おうとすると、
「未来に聞いた。取り出しても跡を残さないようにする技術があるんだそうだ」
優斗はそう言うと、嗚咽し始めた。桔平は優斗を抱え込んだ。桔平の腕の中で優斗の身体は小刻みに揺れた。
「まだわからないじゃないか。その頃そういうことが本当にあったかどうか。」
「ああ」優斗はつぶやくように言った。「もしそういうことが妹に起きていても、そうだったかどうかわかる手段はないんだ。ずっとわからないままなんだ」
桔平は何と言っていいかわからず、優斗を抱えたままでいた。そうしているうちに、小刻みに揺れていた優斗の身体の揺れは少しずつおさまっていき、やがて嗚咽も聞こえなくなった。
「重い」と優斗がぼそっと言った。
「悪い」桔平ははっとして、優斗から離れた。優斗は、ばつの悪そうな表情をしていた。
「ごめん、泣くつもりはなかったんだ」
「いや」
「桔平は何かわかった?」
「別の呪があるかもしれないということはわかったけど、それを知ってる人はいないみたいだということくらいか。役に立つのかどうかわからないな」
二人は床に座り込んで膝を抱えたままだった。優斗が気を取り直すように
「飲み物をもらえる?」と言った。桔平はすぐに立ち上がり、途中になっていたお茶の準備を始めた。優斗はオフィスとなっている部屋のほうへ行った。桔平がお茶を淹れてオフィスへ行くと、優斗は立ったまま窓から外を眺めていた。
「お茶、入った」桔平がテーブルにお茶を置くと、優斗は振り返った。呆けたような表情をしていた。
「どうした?」
「何が」
「いや、なんだか気が抜けたような顔をしているから」
優斗はああと言い、「誰にも話したことがなかったから、誰にも話せなかった。両親には当然だし、未来にも、会社の連中にも、ずっと悩んでいた。気が楽になったのかな」と、桔平の淹れたお茶を啜った。
桔平はそれを聞いて、キッチンへ行き簡単に食べられるものを取ってきて、それを優斗に勧めた。優斗は何も言わず、それを口に運んだ。そして食べ終えると「帰るよ。桔平も仕事だろう。悪かった、急に」と立ち上がった。
「いや、キャンセルになったから、気にしなくていい」
「まあ、帰るよ。俺も仕事があるし」
そして玄関まで行くと、「何かわかったら教えてほしい、俺はそっち方面のつては全くないんだ」と真剣な顔で言った。桔平は思わず「わかった」と答えた。優斗は目を細めてから、帰っていった。