第7話「侍女の覚悟」
使用人居住区の薄暗い廊下を、カリナは静かな足取りで歩いていた。
左手の手袋を無意識に触りながら、彼女は10年前のことを思い出していた。あの日もまた、こんな風に雨が降っていた夜だった。
使用人たちの部屋は簡素で狭いが、カリナにとっては安らぎの場所だった。リナ様にお仕えするようになってから、初めて心から安心できる居場所を得たのだ。
部屋に入ると、既に荷造りの準備ができていた。といっても、侍女の持ち物など多くはない。衣服と最低限の日用品、そして…
カリナは押し入れの奥から、黒い布に包まれた細長い物を取り出した。それは彼女が二度と手にするつもりのなかった短剣だった。
刃を抜くと、月光が鋭く反射する。10年間手入れを欠かさなかったため、切れ味は当時のままだった。
「まさか、また使うことになるとは…」
溜息と共に、過去の記憶が蘇った。
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10年前、カリナは王妃派の侍女として働いていた。だが表向きの仕事とは別に、彼女には隠された任務があった。王家に仕える隠密暗殺部隊の一員として。
「カリナ、次の標的だ」
当時の隊長が差し出した羊皮紙には、一人の女性の名前が記されていた。エレナ=ヴァルメリア。第三皇女リナの母君だった。
「理由は」
「王妃様の命令だ。詮索は不要」
カリナは任務を受けた。感情を殺し、ただ命令に従う。それが暗殺部隊の掟だった。
しかし、エレナを監視するうちに、カリナの心に変化が生じた。
エレナは確かに市井の出身だったが、誰よりも心優しく、聡明な女性だった。薬草学に精通し、城下町の病人たちを無償で治療していた。リナが生まれた後も、母としての愛情は深く、娘のために古代の知識を学び続けていた。
「この方を殺すなど…」
カリナは任務に躊躇していた。そんな時、エレナが病に倒れた。
原因不明の高熱。城下町の名医も匙を投げる中、カリナは密かにエレナの看病をした。暗殺部隊で身につけた薬草の知識を総動員して。
「あなたは…」
意識を取り戻したエレナが、カリナを見つめた。
「カリナと申します」
「ありがとう。あなたが助けてくれたのですね」
エレナの微笑みに、カリナの心は完全に動かされた。この女性を害することなど、絶対にできない。
だが、エレナの病気は暗殺部隊が仕組んだものだった。カリナが治療したことで、計画は失敗に終わったのだ。
「裏切り者め」
隊長がカリナを糾弾した。
「お前の処分は決まっている」
その夜、カリナは暗殺部隊から逃亡した。追っ手に左手を負傷させられたが、何とか王城の外へ逃れることができた。
しかし、エレナの身を案じ、再び王城に戻った時には既に手遅れだった。別の刺客によって、エレナは静かに息を引き取っていた。
「お母様…」
まだ7歳だったリナが、母の亡骸の前で泣いていた。その姿を見た瞬間、カリナの心に深い後悔と決意が生まれた。
『この子だけは、絶対に守る』
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回想から戻ったカリナは、短剣を鞘に収めた。
「お嬢様…」
扉の向こうから、同僚の侍女の声が聞こえた。
「入っても良いかしら」
「どうぞ」
入ってきたのは、ベラという年配の侍女だった。彼女はカリナの過去を知る数少ない人物の一人だった。
「本当に行くのね」
「ええ」
「なぜそこまで、第三皇女殿下に尽くすの?あなたには王城に残る道もあるのに」
カリナは左手の手袋を見つめた。
「この方は、私の命を救ってくださった」
それは比喩的な意味だった。暗殺者として生きていた自分に、本当の人生を与えてくれたのがリナだったのだ。
「お母様の分まで、お守りすると決めたのです」
「…そう」
ベラは深く頷いた。
「気をつけて。王城の外は危険よ」
「大丈夫です」
カリナは微笑んだ。
「私は、見た目よりも強いのです」
ベラが去った後、カリナは最後の準備を始めた。旅装束の下に短剣を隠し、薬草の知識をまとめた小さな手帳を携帯する。
窓の外で雨が降り始めた。10年前と同じような雨だった。だが今度は、守るべき人がいる。失うものではなく、得るものがある。
「お嬢様」
カリナは小さく呟いた。
「今度こそ、お守りいたします」
左手の古い傷跡が、雨に濡れてうずいた。だが、それは痛みではなく、決意の証だった。
元暗殺者の侍女カリナの覚悟は、固く定まっていた。リナと共に歩む新たな人生への、確かな第一歩として。
旅の危険など、10年間の贖罪の前には些細なものに過ぎなかった。彼女の真の戦いは、リナを守り抜くことで始まるのである。
部屋を出る前に、カリナは鏡の前に立った。そこには、表面上は従順な侍女でありながら、内に秘めた強さを持つ女性の姿があった。
「行きましょう」
雨音が、新たな物語の始まりを告げていた。
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