第6話「父への想い」
夜も深まった王城で、リナ=ヴァルメリアは静かに廊下を歩いていた。
荷造りはほぼ終わっていたが、どうしても立ち寄りたい場所があった。父王の書斎である。幼い頃から慣れ親しんだその部屋で、最後の時間を過ごしたかった。
重厚な樫の扉を開けると、懐かしい羊皮紙とインクの匂いが鼻をついた。父王が愛用していた大きな机、壁一面を埋め尽くす書架、窓辺に置かれた古い地球儀。すべてがリナの記憶の中にある通りの姿で残っている。
「お父様…」
リナは小さく呟き、机の前に立った。革張りの椅子には、まだ父王の温もりが残っているような気がした。
幼い頃の記憶が蘇る。5歳の時、初めてこの部屋に入れてもらった日のことを思い出した。巨大な書架に圧倒されながらも、父王が優しく膝の上に座らせてくれて、一緒に古い物語を読んでくれたのだ。
『リナ、お前は賢い子だ。きっと素晴らしい女性になる』
父王の声が、まるで昨日のことのように耳に響く。
『でも、賢さだけでは生きていけない。強さも必要だ』
その時は意味が分からなかった言葉も、今なら理解できる。父王は既に、リナが背負うことになる運命を予見していたのかもしれない。
机の上を見回すと、見慣れない本が一冊置かれていた。古い革装丁で、表紙には複雑な錬金術の魔法陣が刻まれている。リナが持参を決めた本とは別のものだった。
本を手に取ると、中から古い手紙が一枚落ちた。父王の筆跡で書かれた、リナ宛ての手紙だった。
『我が愛しき娘、リナへ
もしこの手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないのだろう。そして、お前は困難な状況に置かれているはずだ。
お前の母、エレナについて話さなければならない。彼女は確かに市井の出身だが、実は古い王家の分家の血を引いている。つまり、お前の血は誰が思っているよりもはるかに濃いのだ。
だからこそ、お前には特別な力が宿る可能性がある。それは祝福であり、同時に呪いでもある。
この本には、古代錬金術の秘法が記されている。もしもの時が来たら、これがお前の力となるだろう。だが、決して一人で背負おうとしてはいけない。信頼できる者と共に歩むのだ。
お前の人生が、どのような道を辿ろうとも、私は常にお前を愛し、誇りに思っている。
そのことを、決して忘れないでほしい。
愛を込めて
父より』
リナの手が微かに震えた。感情を抑えることに慣れた彼女でも、父王の愛情のこもった言葉には心を揺さぶられずにはいられなかった。
「お父様は、すべてを知っていらしたのですね」
呟きながら、リナは本のページをめくった。そこには、見たこともない錬金術の術式や薬草の調合法が記されている。彼女が今まで学んできた知識をはるかに上回る、高度な内容だった。
特に目を引いたのは、「記憶の継承術」について書かれたページだった。
『記憶を吸収する者は、死者の想いと共に生きる。それは孤独な道のりだが、同時に多くの知恵を得る道でもある。継承者よ、恐れることなく前に進め』
父王の手紙と合わせて読むと、リナの内に宿る力の正体が次第に明確になってきた。
扉の向こうから、静かな足音が聞こえてきた。カリナだった。
「お嬢様、いらっしゃいましたか」
「ええ、ちょうど終わったところです」
リナは本と手紙を胸に抱いた。
「これも持参しましょう」
カリナが近づいてきて、リナの表情を見つめた。
「お父様からの贈り物ですか」
「ええ。最後の贈り物です」
リナは窓辺に歩み寄り、夜空を見上げた。星々が静かに瞬いている。
「カリナ、これもお持ちください」
カリナが差し出したのは、小さな木箱だった。
「何でしょうか」
「お母様の形見です。お嬢様が旅立たれる時に、お渡しするようにと、昔からお預かりしていました」
箱を開けると、美しい銀の首飾りが入っていた。ペンダント部分には、小さな宝石がはめ込まれている。よく見ると、宝石の表面に細かな文字が刻まれていた。
「『記憶は永遠に』…」
リナが文字を読み上げると、ペンダントがほんのり光った。
「お母様も、錬金術をご存知だったのですね」
「はい。とても優秀な方でした」
カリナの声に、懐かしさが込められている。
「お母様のことを、もっと聞かせてください。旅の間に」
「喜んで、お嬢様」
リナは首飾りを身につけ、父王の本を抱いて立ち上がった。
「それでは、参りましょう。新しい人生の始まりです」
書斎を出る前に、リナは振り返って深く一礼した。
「お父様、ありがとうございました。私は強く生きます」
扉を閉めた時、書斎の中で何かが静かに光ったような気がした。それは父王の最後の祝福だったのかもしれない。
廊下を歩きながら、リナは胸の奥で何かが変わったのを感じていた。追放への恐れは消え、代わりに新たな決意が芽生えている。
父王から受け継いだ愛と知識を胸に、彼女は未来へと歩き始めた。それがどれほど困難な道のりであろうとも、もう迷うことはなかった。
記憶を継ぐ者として、リナの真の旅路が始まろうとしていた。
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