7 いま下すべきは裁きでなく
「ゆえに、女神の御名において、ギスト・ファルヴァルをこの場で処刑する」
その裁定に、ギストは呼吸を忘れた。
鎖で縛られた手を、無意識に握りしめる。
これは、悪夢の延長か?
だが、背中を伝う汗の気持ち悪さや、早鐘を打つ鼓動が、すべて現実であると突きつける。
「待ってくれ! ギストは……あの場で、俺たちと巫女さまを守った!」
叫んだのは、先鋒部隊の兵士たちだった。
皆の視線が、ギストから彼らへ移る。
「あの地割れを、こいつが起こしたとしても……あれがなきゃ、大勢があの場で死んでたはずだ……!」
しかし訴えは、すぐさま冷笑にかき消された。
「悪魔を擁護するなんて……。連中も、唆されたのではないか?」
「まとめて処分すべきだ」
発言した兵士たちの顔が、青ざめる。
セジウィック典礼官が、私兵に視線を送る。
それを合図に、隊員たちの身は拘束された。
「処断はすぐ行う。三人まとめて——異端として、火刑に処す。悪魔は肉体さえも、残すわけにはいかん」
その裁定は「入り込んだ虫を潰す」とでもいうような軽々しさだ。
「こいつらは関係ない!」
ギストの訴えは、聞こえなかったかのように、すり抜けられた。
恐らく、最初から結論など決まっていた。
この場は、あくまでも『女神の名のもとに審判を下した』という、大義名分に過ぎないのだから。
(なんで、味方に、殺されなきゃいけない?)
聖巫教に命じられ、命をかけて王国軍と戦った。
それなのに、悪魔とみなされ、軽々しく命を摘み取られようとしている。
なら一体、何のために戦って。
何のために、ロルフ隊長たちは戦地に消えていったのか——
ギストの胸の奥で、押し殺していた感情が膨れ上がっていった。
「……ふざけるな」
低く、押し殺した声が、騒然とした広間に響いた。
——こんなときにまで、思い出すのはリカルドの顔だ。
『家族とお前らが生きる国を、守りたい』と言い残し、彼は自ら囮になった。
けれど、彼が守りたかった国は、腐ったものだったのか。
「安全地帯でぬくぬくと守られ、汚れ役を押し付けるだけの、腰抜けどもが」
聖職者たちの表情が引き攣った。典礼官が怒声を上げる。
「口を慎め! 我々は女神の名のもとに、裁きを下すのだ!」
ギストの視線が、典礼官を射抜いた。
青かったはずの瞳が、次第に黄金に染まっていく。
自制していた感情が噴き出す。
身体が、内側から熱で灼ける。
「保身のために人を殺す連中が、女神を騙るな!」
——ギチッ
突如、軋んだ音が響く。
気のせいでは済まされない、重く嫌な音だった。
石造りの床を走るのは、無数の亀裂。
巨大な手が床下から這い出そうとしている——そんな錯覚が起こるほど、石材が歪みながら隆起した。
「地震か!?」
ざわめきが起こる。石床は、波打つように蠢いていた。
「う、うわあああ!!」
石柱が弧を描き、壁を抉る。
崩れ落ちた石片が、雨のように降り注いだ。
審議所全体が、この場にいるすべての者を、押し潰そうとしているようだ。
「あ、悪魔の呪いだ!」
「拘束しろ! 今すぐ、あの男を殺せ!」
聖職者たちは口々に祈り、兵士たちは太刀打ちできず後ずさる。
混乱と恐怖。まさに、もう一つの戦場だった。
——ふと、ギストの前で、白布がひらめく。
「ギストさま、落ち着いてください。……“条件”は、ある程度特定できました」
彼の目の前に滑り込んだのは、巫女だった。
轟音と悲鳴の中でも、彼女の声は、澄んでいる。
(条件? なんの?)
頭ではそう思うのに、ギストの意識は限界に近かった。
身体の内側から溢れ出す力が、自我を押し流していく。
視界が揺らぎ、世界は遠ざかる。
「こちらを見て」
祈るような声が、意識の縁に触れる。
ギストの手に、巫女の指が重なった。
目隠し越しに覗くその瞳は、たしかに、黄金に光っている。
(この目の光は、昨日……)
暴れるように蠢いていた気配が、すうっと引いていく。
まるで、巫女の手の中に、吸い込まれていくように。
狂乱のように蠢いていた石柱と石床は、潮が引くように沈静化した。
すべてが、何事もなかったかのように、とは言い難い。審議所の惨状は、そのままだ。
ギストはその場に崩れ落ちる。
呼吸を繰り返すたび、内臓を冷たい手でかき回されるような不快感が走った。
自分が、たった今この空間を——人の命までも——砕きかけた。
その事実が、ようやく意識に沈んでいく。
(俺が……やったのか……? これを?)
思考がまとまる前に、吐き気が喉までせり上がる。
どうにかこらえるが、内側から染み出す冷たさは消えない。
その傍らでは、巫女が口を開いた。なぜか彼女も、肩で息を繰り返している。
「皆さま、揺れは収まりました。落ち着いてください」
しかし、ざわめきは命乞いから、異端者の死を望む声に変換されるだけだ。
「悪魔を殺せ!」と一際大きな叫びが起こり、兵士たちが剣を引き抜いたところで——
「裁くのは、まだ早い!」
騒然とした空気を切り裂いたのは、凛と響く声。
守るようにギストの前に立つ、巫女の声だった。
一瞬で、静寂が落ちる。
屈強な兵士より、一回りも二回りも小さい彼女を前に、だれもが口をつぐむほかなかった。
「ギスト・ファルヴァルが異端であるならば——この私もまた、異端です」
巫女は、静かに前へと歩を進めた。
「私は、彼の力を制御できますから」
その言葉の意味を計り、だれもが息を飲み込む。
——巫女を異端とすれば、この国の信仰を揺るがす。
典礼官の顔にも一瞬の困惑が浮かんだ。
「制御ですと……? 今まさに、我々を潰さんとしたではありませんか!」
「ですが、潰されそうになった原因は——典礼官閣下のご裁定が、あまりに拙速だったからではないでしょうか?」
間髪を入れず、巫女の鋭い声が反論する。
『拙速』と切り捨てられた典礼官の顔が、大きく歪んだ。
「自己防衛として抵抗するのは、当然のこと。この場に立つ皆さま自身も、恐れに身を任せて調査もせぬまま、彼らを火にかけようとしたのですから」
巫女の顔は、ギストと、先鋒の隊員たちに向く。
瞳を覆い隠した彼女の視線も表情も、ギストたちから見ることはできない。
しかし、その声に込もる力強さは、救いにも思えた。
「女神の祝福を授ける巫女として——この者の力は、“神杖”の性質に通じる、そう判断いたします。異端かどうかは、まだ断じることができません」
空気が、大きく揺らいだ。
否定する者の声、思い直す者の声、女神への畏怖を抱く者の声。
それぞれが自分勝手に言葉を発し、空気中で混ざり合う。
「この野蛮な力が、天からの光と——“女神の祝福”の一環ですと?」
「可能性としての話です。……ですが、もし彼が本当に異端ならば、いずれ女神の導きが示すはず。今、私たちが下すべきは裁きではなく、『見極めること』ではありませんか?」
巫女の声が、確信を持って響き渡った。
女神の代弁者たる彼女の宣言に、異を唱える者はいない。
「それに——彼の力は、この聖戦に、勝利をもたらす足がかりにもなり得る」
先ほどまで迫っていたはずの死が、巫女の言葉で遠ざかっていく。
一方で、ギストの胸には、言いようのない不快感が芽生えた。
巫女の言葉は結局、『利用価値があるから生かす』という打算に聞こえてしまったからだ。
「前例がない力だからこそ、慎重に判断すべきです。……まずは、教皇猊下の意向を確認するべきかと」
巫女がさらに、言葉を重ねる。
審議を委ねられているセジウィック典礼官は、返す言葉を失ったようだ。
流れは、完全に変わった。
もはや、『即座にギストを処刑する』という判断は下せない。
彼の力が巫女に通じる限り、女神の意思が働いている可能性を無視できなくなったのだ。
典礼官は忌々しそうに顔を歪めながらも、裁定を下す。
「……然らば、この者の処断は、教皇猊下の御意を仰ぐまで保留とする」
ただし、と、すぐに言葉は継がれる。
「万が一その力が、聖巫教の関係者に害を及ぼしたときこそ、ギスト・ファルヴァルは処分する」
聖職者たちの間には、静かな同意の気配が流れる。
巫女は、小さく息を吐いた。
当事者であるギストは静かに、裁定を受け入れる他なかった。