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5 声は、呼べと願った




 剣が閃き、血飛沫が霧に溶ける。


 ギストとリカルドは、敵影を切り裂いては駆けていた。

 喉が焼ける。息がうまく続かない。


 視界を覆う白い霧は、不意打ちと死角の連続をもたらす。

 剣の鍔は手のひらに食い込み、足取りはすでに鉛のようだ。


「まだ、来るか……!」



 リカルドが後方に目をやり、呻くように言った。

 ギストも肩を上下させながら応じる。



「霧が、濃くなってる……」


 すぐそばで、澄んだ金属音が響いた。

 ギストの剣が迫る槍を弾き、リカルドの刃が敵兵の首筋を掠める。


 声を交わす余裕は、ほとんど残されていない。

 それでも、互いの背と、後方に続く仲間たちを守るように、次の敵に備えた。


 土の上を滑り踏み込んだ足音。リカルドが、すかさず突きを放つ。

 鋭い手応え。返り血が頬を打った。

 その目に、怯えはない。




 幾度目かの死線を越えて、ようやく——霧が裂けた。


 急に開けた視界は、霧とは真逆の闇夜だ。

 枯れた木々が鬱蒼と広がっていることから、いまだ森なのだとわかる。


 そして——リトロン砦へと続く方角には、霧が広がっていない。

 不思議なことに、霧は、一定の範囲のみを濃く覆っているかのようだった。


「——伏せろ!」


 リカルドが、咄嗟に声を上げた。

 直後うなったのは、いくつもの風切り音。


 霧の境界から射られた矢が、殺意を帯びて突き抜けてくる。

 一本がリカルドの足元をかすめ、土を跳ね上げた。


「隠れろ! 早く!」


 リカルドの叫びが、木々の間に反響する。


 声と同時に再び——いや、さらに多くの矢が、霧の中から放たれた。

 兵士たちは我先にと、幹の裏に身を滑り込ませる。


「……ッ!」


 ギストの耳を捉えたのは、リカルドの声にならない呻きだった。

 リカルドは片膝をついている。手は、右足を押さえていた。


「リカルド、早く……っ」


 ギストは手を伸ばして、木陰へとリカルドを引っ張り込む。

 鉄の匂いが、ツンと鼻腔を刺した。


 ——嫌な、予感がする。


「ギスト」


 リカルドが呼ぶ。

 その表情は、固い。まるで、見知らぬ人間のようだ。


「……ここで、別れよう。お前は皆を引き連れて、リトロンの砦に行け」


 ギストは、呼吸を飲み込んだ。


「……あんたは?」

「ここに残る」


 一瞬、めまいを覚えた。しかしすぐに、ギストは首を横に振る。


「冗談を言うな。一緒に行くんだろ!?」


 その瞬間、リカルドの手がギストの肩を掴む。

 力があまりに強い。

 “何か”を、喉の奥に押し込もうとしているようだ。


「いいや……確実に、一人でも多く撤退するには、この方法が最善だ」


 リカルドの声は、わずかに震えている。瞳が、揺れている。

 しかしギストも、譲らない。震えを飲み込んで、口を開いた。


「なら、俺が引きつける。統率を取れるリカルドが、皆と砦に行け」

「おいおい、新兵が先輩に命令してんじゃねえよ。本当、お前はいつもいつも口答えして、生意気だよなあ……」


 見ろ、とリカルドが自分の右足を指す。

 滲む血は、暗い地面に赤い跡を広げていた。

 鉄の匂いは、一層濃くなる。


「この脚じゃ、走り切るのは厳しい。荷物になっちまう」


 ギストは震える拳を握り締めた。

 渦巻く反論の言葉が、声にならない。


「……『二人目が生まれるのに、やすやす死ねる』のか?」


 数刻前の会話を引き合いに出され、リカルドは笑みを浮かべた。

 くっくっくと、喉を鳴らすあの声。


「まあ、本音を言えば、生きて帰って、エリナミーナの寝顔が見てえ。生まれる子にも会ってねえしな。でもそれ以上に、家族と……お前らが生きるこの国を、守りたい」


 リカルドの手が、ギストの肩から離れて、森の奥へ押し出した。


「火矢から庇ってくれて、ありがとな。あのとき拾った命は、今ここで返す。お前が、あとにちゃんと繋げ!」


 リカルドが、剣を掲げた。

 ギストが伸ばした手の先で、霧に溶けていく背中。一度も振り返らなかった。


(追わなきゃ)


 けれど。

 木陰にあるのは、傷と疲労にまみれた仲間の姿。


 一歩、振り返りかけた足を、ギストは自分で止める。

 伸ばしていた手で、喉をかきむしる。


(俺が戻れば、全員が終わる)


 その一念が、リカルドの背を切り離す——

 

「……行くぞ!」


 耳の奥で反響するのは、ロルフ隊長とリカルドの声。

 それだけが、前へと脚を動かす唯一だ。





 ギストたちは重たい足を引きずるように、夜の森を進む。

 足は痺れ、喉は焼け、呼吸も荒い。

 それでも、だれ一人として、足を止めなかった。


 いくつもの殺意が、なおも背後に張りついている。


(くそ……撒こうにも、これ以上走れない……)


 今一度、迎え撃つべきか。剣を振るう余力はあるのか。




 ——そのとき。

 前方から、硬質な音が響いてきた。


 馬蹄。幾重ものそれが、地を強く打つ。


「回り込まれたか……!?」


 剣を握る手に力がこもる。来るのは槍か、矢か——



 しかし、暗闇を裂いて現れたのは、見覚えのある花の紋章。

 聖巫教せいふきょうの外套に身を包んだ兵士たち。そして、その先頭には、

 

「……巫女さま?」


 だれかが、呆けた声を上げる。



 ——こんな戦地に、巫女が現れるなど、あるものか。

 それに、巫女の素顔は、常に目隠しに覆われているはずだ。


 しかし、出征式で見上げた姿と、月光に照らされて手綱を引くその姿は、次第に重なっていく。

 まるで女神そのものが、戦場に降り立ったかのように。


「深手を負った方を馬に。傷の浅い方は、後方に」


 隊員たちの驚きもよそに、巫女は馬から軽やかに降りて、指示を飛ばす。

 その背に控える兵たちが、即座に動き出した。


「ここからは、私たちが引き継ぎます」


 その声が響く間にも、森の奥では気配が蠢いていた。

 追撃の足音、擦れる革の音。複数の影が包囲を図っている。


「囲まれる前に、ここを突破しないと……!」



 月光が、敵の刃を一瞬だけ照らす。

 その光——



 巫女の瞳はそれを捉えると同時に、弓矢を構えた。

 指が、迷いなく弦を引き絞る。


 ——ビィン



 張り詰めた音と、放たれる矢。

 それは、森の陰に潜んでいた追撃兵の肩を、正確に射抜いた。



 短い悲鳴が上がり、木々の間に張り詰めていた気配がわずかに揺らぐ。


 巫女自ら、矢を。

 目の前の光景に、逃れてきたギストと隊員たちは息を呑む。




 ——だが、その瞬間。


 木陰から、ひときわ鋭く光る矢が放たれる。

 目標は、巫女の胸元。


「……っ!」


 ギストは、反射よりも速く動いた。

 思考も、躊躇もない。ただ、地を蹴る。

 風を割って身を投げ、剣を突き出す。


 キィン——!


 甲高い音が、夜を貫いた。

 飛来した矢は剣に弾かれ、無力に地面へと落ちる。




 ギストのすぐそばに、巫女の目がある。

 彼女の薄い青の瞳は、大きく見開かれていた。


 その視線は、自分を襲った矢ではなく——ギスト自身に、向けられている。


「……よかった。あなたを探していました」

 

 その声は、彼女の髪を包むベールのように柔らかい。

 耳を撫でる響きに、ギストの思考は止まった。


(探した? ……なんでだ?)




 次の瞬間。

 巫女の指先が、剣を握るギストの指に触れる。


 触れた先には、火種のような熱。


 けれどすぐに、心臓が一度、激しく打ちつけた。

 熱が駆ける。


 全身を焼くように、血が、肉が、脈動を始める。


『——呼べ』


 耳ではなく、脳に直接届く声が、ギストの意識を貫いた。

 彼と巫女の瞳が、黄金に染まった、次の瞬間——


 大地が、大きく跳ね上げた。


 地の底から響く、重く低い轟音。

 木々が、草葉が、戦場全体が、軋みを上げて揺れ始めた。


「地震か……!?」


 馬の嘶き。飛び交う混乱の声。


「地割れだ! 逃げろ!」


 大地の裂け目から、立ち込める塵と煙、噴き出す蒸気。

 しかし、だれもが倒れ込み、立ち上がれない。

 ただ二人を除いては。




「———ッ!」


 ギストの頭は、砕けるような痛みに襲われていた。

 煽られた熱が体内を駆け巡り、脳髄は焼き切れそうだ。


 この身の内側で、巨大な“何か”が目覚めた。

 それは、この地のすべてを、世界の底に沈めようとしている。


(止めろ、止まれ、止まってくれ……!)


 叫びにも似た声は、喉から出てこない。

 ——代わりに、静かな声が、耳に落ちた。


「やはり……“何か”在るのですね。これは、何なのでしょう……」


 巫女の指が、ギストの手に再び触れる。

 ——全身を駆け巡っていた熱が、すっと引いた。


 大地の震えがやみ、急速に静寂が訪れる。


 反動のように、ギストはその場に崩れ落ちた。

 黄金に輝いていた瞳は、ゆっくりと青に戻っていく。


「巫女さま、今の力は……!」


 駆け寄る足音が聞こえる。

 しかし、ギストにはもう遠い。


(まずい……意識が……)


 黒く染まりはじめる視界に、巫女が佇んでいた。


 人か、少女か、女神か——

 その姿をまばたきもせず、焼き付けたまま——ギストは落ちた。




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