4 ここにある地獄
「動け、ギスト! まだ終わってねえ!」
ロルフ隊長の声が、現実で響く。
美しい翡翠の瞳に意識を囚われていたギストは、身震いした。
同時に、悪魔——いや、“緋雷将軍”と謳われるその男が、一瞬剣を引く。
隙をついてギストは突きを繰り出すが、軽やかにかわされる。
返された斬撃は、頬をかすめるだけに留まった——まるで、わざと生かされたかのように。
次の瞬間、大剣は大きく振るわれた。
ギストの身体は吹き飛び、地面を転がる。背中が泥に沈み、呼吸が乱れる。
「っ……!」
立ち上がろうとするが、膝が震えた。
(反応できない、速い、重い——勝てない)
本能が、叫ぶ。敗北を覚悟するには、十分な一撃だった。
「——立ってろよ、ギスト……! こっちは俺がやる!」
ギストの代わりに、エミルが剣を振りかざして突き進む。
緋雷将軍は剣撃を軽々といなすと、逆に剣を振り返した。
エミルは重い一撃を受け止めるも、徐々に圧されて体勢を崩す。
「……こいつ、一人で全員を潰す気か!」
「その通りだ」
緋雷将軍と思われる黒い鎧の男は静かに呟き、一度引いた大剣を横薙ぎに振るう。
その勢いでエミルの肩当てがへこみ、彼は吹き飛ばされる。
「てめえ……どんだけ俺らを舐めてやがる!」
ユリウスは剣を正面から突き出し、一瞬の隙を狙った。
甲高い金属音が鳴る。彼の剣は、大剣にいとも簡単に砕かれた。
力の差は、歴然としている。
大剣が払い除けられた。
胸甲が引き裂かれ、ユリウスの身体は、その場に崩れ落ちる。
だれもが、足を縫い止められたように動けない。
かろうじて剣と槍を構えてはいるが、たった一人の男を前に、戦意は失われつつあった。
翡翠の瞳は、兵士たちを一瞥する。
「女神に縋る、外から来た毒。これ以上、この王国に広げるな」
その声に、リカルドが反論する。
「毒は、戦を巻き起こしてる、お前らだろうが……!」
「まだだ! 構え直せ、全員!」
ロルフ隊長の指示に、ギストも震える腕を構えた。
おそらく今日、いま、ここで死ぬ。全員、目の前の悪魔によって。
翡翠の瞳は、ギストを見ている。
逃げ道はない——
直後、空気がひそやかに揺らいだ。
森の奥から風が吹き込んできたかと思うと、地を這うように白い靄が立ち上がる。
それは風を無視するかのように、一帯を覆い尽くしていった。
「……霧、か? こんな急に……?」
「風が逆……どうなってやがる」
「見えねえ、囲まれたか!?」
だれかの叫びが混じる。
騒々しい戦場が、霧によってわずかに音を失い、重たい沈黙が広がった。
人影が、音もなく霧に呑まれていく。
あれほど圧倒的だった緋雷将軍の姿も、まるで夢かのように、靄の中へと消えた。
「周囲を固めろ! 音を注意深く聞け!」
ロルフ隊長の声が、霧の中から遠くに聞こえる。
くぐもった声に混じる、妙な音——
水が滴るような音。霧を裂く熱。
「火矢だ! 防げ!」
だれかの叫びが響いた。
ギストは反射的に地面に落ちていた盾を拾い上げ、そばにいたリカルドごと自分の体を隠す。
白い霧、赤い炎、黒煙。
天幕と干し草の束が、瞬く間に燃え上がる。
エミルとユリウスの姿も、炎に分断されてもはや見えない。
「エミル! ユリウス!」
呼びかける声が、空しく響く。
「退路を拓く! こっちだ!」
かすかに聞こえたロルフ隊長の声に反応し、ギストとリカルドは音の方向へと駆け出す。
霧の中で、ロルフ隊長が大きく刃を振るった。火矢が撃ち落とされ、地面に沈む。
「リカルド、ここは抑える。ギストと他の兵を連れて、リトロン砦までの退路を確保しろ!」
火矢をまた一つ弾いたところで、ロルフ隊長が二人に向かって叫ぶ。
しかし、二人にはわかっていた。
霧の中でたった一人、退路を守りながら火と矢を跳ね返すなど、長くは続かない。
リカルドとギストは、隊長に降り注いだ矢を切り払う。
「そんなの……隊長とギストが行けよっ」
「中年が速く走れるか! 持久力だって衰えてるんだぞ!」
こんな状況なのに、ロルフ隊長の軽口は減らない。その目が、退こうとしないギストに向いた。
「言ってただろ? 隊長の命令に従うって。これは命令だ!」
嫌だ、と思わず言いかける。
その瞬間、天幕が燃え落ちる音が、霧の向こうへと遠ざかるように聞こえた。
命令——そうだ、命令ならば従うしかない。
けれど、その選択は、本当に最善なのか?
自問する間もなく、ロルフ隊長の声が続く。
「だれかがこのあとの戦いで取り返すんだ。お前らがそのだれかだ、わかったな!」
「でも——」
「反論するな! リカルド、ギストを連れて行け!」
ひたすらに矢を弾いていたリカルドが、一瞬こちらに目を向ける。
息を切らせ、額には血と汗が入り交じっていた。瞳が、一瞬強く光る。
「隊長——、ご武運を!」
祈りの言葉を叫ぶリカルドが、ギストの腕を掴み、半ば強引にその場から引きずり出す。
抵抗しても、リカルドの握力と勢いには抗えない。
「リカルド! 待て、ロルフの代わりに、俺を……」
「隊長の代わりに、食い止めるってか? 甘いんだよ新兵が!」
振り返ると、炎の雨の中で踏みとどまるロルフ隊長の背中が、深い霧の奥へと溶けていった。
「ギスト、振り返るな! 前だけ見ろ!」
リカルドが一層強く腕を引いた。
彼の声に促され、ギストは無理やり前を向く。視界が滲むが、振り返ることだけはしないと歯を食いしばる。
自分の足音とリカルドの足音だけが、すぐそばにある地獄から遠ざかっていった。