3 義親子
「酒だ……!」
ユリウスの目が輝く。
水こそないが、近隣の村から届いたぬるい酒が、一人一杯ずつ配られた。
酒を補充した革袋を手にし、兵たちはロルフ隊長を囲む。
「——さて。最近の王国軍は、兵を溜め込んでる気配がある。俺たち先鋒部隊の仕事は、そいつらの鼻先に、一発食らわせてやることだ」
隊長が引き締まった声を発するのは、戦地と伝達でのみだ。
その響きを、ギストは耳で追う。
「目指すは旧貴族の城砦だな。随分前に朽ちてるが、どうも最近きな臭い。兵器を隠してるかもしれん。警戒しとけ」
それから——と、伝達は続く。
「もうひとつ。代替わりした将軍が、相当の手練れという話だ。特徴は“緋色の髪と、背丈ほどの大剣”」
「噂の、“緋雷将軍”か」
だれかの呟きに、ロルフ隊長が頷いた。
「ああ。大剣一閃で、盾も鎧もぶち壊しちまう化け物だ。お偉いさんが、こんな前線に出張ることもねえだろうが……出くわしても突っ込むな。全員でかかれよ」
規格外ともいえる敵の情報に、全員が心なしか、背筋を伸ばした。
できれば、出くわしたくないと祈りながら。
「俺たちには、王国軍を討つという使命がある。胸張っていけ。——女神の名のもとに、正義の剣を振るえ!」
「おう!」
ロルフ隊長が革袋を掲げ、ほかの兵士たちもそれに続く。
仲間たちの勢いに押され、ギストも動きに倣った。
度数が強いばかりの、ぬるい安酒。
口に含んでも、喉を潤すより先に、舌の奥がじんと痺れる。唇の端のひび割れに沁みた。
それでも、ユリウスは嬉しそうだ。
「酒が飲めるなんて、今回の遠征はツイてるぜ」
「じゃあやる。飲んでたら、逆に喉が乾きそうだ」
ギストは自分の革袋を、ユリウスに差し出した。
「——酒の味を楽しめないとは、ギストもまだまだ子どもだな」
いつのまにか、ロルフ隊長が背後に立っている。
上官の登場とはいえ、兵士たちに緊張感はない。それどころか、リカルドやエミル、ユリウスも気安い表情で片手を上げた。
「ロルフ隊長、演説お疲れさんです」
「隊長もここで飲もうよ」
「隊長、二日酔いが心配なら、代わりに俺が飲んでやるよ」
「ああ、邪魔するぞ……ユリウス、酒を奪うな!」
森の中に、ロルフ隊長の叫びが小さく響いた。
しばし笑い声が満ちたあと、隊長はごほんと咳払いをする。
「今年の遠征は、今回が初めてだ。さて……ギスト。お前にとっては、これが初陣だな」
ロルフ隊長の瞳は、ギストに向けられた。
「初めて会ったときは……十年前だっけ? 布団を濡らすのが日課だったガキが、今じゃ兵士か」
「絶対に濡らしてない」
黙って聞いていようと思ったが、その言葉は看過できない。
何せ、周囲で聞いているリカルドたちが、ニヤニヤと笑っている。
目の前の養父は「そうだっけか?」と、すっとぼけた。
「クソ親父め」とギストが悪態をつくと、ロルフ隊長が喉を鳴らして笑う。
「もう、十七か」
一拍置いて、隊長は静かに声を上げた。
——エリシア聖教国では、十五歳を迎えた男子に兵役が課される。
商人や職人、聖職者を志す者は免除されるが、それ以外の者は、剣術・槍術・弓術などの基礎訓練を受けたのち、適性を見て配属が決まる。
とはいえ、高官や聖職者の縁故など、素性の確かな者は、本隊や後方勤務——比較的、生存率が高い配置に就ける。
一方で、もっとも早く斃れる部隊、“先鋒部隊”に回されるのは——
「コネも地位もないやつ、あるいは罪人、孤児……。“先鋒部隊”に配属されるのは、そんなやつらだ。斃れても嘆く人間が少ないってな」
ロルフ隊長の声は、聞いたことがないほど静かだった。
「なかには、王国軍への復讐に囚われて、先陣を切りたがるやつもいる」
ここからが本題だ、とでもいう声だ。
「——お前の生まれ故郷を焼いたのは、王国軍だと聞いている。でも、怒りで突っ走るんじゃないぞ」
いつもの説教が始まったか、とギストは身構えた。
「よく覚えてないから、怒りも何も。家が燃えているのを見たってだけで、それ以外は、ぼんやりしてる」
ギストの言葉に、ロルフ隊長は眉をひそめた。
「ただ、記憶ってのは、ふとした音とか匂いで戻ってくるもんだ。剣のぶつかる音とか、血の匂いとかな」
ロルフ隊長は、まるでそんなことがあったとでも言うように、目を細めた。
「そのときの怒りを思い出しても、飲まれるな。判断、間違えるなよ。お前が死ぬだけじゃすまねぇ場面も、あるからな」
「それは……隊長の指示に従っていれば、間違えずに済むだろう」
少し棘のある声で返すギストに、ロルフ隊長は「そうくるか」とでも言いたげな顔で笑った。
「真面目で従順だな、お前は」
「……養父と兄貴分たちがこんなだから、真面目にも育つ」
ギストの視線が、ロルフ隊長と、次いでリカルド、エミル、ユリウスに向く。リカルドたちは、すでに三人で別の話題に移っていた。
ロルフ隊長は「そりゃそうか」と笑う。
「でもな、従順なだけじゃダメだ。自分で動くしかねぇ場面ってのは、いつか来る——せっかく拾った命だ、他人に好き勝手させず、自分で選べよ」
その言葉に、ギストはロルフ隊長を見上げる。
隊長の左耳を飾る黒曜石のピアスが、月明かりを受けて光った。
「ガキには難しい話かもしれんが、頭の隅に置いとけ。お前には、生きて帰ってほしいからな」
「……やけに今日は説教くさいな」
ロルフ隊長が、ニヤリと笑う。
「途中から、俺も思った。愛息子の初陣を前に、びびっちまってるのかもしれねえな」
「歳を取ったな、ロルフ。十年前と比べると、腹も出てるしな」
「うるせえ」と言いながら、ロルフ隊長の片手がギストの髪を乱暴に掻き乱す。
その手がうっとうしく、振り払う。
「とにもかくにも、まずは明日だ——勝つぞ」
ロルフ隊長の目の奥に、迷いのない光が宿っていた。言葉には、冗談の欠片もない。
「……ああ」
そのとき、二人の鼻先に、冷たい水滴がぽつりと落ちた。
「——おお、待ってました、雨! これで水不足解消できる!?」
すぐそばで、エミルが歓喜の声を上げる。
しかしそれを、すかさずユリウスが打ち消した。
「アホか。これっぽっちの小雨で解消できたら、世の中ぜんぶ花畑だろうよ」
「ユリウス、その言い方は嫌味!」
そばでちびちび酒を呷っていたリカルドが、懐かしむように声を上げた。
「そういえば、うちの娘がよく言ってるな。『魔法使いが雨を降らせる』ってな」
「魔法使いぃ?」
眉をひそめるユリウスのそばで、リカルドが頷く。
「ほら、“魔法”の力で火を出したり、植物を生やしたりする。天変地異も、思いのまま——」
「それって、おとぎ話のたぐいだろ」
ユリウスが渋い顔をする。
「一人の意思で、天変地異を起こされてたまるか。そんな破滅の力、たまったもんじゃねえな」
至極真っ当な意見に、リカルドが笑う。
「うちの娘は、『魔法でドレス着て王子さまと結婚する話』がお気に入りだけどな」
「平和でいいじゃん。毒林檎の話はちょっと怖かったけど」
彼らの取り止めのない会話に「のんきな連中だな」とロルフ隊長とギストは呆れていた。
——魔法。
絵空事にすぎないはずのその言葉が、今夜に限って、妙に耳に残った。
小雨は、すぐに止んだ。
今思えば、あの雨が戦いの幕開けだったのだろう。
密かに張ったはずの野営地は、あっけなく突き止められていたのだから。
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