1 巫女と新兵
「命を捧げることを恐れるな」
この国で、ただひとりの巫女。
彼女の言葉は、天からの啓示だ。
その声が、胸の奥に触れた気がして——出征式のその日、兵列の中で埋もれていたギストは、わずかに息を詰めていた。
幾千の視線が集まる中、巫女は神杖を掲げた。
呼応するように曇天が裂け、一筋の光が降り注ぐ。
光は意思を持つかのように波紋を描き、戦地へ赴く教団兵たちを包み込む。
「悪魔たちの魂を、その刃をもって解放せよ。女神は、我らと共にある」
勝利への確信を孕んだ歓声が、そこかしこで沸き立った。
しかし、ギストの瞳だけは、光を捉えたまま揺れている。
神々しい光景。けれど、何が起こっているのか、わからないというように。
「ああ。お前は初めてだよな。“女神の祝福”を目にするのは」
隣に立つ先輩兵のリカルドは、ギストの顔を覗き込む。
「どういう仕組みなんだ?」
「仕組みも何もねえさ。巫女さまがあの杖に触れると、光が満ちる。それだけだ」
「へえ……、まるで“魔法”だな」
ギストの小さな感嘆に、リカルドが笑みを噛み殺す。
彼の唇から漏れ出る笑い声に、ギストは「なんだよ」と眉をひそめた。
「いや、“魔法”って……。くふっ、おとぎ話を聞かせたあとの、うちの娘にそっくりでさ」
「子どもと一緒にするな」
ますます顔をしかめるギストの肩を、リカルドがポンと叩く。
「ま、これぞ神秘の力ってわけだ、新兵よ。次は、ほら」
リカルドが前方を顎しゃくる。
そこでは、壇上に立つ巫女の前で、兵士が跪いていた。
代表兵士たちに、巫女が加護の祈りを授ける——
それが、聖巫教が出征前に行う慣わしだ。
「今ならなんと、巫女さまのご加護を大盤振る舞い中。選ばれし者、おひとり様一回限り——刃は冴えわたり、恐れは消える特効つき!」
「ご加護の特売扱いなんて、後ろの司教に聞かれたら鞭打ちだな。巻き込むなよ」
不敬なリカルドの手を振り払い、ギストは露骨に嫌がってみせる。
そのそばで、ため息がひとつ上がった。
「……俺、巫女さまの前に出れないわ」
そわそわと目を泳がせているのは、隊長のロルフだ。
「体の清拭するの忘れたんだ……ニオうかな? いけると思うか?」
隊を束ねる者とは思えない、情けない声。
ギストとリカルドは、『いつものことか』とため息をもらした。
「またですか? 隊長殿」
周囲に立つ兵士たちも、呆れ混じりの笑みを見せる。
「おいギスト、隊長のお世話、ちゃんとしとけって言ったろ。お前の親父殿なんだし」
「ニオう隊長殿が巫女さまの前に立って、ハエでも呼び寄せてみろ。先鋒部隊全員、大恥をかくぞ」
なぜか自分が注意され、ギストは渋面を作る。
一方で、ロルフ隊長はいたって真剣な表情で、かぶりを振った。
「おい、笑いごとじゃないぞ! 麗しの巫女さまの前で、恥をかく俺を見たくないだろ」
「見たくねえなあ。いたたまれねえし、俺らの立場もねえ」
「それなら、隊長の愛息子殿が、加護を賜る栄誉を担えばいい」
突然、リカルドがギストに顔を向け、軽快に片目をつむる。
「いい案じゃねえか」と頷くロルフ隊長。
ギストだけは、ふるふると首を左右に振った。
——国の象徴である巫女の前に出るなんて。
まだ年若い彼は、腹の奥が軋むような精神的圧力を感じる。
「新兵いびりはやめてくれ、先輩」
「都合がいいときだけ後輩ぶるな。こういうのは印象が大事だろ? 月星の金髪に、空の青い瞳——舞台映えは完璧だな。“王子さまと姫君”みたいでさ」
リカルドの言葉に、仲間たちが心配そうに眉根を寄せた。
「リカルド、娘が生まれてからすっかり少女趣味になったね」
「リカルドちゃん、俺らはただの一兵卒なの。王子に生まれてたら、先鋒なんかにいねえって……おっと」
仲間の一人が慌てて口をつぐむ。
視線の先には、無言のままにこちらを鋭く射抜く、白衣の司教。
『王子』という敵の名が禁句だったことに気づくまで、時間はそうかからなかった。
「……まったく、冗談も通じねえ世の中だな……」
リカルドの小さなぼやきに、ロルフ隊長が頷いた。
「よし、怒られる前に、さっさと出征だ。……んで、俺の代わりに巫女さまの前に立つのは、だれだっけな?」
わざとらしく首を傾げた瞬間、全員の視線がギストに集まる。
彼だけは「冗談だろ」と眉をひそめた。
「待てよ。俺が何かやらかしたか?」
「新兵は、先輩の言うことを聞くもんでしょ?」
「隊の名誉のために、華々しくキメてこいよ」
「ご武運を、麗しの“王子さま”」
仲間たちに押し出されて、ギストは観念するほかなかった。
胃が痛い。重たい足取りで、壇上へと歩を進める。
その先には、春の風に包まれて、巫女が待っていた。
髪も目元も、純白の絹に覆われている。
その姿は、人の目に触れることすらためらわれるほど、神聖なものに見えた。
絹のあわいから覗くのは、淡雪の肌と、赤い果実のような唇。
素顔は見えない。それでも、巫女が『麗しの』と称される所以は、十分に伝わってくる。
——けれど、巫女は、大聖堂の奥で祈りを捧げる、女神の代弁者。
先鋒部隊は、最前線で血と泥にまみれて戦う、使い捨ての兵士たち。
あまりに違いすぎて、高嶺の花と呼ぶことすら、どこか滑稽だ。
……せいぜい、他の兵士たちと同じように、心が少し浮つく程度。
ギストは巫女の前に跪き、首を垂れる。
「女神の愛し子よ。天の御心が、すべての刃からあなたを守らんことを」
うら若い女性の声が、ただ穏やかな祈りになって降り注ぐ。
そして——
差し出された巫女の手に、触れた瞬間だった。
何かが、入り込んだ。
触れた指先から這い上がるような熱が、心臓を貫く。
音も。色も。光さえも。すべてが途絶えた。
時間さえも、息をひそめたように感じる。
息を吸えば、肺に届く空気は冷たく。
そのくせ、胸の奥では、熱が脈を打ち続けている。
(この感覚が……ご加護?)
いや、これは……。
——まるで、身体の奥に“鍵”を挿し込まれたような——
「……あなたは……」
わずかに上ずる、巫女の声。
目元を覆う薄布の向こうで、その瞳は、ギストをただ一心に見つめていた。
彼の奥に眠る“何か”を、見定めるように。
「いえ……。ご武運を」
言葉を飲み込み、彼女はそのまま手を引く。
その瞬間に、霧散する熱。
だが、心臓の奥には、たしかな感覚が残っていた。
……それは、ただの加護などではなく。
使い捨ての兵士と、天上人の巫女の邂逅によって、何かが始まる“合図”だった。