0 これはまだ前座
春が訪れるたび、エリシア聖教国は銀色に輝く。
刃の銀、胸甲の銀、盾の銀。
しかしやがて、赤に濡れる。
ギストはその晩、戦地を駆けていた。
“教団”の兵士として、明日迎えるはずだった初陣は、予定より早く訪れた——奇襲だ。
ツンと鼻を刺す鉄の匂い、掛け声、断末魔。すべてが、奇妙に調和する夜。
突き上げた槍の穂先が、肉を貫く。赤の飛沫が、生々しく張り付いた。
初めての感覚に、ギストの肩がわずかに震える。
直後、突き刺さる怒号。
「ぼさっとすんな、新兵! 死にてえのか!」
乱れた呼吸の中で、ギストはただひたすらに敵の盾をかわし、剣を弾いた。
槍が折れたら、腰の剣に挿げ替える。
「盾兵、前へ!」
「押し返せる! もう少しだ!」
後方の隊長の指揮と、最前線を切り開く仲間の鼓舞が、敵襲を押し返す縁だ。
声に呼応して、周囲の兵士たちはなだれ込む。
「女神の名のもとに、悪魔どもを討て!」
——この国に存在する、女神と悪魔。
エリシア聖教国を統治する教団【聖巫教】は云う。
『天に座す女神は、あまねく者に祝福の光を授ける』と。
そして、こうも云う。
『かつての王族と、それを支持する王国軍。彼ら“悪魔”を討つことこそ、使命である』と。
王国軍は今まさに、闇夜に乗じて迫っていた。
「行け、ギスト!」
前を行く兵士が、敵兵の剣を受け止める。
その隙に、ギストは刃を振り下ろす。また肉が裂ける手応え。真紅が弾ける。
切り裂いた敵の目から、雫がこぼれ落ちたように見えて、思わず目を背けた。
この戦場で考えることはただひとつ。生き延びることだけだ。
だが、空気は変わってしまった。
土煙を裂いたのは、悪魔と称するにふさわしい“黒の塊”。
それが鎧だと気づいたのは、月明かりに照らされてからだった。
夜風に揺れる、血で染め上げたような緋色の髪。
大剣の刃が土を噛む音が、地面を撫でた。
「陣形を維持しろ! 援軍到着まで反撃を止めるな!」
隊長が鋭く指示を飛ばすより早く、悪魔は動く。
稲妻のような閃きだった。
気づけば、前列の盾兵たちが吹き飛ばされている。
全員が、まともに反応すらできずに地に沈んだ。
「……なんだ、今の……!」
だれもが息を飲み、本能的に後退する。生き物が、天敵を察知したときの反応だ。
その場にいたすべての者が、直感する。
『これまでの戦は、ただの前座だった』と。
再び振り下ろされる大剣。
前にいるのは、小柄な兵士だ。あの斬撃を喰らえば、両断は免れない。
ギストが動いたのは、ほとんど反射的だった。
行くな。死ぬぞ——
脳裏をかすめた声より早く、右手の脆い剣を突き出す。
轟く金属音。腕が千切れるほどの衝撃は全身へ伝わり、痺れに変わる。
「ぐっ……!」
斬撃は唸りを上げて、息つく間もなく降り注ぐ。
反撃の隙を窺うどころか、受け止めていなすことさえも追いつかない。
「ギスト! 防御を固めろ!」
叫び声を遮るように、敵の一撃が、ギストとの間合いを完全に制圧する。
こちらの陣形を大きく乱しておきながら、敵は汗ひとつかいていない。
(これ……、死ぬ……)
覚悟しかけたとき、刃の向こうに、悪魔とされる男の顔が迫った。
歪むギストの顔を、翡翠の瞳が、じっと見据える。
(なんだ、この見透かすような目……)
まるで、自分の芯の部分を探られているような——
そんな目に見据えられたのは、これが初めてじゃない。
あれは、ほんの数日前のこと。
女神の名のもと、“彼女”に手を取られたときだった——