流れ星
この旧歌を耳にしたのは、幼稚園児の頃だった。その日何があったのかは、中学生となった現在に至っては、何も覚えてもいないし何も記憶にもない。覚えておかなければならない必要性を何も感じていなかったのだろう。
中学生世代にとって対等な位置関係にあるのは者であるが、しかし、幼子にとっては、者であれ物であれ、この星に行きとし生けるもの全てが総じて対等な位置関係にあると思っている。だから、身の回りにある何かを失ったり失くしたりこわしたりして、辛く悲しい思いをしていたのかもしれない。
ブランコに乗って地面に両靴の底をくっつけたまま、しょんぼりと頭を垂れて、ゆらゆらと揺られていると、急に
「見上げてごらん夜の星を」
と、ちょっと音の外れたような歌が聞こえてきた。
ピクッとして歌声の方に顔を向けると、幸ちゃんが隣のブランコに乗って漕ぎながら歌っていた。
「お祖母ちゃんがね、教えてくれたの」
と、幸ちゃんはお祖母ちゃんが好きなのか、満面の笑みを湛えて弾んだ声で嬉しそうに言った。
「お祖母ちゃんが、言ってたの」
と、幸ちゃんは尚も続けてお祖母ちゃんからの話を聞かせてくれた。
夜空を眺めていると、時折り、星が流れることがある。これを流れ星という。流れ星が流れて消えるまでの間に願い事を3回唱えると、その願い事が叶うと言われているらしいと、幸ちゃんは教えてくれた。
「流れ星、見たことあるの?」
と聞くと、
「うん。でも速くて、3回も言えなかった。1回しか」
「そんなに?」
「うん、そんなに」
「3回じゃなくて、1回じゃダメなんだ」
と残念そうに言うと
うん、1回じゃダメなんだって、3回でなきゃ」
と、幸ちゃんは済まなそうな面持ちで返した。
「でもね、他にもあるんだよって、お祖母ちゃんが言ってた」
と、忘れていたことを急に思い出したかのように満面を綻ばせて早口で付け足した。
「夜になったら、空を見上げてね。流れ星が見られるかもしれないからね」
といわれつつもそうはしなかった。忘れていたわけではない。ただ、幼子の興味というのは、一つにとどまってはいられないものだからだ。
知識を吸収しようとする幼子は、魚の鰓呼吸のそれと似通っている。魚は大量の水を飲み込んで、必要不可欠な酸素だけを取り入れて、鰓から余分は水分は放出するように、幼子は見るもの聞くものの全部を吸収してのち、必要不可欠なもの以外は忘却の彼方へと捨て去って行く。そして、成長し年齢を重ねていくと必要不可欠な部分だけを取り込めたり、取り込んだりするようになり、終には、如何せん、悲しきかな都合の悪きものは除外されて排除されて、ナポチュニズムが罷り通るようになってしまう。
中学3年生となった今に必要不可欠なものは猛勉強。園児の時に必要不可欠だったものは幸ちゃん、だった。
夜空の星の話題が切っ掛けとなって、幸ちゃんとは大の仲良しとなった。なのに、どうしたものかお互いに夜の星空を眺めようとはしなかった。幸ちゃんと過ごした楽しい時間の先に待ち受けていたものは、初めて経験する寂しさと辛さだった。幸ちゃんはお父さんの仕事の都合で卒園式間近になって、遠方へと引っ越してしまった。それ以降、幸ちゃんと二度と再び出会うことはなかった。
降り続けていた冷たい冬の雨は、いつの間にか気付かぬうちに止んでいた。だけれども、空を覆っている黒い雲は流れもせずに、居座ったまま陣取っていた。
それから暫くすると、北風が激しく音を立てて吹き始めた。風は雲を吹き飛ばす。そうなれば星を拝むことができる。でも、流れ星とはそう容易く巡り合うことはできないだろう。とわかってはいても、今夜ことはと手を合わせて祈る。
じわりじわりと風の冷たさが、そんな思いで流れ星を待っている我が身を突き刺す。
「風邪を引くのは御法度、御法度」
と言いながら、慌てて窓を閉めた。
試験日が迫るにつれて窓を開放して夜空を眺めることは日に日に遠退いていき、やがてそうはしなくなった。
それから月日が過ぎて、試験の全日程も終了し、いよいよ合格発表当日となった。合格の有無を知ったその夜に、窓を全開してベランダに出、久方振りに夜の空を見上げた。夜空は雲一つなく晴れ渡り、満天とまではいかなかったが、明るい星々が疎らにではあるがその存在をアピールしているかのように、キラキラと煌めいていた。
「幸ちゃんも、眺めているかな…?」
と呟いた瞬間、星が目の前を流れて行った。
「流れ星だ…」
そう思って願い事を3回唱えようとしたが、やはりその余りの速さにはついて行けずに徒労に終わってしまった。
「そんな時は、流れ星を目で追うだけでいいんだよって、お祖母ちゃんが言ってた。だからね、がっかりすることはないんだよ」
思いも寄らずに浮かび上がってきた幸ちゃん優しさの籠った言葉に誘導されるように、流れ星が消えて無くなるまで願い事が叶うことを祈って、目で追い掛け続けた。
数ヶ月後、志望校への入学式も終了し、晴れて新一年生となった。中学生から高校生への階段を1段上っただけなのに、更に大人になったような気がした。
教室の机の椅子に座っていると、
「おはよう」
とクラスメートが声を掛けて、隣席に座った。
「おはよう。幸ちゃん」