9.アリスという少女
すべてが終わり光青の大好きな平穏が帰ってくる。今日は部屋で全力でごろごろしよう。そう決意を固め光青は帰路についた。
光青は上機嫌に自分の部屋の扉を開けた。その瞬間それまでの高揚した気分は一気に吹っ飛んだ。なぜなら光青のベッドでミスチェフがよだれを垂らしながらそれは気持ちよさそうに寝ていたからだ。
「なんでお前がいるんだ!」
光青の怒声でミスチェフは目を覚ました。ミスチェフはヨダレを光青のベッドのシーツで拭いてから言う。
「おはようコウ君。女性の寝込みを襲うのはよくないよ」
「襲った記憶はない。いいからさっさと出てけ」
光青は低いトーンで返した。不機嫌さをアピールしたつもりだったがミスチェフには通じない。
「もうつれないな。全く、本当に女心っていうものをわかってないな」
「余計なお世話だ。それにお前以外の女性にはちゃんとしてる」
「あらあら自覚なし? これだから小便臭いガキは困るんだよ」
「誰が小便臭いガキだ!」
「君だよ、君! 日本一のお嬢様を傷つけといてよくのうのうと帰宅したもんだ」
「俺がアリスを? なんの話だ?」
光青は首をかしげた。それに対しミスチェフはやれやれといったジェスチャーをした。
「ここまで言ってもわからないとか本当にいやになるね。仕方ない、いいことを教えてやるよ。君はアリスの事を気安くアリスって呼んでるけど、実は両親を除いてそう呼ぶのは君だけなんだよ」
ミスチェフの発言はますます光青を混乱させた。
「なに言ってんだ? 俺はアリスにそう頼まれたからそう呼んでるんだよ。アリスは他のやつらにも同じように頼んでるはずだろ?」
「頼んではいるみたいだけど誰も呼んでくれないんだなこれが」
「なんでだよ?」
「君は千家の名を甘く見ているんだよ。ちゃんと知っていたらとてもじゃないが名前で呼ぶことなんてできないんだよ。無知な君はタメ口まできく有様。ああ恐ろしや恐ろしや」
「大袈裟だな」
「大袈裟じゃないんだなー、これが。ではここで問題です。なぜアリスはアメリカの大学の課程を修了しているのに今更日本の高校に通っているのでしょう、か?」
なぜクイズ形式なのだろうか? 人を苛立たせることに関しては本当にピカイチである。
「親の意向だろ」
「その親の意向とはなにかを聞いてるんだろ、この間抜け」
「知らないね他人の意向なんて」
「クイズにならないじゃないか」
「俺はお前の暇つぶしに付き合う気は一切合財ない」
「使い方おかしくないか? まあ、いいや。正解はアリスに友達がひとりもいないから、でした」
「はあ? そんなわけないだろ?」
ミスチェフはチッチッと舌打ちしながら指をふる。
「そんなことあるんだなこれが。アリスは両親が感心するほど完璧なお嬢様。しかし、なぜだか友達がまったくできない。両親は最初は千家の名のせいだと思っていたがアリスが大きくなるにつれてそれだけではないとわかった。アリスは誰にも心を開かない。それはなぜか? 君にならわかるんじゃないか?」
光青はミスチェフの言うとおりすぐに原因がわかったが口には出さず無視した。ミスチェフも返事を期待していなかったのか話を続けた。
「両親はアリスにも心を開ける友人が見つかればと思ってアリスが育った環境に近い子たちが集まる超有名お嬢様校に入学させた。まあこの作戦は失敗。千家の名にひれ伏す人ばっかりだからね。それでますますアリスは周囲と距離を置くようになった。というわけでアリスは今のところ友達は0なのさ」
「……そうか。そいつは残念だな」
光青は適当に相槌をうった。ミスチェフの話は出会った時もそうだったがなかなか本題が見えてこない。ミスチェフはなにが言いたいのか。
そんな光青の心情を見透かしたかのように切り出した。
「そんなアリスは最近初めて心を開ける相手を見つけた。なんと運命的なことにその相手も今まで誰にも心を開けない臆病な屑系男子であった」
適当に聞き流していた光青でもようやくミスチェフの言いたいことがわかった。
「……それが俺だっていいたいのか?」
ミスチェフは光青がアリスにとって初めての友人だという。
「あら、気づいちゃった。やっぱ屑系男子はヒントになりすぎたか」
ミスチェフは茶化すように云う。
「話の流れでわかっただけだ」
「またまたー、誤魔化しちゃって」
ミスチェフはまともに会話する気はないようだ。しかし、それは光青も同じだ。
「話はそれだけか? 悪いが俺はアリスとこれ以上関わる気はない」
「あれま! それまたなんで?」
「アリスは俺が望む平穏、平和、平凡。この三つからかけ離れた存在だからだ」
「くだらない理由だな」
「俺にとっては大事なことだ」
「本気で言ってる?」
「ああ本気だ」
「本当に?」
ミスチェフは光青の目の前まで近づいて云う。光青は目をそらして、
「ああ」
とだけ答えた。それでもミスチェフは再び目が合うように顔を近づけ
「本当に本当?」
と訊いてきた。
「しつこい。わかったら出てけ。もうここにいる理由がないだろ。そして二度と俺の日常に現れるな」
光青は近づいたミスチェフを突き放しながら云った。離れたミスチェフの顔はニヤニヤと笑っていた。そして云う。
「残念。それは君の勘違いだ」
「勘違い? なにがだ?」
「わたしにはまだまだここいる理由がある。なぜならわたしの任務はまだ終わってないからだ。というわけで帰るわけにはいかないのさ」
ミスチェフの言葉に光青は凍りついた。
「任務がまだ終わってない? どういうことだ? ちゃんと『天使の罪』だったっけ? あれはちゃんと消去したはずだ」
「洗切の分はな」
ミスチェフはベッドに腰掛け指で自分の髪くるくるといじりながら云った。光青はミスチェフの言っている意味が一瞬わからなかった。簡単なことなのに。それだけ光青は衝撃を受けたのだ。
数秒後、ようやく機能した脳みそが答えを出す。
「まだいるのか?」
「察しが悪いな。じゃなきゃこんなかび臭い部屋にいないよ。言っちゃえば洗切はウイルスの二次感染者のほうだ。堕天使モレスターによって生まれた『天使の罪』は別の人間だ。お・わ・か・り?」
「それを早く言え! 糞っ! また最初からかよ」
光青は思わず机を叩いた。
「いや、それは違うよ」
「なにっ?」
「天界では女神よりも優しいといわれるわたしだから教えてあげるけど、君たちはすでにもうひとりの『天使の罪』に会っている」
「なにっ!」
「ここまで言えば鈍い君でもわかるはず。というわけで、じゃあ頑張って。あっ、あと急いだほうがいいと思うよ。大切な友人を失いたくなければね。じゃあね」
「ちょっと待っ」
光青の呼び止める声を無視してミスチェフは消えた。
ミスチェフは気になることを云っていた。ひとつはもうすでに光青たちが「天使の罪」に会っているということだ。しかし、心当たりはまったくない。
そしてもうひとつ。
「急いだほうがいいと思うよ。大切な友人を失いたくなければね」。ミスチェフは確かにそう言った。
大切な友人とは誰を指すかすぐにわかった。と同時に光青の額から汗が流れ始める。背中もびっしょりと濡れる。
アリスに危険が迫っている。
光青は急いでアリスに電話をしてみた。しかし、アリスは電話に出なかった。
光青は慌てて家を飛び出した。アリスの家までの道のりはしっかりと記憶されている。光青は全力で走り出した。
途中、雨が降り出した。俺は構わず走り続けた。雨音が強くなる中、声を聞いた。
――なぜ雨の中全力で走る? もうアリスとは関わりたくないのではなかったのか?
光青は一瞬またミスチェフが現れたのかと思った。しかし辺りを見渡してもその姿はなかった。
「うるせえ」
光青はひとり呟き速度をあげた。