8.良い悪夢 そして、別れ
翌日、光青は三郎の病室を訪れていた。
「それがよ聞いてくれよ。ついさっきなもうそれはそれは美人な金髪ロングの女医が来てさー、いやー、やっぱ本場は違うね。
もう見たら本当にたまげるぜ。胸ってこんなに重力に逆らえるものなのかと感心したわ」
だらしなく鼻の下を伸ばしながら三郎は嬉しそうに話した。
「ブラで持ち上げてんだろ。それでその女医はなにしに来たんだよ」
「夢がないなーお前は。それで腕を綺麗に治してくれるってよ。一ヶ月もすれば時速170kmの球が投げれるようになるってさ」
「それは改造されるってことか? よかったな人類初のアフロ型サイボーグになれるなんて」
「違うわ! アフロ型がとかじゃなくて初だろ! とりあえず治るんだよ! 俺の腕!」
三郎は満面の笑顔で言った。それを見た光青も自然と顔が緩んだ。
「そうか、よかったな」
「なんだよ、もっと驚けよ」
「いや十分驚いてるよ。いやはや、本当によかった。じゃあ、俺行くわ」
「なんだよ! もう行くのかよ!」
「ああ。悪いな人を待たせてんだ」
「次来るときはちゃんと例の品持ってこいよ!」
「エロ本か?」
「違う! エロ目の本だ!」
「はいはい」
どう違うのか? 光青は呆れながら病室をあとにした。
「どうでしたか?」
ロビーのソファーに腰掛けていたアリスは光青をみるなり言った。
「ちゃんと治るらしいわ。ミスチェフがわざわざ三郎の前に現れて言ったらしい」
「そうですか。それはよかったですね」
アリスは優しく微笑んだ。そのはるか後方から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
「だから、何度も言わせるな! 俺はあの糞ガキに殺されかけたんだ! 早く逮捕しろ! それがお前らの仕事だろ?」
昨日の男、洗切の中学時代の担任だ。教師とは思えない品のなさだ。罵倒されているのは銀行でお世話になった刑事であった。その顔から困り果てているのは明らかだった。
「いかがなさいましたか?」
見かねたアリスが声をかけた。
「あっ、千家さん。これはお疲れ様です。それがですね……」
「君たちは昨日の! 丁度良い、この刑事さんたちに昨日見たことを話してくれたまえ。私がどんなに酷い目にあったか! そしてあのクソガキがいかに危険なやつかを」
男は刑事が喋るのを遮って仰々しく言った。
アリスはどう答えるべきか迷っていた。そこで光青が代わりに云うことにした。私情をたっぷりと挟みながら。
「昨日見たことですか? えーと、ひとりで怪我をして血を流すあなたとそれを見て気が動転し、逃げ出した彼のことですか? しかし、なにがあったらあんな怪我するんですか?」
光青の発言を受けて男は顔を真っ赤にして激怒した。
「なっ、君は一体何を言っているんだ? 見ただろ洗切に殺されそうになっていたわたしを!」
「殺すってどうやって?」
「水だ! 手から水を出したんだ!」
場はしーんと静まり返った。数秒遅れて男は自分の失言に気がついた。時すでに遅く、刑事は哀れんだ目で男を見ていた。
「刑事さん、どうやらこの人怪我のショックで混乱してるみたいです。ゆっくり休ませてあげてください」
光青も哀れむように言った。
「ふ、ふざけるな! 子供のくせに大人をなめるなよ」
男はわなわなと震えながら言った。さらになにか言おうとしたが刑事が止めにはいった。刑事は光青を見て、
「君の言う通りのようですな。それでは失礼させてもらいます」
疲れたといった表情を浮かべて言った。刑事たちは男を取り押さえて男の病室へと戻っていった。
「少しかわいそうじゃありませんか?」
「そうか? 自業自得な部分もあるし、丁度よい落としどころだろ」
光青は笑いながら言った。
そのとき、視界の奥に武蔵野学園の制服を着た男の後姿を捕らえた。洗切も今、この病院に入院している。洗切の友人だろうか?
「酷い人ですね。……さて行きましょうか?」
アリスは笑顔でそう言い立ち上がった。
「行くってどこに?」
「洗切さんのところです」
「なんでだ? 俺たちには関係ないだろ?」
「本当にそう思っていますか?」
アリスはまっすぐ光青を見た。その目で見られたら光青も嘘はつけない。
「……まったく関係ないとは言わないけどよ」
「それでは」
アリスは嬉しそうに微笑んだ。
アリスは洗切の病室の扉をノックした。中から返事が返ってきたのを受けゆっくりと扉を開けた。
「失礼します」
「あっ、君たちは……」
洗切は少し驚いた様子で言った。
「こんにちは。体調のほうはいかがですか?」
「……まあまあです」
洗切は目を合わさずに答えた。
「それはよかったです。わたしたち心配で思わず来てしまいました。元気な姿を見れてほっとしました」
アリスは言葉を止めて洗切の反応を待ったが洗切は黙ったままだった。アリスは光青の方を見て発言を促してきたが特に話すこともない光青はそっぽを向いた。
アリスは呆れるようにひとつため息を吐いた。
「長居しても失礼ですので、それではお大事に」
光青たちはその場を立ち去ろうとしたが、
「ちょ、ちょっと待って…………ください」
黙り込んでいた洗切が搾り出すような声で言った。
「なんでしょうか?」
「少し僕の話を聞いてもらえませんか?」
「構いませんが、わたしたちでよろしいのですか?」
洗切は少し間を置いてから。
「なぜだかわからないけど君たちなら僕の知りたいことを知っている気がするんだ」
と震える声で言った。
光青とアリスは顔を見合わせた。ミスチェフの話では天使の罪などの超常現象に関する記憶は消えているはずだ。
しかし、洗切は知っている気がすると言う。また、あの糞天使がいい加減なことを言ったのかと光青は疑った
「わかりました。お聞きいたします」
アリスは来客用の椅子に座った。光青は壁にもたれかかって話を聞くことにした。
アリスは黙って洗切が話し始めるのを待った。しばしの沈黙のあと窓の外の遠くを見ながら洗切は話し始めた。
「ありがとう。いま、記憶が凄く曖昧なんだ。思い出そうとしたら頭痛がするし吐き気もする。
かろうじて覚えてるのはなにか恐ろしいことをしていた、それなのになにかとても清清しい、そんな不思議な感覚だけなんだ。
でも詳しいことは全然思い出せない。だけどさっき君たちが入ってきて少し思い出せた気がするんだ。それが何かもはっきりとは思い出せないんだけど……それで君たちはなにか知っているんじゃないかなと思って」
アリスは少しの間考えてから言った。
「……残念ながらわたしたちからお話できるようなことはありません」
「そんな……」
洗切は失望したような顔をした。しかし、それは一瞬ですぐに自分を嘲るように笑った。
「……いや、そうか、そうだよね。わざわざありがとう」
「それでは」
アリスは珍しくぎこちない笑顔で言った。
後味が悪い。そう感じた光青は
「洗切本当に知りたいか? お前の身になにが起きたのか?」
と気がついたら言っていた。
「時重君! なにを言い出すんですか?」
アリスが驚くのも無理はない。他の誰よりも発言した光青自身が驚いているのだから。
光青は大きく深呼吸をして自身の考えを整理する。やはり、理由はひとつだ。後味が悪い。それだけだ。
「知る権利はあるだろ? いわば洗切も被害者なんだから」
「知りたい。僕は知りたい。いや知るべきだと思う」
洗切はこれまでとは違いはっきりとした声で言った。
「ほら、彼もこう言っていることだし」
「……好きにしてください」
アリスは諦めたといった顔で言った。
「じゃあ遠慮なく。さて、俺が今から話す馬鹿げた話を信じるも信じないもお前の自由だ。覚悟して聞けよ」
光青は軽い前置きを入れた。洗切は今度はしっかりと光青たちの方を向いていた。
そして光青は話し始めた。とある天使のせいで洗切に能力が備わったということ。その時に悪の心も植えつけられたこと。
結果、その能力で洗切がなにをしでかしたのかを。話している途中で洗切の顔は真っ青になっていたが光青は気にせず話を続けた。
「俺からの話はこれで終わり。なにか質問は?」
光青の言葉はすでに洗切の耳には入っていなかった。
「ぼ、僕はなんてことを、なんてことをしてしまったんだ……」
洗切は大げさに頭を抱えた。アリスはそんな洗切を悲しそうな表情で見つめていた。
「思い出したか?」
「そんな……僕は……僕は……」
「洗切さん気になさらないで。悪いのは洗切さんではないのですから」
アリスは慰めの声をかけた。しかし、それは洗切の心には届かない。
「でも、僕は間違いなくこの手で…………僕は、僕は……」
やがて洗切は聞き取れないほど小さな声で何度も何かを呟き続けた。
「良い悪夢だったろ?」
光青はさらりと言った。
「なっ、時重君! なんてことを!」
光青の無責任な発言にアリスは怒ったが意外にも洗切は違った。
「良い悪夢…………か」
そうこぼして笑った。思わず光青も笑った。
「だろ。じゃあ俺たちは行くよ。その辺であったら気軽に声掛けてくれよ。あっ、今の話は誰にも言うなよ」
「大丈夫だよ。こんな話し誰にもできないし信じてもらえないから。……ありがとう」
光青は洗切の方を見ないでに手をひらひらと振って病室を出た。アリスも一度会釈をしてから素早く退室した。
「わかりません」
廊下を歩きながら真剣な表情でアリスは呟いた。
「なにが?」
「なぜ洗切さんは良い悪夢って言われて嬉しそうにしていたのでしょう。あれは時重君の失言としか思えません」
「だって事実だろ?」
「事実?」
「ああ。堕天使だかのせいで悪の種が芽になって花になってもそれはもともと洗切のもの。洗切の欲望。
だから洗切もどこか清清しいって言ってたんだろ? まあ、正気に戻った今は罪悪感のほうが強いから悪いことだとちゃんと認識している。そんな洗切の心情を一番的確に示すのが……」
「良い悪夢ですか?」
「そういうことなんじゃないか?」
「あまり納得いきません」
アリスはまだ苦い表情のままであった。
「まあ、アリスから見たらそうだろうな」
光青はのんきに呟いた
そのままふたりは病院の外に出た。梅雨の空はやはり暗くいつ雨が降ってもおかしくな雰囲気であった。
すべてが終わった開放感からか、光青は大きく伸びをした。
「それにしても、アリスともこれでお別れだな」
「はい?」
アリスは首を傾げた。
「はい? じゃないだろ。ミスチェフからの頼まれ事も終わったからお別れだろ? いや、本当にいろいろとありがとうな。アリスのお陰で三郎の腕が治るようなもんだし」
「いえ、そんなわたしはなにも。それよりも……」
「いいって、謙遜するなよ。それになんだかんだで楽しかったよ。街で見かけたら声掛けてくれよ。
って、アリスは俺が普段いそうなところにはいないか。言っちゃえば別世界の人間だもんな」
光青の冗談にアリスは反応せず俯いていた。
「お別れですか……」
「ん? どうした?」
アリスが思いのほか暗い顔をするので光青は不安になったが、
「いえ、なんでもありませんわ。そうですねお別れですね……家までお送りしますよ」
と笑顔で言った。しかし、その笑顔はいつもとどこか違った。どこかで見たような気がする笑顔だが光青の記憶力を持ってしても思い出せなかった。
「いや、いいよ。のんびり歩いて帰るよ。歩くの好きだし」
「そうですか……あの?」
「ん?」
「いえ、その……短い間でしたが本当にありがとうございました」
「それはこっちの台詞だよ。じゃあ、もう行くわ。元気でな」
「時重君も」
アリスの笑顔に見送られ光青は病院をあとにした。