4.逃げ切れなかった平穏
鐘が鳴り響いた。と同時に幾人もの生徒たちが歓喜の雄叫びを上げた。そう、テストが全て終わったのである。
「はい、静かに。一番後ろの人は答案を集めて来て」
先生の声で最後列の生徒たちがほぼ同時に立ち上がる。光青もその中のひとりだ。手早く答案を回収して先生に渡しすぐに席に戻る。そして、またいつものようにぼーっとしながら雲を眺めた。
他の生徒が嬉々の顔を浮かべているのに光青はひとり違った。光青にはテストから解放された喜びなどない。むしろ光青はテストの日が好きだ。間違いのないよう言っておくが決してテストは好きではない、テストの日が好きだ。
なぜかといえば、まず学校が午前中に終わる。さらにテストを10分で終わらせれば残りの時間は全力でぼーっとすることができる。テスト自体は人並みはずれた記憶を持つ光青から見ればすこぶる簡単だ。要するにテストの日は物凄く楽なのだ。そんな素晴らしい日々は今日で終わり明日からまた通常授業が始まるのだ。嘆くのは当然だ。
「光青、このあと遊びに行こうぜ。今日まで部活休みなんだ」
他の生徒と同様に、いや、それ以上に解放された喜びに浸る三郎がそれは嬉しそうな顔で言った。
「悪いけどパス」
「なんだよ。せっかく部活組みが休みなんだから付き合えよ。勉強教えてくれた礼もあるし、なんか奢る
ぜ」
「本当に悪いんだけどちょっと体調が悪いんだ」
「おいおい、そんなんでテストは大丈夫だったのか? って俺に心配されたくないな。あー、このままテストが返ってこなかったらいいんだけどな」
「それはそれで嫌じゃないか? 結果ぐらい知りたいだろ?」
「悪い結果なんて聞きたくないだろ」
「せっかく勉強教えたのにそんなもんかよ」
「教えてもらってなかったら今日遊びに行く元気も残ってなかったよ」
「なんとかお役には立てたってことだな。でも残念ながらこっちがその元気が残ってないんだわ。悪いが今日はパス。また誘ってくれよ」
光青はそう言い残してそそくさと教室を出た。そんな光青を三郎は不思議そうな顔で見ていた。
先日、梅雨入りが発表されて以来毎日のように雨が降っていた。今日も雨だった。
あれから一週間がたっていた。ミスチェフは何事もなかったかのように時重家から消えた。家族は存在すら覚えていない。天界の力という奴だろう。
――あれからアリスは無事に犯人を捕まえられたのだろうか?
自分から投げ出したことでも結果はやはり気になるものだ。
光青はスマートフォンの電話帳検索を開く。そこにはしっかりと千家アリスの名前が残っていた。連絡を取ってみようかと何度か考えたが結局一度もしていない。当然だ。どんな精神していたらそんな格好の悪いことができるのだろうか。そう結論づけているのになぜか気がつくと連絡を取ろうかと考えている自分がいた。その度に光青は女々しいやつだと自分で自分が嫌になった。
家に着くと光青はすぐに自分の部屋に行きベッドで横になった。そして。光青はゆっくりと目を瞑った。
――なにかがおかしい。俺はなぜこんなにもやもやしているのだろうか。自分の選択に不満があるのだろうか。そんなはずはない。
光青はどこからか湧き上がる己自信の疑問を強く否定する。
――俺は正しい選択をしたんだ。俺の平穏な日々のために。
そう何度も言い聞かした。それでも、アリスの失望した顔は決して離れなかった。あの時感じた胸の痛みは日増しに強くなった。
――気のせいだ。この胸の痛みは気のせいだ。眠れば忘れる。
心の中でそう何度か呟き今日も光青は眠りに就いた。
そして光青は今日も夢を見た。
ミスチェフが光青を罵る。なにを言っているかははっきりとはわからない。ただ逃げ出した光青を罵っている。それだけはわかる。そしていつも光青はなにか言い返そうとするが言葉が出てこない。やっとのことで声が出るそう思ったときにアリスが現れてミスチェフになにか云う。
これまたなにをいっているのかははっきりとはわからない。ただアリスが光青をフォローしていることはよくわかる。それが一層光青を惨めにさせる。本当はアリスもミスチェフと同じようなこと思っているはずなのに。最後にアリスが光青を見て笑いかける。現実で見たものとは違う。どこかさみしげな笑顔。
そして、そこでいつも必ず光青は目が覚める。
光青を浅い眠りから呼び覚ましたのはスマートフォンの着信音であった。光青は素早くスマートフォンに手を伸ばし誰からの電話なのか確認した。電話は母親からであった。光青はがっくりしながら電話に出た。
「はいもしもし? なんか用?」
「もしもし? 光青? 今どこ?」
母親の声はどこか慌てた様子であった。
「どこって家だよ」
「家? そうよかった」
「よかったって、なんかあったの?」
「いや、今ね、あんたの学校の生徒が病院に運ばれたって聞いたからもしかしてって心配になって電話したのよ」
「俺はぴんぴんしてるよ。なに? 事故?」
「喧嘩だって聞いたんだけひどいみたいなのよ」
「ひどいってどのくらい?」
「そのまま手術を始めるくらい」
「喧嘩で?」
「そう喧嘩で」
光青は知り合いの顔を順に思い浮かべた。喧嘩をするような知り合いなどひとりもいない。そもそも光青の学校は光青が気に入るくらい平和なのだ。
「なんかの間違いじゃないのか?」
「いや、間違いないわよ。新聞社の情報力をなめないで」
そうなのである。光青の母親は新聞記者なのである。そのためこの情報は本当なのだろう。いったいどこのどいつが喧嘩など愚かなことをしたのだろうか。少し興味がわいたが、明日学校に行けばすぐにわかるだろうと思うと光青の興味は急激に薄れていった。
「とりあえず俺は無事だよ」
「そうよかった。今日も遅くなると思うからよろしく」
「了解。じゃあ、切るよ」
光青は電話を切り、握り締めているスマートフォンを見つめた。
――俺はなにを期待していたのだろうか?
光青は来る筈ないとわかっている電話を待っている自分が嫌になった。
「お兄ちゃんご飯できたよ」
下の階から妹の声がした。
「今行く」
光青はスマートフォンを無造作にベッドに投げて部屋を出た。
次の日、学校は予想していたとおりざわついていた。噂というものは不思議だ。あっという間に広まり、始まりがどこかわからなくなる。そして、必ずと言っていいほどデマが混ざる。
「聞いた聞いた? 昨日うちの学校の生徒が救急車で運ばれたんだって」
「聞いた聞いた。喧嘩でしょ?」
廊下でだべる二人の女子生徒も昨日の事件について喋っているようだった。
「らしいよ。なんでも腕が切り落とされたっていうのよ」
「嘘? 本当に? 恐ーい」
ほら、やっぱりだ。喧嘩で腕が切り落とされるなんいうのはデマに違いない。どんな喧嘩の仕方をしたらそんなことになるいというのか。日本刀でももって戦ったというならありえるかもしれないが、このご時世そんなことがあってたまるか。光青は心の中で文句を言った。
他の生徒たちも似たり寄ったりのことを話していた。理解しがたいのはどこか楽しげに話しているという点だ。所詮は他人事なのだ。同じ学校の生徒でも自分の知らない人間だったら関係ないのだ。TVに流れるニュースと大差はない。現場の悲惨さも知らずに話の種にして面白おかしくする。他人の不幸を見て己の幸せを自覚する。人間なんてそんなものだ。もちろん光青もそんな人間のひとりだが、他人の不幸を囃し立てるまではしない。そのかわり同情するようなこともない。
光青は耳に入ってくる偽者と思われる情報を聞き流しながら歩を進めた。妙に活気立つ廊下を抜けて教室の扉を開けると空気は一変した。あまりに重苦しい空気。いつもと違うのは誰の眼にも明らかであった。
原因はすぐにわかった。このクラスの元気の核である五人がそろいもそろって負のオーラを纏っているからだ。顔を見てみると目は腫れ、濃い隈ができている。だが、光青がそれ以上に気になったのは自分の前の席の男がまだ来ていないということだ。
光青は他のクラスメイトに身振り手振りで「こいつらどうしたの?」と聞いた。光青のジェスチャーはうまく伝わったらしく、すぐに「さあ? わからない」と返事のジェスチャーが返ってきた。クラスメイトたちはこの異常事態の原因をまだ解明できてないようであった。
クラスメイトからまたジェスチャーが送られてきた。内容は「お前が聞いてくれ」だ。光青は嫌な顔をしてみせたが向こうは両手を合わせて「お願い、頼む」とやってくる。周囲を見ると他のやつらまで同じポーズをしている。嫌な役を仰せつかった。光青は仕方なく喪に服すような5人のうちのひとり、女子バレー部の次期キャプテンの中林に話しかけることにした。
「おはよう。どうした? 随分元気ないみたいだけど」
「あっ、時重君……あのね……」
中林は今にも泣き出しそうな顔をした。他のクラスメイトたちが微かにざわつく。
「ど、どうしたんだ?」
予想を上回る事態に光青は緊張を隠せなかった。
「あのね……三郎が、三郎が」
中林はそれ以上言葉を続けることはできず泣き出してしまった。
「三郎がどうしたんだ!?」
光青は強い口調で聞き返した。しかし、中林は泣きつづけるだけで答えを返してくれない。
「喧嘩に巻き込まれて病院に運ばれたんだ」
返事は別のところから返ってきた。サッカー部の香山だ。香山は話を続けた。
「もう噂になってるだろ? 昨日、病院に運ばれたのは三郎だよ」
教室内は騒然とした。三郎がいないことから本当はみんなその可能性には気づいていたが、三郎をよく知るクラスメイトだからこそ三郎にかぎってそれはないと思っていたのだ。
「それで三郎は?」
「わからない」
「わからないって……なんでだよ? 一緒にいたんだろ?」
香山は光青の責めるような言い方が気に障ったのか充血した目で光青を睨んだ。
「いたさ! その後病院にもすぐに行ったさ! でも途中で追い返されたからわからないんだよ」
「追い返されたって……」
「俺たちがいる間には手術が終わらなかったんだよ!」
教室はしーんと静まり返った。かすかに聞こえるのは中林の鼻をすする音であった。
香山のお薄から事態の深刻さを察知したクラスメイトたちはざわつくこともやめた。
「そんなに酷い怪我だったのか」
光青だけがさらに踏み込む。
「腕……」
香山の声は小さく腕という言葉しか聞き取れなかった。光青は廊下でのデマだと思っていた話を思い出す。そんな馬鹿なとも思ったが聞くしかない。
「腕が?」
光青は聞き返した。
それでも香山は何も言わなかった。仕方なく光青はすべてを自分で云う。
「まさか本当に腕が切り落とされたのか?」
教室のどこかから「ひっ」と短い悲鳴が上がる。
「多分」
「多分? どういうことだ?」
「俺にもなにがおきたかわかんないんだよ! 突然三郎の腕が吹っ飛んだんだよ!もういいだろ!」
香山はヒステリックになって叫んだ。
――なにが起きたかわからない? 突然腕が吹っ飛んだ?
香山の言葉に光青は胸の鼓動は急に激しくなった。
――香山の言っていることが真実ならば三郎の腕を切り落としたのはきっと……。
チャイムが鳴り響いた。この鐘が鳴るまでに教室にいなければ遅刻だ。だが、光青はその鐘と同時に教室を出た。
廊下でよれよれのスーツを着こなす担任とすれ違う。もちろん光青は呼び止められた。
「おい時重どこに行く?」
「病院です」
担任は渋い顔をしたが、「わかった。行ってこい」と言った。光青とは一年の時からの付き合いだが本当に融通が利く教師である。
「ありがとうございます」
光青はそう言って足早に歩き始めた。
「そういや」担任が思い出したように言う。「テストの結果一位らしいぞ」
興味のない情報だ。
「それと、中島も赤点なしだ。伝えといてくれ」
光青はぴたりと足を止めた。中島は三郎の苗字だ。光青は振り向きもせず手をひらひらと振っておいた。
「可愛げのないやつだな」
担任の文句が聞こえた。
光青は少しほっとした。担任がああ言うからには三郎はとりあえず生きているらしい。ただ、それは最悪の事態を免れたというだけでしかない。
自分にできることはなにもないかもしれない。そうとはわかっていても光青は病院へと急いだ。
光青は病室の前で一度呼吸を整え、ワイシャツの袖でにじむ汗を拭う。急いできたなどあの天然パーマには決して悟られたくない。そんなことがばれたら間違いなく三郎は調子に乗るだろう。
扉をノックするとすぐに返事が返ってきた。扉を開けると若い女性の看護師にデレデレする三郎がいた。
「タイミング悪かったか?」
「おー、光青! いやいや、とんでもない。……本音を言えばもう少し遅く来てほしかった」
「はい。これでおしまい。お友達も来たみたいだからわたしは行くけどなんかあったらすぐにナースコールするのよ」
「はい。なにもなくてもします」
看護師は三郎のうざいジョークに笑顔で答えると食器を持って出て行った。なるほど、プロである。
光青はベッド横にあった丸椅引っ張り出して座った。三郎の腕は両方ともついていた。しかし、右腕に包帯がぐるぐるに巻かれていてさっきからぴくりとも動いていなかった。
「あるじゃん腕」
「ん? ああ、生えてきたんだ」
「あー、どうりでお前ぬるぬるしてると思ったらそういうことか」
「俺はトカゲか! って、お前がすべき突込みをなんで俺がしてんだよ」
光青は鼻でくすりと笑った。思いのほか三郎は元気であった。少なくてもジョークはいえるくらいに。
「学校は?」
「学年一位は免除だってよ」
普通なら光青はこんな自慢はしないが三郎は別だ。
「もうテストの結果出たのか?」
「ああ。お前も赤点なしだってよ」
「じゃあ俺も免除だな」
「そうなったら全員免除じゃねえか」
二人は声をだして笑った。そして妙な間ができた。
三郎はやはり無理している。空元気だ。光青はそう感じた。腕は確かにつているが香山の話が本当ならばもっと深刻なはずだ。詳しく聞きたいが光青はそのタイミングを見失っていた。
「最近の医療って凄いよな」
三郎が沈黙を破って切り出した。
「感心したか?」
「感心した。まさか、綺麗にくっつけるとは恐れ入ったよ」
光青は安堵のため息をつく。そんな光青を見て三郎は少し寂しそうな顔をした。
「でもよ、さすがに元通りとはいかないらしいわ」
光青の心臓はドクンと大きい音を立てた。握る拳が汗でじんわりとする。
「全然動かなくてよ。リハビリが必要らしい。箸をもてるようになるのもいつになるかわかんないらしい。おかげさまで可愛い看護婦さんにごはん食べさせてもらえるんだけどな」
三郎は無理に笑った。なのに光青はうまく笑えなかった。
「頼むからそんな顔するなよ。いつもみたいに皮肉たっぷりのジョークでも言ってくれよ」
「ああ悪い」
そう言われても光青はなにも気の利いたことはいえなかった。
「おいおい、大丈夫かよ。らしくないな、自慢の天パを切らなくてすんだなとかあるだろ」
「ああそうだな……よかったな坊主は絶対にいやだっていってたもんな」
それが光青の精一杯だった。
「そうそう、その調子」
そう言いながら三郎の目からは涙がこぼれていた。
「あれ? おかしいな。そんなつもりはなかったんだけどな、はは」
それでも三郎は笑ったが笑みはすぐに消えた。
「どうしてこんなことになったんだろうな?」
三郎はうつむきながら言った。体はわなわなと震えていた。三郎の悔しさが痛いほど伝わってきた。それでも光青は何も言えず血がにじむほど強く唇を噛み締めることしかできなかった。
病室は静まり返った。梅雨にしては珍しく太陽が出ているはずなのに病室は薄暗かった。
「なにがあったんだ?」
光青がぽつりと言った。少し間を置いて三郎が答える。
「わからない」
「わからないって……」
「本当なんだよ。気がついたら……もう」
三郎は淡々と言った。
「もっと詳しく話してくれないか?」
思い出したくもないのだろう。三郎は嫌な顔をしたが、それでも光青は視線をはずさず懇願した。これを聞かなきゃここに来た目的を果たせない。
光青の熱意が伝わったのか三郎は窓の外を見て軽くため息を吐いてから話し始めた。
「昨日、あのあと6人でゲーセンに遊びに行ったんだけどよ、そこで喧嘩というかいじめ、いや、かつあげかな? その類に出くわしたんだ。烏野高校のやつら3人だったな、黒いパーカーの男を取り囲んで嫌な雰囲気だった」
烏野高校はこの辺では有名な不良校だ。他校のやつらは極力関わらないようにしている。もちろん三郎も関わらないようにしているはずであった。
「それで俺は止めようと思ったんだけど、みんながやめとけって言うから結局なにもしなかったんだ。でも気になるから適当にゲームしながらチラチラ見てたんだ。
そしたらよ、いきなり烏野校のひとりが悲鳴をあげたかと思ったら、肩から血が流れててよ、見る見るうちに白いワイシャツが赤くなってったんだよ。何が起きたかわかんなかったけど黒いパーカーのやつが笑ってたからさ、あいつがなにかしたと思って俺とっさに近寄って黒パーカーの肩に手をかけたんだ。
そいつが振り返ったと思ったら腕にやけどみたいな痛みが走ってよ、見たら俺の腕が取れててさ……もうわけわかんねえよ」
三郎はうずくまるようにして泣きはじめた。それを見て光青も泣きそうになったがぐっとこらえた。
三郎の話を聞いて光青は確信を得た。間違いなく犯人は「天使の罪」だ。もう二度と関わることのないと思っていたワードだ。そうでなければやられた本人も周囲で見てた奴までがなにが起きたかわからないなんてことはありえないはずだ。恐らくは銀行を襲った奴と同じ人物。
「悪かったな無理に聞いて……そろそろ学校戻るわ。また来るよ」
光青は下手くそな笑顔で云った。
「……ああ、次くる時はグラビアアイドルの写真集でも持ってきてくれよ。凄い胸がでかい娘の」
三郎は涙を拭いて精一杯のジョークを云った。
「考えとく」
そう云って光青は病室を出た。そして、気がつけば壁をドンッと殴っていた。
――俺があのとき犯人探しをやめてなければ……。
強い後悔の念が押し寄せてきた。光青は己のふがいなさに苛立ち何度も壁を叩いた。
「物にあたるのはよくありませんよ」
後ろから声がした。忘れるはずがない透き通った声。心のどこかでずっと聞きたいと願っていた声。
振り返るとアリスが立っていた。そして夢の中とは違う以前と変わらぬ笑顔をかけてくれた。
「アリス……なんでここに?」
光青は理由がわかっているのに聞いてしまった。
「調査です。……御友人でしたか?」
「ああ」
会話は一度途切れた。嫌な沈黙であった。なにを待っているのか、アリスは光青をじっと見つめていた。光青はすぐに目を逸らした。
アリスが何を求めているのかはわからなかったが光青は自分が何をすべきかはわかっていた。今からでも「天使の罪」を探すべきだということを。だが光青は臆病な人間だ。だから一度は逃げ出したのだ。そう簡単に決心などできなかった。
光青はもう一度アリスを見た。アリスはまだ真っ直ぐ光青を見つめいていた。なんだかアリスは光青の背中を押そうとしているような気がしてきた。おかげで光青の意は決した。
「アリス、ミスチェフはどこだ?」
「ごめんなさい。わかりません」
「わたしならここにいるよ」
廊下の奥から声がした。そこには憎たらしい笑みを浮かべたミスチェフがいた。久しぶりに聞くミスチェフの声は異常なまでに癇に障った。
ミスチェフは赤いハイヒールをコツコツと音を立てゆっくり近づいてきた。
「どうした少年? そんなに感情を露にして? 少年は他人が傷ついても自分が幸せなら関係ないっていう冷酷な人間じゃなかったのか?」
光青はミスチェフの言葉に我を忘れミスチェフに飛び掛り胸倉を掴んだ。今の光青はミスチェフの挑発を無視することができないほど高ぶっていた。
「いいか糞天使! 俺は知らないところで知らないやつが傷ついても涙を流せるほど熱い人間ではないが、目の前で友人が傷ついてるのに冷静でいられるほど冷たい人間でもない! 俺の幸せっていいうのはな俺の周囲も幸せだから成り立つんだよ!」
熱くなった光青の手をミスチェフは冷たく振り払った。
「わたしに当たるなよ。わたしはなにも悪くないんだから」
ミスチェフは子供のように云った。それは一層光青を怒らせた。
「お前が蒔いた種だろうが!」
「花を咲かせたのはわたしじゃない」
その言葉に光青は完全にぶち切れミスチェフを殴ろうとした。
「やめてください時重君!」
アリスの言葉で意外にもあっさりと光青の拳は停まった。行き場の失った拳を光青はゆっくりと下ろした。
「こんなことをするためにわたしを呼んだんじゃないだろ?」
一切動じずミスチェフが言う。
――冷酷なのは俺ではない。こいつだ。
光青は強くミスチェフを睨みつけた。
「『天使の罪』は俺が捕まえてやるよ」
「ほう。それはありがたい。これで神の怒りも収まる」
ありがたいとは言ってるがミスチェフから感謝の気持ちは全く感じられなかった。
別にされたくもないが。
「ただし……」
「ただし?」
「交換条件だ。『天使の罪』を見つけ出し能力を消すことに成功したら、代わりに三郎の腕を元通りに治せ」
「元通りか……うーん、どうしようかな」
ミスチェフは人差し指を立てて唇にもっていった。光青の反応を見て楽しんでいるのだろう。
「できるのか!? できないのか!? はっきりしろ!」
光青は病院中に響いているのではないかと思うくらいの大きな声で言った。そんな光青を嘲るようにミスチェフは鼻で笑った。
「いいよ。約束しよう」
「絶対だな」
「それくらいは守るよ。安心して」
そのまま暫くの間光青とミスチェフは睨みあう様に対峙した。やがて、ミスチェフは不愉快な笑みを浮かべた。
「まあ、頑張ってよ。いい結果報告お待ちしています」
そう言ってミスチェフは霧がかかるようにして消えた。光青は苛立ちを隠せず舌打ちをした。
「舌打ちは周囲の方を不快にさせるのでやめたほうがよろしいですわ」
アリスはいつもと変わらぬ穏やかな口調で言った。おかげでこの場の空気が途端に軽くなったように感じた。
「ああ、ごめん」
「いえいえ。では行きましょうか」
「行くってどこに?」
「現場です」
アリスはスタスタと歩き出した、光青は戸惑いながらもあとをついて行った。