2.お嬢様に出会いて世界を知る
ミスチェフがどこかに電話をかけて十分後。ピンポーンと家のチャイムがなった。その数秒後ドタドタと階段を駆け上がる音が聞こえてきた。そして、猛烈な勢いで光青の部屋のドアが開かれた。息を切らした妹が好機の目で光青を見た。
「お兄ちゃん! 何したの?」
「……なにもしてないけど」
「じゃあ、なんであんな人がお兄ちゃんを訪ねて来たの」
「誰が来たんだ?」
「黒いスーツ着た黒いサングラスをした人が黒い大きな車でやってきたの!」
「……黒人ではないんだな?」
「うん。黒人ではない」
ミスチェフは光青たち兄妹のやり取りを見てクスクスと笑っていた。
「ごめんよ、あかりちゃん。わたしが呼んだの。ちょっとお兄ちゃん借りるね」
ミスチェフは光青の腕を引っ張り、自慢であろう巨乳に寄せ付けながら部屋を出た。妹は光青の右手がしっかりとミスチェフの胸を捕らえてるのを見て近所の噂好きのおばさんと同じような目で光青を見ていた。確実になにか誤解されているような気がしたが弁解するのも億劫だった光青は何も言わなかった。結果、真顔で美女に引きずられる男という奇妙な絵ができあがっていた。
玄関に行くと妹の証言どおり黒いスーツに黒いサングラスをしたガチムチな男が玄関に立っていた。
男はミスチェフを見ると丁寧にお辞儀をした。
「ミスチェフ様、時重光青様。お待たせいたしました。さあ、お車にお乗りください。お嬢様がお待ちです」
わけもわからぬまま光青は男にエスコートされ妹が言っていた黒く大きな車、すなわちベンツに乗った。
「おい、これからどこに連れてかれるんだ?」
光青はミスチェフに小声で問いただす。
「ダンディなお兄さんがお嬢さまのところって言ったでしょ。人の話はちゃんと聞かなきゃダメだぞ」
ミスチェフは可愛らしく言いながら光青を小突いた。茶番につき合わされた光青は軽蔑の目で見たがミスチェフは完全にスルーした。
「そのお嬢様が『神に選ばれし人間』なのか?」
「そうだよ。まあ、会えば神に選ばれたってどういうことかわかるからお楽しみに」
車が動き出すとミスチェフは上機嫌に鼻歌で歌い始めた。その曲は光青の知らない曲であった。天界の曲なのかもしれない。光青はミスチェフに他にいくつか問いただしたいことがあったのだがミスチェフの方はすで話に応じる気はなかった。仕方なく光青はひたすら外の景色を眺めた。
十分後、車は大きな門の前に来た。門の役割といえば外的の侵入を防ぐのが最大の仕事であろうがこの門はちょっと違う。力を誇示しているとでも言うべきか、門のあらゆるところに宝石が散りばめられ輝いていた。
門の左右には金色に光るライオンの像が大きな口を開けてこちらを睨んでいた。間もなく門が開かれ車はゆっくり動き出した。門から向こうは完全に異世界だった。
メルヘンの世界だ、と光青は感じた。右を見ても左を見ても綺麗なお花畑がどこまでも広がっていた。そして正面にはお姫様が住むような洋風のお城が聳え立っていた。
絶句する光青にミスチェフが言う。
「わかった? これが神に選ばれた人間よ」
光青はしきりに何度も頷いた。
光青が自分は神に選ばれた人間だと思っていたことを笑い飛ばしたミスチェフの気持ちが光青にも痛いほどわかった。
車から降りると都会では絶対に出会わない花の香りが広がっていた。
男に案内され城の中に入ると光青の部屋よりも数倍大きな玄関が待ち受けていた。その先には十名以上の黒スーツとメイドが丁寧に頭を下げて待機していた。
光青は変に緊張しながら靴を脱ぎ綺麗に置いた。この玄関にはあまりに相応しくない使い古された自分のスニーカーを見て光青は申し訳なくなった。それに対しミスチェフは高級感溢れるこの空間にも臆することなく靴を脱ぎ散らかしていた。すかさずメイドの一人が綺麗に並べ直した。
赤い絨毯が敷かれた学校の廊下よりも遥かに長い廊下を進み二十畳近くある客間に案内され、二人は黒い高級感漂うソファーに座って待つように云われた。
「間もなくお嬢様が参りますのでこちらで少々お待ちください。お飲み物は何にいたしましょうか」
「わたしは赤ワインで」
ミスチェフは迷いもなく答えた。
「何年物にいたしましょうか?」
「任せるよ」
「かしこまりました。時重様はどういたしましょうか」
「お茶でお願いします」
「かしこまりました」
そう言うとメイドは音も立てずに部屋から出て行った。
光青は部屋をゆっくりと見渡した。部屋の四つ角には何があっても触れてはいけないだろう壺があり、壁には倫理の教科書に出ていた画家の絵が飾られていた。天井を見上げるとジャッキー・チェンが飛び移りそうなシャンデリアが部屋を照らしていた。
「ミスチェフ。ここは本当に日本なのか?」
「当たり前じゃない。なに言ってんの」
「頼むからこれから現れるというお嬢様の情報をくれ。心の準備ぐらいさせろ」
「仕方ないなー。これから会うのは日本最大の財閥、千家財閥の一人娘よ。世界でも十本の指に入る大金持ちね。容姿はこれから会うんだから省くわね。学力面で言えば日本で義務教育を終えた後にアメリカの有名大学に飛び級入学。一年で課程を修了して大学を卒業。
今は両親の意向で日本の超お嬢様校で有名なセイントアリア女学院に通ってるわ。とても正義感が強い彼女は幼い頃から警察官になるのが夢だった。
で、大学在学中にインターポールにアプローチ。結果、高校卒業後にインターポールに入ることが決定したわ。えーっと、他には運動神経でいえば、中学まで新体操をやっていたわ。中学卒業後に日本代表の話が来たけど断ったわ。うーんと、他には……」
「いや、もういい」
正に神に選ばれし人間だ。天は二物を与えずというが完全なガセであった。残された項目は容姿だけだが、光青はなんとなく結果は予想できた。
そのとき、ノックが響いた。光青は立ち上がり背筋を正した。ガチガチに緊張しているのは明らかであった。
扉が開かれると光青の予想通り、いや、それ以上の美女が現れた。黒い艶やかな髪は腰まで伸び大人っぽさを演出している。対照的に横一線に揃えられた前髪、俗に言うぱっつんは彼女を幼く見せた。服装はありきたりな白のワンピースだがこれほどまでに似合う女性は他にはいないだろう。
彼女は光青と目が合うとぺこりと一礼した。光青は普段では絶対にしないような仰々しいお辞儀を返した。それを見た彼女はおかしそうに笑った。今度こそ天使が舞い降りた。光青は本気でそう思った。
彼女は光青たちの向かいのソファーに腰掛けた。
「あのー、お座りになってください」
言われて光青はいまだに自分がなぜか立ち上がってることに気づく。慌てて光青は座ったが視線をどこに留めればよいかわからずキョロキョロしてしまった。
再びノックが響く。先ほどのメイドが飲み物を運んできた。メイドは飲み物をテーブルに並べるとお嬢様の右斜め後ろで直立不動を保った。
お嬢様は運ばれてきた紅茶を一度口に運んでから
「内密の話なので退室願います」
とメイドに告げた。メイドは少し驚いた顔をみせたがすぐに笑顔を作り黙って部屋を出て行った。
お嬢様は改めて真っ直ぐ光青を見た。光青は彼女のくりくりした大きな目は一点の穢れもない少女特有のものだと感じずにはいられなかった。と、同時にミスチェフの青い瞳がどれだけ穢れているかも理解した。
「はじめまして。千家アリスです。ふつつかものですがよろしくおねがいします」
アリスはニコッと笑った。そのあまりに素敵な笑顔に光青は魅入られてしまった。ミスチェフに肘で小突かれて光青は我に帰った。
「は、はじめまして。時重光青です。こちらこそよろしくお願いします」
言い終えて光青は首を傾げた。
――何に対してよろしくなのだろうか?
アリスも光青を真似てか、首を傾げていた。
「どうかなさいましたか?」
「いやー、あのー、よろしくってなにに対してですか?」
「これから一緒に『天使の罪』を探すことに対してですわ」
「そうなのか?」
光青はミスチェフに問う。
「そうだよ。何しに来たと思ってたの?」
ミスチェフは赤ワインに口をつけながら言う。
言われてみれば確かにミスチェフの言うとおりなのだが、どうも光青にはこの完全究極体お嬢様と平凡に生きたいと願う自分が共に行動するのということはうまく想像できなかった。
「あのー、嫌ですか?」
心配そうな顔でアリスがそんなことを言うので光青は慌てた。
「いえ、そんなことは全くもってございません。ただこの天使が色々と説明不足で状況をまだ完全には把握できてないだけです」
「人のせいにしないでよ」
「紛れもない事実だろ。もう少しちゃんと説明しろよ」
「しゃーないなー。でも、これ以上の説明は不要じゃない? これから『神に選ばれし人間』のアリスと『神の手違い』の光青の二人にはこの街にいるはずの『天使の罪』を見つけ出して能力を消してもらいます。これでいい?」
「いいわけないだろ。能力を消すってどうやるんだよ」
「あー、忘れてた。はい、これ」
ミスチェフは光青とアリスに縦13cm、横8cmの長方形型の電子機器を渡した。要するに。
「スマートフォンだな」。
「ですね」
「ブッブー、はずれ。これは天界の電話ヘヴンズフォンでした」
得意そうな顔をするミスチェフを光青は面倒なやつだと睨みつけた。一方でアリスは本気で感心していた。
「で、どうやって使うんだ?」
「えーっと、ウイルス駆除っていうアプリを起動して」
アプリまでそのままなのか。呆れながらも光青は言われたとおりアプリを起動する。するとスマ……ヘヴンズフォンの上部から黒いコードが現れた。
「このコードと本体に繋いでから駆除を開始するだけ。簡単でしょ?」
「本体って?」
「『天使の罪』よ」
光青は黙ってミスチェフを非難した。光青が知る限り機械と人間をコードで繋ぐことなどできないのだから当たり前だ。
「どうやって繋ぐのですか?」
アリスによる助け舟が出された。
「おでこにくいっと刺せばOK。そしたら能力も、能力に関する記憶も消える……はず」
刺せばOKと言われても困る。おでこにものが刺さって無事な人間などいるはずがない。仕方ないので、光青は天界の力でなんとかなってしまうのだろうと考えた。そしてはずではなく確実にしていただきたいとも思った。
自己解決する光青をアリスは困り顔で見ていた。光青は首を横に振って「諦めろ」と意志を伝えた。そんな光青を見てアリスはクスッと笑った。光青の意図が伝わったかは不明であったが、
「わかりました。額にこちらのプラグを差し込めばよろしいのですね?」
といったので光青の意志はしっかりと伝わっていたことがはっきりした。
「そういうこと。他に質問は?」
「能力者はどうやって見つけるんだ?」
「さあ」
「ではこの後わたしたちは何をすればよろしいのですか?」
「さあ」
光青とアリスはまた顔を見合わせた。
「どうしましょうか?」
「どうしようもないんじゃないかな。手掛かりがなにもないんじゃ……千家さんひとつ聞いていいかな?」
「アリスと呼んでください」
アリスはすかさず言った。光青は少し戸惑ったが、
「アリスさん……」
と言い直して話を続けようとしたが、
「アリスです!」
とまたアリスが少しむきになって言った。光青はいよいよわけがわからぬと云った顔をしたが再び言い直す。
「えーっと、アリスはなぜこの話を受けたのですか?」
「あのー、できれば敬語をお使いするのもやめていただけませんか?」
注文の多いお嬢様だ。しかも変わった注文だ。どうやらお嬢様は一般庶民の代表格を夢見る光青と形式上は親しい仲になりたいらしい。お嬢様の身分を考えたら恐れ多いとか言って断るのべきなのだろうか、と光青は少し考えたが、結局光青はこの注文を快く受けることにした。なぜなら一々敬語を使うのが光青も億劫だったからだ。
「アリスはなんでこの話を受けたんだ?」
「なぜとはなぜですか? 困っている方の頼みを聞くのは当然のことではないのですか?」
光青はその困っている奴とやらを横目で見る。困っているはずのミスチェフはニヤニヤと笑っていた。
――間違いなくこいつは困っていない。この状況を楽しんでいる。
光青は汚いものでも見るようにミスチェフを見たがミスチェフはそんなことはまったく気にしない。
「時重くんも同じではないのですか?」
ふいにアリスが云った。
アリスは光青を君付けで呼び敬語を使ったまま話すらしい。違和感の残る関係になったが光青には正す気はない。相手が敬語だろうがなんだろうが興味はない。
「ミスチェフから何も聞いてないのか?」
「ミスチェフさんからですか? 『天使の罪』の能力を封じるためのお仲間がいらっしゃるとしか聞いていませんが」
「じゃあ俺が『天使の罪』を捕まえなければ世界が……」
光青は言いかけてやめた。まるで自分が世界を救うヒーローですとでも言いたいかのように感じたからだ。
「世界がなんですか?」
アリスは不思議そうな顔で聞いた。
「世界がその……平和じゃないかなーと……」
光青はしどろもどろになりながら適当な答えを返した。
「ええ、そうですね。平和のために頑張りましょう」
アリスはそれは素晴らしい笑顔で云った。
その笑顔を見て光青はここに来た経緯をアリスには絶対に話さないことにした。わざわざアリスに世界滅亡の可能性を示唆して不安を仰ぐ必要はない。それに、光青がアリスに話したくない理由はもうひとつある。アリスと出会ってまだ数分だがわかったことがある。アリスは光青とは気が合わない。
困っている人を助けるのは当然? 正しいことではあるが同意はできない。そんな綺麗ごとを言っている奴は馬鹿を見るものだ、と光青は考える。
光青がミスチェフの頼みを聞いた理由を聞けばアリスも光青に対して似たような負の感情を抱くだろう。これから協力し合うのに互いに負の感情を抱きあうのは不便だ。光青が我慢すればことは丸く収まる。
「ああ、頑張ろう」
仕方なく光青はアリスに調子を合わせた。なのに、アリスは少し寂しげな顔をした。
しばしの沈黙のあと、
「あのー、……わたしからもひとつきいていいですか?」
アリスが切り出した。光青はなぜか少し身構えた。
「どうぞ」
「なぜ両腕に時計をしていらっしゃるのですか?」
予想外の質問に光青は少し驚いた。予想外とは言ったが実は光青にとっては最早定番になりつつあった質問である。予想外になったのはアリスの言い出す際の雰囲気のせいだ。もっと重大なことを云う気がしたのだ。
確かにアリスが指摘したとおり光青は右腕にも左腕にも腕時計をしている。傍から見れば奇妙な光景だ。しかし、光青はしっかりとした答えを用意している。
「父親が海外で働いているんだ。それで左手は日本の時間を、右手は父親がいる国の時間を、っていう風に使ってるんだ。こうすれば父親に国際電話をする時に間違って迷惑な時間に掛けるのを避けれるだろ」
「なるほど。因みにお父様はどちらにいらっしゃるのですか?」
「ブラジルの首都で働いてるよ」
光青はいつものように決まった答えを返した。しかしアリスは
「えっ?」
と声をあげ、光青にとってはいつもとは違う反応を返した。
「どうかした?」
光青の問いにアリスは少し申し訳なさそうな顔をしてから口を開いた。
「いえ、あの……言いにくいのですが、ブラジリアとの時差は12時間ですよね? ですので、あまり意味がないのではないのですか?」
光青はギクリとした。長年この説明をしてきたがその点に気づかれたのは初めてであった。
「いや、サマータイムで一時間ずれてる時とかもあるからと思って」
光青は自分でも苦しい言い訳だと感じた。しかし、咄嗟に出した言い訳にしては合格点であろう。
「サマータイム……そうですね。失礼しました。わたしはてっきり能力に関係あるのかと思いまして」
お嬢様という生き物は天然までがセットだと光青は勝手に思っていたがアリスはこの法則に当てはまらないらしい。勘が鋭すぎる。アリスの読み通り光青が両腕に時計を付けているのは能力のためである。だからといって光青の父親がブラジルにいるのもまた事実である。
アリスの問いを光青は否定も肯定もせず沈黙した。隠したいのなら「違う」と一言言えば済むのだが、光青は嘘を付く気はない。嘘は後々平和を脅かすものだと考えているからだ。
「違うのですか?」
黙り込む光青にアリスは容赦なく追い討ちをかける。
「ノーコメントで」
「そうですか。では先にわたしの能力について説明しますね」
アリスは躊躇なく言った。それに対し光青は慌てた。
「おい、ちょっと待ってくれ」
「はい?」
「先にっていうが俺は能力について話す気はないぞ」
「なぜですか? なにか不都合が生じるのですか?」
「……できるかぎり能力のことは話したくないんだ。 アリスも能力者ならわかるだろ」
「わかりますが……時重くんは別です」
アリスは迷いもなく答えた。その答えが光青を困惑させた。
「なんで俺にはいいんだ?」
「そ、それは」
アリスは白い肌を赤く染めて黙った。光青はさらに困惑させた
「どっちにしても俺は能力を教える気はないぞ」
「……わかりました。ではわたしだけ説明しますね」
「いいよ。アリスだけ言うのは不公平だろ?」
「でも、今後のために知っといたほうがよろしいのでは?」
「どうなんだろう? そもそも俺たちの能力を使わなきゃいけない状況に本当になるのか?」
光青はずっと黙って赤ワインを美味しく頂いていたミスチェフを見た。少し頬を赤く染めたミスチェフは
「もしかしてわたしに聞いたの?」
と真顔で云った。
「当たり前だろ。お前以外に誰がいるんだ?」
「そんなことを聞かれてもわたしも知らないよ。わたしには未来予知の能力なんてないんだから」
「お前の予想を聞いてんだよ」
「うーん、恐らくは使わざるを得ない状況に追い込まれるんじゃないかな」
ミスチェフはどこか嬉しそうに答えた。
「それはわたしたちの身に危険が及ぶと考えてよろしいですか?」
「むしろそう考えといたほうがよろしいかな。悪の芽の話はもうしたっけ?」
「いいや、してないぞ」
悪の芽は光青の家で話している時に確かに出てきていた。光青はその時は喩えだと思い聞き流したのだがどうやら違ったようだ。
「じゃあ、しておくね。どんな人間の魂にも必ず『悪の種』は存在する。その種はふとしたきっかけで芽となり、花となる。要するにどんな人間にも悪になるってことね。モレスターは能力の復活と同時に悪の芽まで育てたから穏便にことはすまないと思うよ」
「悪になるとはどういうことですか?」
悪とは無縁そうなアリスが訊く。ミスチェフは全ての人間に悪の種があるというが光青にはアリスにもそれが存在するとは思えなかった。
「うん、そうだね。悪っていわれても曖昧だね。天界では悪はこう定義されている。『倫理的、道徳的、社会的価値観に囚われず、己の欲望だけを満たすこと』」
「わかりやすいような、わかりにくいような……」
光青は思わず呟いた。
「もっとわかりやすく言えばせっかく手に入れた能力を消そうとするものが現れたら迷いもなくその相手を消す状態になってるかもってこと」
ミスチェフは恐ろしい内容とは裏腹に淡々と言った。
光青は唾を飲んだ。光青はもう一度考え始める。本当に俺に断る権利はないのか、と。
「なるほど。わかりやすい説明ありがとうございます」
それに対しアリスは恐れることなく快活に礼を述べて、ミスチェフに一礼すると光青の方に向き直した。
「やはり互いの能力は把握しといたほうが賢明だと思います。でも、時重君が能力をお話したくないならそれで構いません。逆に能力を知っているほうが悪い方向に進むことも十分に考えられますしね。わたしだけが能力についてお話します。これでよろしいですか?」
さすがの光青もこれだけの譲歩を受けては断ることはできない。
「ああ」
自然と光青は低い声になってしまった。
「それでは。わたしの能力を説明します。能力名は『刹那の神隠し(ア リトル・ミッシング)』。実際に見てもらったほうが早いですね」
恥ずかしげもなく自分の能力名を口に出すアリスを光青は心の奥底から尊敬した。光青には一生できないことだろう。そう思いながら光青はアリスを羨望のまなざしで見ていたのだがそのアリスが忽然と消えた。
光青は思わず立ち上がって周囲を見渡した。部屋の隅から隅まで見渡したがやはりアリスはどこにもいない。気配すら感じない。アリスは完全に消えたのだ。
なにが起きたかさっぱり理解できない光青の前に数秒後アリスはこれまた突然現れた。アリスは全く変わらぬ姿でソファーに座っていた。驚く光青にアリスはニコッと笑いかけた。
「これがわたしの能力ちからです」
「透明化……じゃないよな」
「はい。違います」
「じゃあ空間移動?」
「違います。わたしはこの世界から消えていたんです」
「この世界から? どういう意味だ?」
「そのままの意味です。わたしはこの世界から消えて数秒の間、異世界にいっていたんです」
「異世界?」
「はい。異世界です。わたしは『静なる世界』と呼んでます」
「どんな世界なんだ?」
「そうですね……。こちらの世界ほぼと同じです。きっと裏世界なんでしょうね。でもあちらの世界には動くものは存在できないんです。あと青いです」
光青はどんな世界か想像してみたが、アリスの説明に不備はないとは思うがうまく想像することはできなかった。
「なんとなくわかった……かな。数秒間消える。これでいいかな?」
「はい。それで概ね間違いないと思います。これでわたしの能力の説明は終わりです」
アリスははきはき答えた。そして、沈黙が訪れた。
――この間はいったいなんだろうか? 俺が能力の説明を始めるのを期待しているのだろうか? しかし、残念ながら俺にその気はない。
光青は時計に目を落とす。
「もうできることもないし、今日はもう解散にしようか。そのうちなにか手がかりが見つかるかもしれない。もっと言えばなにか不思議な事件が起きるかもしれない。とりあえずはそれを待つ。それでいいな、ミスチェフ?」
「いいんじゃない?」
「そうですね。些細な事件も見落とさないように手配しときますわ」
アリスはさらっというが、手配とはそんな簡単にできるものなのだろうかと光青は疑問に思う。アリスの感覚は一般人とはかけ離れているのは間違いないようだ。
「じゃあ、よろしく」
光青はそう言って立ち上がり部屋を出ようとして大事なことを忘れていることに気がついた。
「あっ、連絡先」
光青はスマートフォンを取り出した。
「わたしのですか?」
「当たり前だろ」
するとアリスは嬉しそうにスマートフォンを取り出した。連絡先の交換でこんなにも喜ばれるとは。光青はなにか勘違いしてしまいそうであった。
二人は帰りも車で送ってもらった。そう二人だ。要するに光青の隣にはなぜかミスチェフがいた。
「おまえはどこに帰るんだ?」
「君の家だよ。今日からわたしは君の家族の一員だからね」
「は? そんなの母さんが許すわけないだろ」
「それはどうかな?」
ミスチェフは例の小悪魔のような笑みを浮かべた。
家に帰ると当然のようにミスチェフにも夕飯が出てきた。
「どういうことだ」
光青は呟いた。
「なにが?」
妹が夕飯のおかずのから揚げに箸をのばしながら聞き返す。
「なぜミスチェフが受け入れられているんだ?」
「なに言ってんの光青、前から言ってたでしょ? 今日からイギリスから交換留学生として来てるミスチェフちゃんがうちにホームステイするって」
母さんが淀みなく言う。もちろん光青はそんな話を聞いてはいない。事実、そんな話は今までなかったはずだ。光青はミスチェフを睨んだが
「光青君、よろしく」
とミスチェフは涼しげな顔で言う。
「交換留学生って誰と交換されたんだよ」
「さあ、あっちに逝く人はいっぱいいるから」
そう言うとミスチェフは美味しそうにご飯を頬張った。
天界とやらの力なのだろう。ミスチェフがホームステイとして来るのが正しい世界になっている。ひとり違和感を覚えるがこれ以上ごねれば家族から反感を買うだけなので光青は全てを諦めた。
ミスチェフを早く追い出すためには『天使の罪』とやらを見つけ出し、能力を消すしかない。結果、平和こそが最大の幸せと考える光青は早くなにか起きてくれと思う一方で、このまま事件などなにも起きないでくれ、というジレンマに挟まれた。
とりあえずはこの日、光青の平穏な日々は終わりを告げた。