小説に対する僕の異常な愛情。
昔から映画、漫画には触れあっていたが、小説は苦手だった。僕は学生時代、国語が好きじゃあなかった。どちらかというと、理科と社会が好きで授業中、興味津々になりながら妄想にふけっていた。結局、勉強していないけど。
小説を読むようになったのは社会人になってからだった。村上龍との出会いがきっかけである。僕の好きなアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の監督庵野秀明が、村上龍の作品『愛と幻想のファシズム』に影響を受けたという情報を得てのことだ。エヴァの登場人物、鈴原トウジと相田ケンスケは『愛と幻想のファシズム』の主人公の名から取ったらしい。
当時、エヴァ信者だった僕はすぐさま本屋に行った。そして、読んだ。簡潔で力強い文章。ハードボイルド小説のような暴力的で反道徳的な世界観。そして、小説の魅力に気づいた。
僕は小説にのめり込んだ。よしもとばなな、山田詠美、宮本輝、村上春樹、宮部みゆき、松本清張、太宰治、フランソワーズ・サガン、トルストイ、フィッツジェラルド。門外漢とも言える小説という分野の中で悪戦苦闘している時、ひとつの小説と出会った。
『ライ麦畑でつかまえて』。
J・Ⅾ・サリンジャーの代表作。僕の中では最高の青春小説であり、最高の一人称作品。
ライ麦を読んだ後、僕は考えた。
一人称を描けるのは小説だけだ。
映画は小説で言う三人称、または神の目線で描かれる。俯瞰できる位置にカメラを設置して、登場人物が動いて、物語が成立する。小説の一人称のように、登場人物の内側の目線で描かれることはない。あるかもしれないが、僕はお目にかかったことがない。その点、小説はそれができる。
瞬時の情報量でおいては映画が一番だと僕は思っている。しかし、時間の制約を無視して、どっぷりと紡がれた物語に浸りたいなら、小説が一番いい。特に小説には想像の余白がある。作者の文章によって登場人物の容姿を想像できるが、すべてを補完できるわけではない。それを読者の想像力によって補い膨らませることができる。
例えるなら村上春樹著作の『ノルウェイの森』の映画化である。日本文学史上もっとも売れた小説を映画化される。少し話題になった。にわかハルキストである僕はもちろん映画館に行った。僕は意外と好きだったが、多くのハルキストから批判が出たらしい。イメージと違う。ミドリさんはこんなんじゃあないやい。私の『ノルウェイの森』を返して。との意見がちらほら。
それだけ、多くの読者が自分の中で想像力を膨らませることができる。小説って素晴らしい。
話が脱線してしまったが、僕の結論を書く。瞬時の情報量では映画に負けるが、時間を要した丁寧な情報量は小説が勝つ。そして、小説の特製を活かした一人称は最高である。