映画に対する僕の異常な愛情。
僕の両親は映画が好きで、小さい頃から様々な作品を見てきた。父親が野球をしていたら息子が自然とグローブをはめるように、母親がピアノを弾いていたら娘が鍵盤を叩いて遊びだすように、僕の家庭は紡がれた物語と触れ合う機会が多かった。
小さい頃は『ドラえもん』『ゴジラ』『ドラゴンボール』などを見てきた。しかし、徐々に物足りなくなってくる。映画に対する興味は風船のように膨らんでいき、30代を迎えたいまでも割れる気配がない。
そして、思春期に入った時から好みの幅が広がっていく。サイコスリラーやジャパニーズホラー、SFなど手当たり次第に観て雑食を繰り返した。
『羊たちの沈黙』
『セブン』
『ソウ』
『時計仕掛けのオレンジ』
『シャイニング』
『サイコ』
『リング』
『呪怨』
そして、次なる興味はアニメに移る。そんな僕に衝撃を与えたのが、押井守監督の作品である『攻殻機動隊』、庵野秀明監督の作品『新世紀エヴァンゲリオン』だった。この二つはアニメ界に純文学要素を取り入れた作品であるとして、多くの支持を集めている。特に『新世紀エヴァンゲリオン』はセカイ系というジャンルを生み出すほどの一大ムーブメントを巻き起こした。
それに比べると『攻殻機動隊』は地味である。しかし、アニメ界に与えたインパクトは絶大である。脳に膨大な数の小さな機械を注入し、脳神経と機械を結合させ、電気信号をやり取りすることで、脳と外部世界、またはネット世界と接続できる未来の世界を描いている。2019年現在、VR映像が流行っているが、それを脳が直接疑似体験できる技術と思ってもらいたい。他にも『マトリックス』にも電脳世界は描かれている。
僕はさらに映画を見た。そして、ひとつの思想が形成された。しかし、当時はその思想を言葉に具現化かできなかった。
そして、30代を迎え、少しづつ思想が具現化できるようになった。
「映画は現在の技術において、疑似体験を得るための最高のツールである」
という思想である。
映画は視聴者が一度に得る情報量が多い。
あるシーンを小説で例えてみる。僕の稚拙な文章になるが許してほしい。
彼の名はサルヴァトーレ、家族の間ではトトと呼ばれている。彼は若かりし頃、映画監督を志し、故郷であるシチリアを出た。それから一度も実家に帰っていない。母はそんなトトに会いたい。声を聴きたい。あなたの元気な声を聞かせてちょうだい、愛しき息子よ。電話をかける。しかし、トトはいつもいない。電話に出るのは毎回違う女性。母の心配は尽きない。
そんなある日、トトの年の離れた親友のアルフレッドが亡くなった。母はまた電話をかけた。あなたに映画監督を志すきっかけをくれたアルフレッドが亡くなったわ、葬儀に間に合うように帰ってらっしゃい。トトに思いをこめて、そう言おうとした。でも、またいつもと違う女性が出た。母は女性に言づてを頼んだ。
それから数日後、母は家の2階で編み物をしていた。地中海に面したシチリアは温暖な気候であり、部屋の窓を開けると心地よい風が入ってくる。アルフレッドがトトをシチリアの風に乗せて、故郷に運んでくれるわ。あの親友だったアルフレッドが亡くなったのよ。あの子は絶対に帰ってくる。母は糸を縫う。
車が止まる音がした。少し耳が遠くなった母。でも、トトが帰ってきたのがわかった。
「トト」
年老いた母は糸が絡んだ編針を持って立ち上がる。玄関に向かって走り出す。母が座った椅子の上に置かれた編み物から、一筋の糸が伸びる。そして、紡がれた糸が徐々にほつれていく。
2階から家の玄関をのぞくと、トトと母が抱き合っていた。十数年ぶりの再会。母の後ろに糸が玄関へと伸びていた。
母とトトの運命の糸はまた繋がった。
『ニューシネマパラダイス』で僕が一番好きなシーンである。母の心境は僕が勝手に付け加えたので、上記の作品のファンの方、僕の妄想なので気にしないで欲しい。ごめんなさい。
話を本題に戻す。このシーンも映画なら数秒で終わってしまう。さらにエンリオ・モリコーネの秀逸な映画音楽も加わる。紡がれた物語の中でこれだけの情報量を瞬時に提供できるのは映画だけだろう。
映画館という特殊な空間。1800円という金額を映画に払い、払った分は元を取ってやるという心理。上質な音声。音の振動。そして、映画の世界に没入して、登場人物に感情移入し、疑似体験を得る。映画の終盤。感動し、すすり泣く観客。そして、観客同士の緩やかな一体感。さらに3Ⅾ映画に、4Ⅾ映画も選択できる。すばらしい。
将来、『攻殻機動隊』のように電脳化した脳に直接情報を流し、自らが体験したような疑似体験を提供できるなら、映画における最高のツールの地位は揺らぐだろう。しかし、現代はまだ提供されていない。現時点では、疑似体験を得るための最高のツール、の地位の上位にあると僕は思っている。
未来の世界。ネット空間。多くの人間が電脳化し、ネットと直接繋がる時代。ここはVR動画投稿サイト。
このサイトでは電脳を通じて、イメージしたものが直接表現される。例えば、クマをイメージする。昔はクマの絵を書いて、色を塗って、キャラクターを動かして、声を吹きこんでいた。その作業を高性能プログラムが勝手に行うのである。VR動画投稿サイトでは一瞬のうちにクマが出来上がり、走り回る。とにかく簡単なのだ。
そのため、現代のユーチューブのように、自身のイメージを投稿するものが後を絶たない。そして、様々な投稿者が映画監督になり、表現者になる。そんな未来になると、実写などいらない。精巧なCG映像がイメージひとつで実写以上にキレイに出来上がり、人件費のコストもかからない。みな、誰かの世界に飛び込んで、疑似体験する。
そんな未来を楽しみにしている。だが、現在の技術では無理だ。だから、現在における、疑似体験を得るための最高のツールの地位は、当分の間映画だろうと僕は思う。