1.偽りの海
前を見た。どこまでも続く鈍色の地面と鈍色の空。
右を見た。どこまでも続く鈍色の地面と鈍色の空。
左を見た。後ろを振り返った。どこまでも、どこまでもこの景色が続く。
空を見上げる。巨大な影が空虚な灰空を遊泳している。
……陽を遮るほどに巨大な其れは、悠然と空をただ無為に揺蕩っているように見えた。
巨大物恐怖症というわけではい。
しかし、その異様な光景は僕の微少な正気を急速に削っていく。
まずは、状況の整理をしなければならない。僕が狂ってしまう前に。
「ここは……何処だ?」
誰かに投げかけた問いでは無い。自らの気持ちの整理を目的とした発声だ。
当然、問いに返答は無い。微塵も期待をしてはいなかったが、この空間に自分一人なのだと
再確認し、発狂しそうになる。
―――しかし、発声は確認出来た。喉と聴覚は無事なようだ。
僕は念の為、他の器官の動作確認もしておくことにした。
――まずは右腕が上がらない。痛みは無いが感覚も無い。
左腕は無事なようだ。左利きなのか、スムーズに動く。
左手で自分の髪や顔、衣服を触る。触感はあるようだ。
両足は問題無く動く。軽く走ることも出来る。この広大な虚無空間で役に立つとは思えないが。
嗅覚も無事。自分の身体から死臭に似た不快な臭いを嗅ぎ取れる。これに関しては深く考えないようにする。
右目が全く視えない。右腕同様痛みも外傷も無いが、幾ら瞬きをしても視界が回復する気配は無い。
左目は無事なようだが、いつ右目のように視力を失うかと考えると安心はできない。
自身の正気を保つため、幾らか思考を絞って現状を整理していく。
致命的なのは右腕と右目だ。また、動かなくなった要因も不明。いつ反対側も動かなくなるとも分からない。
1つだけ良いニュースがある。ここには外敵が存在しないようだ。今すぐに命の危機に曝されることはないだろう。上空を揺蕩う正体不明の巨大生物は置いておくことにする。
―――疑問。
此処は何処だ?
何故僕はこんな場所にいる?
……僕は、誰だ?
―――イノン。
ああそうだ。僕はイノンだ。他の記憶が一切辿れないが、今は自分の存在を繋ぎ止める名前があれば何でも良い。
「僕は、イノンだ」
何度も自分に言い聞かせる。
此処は何処か。分からない。
再度辺りを観察してみる。
空を見上げた。分厚い雲に覆われているのだろう、何処までも平坦で、灰色の空だ。
そのまま地平線を経由し、辺りを見渡す。干からびた灰色の大地が続いているのみで、やはり何も無い。
足元の地面を触ってみる。凝固した粘土のようだ。素手ではとても掘り返せそうに無い。
ここで僕は、更なる異常に気が付く。
異様な程に寒い。まるで業務用冷凍庫のようで、呼吸にも支障が出るレベルだ。
……まずい。これではとても身体がもたない。
そして自身の出で立ちにも疑問が生じる。
ジャケット一枚と長袖のシャツ一枚、長ズボンにブーツ……当然防寒用ではない。
―――こんな装備で、この極寒の地に飛び込むだろうか?
少なくとも、この状況を作り上げたのは自分の意思ではないことが分かった。
右腕が動かず、発火道具も無い。火を起こすことも不可能だ。
誤魔化していた狂気が、徐々に僕を侵食していく。
逃げ場が無い。時間も無い。助けも期待できない。ここは何処だ?僕はイノン。僕は誰だ?僕はイノンだ。何故?何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故何故
「はぁっ……!」
大きく息を吸い、吐く。どうやら、もう僕の精神も限界のようだ。
ここで……僕は死ぬのだろうか
……死ぬのだろう。偶々目を覚ましただけで、本当ならばあのままこの虚無空間に溶けるようにして消えていたに違いない。
そう、元より希望など無かったのだ。
「――――」
僕は立っているのも辛くなり、そのまま地面に仰向けに倒れる。
灰色の地面に灰色の空。
ここはまるで……世界の廃棄場のようだ。
片目の遠近感の無い視界が、空を身近に感じさせる。このまま、天と地が溶け合ってしまうような錯覚さえ覚える。
「空に沈む……か」
僕は悲観的に笑う。
諦観により追い出した狂気を追うようにして、僕の意識も薄らいでいく。
――暗転していく平たい視界を光が覆ったような気がした。
――ブロロロロロロ……という空を裂く音が聞こえた気がした。
――暖かい風を感じた気がした。
直後、僕の意識は闇へと溶けていった。
初めまして、住谷 久永という者です。
まずは貴重なお時間を割き本作品に触れて頂き有難う御座います。
遅筆かつ稚拙な文章ですが、もしお付き合い頂けるようでしたら。次話も是非よろしくお願いします。
次回があればまた、お会いしましょう。