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例の出席に厳しい講義にだけ出席した純は、いつものように午後の講義の代返をクラスメイトに任せてアルバイトに向かった。
けれど講義の間も、アルバイトの間も、純は杏奈と話したことがどうしても気になって仕方がなかった。
本当に大山忍の幽霊が送ってきたなんて、そんなことがあるはずがない。そう杏奈を励ましたものの、メールの内容が内容だけに気がつくとその件について考え込んでしまっている。
なんてらしくないことで悩んでいるんだと自分に嫌気がさした純は、アルバイトの帰りに酒を買って一人晩酌でもしようと決めた。とにかく気を紛らわしたいのだ。
今日のアルバイトは18時まで。夜の勤務の社員と交代で仕事を終えた純は、予定通り酒を買いに卓也の実家を訪れていた。
やはり品揃えを考えたらここにきてしまう。別に仲のいい友人の家だからという贔屓ではなく、本当にいい店だと純は思っているのだ。
「いらっしゃいま……おっ、純か」
「よお。来たぞー」
昨日ぶりに顔を合わせた卓也と挨拶。そしてレジに立っている卓也の母親にもぺこりと頭を下げる。卓也の父親の姿は見えないが、おそらく店の裏で仕事をしているのだろう。
卓也の両親ともすっかり顔馴染みだ。高校時代から何度もこの家には遊びに来ているから、卓也の両親は純らにとって第二の両親と言っても過言ではない。
「なあ卓也、今夜映画でも見ながら飲む酒を買いに来たんだけど、どれがおすすめ?」
「昨日も飲んだのに今日もなのか? 肝臓悪くするぞ」
「いいじゃんかー。お客様が買うって言ってるんだから売ってくれよー」
「別に売らないとは言ってない。だが、売る相手を見極めるのも酒屋の大事な仕事の一つだからな。例えば明らかなアルコール中毒患者とか、子どもとかに売るわけにはいかんだろう?」
「え、子どもが買いに来ることとかあるのかよ」
どの酒を勧めようかと売り場を練り歩く卓也についていきながら、純は何気ない疑問を問うた。
すると卓也は売り場の棚をじっくりと吟味しながら、当然のように答えた。
「あるぞ。確かこの前も女子高生が一人でやってきてな。不自然に店内をこそこそしてるのが目についたから、未成年には売れないって追い返した。まったく、高校生で飲酒しようとは、最近の若者はなってない」
「いや、俺たちも最近の若者なんじゃ……言ってること完全におっさんだぞ、卓也」
卓也の真面目さは客に対しても容赦がない。相手が未成年とわかるや否や店から追い出すとは。
まあそれ自体は正しいことなのだろうし、動きが怪しかったというその女子高生は、自分は未成年で買えないからと万引きでもしようとしていたのかもしれない。そう考えれば卓也は大手柄だろう。
思えば、ここまで真面目な卓也がどうして『シンセツ』仲間に加わっていたのかが不思議だった。
成績も上位で、真っ直ぐ芯の通った堅物な卓也。そんな彼でも魔が差すことがあったのか、もしくは抱えていた勉強のストレスでも発散したかったのかもしれない。
大山忍が自殺した時も、シンセツを一番悔いていたのは真面目な性格の卓也だった。
しかし結局は自分らの保身のために、シンセツについて純らは誰にも打ち明けることはなく、例のいじめは四人だけの秘密になったものだ。
「よし、純、これなんかどうだ? 似た酒の中でも一番香りがいいやつなんだが、酒精もそんなに強くないから連日飲んでるお前にちょうどいいだろう」
「香りかあ。どっちかっていうと味のほうが気になるんだけど」
「何を言うんだ。酒は味だけがすべてじゃない。特にこれは香りを楽しむためにあると言っても過言じゃない逸品なんだぞ。僕は結構好きなんだがな」
「へえー。まあ卓也がそこまで勧めるなら飲んでみようかな」
聞いたことのない名前の酒を勧められ、純は興味本位でそれを買ってみることにした。
酒の知識はそれを専門にしている卓也が頭一つ抜けている。今時の大学生の間で流行っているような酒の知識を蓄えることは、四人組にはまるで必要ないのだ。
どの酒にはどんな特徴があるとか、どんな味や香りがするかとか、どんな料理に合うとか、そういったことは卓也に聞けば何でも答えてくれる。さすがは高校で学力トップだっただけあって、物覚えの早さは尋常じゃない。
「あ、そういえば、今朝大学で杏奈に会ってさ。アイツあのメールのことすっごい気にしてて、今度四人でお祓い行こうって言ってたぞ」
「本当に幽霊の仕業だと思ってるのか、杏奈は? あんなの質の悪い悪戯に決まってるだろう」
卓也に会計をしてもらいながら、純は杏奈と話したことを切り出してみた。
しかし卓也の反応は予想通りだ。彼はあのメールと自分らの過去の共通点は、すべてたまたまだと一切気にしないことに決めたらしい。
「まあでも、杏奈も怖がってるしさ。お祓いくらいなら行ってもいいんじゃないかなーって思ってるんだけど」
「そんな馬鹿馬鹿しい悪戯を気にするくらいなら、自分の進級単位を気にした方がいいんじゃないか? 特に純は講義をよくサボってるみたいだしな」
「あー、まあ、留年はしないようにするよ」
説教じみた皮肉を言われて、純はへらへらと笑いながら会計を済ませた。
卓也と話していたら、やはりあのメールは気にしないほうがいいのかもしれないと思えてくる。杏奈と話したときは少し不安になったというのに、どうやら純は周りに流されやすい性格をしているようだ。
意図したのかどうかはわからないが、卓也に励まされたような気がして元気が出てきた純。
店の出入り口まで見送ってくれた卓也に手を振って別れを告げると、純はそのまま家路についたのだった。
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深夜。酒屋の息子である堀田卓也は閉店業務に勤しんでいた。
母親が今日の売り上げをレジで精算し、父親が明日の仕入れを確認している間、店に返された空き瓶なんかを裏に集めておくのがいつもの分担だ。
中身が空とはいえ、ケースにぎっしり詰め込まれたビール瓶はなかなかの重さ。
スポーツの経験等が一切ない卓也にとってはかなり応える仕事ではあったが、それも今ではすっかり慣れたものだった。
「……ん?」
ふと、何か物音を聞いたような気がした卓也。しかし店の裏は関係者以外立入禁止。自分以外に誰かがいるはずはない。
両親は店内で閉店業務を行っている。となると、野良猫でも入り込んだかと卓也は大きなため息をついた。
最近このあたりでは仔猫が生まれたのか、連日ミーミーうるさくて敵わない。
少なからず生ゴミも出る酒屋の裏なんかに住みつかれたら、連日寝不足になってしまいそうだ。
猫たちには悪いが、その前に追い払っておこう。
そう思い立った卓也が猫を探して、物陰を覗き込んだ、そのときだった。
「――ッ!? 誰だ!?」
卓也の目に飛び込んできたのは、真っ暗な中にぼんやりと浮かび上がる赤。
目が慣れていなくてよく見えないが、大きさや形状から推測するに赤い着物を着た少女であるような気がした。
その少女は、こんなに近くに立っていたのにどうして気がつかなかったのだろうと思うほどの至近距離。
そして彼女は咄嗟に大声を出した卓也に物怖じすることもなく、ただ黙って立ち尽くしたまま微動だにしなかった。
着物を着たおかっぱ頭の少女。日本を代表する妖怪と似通ったその姿。
次第に闇に目が慣れてきた卓也は、目の前の光景を見てあることを連想せずにはいられなかった。
「何の冗談だ……『座敷童』……まさかお前、大山しの――」
先程親友の前で笑い飛ばしたはずのまさかの可能性を口にしようとした瞬間、卓也は突然全身が強張り、その場に倒れ込んだ。
そのときに頭を打ったのか、何が起きたのか考えられるほど脳が働かない。
そしてそのまま卓也は、薄れゆく視界の中を歩み寄ってくる赤を見つめたまま、その意識を暗闇の中へと沈めたのだった。