迷子1
窓の向こうに黄色い甘夏の実を見るのは、これで5回目だった。
名鶴はきょろりと周りを見回したけれど、辺りはいたって普通の廊下だ。
廊下に人は一人もいないし、教室は無人だ。
「でも絶対、何度も同じところをぐるぐる回ってるよね……」
両側が教室という造りなので、廊下の窓は突き当たりにしかない。
そして先ほどから、名鶴がどう頑張って歩いても、同じ突き当たりの窓に行き着いてしまう。
反対側の突き当たりの窓も見えてはいるのだが、何度歩いても、甘夏の見える窓に戻ってしまうのだ。
窓を覗くと、下は中庭になっていて、桜の木が綺麗だ。
ベンチには女の子が二人、座っている。
ベンチの隣には紅葉した木があった。
季節感がめちゃくちゃだ。
ふと、おしゃべりに夢中だった女の子の一人がこちらを振り返ったので、慌てて隠れた。
「あれ絶対、目が合ったらやばいよ……」
廊下の突き当たりでしゃがみこんで、震える指で携帯電話を取り出した。
雪路の携帯電話が鳴ったのは、ちょうどグリル・ヨナヨナで遅めのランチを食べているときだった。
ヨナヨナ名物の特製オムライスの向こう側には、男版弁天先輩の仏頂面がある。
先輩の豚の生姜焼き定食がまだ運ばれていないせいか、先ほどから機嫌が悪い。
食事中なので、電話に出ようか迷ったが、ディスプレイには『名鶴』と表示されている。
トラブルの多い弟からの電話を無視するのも気が引けて、雪路は先輩に断ってから、仕方がなくスプーンを置いた。
電話に出る。
『迷っちゃったんだ』
電話口の向こうで、名鶴が弱々しく言った。
「あら、そうなの。大学、無駄に広いからね。迷うのも無理ないわ」
『違うんだ。正確には、迷わされてるというか……』
「人のせいにするのは良くないわ。迷ったのは、名鶴の方向感覚のせいでしょう」
『そういうことでもないんだよ。ただ、どこからここに迷いこんだのか分からないんだ』
「人生というのは、そういうものよ。気づいたときには、迷宮に迷いこんでしまっているものなの」
あまり深刻そうでもなかったので、手早く通話を切ろうとすると、それを先輩が制した。
弁天は雪路の携帯を取り上げると、それをスピーカー設定にした。
「名鶴君。いま君はどこにいるんだ」
『あ、弁天先輩!』
名鶴がほっとした声を上げる。
同じ不幸体質のせいか、最近の名鶴は弁天先輩に懐いている。
クラシカルなメイド姿の店員がちらりとこちらを見たけれど、そのまま通話を続行する。
「話を聞いていると、君はどうやら、知らない場所に迷い込んだらしいね。しかも、同じ場所を何回も回っているのではないか?」
『そうなんですっ』
「それならば、ただの迷子のようにも思えるが、ただ、不幸体質の名鶴君の場合は……」
「『良くないもの』にからかわれて、迷わされている」
雪路が言葉を継ぐと、弁天はにやりと笑った。
「なんだ。分かっていたなら、助けてやればいいのに」
「食事中ですので」
それに、この手のトラブルはあの名鶴には日常茶飯事だ。
だいたいは、その正体を見破るか、または『良くないもの』が飽きると、自然に元の場所に帰してもらえる。
「異世界からの電話なんて、なかなかロマンチックじゃないか」
『え、ここ、異世界なんですかっ』
「まぁ、ちょっと違う場所に入ってしまったことは間違いないだろうな」
「電話、通じるんですね」
雪路は率直な意見を述べた。
弁天が頷く。
「通じない場合が多いらしいが、運が良かったな」
『あの……二人とも、僕を助けてくれる気ありますか?』
「とりあえず、いま見えているものを言ってみるといい」
弁天先輩は優しい。
関心しながら、雪路は再びスプーンを手にして、オムライスを味わった。
『ずっと廊下の同じところをぐるぐる回っているみたいなんです。ちなみに、窓からは中庭が見えるんですけど…』
「なるほど。中庭というと、だいぶ場所が特定されるな」
『あと、窓から甘夏の木が見えます。たぶん2階にいるんですけど頑張れば取れそうな距離なんで、相当大きな木なんじゃないかと……美味しそうです。お腹すいたなあ』
「なら、西館の廊下だな。俺たちがそこに行くまで、甘夏は絶対に食べるなよ」
『どうしてですか』
「戻れなくなるからだ」
『えっ』
そのとき、待ちに待った生姜焼き定食が運ばれてきた。
弁天が割り箸を割りつつ、言った。
「とりあえず、最短時間で行くから、名鶴君はそこで少し待っていてくれ」
こうして、名鶴の抗議を聞くこともなく、通話はすみやかに切られたのだった。




