トリカエッコ3
「久しぶりだな。トリカエッコ」
弁天が振り返りながら答える。
雪路もつられるように、後ろを振り返った。
暗闇の中に、教卓がひとつ、浮かび上がっていた。
それに寄りかかるように、ブロンドの女の子が立っていた。
小柄な雪路と同じくらいに小さい。
なんとなく想像していたトリカエッコとは違う姿に、雪路は思わず先輩と名鶴を見た。
二人ともが、この小さな女の子を、緊張した面もちで見つめている。
「あなたは確か、名鶴ちゃんよね」
呼ばれた名鶴は雪路の後ろに隠れた。
トリカエッコは、視線をわたしに移した。
「そちらの方は、弁天のお友だちかしら? それとも、名鶴ちゃんが話していたお姉さんかな? お名前は?」
「……弟の姿を、返してもらいにきました」
質問には答えずに、用件だけを言った。
肝心の弟は「そ、そうだよ! 返してっ」と便乗しながらも、雪路の後ろからは出てこない。
目のほころばない笑顔で、トリカエッコは言った。
「でも名鶴ちゃん。その姿、似合ってるわよ」
「わたしもそう思うわ。でも、弟はこの姿が気に入っていないみたい」
「それは残念だわ。似合っているのに」
「わたしには分からないわ。どうして姿を取るの?」
「あら。あなただって、人の姿を取ったら、どんなふうになるのか、気になるでしょう」
トリカエッコが首をかしげながら言う。
雪路はきっぱりと答えた。
「ならないわ」
「うそ。あなただって思ったことがあるでしょう。人の本質が見たいって」
丸まったブロンドの先を人差し指でいじりながら、トリカエッコが言う。
「合コンで初めて会った男。バイト先の同僚。高校時代の男友だち。みんなの本質、知りたいでしょう」
「わたしは別に知りたくないですけど」
「じゃあ、質問を変えるわ。警察官は、なにをもって警察官と呼ぶと思う? 制服? パトカー? 警察手帳?」
「……」
「制服を着ていれば、だれでも警察官に見えるわ。パトカーに乗っていれば、それもまた警察官よ。警察手帳を持っていれば、たとえ私服だって警察官よね」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に気圧されて、うまく声が出ない。
雪路には初めての経験だった。
完全に、雰囲気にのまれている。
「本質は姿の奥にあるわ。わたしたちはいつも、惑わされているのよ。つまらない上辺の姿に」
髪を触るのを止めて、トリカエッコは雪路を真っ直ぐに見据えた。
金髪に似合わず、瞳はブラックホールのように真っ黒だった。
「ねぇ。あなたは、本質を、知りたくない?」
「……」
「あなたのお名前は?」
「……」
目を、そらせない。
トリカエッコが手を振った。
「ふふ、じゃあね。雪路ちゃん」
「……っ」
トリカエッコは、軽やかに背を向けた。
がらがらと音が鳴って、扉の開く音。
黒い背景を切り取ったように、四角形の光が現れる。
そこが扉だったのだと、雪路は初めて気がついた。
そのときにはすでに、トリカエッコは教室から姿を消していた。
あんなに暗かった教室は、扉が開くと同時に明るくなっている。
雪路は本当にお化け屋敷にでも来たような気分で、自身を抱きしめるようにして、腕を撫でた。
「どうして、あの人、わたしの名前を……」
「あ、ごめん。前に会ったとき、僕が話しちゃったんだ」
あっけらかんと名鶴が答えた。
部屋が明るくなった途端に、元気になっている。
雪路は深く深くため息を吐いた。
「なるほどね。名前を軽々しく教えるなって、いつもあれほど言ってるのにね。結果、このザマよ」
言いながら、腕を広げて、胸を見せる。
名鶴が「あ」と口を押さえた。
そこは、平らになっていた。
「……まぁ、でも、このほうが身軽よね」
「君はポジティブだな」
弁天が感心した瞬間、名鶴が叫んだ。
「あぁーっ。ミニスカートになってるよっ」
スカートの裾を持ち上げて、弟が泣き出す。
髪も伸びておかっぱ頭になった名鶴は、まさにミニスカートのお洒落な市松人形だった。
学門を出ると、雪路の胸はもとに戻った。
本当に大学内でしか効果がないようだ。
ならば特に害もないのだが、大学生活の四年間を貧乳で過ごすのかと思うと、居心地は悪い。
太陽が溶け出したようなオレンジ色の夕焼けを見ながら、雪路は首をかしげた。
実際会ってみたが、やはり分からない。
結局、トリカエッコとは、なんなのか。




