トリカエッコ2
社会学の授業は、退屈だった。
証拠に、教室の半分以上が机に伏せている。
教授は聞いてもらうことを諦めたのか、気のぬけた声で教科書を朗読している。
「結局、トリカエッコってなんなの」
雪路は隣でかくんかくんと体を揺らしはじめた弟に聞いた。
それには弁天が答える。
「オカルト的な力を持ってる人間だ」
「その人は誰なんですか?」
「ここの理事長の孫だ」
どうやらトリカエッコとは、小学校から大学まで並立しているこの私立大学の理事長のお孫さんらしい。
「あいつは人の姿を取って、違う姿と取り替えてしまうんだ」
「なんのためにですか?」
「それは知らん」
「じゃあ、知っていることを聞いてもいいですか」
「なんだ」
「先輩はどうしてセーラー服なんですか」
「うむ」と、弁天は難しい顔で頷いた。
長いまつ毛のに彩られた色素の薄い瞳が、もの悲しげに瞬いた。
すべての男に愛されるために生まれてきたかのような、儚さ漂う、魔性の雰囲気だ。
「俺はこの大学の付属高校に通っていてな。トリカエッコとは同級生なんだ」
「なるほど。高校生の頃からの積み重ねですか」
「いや。あいつは高校の中頃から不登校だったからな。遠くから見たことがある程度だった。俺が最初にトリカエッコときちんと会ったのは、大学に進学してからだ。最初はロングスカートだったんだが……トリカエッコと会う度に、姿が悪化していってな」
「そんな! 僕も次会ったらセーラー服にされちゃうよ」
名鶴が絶望の声を出した。
「大丈夫。きっと似合うわ」
「当たり前だよ。でも、そういう問題じゃないんだよ」
雪路の励ましに、さらに頭をかかえて突っ伏す。
弁天先輩はその肩を叩いた。
「大丈夫だ。次にトリカエッコに会った場合、お前はまず、ミニスカートを着せられることになる。コスプレはその次の次の段階だ。さらに言うなら、セーラー服ほど悪化するには、まだまだトリカエッコに会わなくてはいけない」
「トリカエッコに会うのは難しいんですか?」
「トリカエッコは結界で守られているから、普通は会えないんだ。ましてや、入学二3日目では、決して」
ということは、どうやら名鶴は奇跡的な確率でトリカエッコに会ったらしい。
先輩は話を続けた。
「トリカエッコに会うには、すべての条件がそろわないといけないんだ。その日、時間によって、会い方が変わる。今日はこの授業を受けた人間でないと会えないはずだ」
「そんなにややこしい段階踏まないと会えない人と、よくセーラー服になるまで会いましたね」
「ああ。俺もお前の弟と同様の体質でな。俺といれば、必ずトリカエッコに会えるはすだ」
「……それは心強いですね」
教授の子守歌を聞きながら、わたしはトリカエッコの姿を想像していた。
講堂の前を通って、東館への道を歩く。
「南館に行くって行ってませんでしたか?」
雪路が聞くと、弁天は振り返らずにうなずいた。
「あぁ。そのつもりだ。だが、今日はこの道を通らなければならないんだ」
入学したばかりで道は分からないが、ここが南館へ行くには遠回りだということは分かる。
「次に、この教室をぬける」
「どうして分かるんですか」
「俺の次の移動教室が、この教室をぬけると近道なんだ。俺はきっと、そこを通っただろう」
「なるほど」
「俺の行く道を通れば、必ず会えるはずだ」
教室を出ると、パソコンが並ぶ情報センターを通って、外に突き出した渡り廊下を歩いて行く。
この廊下を渡れば、南館だ。
「僕はここで待ってるよ」
一番後ろを歩いていた名鶴が言う。
「あなたのために行くんだけど?」
雪路は立ち止まろうとする弟の手を引いた。
名鶴は素直に歩き出しながらも、首を左右に振る。
「でも次トリカエッコに会ったら、僕セーラー服だよ」
「安心しろ。セーラー服はまだ先だ」
弁天の心強い言葉にも、名鶴の気は晴れないらしく、難しい顔をしている。
埃っぽい階段をおりて、一階に着く。
柱と柱の間を通りながら、弁天が指差した。
「あの教室が、トリカエッコがよくいる場所だ」
そこは、なんの変哲もない、ただの教室だった。
薄暗い廊下のせいで、お化け屋敷の前に立っているかのような冷たさがある。
扉を開けようと手を伸ばした手を、弁天が止めた。
「雪路君が開けても、オカルトとは遭遇できない」
結局、扉は弁天先輩が開けた。
中は真っ暗で、なにも見えない。
「俺が振り向くまで、振り返るなよ」
言いながら、弁天は手を差し出した。
雪路はその手を握ると、反対の手で弟の腕を掴む。
光の入らない教室内は、右と左を間違えそうなほどに、平行感覚のない空間だった。
踏みしめる度に鳴るぎしりとした木の床の感触と、弁天の手のごつごつした感じだけが、やけにリアルに感じられた。
「怖いよー。教室って、こんなに歩くスペースあったっけ?」
名鶴の声がしたけれど、雪路は振り返らずに、ただ腕を握る手に力をこめた。
「久しぶりね、弁天」
ふいに、女の子の声がした。
少しかすれてはいるが、やけに甲高い声だった。




